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7.ホンモノの魔王なの

 本日の聖女出張は、S市内に住む男性(人間)からの依頼だ。

 システム会社で勤務する三十代のサラリーマンで、名を羽山という。

 自宅のリビングに案内され、鬼久川と並んでソファに座る。その向かいに羽山が座った。

 カーテンは閉め切られており、室内は持ち主の顔色同様に薄暗い。

 名刺を渡し、本題に入る。

 事前にコールセンターからマオへ伝達された依頼内容は、「妻を連れ戻してほしい」だ。

「いつから行方不明に?」

「一月ほど前です。それと、いる場所はわかっているんです。友人には話していたようで、その友人から私に連絡が入って」

「それは失礼いたしました。では、現在はどちらに?」

 スマホを操作して、マップを示す。ピンが刺さっているのは隣の市だ。

「失礼ですが、嘘の情報である可能性は……」

「そうかもしれません。一週間前はいましたが」

 羽山はピンの場所に自ら訪れ、妻の姿を確認している。連れ帰ろうとしたが、抵抗されたのだと言う。

「帰れない事情があるということでしょうか」

「私は、不倫をしているんじゃないかと思うんです」

 羽山は両手で顔を覆った。

 余程の事態でもなければ不倫で警察は動かない。では羽山が興信所ではなく聖女に依頼を出したのは。

 それは、不倫が必ずしも妻本人の意志ではないと思ったためだろう。

 マオは隣にちらっと目線をやる。

 よくもまぁフラットな表情を作れることで。よくよく見れば最初から新米騎士らしさもなかった気がしてくる。

 話を戻そう。

「羽山さまは、瘴気のせいだとお考えなのですね」

「妻はウンディーネなんです。でなければありえないでしょう」

「まさか」

「ええ、そのまさかです」

 まさか不倫するなんてありえない、とマオは確かに思った。

 ウンディーネ。

 彼らは水辺に住まい、驚くほど美しい容姿をもち、二本の足の代わりにヒレを持ち、性別がなく、生涯にただ一人愛する者との誓いを立てる。

 その容姿ゆえに彼らの前にひざまずく者は多い。だが、その天との契約ゆえに彼らはおいそれと恋愛ができない。

 法制度に基づく離婚をしても、死別をしても、その古よりの縛りからは逃れられないからだ。

「俺の前から消えるなんておかしいでしょう。瘴気のせいじゃなきゃなんだっていうんですか」

 そのウンディーネたる妻が不倫をしている、だから本人の意志じゃないと羽山は涙を浮かべて訴えるのだ。

「失礼ですが、その、本当に結婚はされていらっしゃいますか」

「そう言われると思ってましたよ」

 二階に案内された。仕切りのない広々としたワンフロアだ。なんとその全面がバスルームだった。

 中でもバスタブは、室内の半分を占めていた。縦横それぞれ五メートルは超えている。深度は一メートル程度。手すりつきのステップがあり、人間の安全面も考慮されている。シャワーラックやミラー、せっけん類もあるが、クッション性の床で休息できるスペースがあったり、埋め込み式のテレビがあったりして、リゾートホテルのプールと見紛うくらいの豪華さだ。

 海外のケースだと、とあるセレブが水族館なみの施設をウンディーネのために用意したとか。

 ウンディーネは歩けない。水場も必要だ。それなりに収入が無ければ互いが満足するような共同生活はできない。羽山の年収は知るべくもないが、愛を前にして増改築費は枝葉の問題ということだろうか。

「こちらもどうぞ」

 羽山は戸籍謄本まで用意していた。発行日は昨日。妻の種族は「ウンディーネ」と確かに記載があり、婚姻の受理日は四年前になっていた。

「ありがとうございます。ご結婚の事実が確認できました。不倫をしているとすればお相手がいることになりますが、連れ戻したいという羽山さまのお気持ちに変わりはありませんか」

「もちろんです。愛していますから。聖女さま、どうか妻をお願いします」

 両手を組み、沈痛な面持ちで頭を下げられた。




 羽山の自宅を辞し、マップが示した場所まで車を走らせる。運転の勘を取り戻しつつあるマオは、ハンドルを握りながら会話をする余裕も出てきた。

 となれば後輩との楽しいおしゃべりタイムを持とう。

「ところで、ウンディーネに不倫させるって悪質ですよね。ちょっとくらい瘴気を抑えてはくれないものでしょうか」

「瘴気の発生量は魔王の心身状態によって左右されますが、体から直接排出されるわけではありません。発生場所はいつもランダムでしょう。その場に居合わせた者たちには申し訳なく思いますが、どのような影響を受けるかは受容する側の心身状態によるので予測が立てられません」

 嫌味に真面目な返答をされても。

「つまりウンディーネが瘴気にあてられたとして、不倫するかは本人次第ってことですか」

「そうなります」

「ちなみに魔王が風邪を引いたり、怒ったりしている時は発生量が増えるんですか? それとも嬉しい時にブワッと噴き出す?」

「ネガティブな状態に偏っていますね。風邪を引いたり、怒ったりしている時に噴き出す可能性が高い」

「ブワッと?」

「ブワッと」

「じゃあ魔王にはサンクス神様のように慈悲深さを持ってもらわないと。あ、もしかしてそのために教会へ?」

「あいにく信仰心は皆無で」

「聖女の前でよく言い切ったなあ?」

 いかん。相手のペースにのまれている。

 魔王だとカミングアウトされて一週間。その事実をマオは誰にも打ち明けられていない。どう説明したものかと悩むうちにずるずる来てしまった。

 本人が言った通り危害が加えられることもなく、聖女と騎士としての仕事は問題なくこなしている。だから余計に分からなくなっていった。

 本当にホンモノの魔王なの? 角は触ったけど見えないし、何かのマジックでは?

