まさかの……
ヴィオレットの私室で優雅にお茶を飲んでいるアルフィに、エルザは目を疑う。
まさか、部屋の中にマイア母娘以外の人物がいるとは夢にも思わない。
ノックはしたが「ただいま!」といつもの調子でドアを開けてしまったため、入るに入れず出るに出られなくなった。
「……その侍女は、礼儀がなっていないのか?」
「アルフィ殿下、大変申し訳ございません。まだ、こちらに勤め始めてひと月ほどの新人でございまして、責はすべてわたくしにございます」
マイアがすかさずエルザを擁護したが、アルフィはそれを無視し、エルザへ視線を向けた。
「そのようなところに突っ立っていないで、中へ入れ。それで、おまえの名は何というのだ?」
「……エルザと申します。殿下に対する不敬を、どうかお許しください」
学園で学んだ淑女教育を総動員して、エルザは謝罪する。
自分のやらかしでマイアが代わりに罰を受けないよう、必死だ。
「おまえのその声……そうか、そういうことだったのだな」
突然、アルフィが楽しげに笑い始めた。
手に持っていたカップをソーサーに戻すと、エルザを見据える。
「今まで、どちらにお出かけだったのですか……母上?」
「!?」
「母上にそんな趣味があったとは、私はまったく存じませんでしたよ」
理由はわからないが、エルザがヴィオレットに扮していたことがアルフィにバレたようだ。
しかし、断固としてそれを認めるわけにはいかなかった。
「……畏れながら、殿下の仰る言葉の意味がわかりかねます」
「子供だと思って、随分と舐められたものだな。でも、私の耳はごまかされないぞ。まあ、とにかく捕らえて事情を聴けばいいだけの話。マデニス、侍女たちを捕縛せよ」
アルフィは、後ろに控える近衛兵へ命令を下した。
このままでは三人とも牢へ入れられてしまうが、ここで宰相の名を出していいものなのかエルザは迷う。
「…………」
「マデニス、聞こえなかったのか?」
少々苛立ち交じりに口調がきつくなったアルフィだが、近衛兵は動かない。
「マデニス、早く捕らえよ!」
「……アルフィ殿下、恐れ入りますがその前に、宰相様へ確認をお願いいたします」
「どういうことだ?」
「この件は、宰相様もご存じだということです」
「……知らぬのは、私だけだったということか」
ハハハ……と力なく笑うアルフィの顔は少し寂しげで、エルザの胸がチクリと痛んだ。
◇
「─────というわけでございまして、エルザ殿に代役をお願いしたのでございます」
リアムたちを伴い急いで離宮へやって来た宰相のグレイソンは、これまでの事情をアルフィへ説明した。
「…………」
「この件につきましては、皇帝陛下は何もご存じではございません。ですので、何卒──」
「グレイソン、皆まで言わずともわかっている。私は他言せぬ。我が身にも降りかかってくることだしな……」
宰相の言葉を、アルフィは途中で切った。
「今さら母上の醜聞が一つ増えたところで何も驚かないが、皇族の威信を損なうわけにもいかぬ」
齢六歳にして、この達観した様子。
エルザには、彼のこれまでの苦労が想像できた。
アルフィは、グレイソンとリアムの間に座るエルザを見る。
「『ヴィオレット妃』を演じるのであれば、私に対しもっと無関心を装わなければ周囲に疑われるぞ。母上は、私にまったく興味がないからな」
「…………」
自虐的に淡々と語るアルフィに、どんな反応をすればよいのかエルザはわからない。
「あと、これは私にしかわからぬ些細なことだが、母上は少々南部訛りがあるのだ。まれに語尾にぽろっと出る程度のものだから、ほとんどの者は気付かぬことだがな」
「……わたくしが教えを受けたのは、帝都出身の方でした」
「そうであろう。其方の発音が綺麗だったから、最初から違和感があったのだ」
どんなに親子関係が希薄であろうと、子が母を慕う気持ちがなくなることはない。
それを強く実感したエルザだった。
◇
アルフィが宰相と共に塔を出て行き、リアムとローマンだけが部屋に残った。
エルザは張り詰めていた緊張の糸を切り、ようやく肩の力を抜く。
「はあ……一時は、どうなることかと思ったわ」
