国家存亡の危機ですが、英雄たちはハーレム満喫中です
第一章 チートたち、戦線離脱
会議室は静寂に包まれていた。
重厚な石壁に囲まれた空間の中、机の上に並ぶ書類と地図、そして誰もが言葉を失っているのは、そこに描かれた戦線図のせいだった。
「……これが最新の報告か?」
低く、重く、怒りを噛み殺した声が響く。声の主はレガルディア王国の軍師、ユリウス・エルバード。まだ二十八歳ながら、すでに数多の戦を勝利に導いてきた天才と名高い人物である。
「はい、軍師殿。……東方防衛線からの英雄リストです」
補佐官が震える手で差し出した報告書には、衝撃の文字が並んでいた。
《剣聖アルノルト:戦線離脱。現在、山岳地帯で農業に従事。》
《爆炎の魔女シエラ:戦線離脱。地方村にてポーションカフェ開業。》
《雷神リード:戦線離脱。自宅で娘とスローライフを満喫中。》
《氷結の聖女メルフィナ:戦線離脱。羊毛フェルトにはまっているとの噂。》
「なにが“離脱”だ。逃げただけじゃないか……!」
ユリウスは椅子から立ち上がり、机を拳で叩いた。
誰もが震える。だが彼の怒りは当然だった。これほどの戦力が一斉に消えれば、王国の戦局は傾く。事実、今も魔族はじわじわと南下を続けている。
「どうして止めなかった。なぜ彼らが田舎に籠もるのを、誰も制止できなかったんだ?」
「それが……みな口を揃えて“もう疲れた”と……。しかも、その地で住民に感謝されて、英雄として崇められてしまって……」
「ちやほやされて悦に入ってる場合か……!」
ユリウスは額に手を当てて、深く息を吐いた。
(確かに、彼らは限界だったのかもしれない。十年、二十年も最前線に立っていれば、誰だって心が壊れる……だが、今じゃない。まだ終わっていない)
「……よし。王に直訴する。これは放置できん」
そう言ってユリウスが扉を開けたその瞬間、執務官が駆け込んできた。
「軍師殿! 王よりの緊急命令です!」
「なんだ?」
「“戦線離脱者を呼び戻せ。不可能ならば、代わりに新たな英雄となれ”と……」
静寂が、再び落ちた。
(なるほど。つまりこれは、俺が田舎に行って、チートたちを引きずり戻してこいってことか)
ユリウスは小さく息を吐いた。
「いいだろう。やってやるさ。だが──」
彼の目が鋭く光る。
「もし帰ってこないのなら、俺がその生活を終わらせてやる」
まるで、それが自分に向けられた呪いになるとは、このときの彼はまだ知らない。
第二章 剣聖アルノルト、嫁と農業中
馬車を降りたユリウスは、しばし呆然と立ち尽くしていた。
見渡す限りの緑、穏やかな風、熟れた果実の甘い香り。山間の集落とは思えないほど整備された畑には、真っ直ぐな畝が伸びており、肥沃な土地に根を張る作物が、陽を受けて美しく実っていた。
「……なんだこれは。農場じゃないか」
馬車の御者が申し訳なさそうに言う。
「ここが“剣聖”アルノルト様の現在の居住地でございます……。あちらの赤い屋根の邸宅が、ええ」
ユリウスの眉間にシワが寄った。
アルノルト・シュタイン──数年前まで王国随一の剣の使い手として恐れられ、その名を聞くだけで魔族が震え上がる存在だった男。
その男が、今は農村で悠々自適に暮らしている? 王国の存亡がかかっているというのに?
