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悪女は、聖地巡礼を満喫する  作者: ざっきー
第一章

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聖地巡礼の旅に出ます 2



『───古びた靴屋の看板が、風に吹かれてガタガタと音を立てている。

 向かいの食堂から漂ってくるのは、食欲をそそる帝都名物の匂い。

 帝都内に飲食店は数多くあれど、クロエはこの店のボルシチが一番のお気に入りだ───』



 本を閉じたエルザは、興奮と感動で身体が打ち震えていた。


「わあ! 本当に、靴屋の向かいに食堂がある!! しかも、看板はガタガタと音を立てているし、この匂いは……」


 朝食を食べたばかりだというのに、匂いに誘われたエルザは吸い込まれるように食堂の中へと入っていく。

 店は開店直後のようだ。

 店員と世間話をしている常連客と(おぼ)しき老夫婦だけで、他に客はいない。


「いらっしゃい! 空いている席へどうぞ」


 エルザは、迷わず日当たりの良い窓側のカウンター席へ腰を下ろす。

 老夫婦と会話を交わしていた中年女性が、すぐに注文を取りにやって来た。


「ご注文は、お決まりですか?」


「ボルシチを一つお願いします」


「かしこまりました。あんた、ボルシチを一丁!」


「あいよ!」


 女性の威勢のいい声に反応して、店の奥の厨房から男性の声が返ってくる。

 息の合った夫婦に、エルザの笑みがこぼれた。


「お客さん、見たところ他国の方のようだけど、トールキン語が達者だね。こっちに住んでいるのかい?」


「いいえ。短期の仕事で、今回初めてこちらの国へ来ました」


「へえ、そうかい。あたしゃ、てっきり滞在歴が長いのかと思ったよ」


 たとえお世辞であっても地元の人から褒めてもらえると、これまでの努力が無駄ではなかったとエルザは嬉しくなる。

 ふと脳裏に、友人たちと頑張った日々が思い出された。



 ◇◇◇



「こちらは、家庭教師のカーラ先生よ。彼女は、トールキン帝国の帝都ご出身なの」


 公爵家令嬢であるキャロラインが、エルザと伯爵家令嬢のフロレンシアへ紹介をする。

 趣味が高じた三人は、『帝都恋物語』を翻訳本ではなくトールキン語で書かれた原本で読み、朗読劇もやろうと思い立つ。

 お金を出し合い、家庭教師を雇うことになった。

 

 お互いに自己紹介をしたあと、さっそく授業が始まる。


「カーラ先生は、メイベルナ語がお上手ですね? 私たちのように、どなたかに教えを受けたのですか?」


「……仕事で知り合った彼と、通訳を介してではなく直接会話をするために、独学で一生懸命勉強をしました」


 エルザからの質問に、彼女たちより一つ年上のカーラが少し恥ずかしそうに答える。

 キャロラインとフロレンシアから、キャーッと小さく悲鳴が上がった。


「まあ、なんて情熱的なんでしょう」


「フロレンシア、エルザベート、カーラ先生の左手首を見て、羨ましいですわ……」


 カーラの左手首には、『帝都恋物語』にも登場する巻貝のブレスレットがあった。

 このブレスレットは、左右どちらに着けるかで意味合いが異なる。


 相手から贈られたものを右手に着ければ『友情の証』で、左手ならば『愛情の証』を示すもの。

 つまり、友人から贈られたものは右手に着けて、配偶者や恋人から贈られたものは左手に着けるのが言わずと知れた常識なのだ。

 そして、カーラのように恋人から贈られたものを左手首に着けることで、求婚を承諾した意味にもなる。 


「私たちも、カーラ先生のように上手に話せたり、読み書きができるようになるかしら?」


「明確な目標があれば、すぐに上達しますよ。伺ったところ、いずれ朗読劇もされたいとのこと。メイベルナ語より多少発音は難しいですが、頑張りましょうね!」


「「「はい!!」」」



 ◇◇◇



 カウンター席の窓から帝都の街を行き交う人々を眺めていたら、ふわりとトマトの香りが漂ってきた。


「おまちどうさま。帝都名物のボルシチだよ。どうぞ、温かいうちに召し上がれ」


「美味しそう! さっそく、いただきます!!」


『帝都恋物語』では、『この店のボルシチは、『ビーツ』という赤色の根菜やトマトなどが入った酸味のある赤いスープ』とある。

 主人公のクロエはその色を『深紅色』と表現していたが、そのままの色にエルザは興奮が抑えきれない。

 