「まさか、立ち居振る舞いではなく、発声で気付かれるとは。殿下を、少々甘く見ていた」
「アルフィ殿下にとっては、実の母親なのよ。皇帝(父親)が亡くなられた今、残された唯一の親だもの」
「『残された唯一の親』か……」
「ん? リアム、どうかしたの?」
「い、いや、何でもない」
急に様子のおかしくなったリアムの頭を、隣からローマンが軽く小突いた。
「ねえ、アルフィ殿下が仰った『我が身にも降りかかってくること』って、どういう意味?」
「……連座制だ。ヴィオレット妃はこれまでにも様々な問題行動をされているが、側妃の立場であるから見逃されていた。しかし、側妃としての責務を果たさず男と逃げたとあっては、どうしようもない。確実に、罪に問われることになる」
「でも、連座制度は廃止されたって……」
前皇帝の偉業として先日リアムが語っていたはずなのに、どういうことなのか。
首をかしげるエルザへ、「あと、半月遅ければ……」とリアムは苦笑いを浮かべた。
「ヴィオレット妃は、法律が改正されてから施行されるまでの僅かな期間に出奔したんだ」
「…………」
だから、皇帝にも秘匿されているのだとエルザは理解した。
ちなみに、連座制でアルフィが罪に問われた場合は短期間の謹慎処分になるのではないかとのことだが、彼の経歴に傷が付くことは間違いない。
「まあ、ともかく、エルザは協力者が増えたと喜んでおけばいい」
「たしかに、ローマンの言う通りだわ」
アルフィにバレてしまったときは非常に焦ったが、よくよく考えれば、彼はこれ以上ないほどの強力な援軍なのだ。
母子面会も、これからは下手な小細工なしで行える。
ただ、おそらくアルフィは、もう二度と離宮へやって来ることはないだろうが。
───と、この時のエルザはそう思っていた。
◇
「……アルフィ殿下、本日はどのようなご用件でございますか?」
翌朝、いきなり離宮にやって来たアルフィに、エルザは困惑の色を隠せない。
「昨日やり忘れたことを、やりにきたのだ」
「やり忘れたこと、でございますか?」
「エルザ、おまえへ礼を言いにきた」
「へっ?」
どういうことだろう?と首を傾げるエルザへ、アルフィが説明を始める。
国葬での一件で母親が偽物ではないか?と疑惑を深めたアルフィは、真相を探るべく(入れ替わりの事情を知っていた)近衛兵のマデニスの反対を押し切り昨日離宮へ突撃した。
そこで真実を知り納得して帰ったのだが、大事なことに気付く。
「おまえは私を褒めてくれただろう? 世辞とはわかっていたが、それでも嬉しかったのだ。それに、国葬では命懸けのことまで……だから、礼を言っておかねばと思ったのだ」
一国の皇子から直々に褒め言葉をもらうなど、エルザの人生においてこんな経験はもう二度とないだろう。
「ありがたきお言葉、恐悦至極に存じます」
「そういう堅苦しいのは、いらぬ。不敬には問わぬから、これからはもっと気楽な感じにしてくれ」
「……わかりました」
うむ…と満足そうに頷き、アルフィは席を立つ。
やれやれ、これで帰ってもらえるとエルザはホッと表情を緩め、見送りの姿勢をとる。
ドアの手前で、アルフィがくるりと後ろを振り返った。
「今後は回数を増やし頻繁に面会に参りますが、よろしいですよね?」
「……えっ?」
「可愛い息子の面倒を見るのは、母として当然の責務だと思いますが、違いますか?」
「えっと、その……」
態度と口調ががらりと変わったアルフィに、エルザは戸惑っていた。
そんなエルザの様子に、アルフィはニヤリと笑う。
「丁度良い暇つぶしの相手を見つけたのだ。私が、この機会を逃すはずがないだろう? これからも、よろしく頼むぞ……母上」
唖然とするエルザを放置したまま、アルフィは近衛兵マデニスと共に去っていく。
去り際、マデニスから同情に満ちた視線を送られ、エルザはすべてを察する。
アルフィは、ヴィオレット妃の前では『可愛らしい息子』を演じていただけなのだということを。
あの微笑ましくて可愛らしい姿が幻影だったことに、エルザは心の底から嘆き悲しんだのだった。