(ふざけるな……いや、まずは話を聞こう)
意を決して屋敷の門を叩くと、出てきたのは──
「はーい……あら、あなた、旅人さん?」
──艶やかな黒髪に、田舎のワンピース姿の美女だった。
ユリウスの返答より早く、彼女はくるりと振り返って屋敷の奥に声をかけた。
「あなた~! お客様よ~!」
屋内から現れた男こそ、かの“剣聖”アルノルトであった。
変わり果てた姿に、ユリウスは言葉を失う。
かつて銀色の鎧に身を包み、冷たい眼差しで敵を斬り伏せていた男が、今は麦わら帽子に農作業着、肩には鍬を担いでいる。
「……軍師殿? ああ、懐かしい顔だ。まあまあ、入っていけよ」
「……いや、ちょっと待ってくれ。話が……」
「うちのトマト、うまいんだ。冷やしてある。ほら、こっち」
話を切るように腕を引かれ、ユリウスはずるずると引き込まれる。
リビングに案内され、冷えたハーブティーとともに出された完熟トマトを口に含んだ瞬間──
「……うまい。……くっ……」
その場の誰もが驚いた。
無表情で有名なユリウスが、素で感嘆の声を漏らしたからだ。
「だろ? 土と水にこだわって育てたんだ。剣の振り方と同じでな、手間を惜しまなきゃ、応えてくれる」
「……何をやってるんですか、あなたは」
ようやく冷静さを取り戻し、ユリウスは声を低くして言った。
「王国は、戦力を失い、日々後退を続けています。あなたほどの剣士が、なぜこの場所に……」
アルノルトは少しだけ視線を落とした。
そして、穏やかな口調で語り始める。
「……俺は、もう剣を振れんのだよ」
「何を言っている。まだ若い、動きも鈍ってはいない。実力も──」
「違う。腕じゃない。心だよ、軍師殿」
言葉は静かだが、重かった。
「俺は、戦場であまりにも多くの命を奪った。仲間も、敵も、命という命が血にまみれて消えていくのを見すぎた。……気がついたら、剣を握る手が震えるようになっていた」
ユリウスは言葉を失った。
英雄の引退には、きっとそれぞれの理由がある。それを理解したくはなかった。だが、目の前の男は、あまりにも人間だった。
「だが、それでも! 王国は……!」
「守ってるさ」
アルノルトは目を細めて、窓の外を見た。
そこには、畑で水を撒く嫁と、鶏に餌をやる別の美女、そして家の裏で洗濯物を干している三人目の妻の姿があった。
「……俺は、この村と、この家族を守ってる。それが、今の俺にできる唯一の戦いだ」
静かに語るアルノルトに、ユリウスは何も言えなかった。
いや、言うべき言葉が見つからなかった。
第三章 爆炎の魔女シエラ、田舎でカフェ経営中
アルノルトの村を後にして、ユリウスが次に向かったのは、南部の温泉地帯にほど近い小さな村だった。
ここには、かつて王国の魔術師団長として名を馳せた女――爆炎の魔女シエラがいるという。
灼熱の魔法で軍勢を吹き飛ばし、砦を一撃で崩壊させた彼女の魔力は、王国最強クラスと称された。
その彼女が、突然戦線を離れ、田舎で「カフェ」を始めたという報告には、ユリウスも耳を疑った。
(農業よりもよくわからん……何をしているんだ)
村に着くと、風情ある木造の小屋が一軒。
看板には手書きで《魔女の小さなポーションカフェ》と書かれていた。
扉を押すと、カラン、と小さな鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ~。あら、お客さん……?」
奥から現れたのは、燃えるような赤髪に紫の瞳を持つ、美しい女性だった。
白いエプロンドレスに包まれたしなやかな体躯。
その笑顔に、ユリウスは一瞬、言葉を失った。
「おや、そちらの目つき……軍師さん、かな? なんとなく“正論をぶつける気満々”って顔してるわね」