 物語の主人公になった気分で、エルザはスープの上に載せられた白い『スメタナ(サワークリーム)』を崩しながら、添えられたハーブと共に食べ進めていく。

 酸味と甘みのバランスが絶妙な具だくさんのスープは、あっという間に無くなってしまった。

 記憶が鮮明なうちにと、エルザは国から持参した色鉛筆と画帳で絵を描き始める。

 こう見えて、エルザには絵心があるのだ。

 

(スープの赤、スメタナの白、ハーブの緑……)

 

「へえ~、左手で器用に描くもんだねえ」


 エルザの利き手は左だ。

 ヴィオレットは右利きのため、演じているときは頑張って右手を使用しているが、今日は素のままで問題ない。

 一心不乱に描き続けるエルザを、店主夫妻が微笑ましく眺めていた。



 ◇



 食堂を出てきたエルザは、次の目的地へ向かうため足早に歩いていた。


(まずは乗車場を探して、それから……)


「ちょっと、そこのお嬢さん!」


「…………」


「ねえ、綺麗な薄桃色の髪をした、あなた!」


「…………」


「お~い、僕のことを無視しないで!」


 後ろから肩を叩かれ、エルザは自分が声をかけられていることにようやく気付く。

 振り返ると、端整な顔立ちの男性がにこやかな笑みを浮かべ立っていた。


「私に、何かご用でしょうか?」


「急に声をかけて、ごめんね。君に訊きたいことがあって───」


「あっ、道でしたら、私は地元民ではありませんから、どうぞ別の方へお尋ねください」


 脇目も振らず堂々と歩いていたから、勘違いされたのだと気付いたエルザ。

 男性の間違いをすぐに正し、「先を急ぎますので、私はこれで……」と立ち去ろうとしたが、今度は腕を掴まれてしまう。


「違う違う! 僕が訊きたいのは、道じゃなくて君の名前だよ」


「なぜ、私の名前を?」


「そんなの、決まっているじゃないか。君が可愛くて、素敵だからさ!」


「…………」


 人生初の経験に、エルザの動きが止まる。

 自国で男性から声をかけられたのは、道を尋ねられたときか、「ハンカチを落とされましたよ」と落とし物を手渡されたときくらいだ。

 そんな自分が、しかも、見目が悪くない若い男性からともなれば、正直悪い気はしなかった。

 

 友人たちへ「トールキン帝国には森人が多く実在していて、中には、私に声をかけてきた物好きな人も居たんだよ」と、楽しい土産話になるのは間違いない。

 彼女たちへ詳細を語れるよう、男性の特徴をしっかりと記憶する。そして、エルザはペコリと頭を下げた。


「あの、大変申し訳ありませんが、本当に先を急いでおりますので、これで失礼します」


 エルザには、先の予定がしっかりと詰まっている。

 限られた時間のなかで、いかに効率よく目的地(聖地)を巡ることができるか。

 昨夜、寝る間も惜しんで立てた計画を台無しにしたくはなかった。


「もしかして、付き合っている人がいるのかな?」


「えっ?」


「せめて、名前だけでも教えてくれない?」


(こ、この人……しつこい!!)


 ここで「(相手が)いる」と答えれば、彼は引き下がってくれるのだろうか。

 しかし、こういうタイプは「その彼って、どんな人?」と尋ねてくる可能性も十分考えられる。


 『帝都恋物語』では、街で男に絡まれていたクロエをたまたま通りかかったネイサンが助け二人は知り合うことになる。

 恋愛物語的には、ヒロインとヒーローの出会いの場面として盛り上がる状況(シチュエーション)

 しかし、エルザがしたいのは聖地巡礼であって、主人公の疑似体験ではないのだ。


 早く断りを入れ、次の予定に進みたい。

 でも、そんな相手が居ない自分は、誰を想像しながら答えるべきか。

 父親か、それとも兄弟か……あらゆる想定を数秒の内に考えたエルザは、男性に向き直った。


「名前を教えることはできません。私にはお付き合いをしている人がおりまして、彼は──」


「───背が高くて、髪は少し長め。性格は負けず嫌いで我が儘な一面もあるが、交渉術に長け、『経済学』と『政治学』の本しか読まない真面目な人……つまり、俺のことだ!」


 ひんやりとした声にこれでもかというくらい殺気を漂わせたリアムが、腕を組み男性を威嚇するように立っていた。




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