図星だった。
「……爆炎の魔女、シエラ・フレイム。王国軍より命を受け、貴女に出頭を要請する」
「まずは座りなさいな。ほら、看板も見たでしょ? 今の私は“魔女”じゃなくて、“店主”なの」
そう言って出されたのは、琥珀色の液体が湯気を立てるカップと、香草の乗った小さなケーキだった。
「これは……?」
「リラックスポーションティーと、胃に優しいハーブケーキ。魔力の暴走を抑えるレシピなのよ。どうぞ」
仕方なく一口。──その瞬間、舌の奥から脳髄にまで抜けていくような、優しい甘さと温もりが広がった。
「……うまい、というより……落ち着くな」
「そうでしょ。人を癒すのも、私の魔法の一つよ」
穏やかに笑うシエラの瞳は、あの日、戦場で見た凶暴な炎の輝きとはまったく違っていた。
「あなたが来るって、ちょっとだけ予感してたの。だって、戦場の片隅で見たことあるもの、あなたのこと」
ユリウスの心が、ふと緩んだ。
「俺は、あなたを“戦場に戻してくれ”と言いに来た。……だが、あなたの目を見て、言葉が出てこない」
「ふふ。素直ね。偉い偉い」
茶化すような口調だったが、瞳には真摯なものが宿っていた。
「私もね、昔は戦うのが誇りだった。力を振るうことが“存在価値”だった。でもある時ふと、思ったの。『じゃあ、それがなくなったら、私は誰なの?』って」
「……」
「そんなとき、この村に来て、笑ってる人を見たの。誰もが“私の魔法”を怖がらない。欲しいって言ってくれるの。甘いお茶や、温かなスープの形でね」
彼女の声は、静かに揺れていた。
「戦うための力しか持たないと思ってた私に、“癒す”という生き方を教えてくれたのが、この村だったのよ」
ユリウスは、それ以上言葉を返せなかった。
彼女の選んだ人生が、誰よりも力強く、そして優しいものだと、痛いほど理解できたからだ。
……ただ、それでも。
「それでも、戦場は残っている。貴女がいないことで、誰かが死ぬ可能性がある。……それが、事実だ」
シエラはしばし目を伏せ、それから小さく笑った。
「それでも、私は戻らない。代わりにね、あなたの疲れを癒やすことなら、できるわよ?」
「……俺が、疲れてるとでも?」
「ええ。肩、ガチガチ。目の奥も真っ赤。戦場で燃え尽きる前に、ここで休んでいけばいい」
その夜。ユリウスは、宿ではなく、カフェの裏にあるゲストルームに泊めてもらうことになった。
――そして、シエラの優しさと手料理に囲まれて過ごすうちに、
ほんの少しだけ、“引退”という二文字が、彼の胸に忍び込んだのだった。
第四章 軍師、初めて酔い、初めて抱きしめる
その村では、季節の変わり目に「火祭り」という小さな祝祭が開かれるという。
農耕の無事と、家々の安全を祈る儀式。炎を象徴に、豊穣を願うのだという。
「この土地の風習よ。魔法で火を扱える私が“女神役”を任されてるの。悪くないでしょ?」
そう言って、シエラは朱と金の刺繍が施された、民族風のドレスに袖を通した。
露出は控えめだが、身体のラインが浮き上がるような布地で、艶やかな赤髪がさらに映える。
「似合ってる」
不意に漏れた言葉に、自分でも驚いた。
シエラはくすりと笑ってから、焚き火の準備を始めた。
祭りの夜。村人たちは笑い、酒を飲み、子どもたちが花火を追いかけて走る。
穏やかで、優しい光景だった。
ユリウスもまた、村の青年にすすめられるがまま、地酒の杯を手にした。
(少しだけ、なら……)
そう思ったのが最後だった。
──気がつけば、彼はカフェの裏庭、焚き火の光に照らされながら、シエラとふたりきりで腰を下ろしていた。
「ふふ、ちょっと飲みすぎね。顔、赤いわよ」
「うるさい……慣れてないんだ、こういうの……」
「うん。知ってる。そういう真面目なところ、好きよ」
火花が弾け、ユリウスの脳内も少しずつ温度を上げていく。
身体が熱い。頬が火照る。いや、それだけではない。
彼女の声や香りが、全身に染み込んでくる。
「シエラ……どうして、俺にそんなに優しい?」
「ん? ……あなたが、自分の心を置き去りにしてるからよ」
静かな声だった。
「みんなのため、国のため。あなたはずっと、誰かの期待に応えるように生きてきた。でもね、そういう人って、すぐ壊れるの」
「……」
「私もそうだった。戦って、燃えて、褒められて……でも、“本当の私は何なのか”を失っていた。だからわかるのよ、あなたの危うさが」
ユリウスの心に、何かが刺さった。
ずっと感じていた“違和感”。
自分の心が、まるで空洞になっていくような焦燥。
誰もが求める“理想の軍師”という役割を演じているうちに、自分の本音がわからなくなっていた。
「ねえ、ユリウス」
シエラがそっと隣に寄る。
焚き火の赤が、彼女の頬に揺れていた。
「疲れたなら、休んでいいのよ。戦うだけが、人生じゃない」
「……」
身体が、自然と動いていた。
気づけば彼は、シエラを抱き寄せていた。
彼女は拒まなかった。
むしろ、静かに肩を預け、耳元で囁いた。
「ね、少しだけ、ここにいて。私、あなたに……もう少し“あたたかさ”を分けてあげたいの」
その夜。
ユリウスは生まれて初めて、剣でも策でもなく、“人の温もり”に身を委ねた。
激しい情事ではない。ただ、ふたりで触れ合い、眠りにつくだけの夜。
けれどそれは、彼の中にあった“軍師”という仮面を、ほんの少しだけ緩めたのだった。
第五章 魔族の襲撃、そして村の団結
翌朝。
ユリウスは、久しぶりにぐっすりと眠った感覚を覚えていた。
重い鎧のようにまとわりついていた思考の鎖が、少しだけ軽くなったような気がする。
シエラの言葉も、温もりも、すべてが夢のようだった。だが、現実は夢では終わらない。
それは、突如として鳴り響いた警鐘によって訪れた。
「ユリウス様! シエラ様! たいへんです、村の北の森に……魔族が!」
飛び込んできた村人の叫びに、ユリウスはすぐに身を起こし、着替えもそこそこに外へ出た。
朝靄の向こう、森の影に黒い影が蠢いている。
──魔族の遊撃部隊だ。
恐らく、王国の防衛線をかいくぐり、田舎の村々を襲って物資や食料を奪う一団。
この村の位置を把握していたことは偶然か、あるいは……誰かの密告か。
「人数は?」
「ざっと十数体……全部、下級クラスですが、村には戦力が……!」
「ある。俺が指揮を執る」
ユリウスの声は落ち着いていた。
「村の男たちは防壁の補強と避難誘導。女たちは小屋に水を溜めて火除けの備えを。魔法が使える者は、シエラの下に集まれ」
シエラがすっと現れた。
「時間を稼げれば、私の結界魔法で前線を制御できる。でも、貯蔵魔力が少ないわ。三分が限界よ」
「充分だ。三分で決める」
戦の感覚が戻ってくる。血が騒ぐ。心が冴えていく。
軍師としての本能が、ユリウスを戦場に押し戻していた。
魔族たちは、森を抜けて一直線に村へ向かっていた。
牙を剥き、刃を構え、目に映るものすべてを奪う獣のような連中だった。
その前に、ユリウスが立ちはだかる。
「左に誘導しろ! 柵を崩して囲め! 燃えやすい物資は移動させておけ!」
戦略は完璧だった。
村の地形を活かした陣形と、罠の配置、そして住民たちの勇気。
彼らは決して兵士ではない。だが、大切なものを守る意志だけは、英雄と変わらぬ強さを宿していた。
そして、ついに前線での激突。
ユリウスは武器を持たない。指揮と統制だけで、次々と魔族の動きを読み切る。
罠にかかり、地面に倒れる魔族。火の粉が舞い、シエラの魔法陣が空に輝く。
「フレイム・ドーム、展開──!」
紅蓮の結界が周囲を包み、魔族たちの進軍を阻む。
その中心で、村人たちは勇敢に立ち回る。誰一人、怯えてなどいなかった。
やがて、最後の一体が地に倒れ、呻きながら煙と化した。
静寂。
──そして、歓声が上がった。
「勝った……!」
「やった……!」
村は、自らの手で、魔族を撃退したのだ。
夕暮れ。
焚き火の残り香の中で、ユリウスは一人、村の外れに腰を下ろしていた。
目を閉じると、指揮官としての自分と、ただの“人”としての自分が、同時にそこにいた。
そこへ、シエラがやってくる。
「無事で、よかった」
彼女の声はいつもより静かで、やわらかかった。
「ありがとう、ユリウス。あなたがいなければ、きっと……」
「違う。俺はただ、手助けをしただけだ。戦ったのは、村人たちだ」
そして、静かに続ける。
「……俺は、ずっと間違ってたのかもしれない。“戦う者”だけが世界を守るって、思い込んでた。でも違った」
ユリウスは、火に照らされた彼女の顔を見て、呟いた。
「誰かの笑顔を守りたいという気持ちが、戦場に立つ理由になる。そして、守る場所は……戦場じゃなくていい」
シエラはゆっくりと、ユリウスの手を握った。
「なら、ここにいなさい。あなたが守ったこの場所で、一緒に生きていきましょ」
ユリウスは、その手をしっかりと握り返した。
夜空には、焚き火の残り火がゆらめいていた。
それはまるで、彼の心に新たな灯火がともったような、温かな光だった。
第六章 帰還の拒絶、そして新たな暮らし
魔族の襲撃から三日後、王都からの使者が村を訪れた。
その姿は、まるで騎士団の小隊のようだった。
光を反射する紋章入りの鎧、整列した従者たち。そして中央に立つのは、王国直属の使者、カロル男爵。
「ここに軍師ユリウス・エルバード殿はおられるか!」
その鋭い声が響くと、村人たちがざわめく中、ユリウスは静かに前に出た。
「……私だ」
カロルは馬から降りると、巻き物を広げて高らかに宣言した。
「王命により、貴殿に王都への即時帰還を命ずる。前線の再編に伴い、貴殿の軍略を必要としている。速やかに従え」
その言葉は、容赦のない命令だった。
ユリウスは一歩前に出ると、口を開いた。
「申し訳ありませんが……お断りします」
風が止まり、場が静まり返った。
「……な、何を……!? これは王命ぞ! 従わぬなど許されるものか!」
「知っています。……だが、それでも、俺はここに残る」
言葉は穏やかだった。だがその芯は、誰よりも固かった。
「理由を申せ。反逆か。女に惑ったか?」
「……そうかもしれません」
ユリウスはそう言って、背後に立つシエラへと視線を向けた。
彼女は驚きもせず、ただその目で彼を見つめ返していた。
「俺は、この村を守りたかったわけじゃない。民の命を背負いたかったわけでもない。ただ──」
言葉を切り、ユリウスは少しだけ、笑った。
「ただ、彼女を守りたいと思った。それだけです」
ざわめきが走る。使者たちが一斉に顔を見合わせた。
「それは、軍師としての責務を放棄するというのか!」
「そうだ。俺は軍師を降りる。戦場ではなく、彼女の隣で生きることを選ぶ」
そこに、重ねてユリウスは言葉を置いた。
「……ようやくわかりました。
なぜ、英雄たちは戦場を離れ、田舎でハーレムを作ったのか。
彼らは、自分の力を振るう先が“国家”ではなく、“愛する誰か”に変わったんだ」
振り返ると、アルノルトの笑顔が脳裏に浮かぶ。
シエラの笑顔、彼女の料理、隣で眠る温もり──そのすべてが、戦功とは無縁の、“生きる”ための理由だった。
「この選択が、王国にとって裏切りなら、甘んじて受けましょう。だが俺はもう、シエラのいない未来には、戻れない」
その言葉に、カロルも、従者たちも、何も返せなかった。
代わりに村人たちの中から、誰かがぽつりと呟く。
「──よかったな、ユリウス様」
その一言で、場の空気が変わった。
ユリウスは、そっとシエラの手を取り、もう一度、王国の使者を見た。
「伝えてください。“軍師ユリウス”は、もういませんと。……代わりに、“一人の男”が、彼女の隣で生きることを選んだ、と」
そして、王国の命令から、ゆっくりと背を向けた。
エピローグ 軍師、田舎で幸せに暮らす
村の朝は、ゆっくりと始まる。
鳥のさえずりが耳をくすぐり、窓の外には朝霧に包まれた畑が広がっている。
ユリウスは湯気の立つカップを片手に、縁側に腰掛けた。
「起きてたの? おはよう、ユリウス」
背後から、シエラがふわりと寄り添ってくる。
寝起きの柔らかな表情、すこし乱れた髪。それだけで、胸の奥が温かくなる。
「おはよう。……昨日のケーキ、すごく美味しかった」
「ふふ、あれはね、あなたのために新しく考えたの。“軍師の胃を癒すケーキ”って、名前はどう?」
「センスはともかく、効果は抜群だったよ」
二人で笑い合う。その何気ないやり取りが、何より愛おしかった。
──かつて、彼は戦場で策を巡らせ、命を削って戦った。
だが今、彼が心を尽くすのは、食卓に並ぶ料理の味だったり、畑に植える作物の並びだったりする。
「ねえ、ユリウス。……子どもって、好き?」
唐突な問いかけに、少しだけ手が止まる。
「……まあ、嫌いではないかな。昔は戦場ばかりで、縁がなかったが……」
「そっか。……じゃあ、練習しておこうか。子育ての」
「……え?」
シエラはいたずらっぽく微笑んだ。
「冗談よ。でも……いつか、あなたとならいいかも、って」
ユリウスは、心の底から安堵したように笑った。
「それなら……今から練習しておくか。まずは、名前を考えるところから」
「ふふ、気が早いわね。でも、いいかもね」
彼はもう、軍師ではない。
だが彼の元には、時折訪問者がやってくる。かつての英雄たちだ。
剣聖アルノルトは、新しい畑の道具を届けにきた。
魔獣使いのソフィアは、動物たちと一緒に観光気分で訪ねてきた。
誰もが、同じように――戦場を離れ、守るべき“誰か”を見つけていた。
彼らは互いに笑い合い、野菜を交換し、夜には焚き火を囲んで語り合う。
「俺たち、みんな抜け駆けしてたんだな」
「戦うより、愛する人の隣にいるほうがずっと怖くて、幸せなんだよ」
「──そして、それが本当の“勝利”ってことだ」
夜、星空の下。
ユリウスはシエラの肩を抱き、空を見上げていた。
「なあ、シエラ……」
「うん?」
「おれ、もう“軍師様”じゃないけどさ……この村くらいは、守り通したいんだ」
「ふふ、それって、けっこう“英雄”っぽい台詞よ?」
「やめてくれ……本気で恥ずかしい……」
「でも、好きよ。そういうとこ」
静かな夜風が吹き抜けていく。
それはまるで、戦場にいた頃の喧騒をすべて洗い流してくれるような、優しい風だった。
そしてユリウスは、思ったのだ。
──この場所が、俺の“終の戦場”でいい。
──彼女の隣で生きていく。それだけで、もう充分だ。
戦いを終えた軍師は、静かに、静かに、目を閉じた。
彼の物語は、ここで終わる。
だがその隣には、未来へと続く――新たな物語の始まりが、確かに息づいていた。
この作品が面白いと思ったらブクマ・評価・リアクション・感想などよろしくお願いします。
次回作を書くための励みになります。