 信号で停止したタイミングで「瘴気ですが、一時的に抑えることはできます」と鬼久川が言った。

「え、どうやって」

「試してみますか、いま」

「そりゃあ、試せるならやってくださいよ」

「そうですか、では」

 ハンドルに乗せた片手を取られた。

「なに?」

 ひっくり返された手のひらに、鬼久川の手が重なる。指が絡んできた。

 めまいがして振り払う。

 青信号になり、アクセルペダルを踏み込んだ。

「……運転中にやめてください。いや運転中じゃなくてもやめてください。めまいするし、セクハラだし、へたすると立場が上の私が強要したと思われる」

「すみません。しかしいま、あなたに触れていた間だけは、瘴気の発生がストップしていたはずです」

「はあ……」

 そんなこと言われてもレーダーじゃないのだから実感を抱きようもない。

「この方法ではあなたに負担をかけてしまう。もっと根本的な解決をしなければ意味が無いと思いませんか。教会にはそのために使える力が集まっているでしょう」

「えっと、瘴気の発生を抑えるために無意識に聖女の力を使っているから私は気分が悪くなってる?」

「聖女は瘴気に敏感ですから。私に触れると拒絶反応が起きるのでしょう」

 一つ、ひらめくものがあった。

「触れてなくても……例えば、祈りがうまくできないとか……?」

「そうですね。私が距離をとったときはうまくいったのでは?」

 お前のせいかーっと運転中でなければまた鬼久川の胸倉に掴みかかるところだった。




 地図が示した場所に着いた。

 ここは、当市が管理する里山だ。総面積は一二〇ヘクタールを超え、その多くのエリアが市民に無料開放されている。複数の散策路が整備され、貴重な動植物を観察することができる。

 敷地内にある学習施設では、観察道具の貸し出しや子供向けの体験講座なども開かれ、休日は親子連れで賑わうのだとか。すべて観光サイトによる紹介文の受け売りだ。

 マップ上のピンが指すのは、この里山でも北側に位置するエリアだ。そこには外周五百メートルほどの「ため池」がある。フェンスで囲まれ、侵入禁止の看板が掲げられている。近くを歩くことはできるが、人一人探すには障害になる。

 いったん車に戻って、外周道路を南へ。管理施設にいた職員に交渉してみた。

 ウンディーネが勝手に住みついているとなれば、よろこんで協力してくれるだろう。家賃を徴収するよう頼まれるかもしれない。

 そう思っていたのだが、なぜか厄介者を扱う顔をされてしまった。

 最終的には教会の名前で押し通ったのだが、手短にとか揉め事を起こさないでとか釘を刺されて案内もつかなかった。

 再び車で問題の池の近くまで戻る。奥地だったらこの行き来も徒歩しか使えなかったはずなのでまだマシだったと思おう。

 フェンスの内側に入って、池の周りを十分ほどかけて歩いてみた。野鳥や昆虫は見かけるが、人影はない。水中で息を潜めているのかもしれない。

「あれに乗ってみますか」

 桟橋に舟が一艘、係留されている。大人三人で満員になりそうなサイズだ。エンジンはついてない。オールは二本。つまり手漕ぎだ。

「……漕いだことあります?」

「それなら大丈夫です」

 やけに自信たっぷりだ。そこまで言うならオールは鬼久川に任せよう。某有名アイドルバンドの一曲が頭に流れたが、まあ大丈夫だろう。

 鞄は岸に置いておく。汗だくのジャケットをその上にかけた。市街地とくらべればここは快適な気候だが、歩けばさすがに汗をかく。鬼久川もジャケットを脱ぎ、係留ロープを外した。

 ため池といえば、防災用だったり農業用だったり人工的に作られた水場で、人間が鑑賞して楽しむ場所ではない。だがここは、水上を移動しながら水底がはっきりと見える。

 北海道に観光名所となった池がある。あそこは森の地下水が長い年月をかけて青く澄んだ絶景を作っていたはずだが、なかなかどうしてこちらの人工池も負けていない透明度だ。

 粒子の細かい砂礫の絨毯から伸びる藻が揺れるさまや、その周囲で化石のように沈んでいる木々、それらを住みかとする小魚たち。そういえば、ウンディーネには水を操る力があるはずだ。人工池の水質を一定に保っているのは、やはり羽山の妻ではないだろうか。

「……そういえばこの舟、何で勝手に動いてるんです?」

 オールは水面から離れており、鬼久川は柄を握ってすらいなかった。にもかかわらず、舟はするすると水上を滑っているのだ。

 鬼久川は平然と「シルフの仕業でしょう」と返した。

 シルフは風の精霊だ。舟を動かすくらい造作もないだろうが、そういう問題じゃない。

「怖いんですが」

「分かりました。スピードを落としてもらいましょう」

 鬼久川がそう言った次の瞬間には舟の速度が下がったので、マオはやっと鬼久川の「大丈夫です」の意味が分かった。何も安心できない。早く捜し人を見つけて陸に帰りたい。

「ウンディーネの不倫相手って、本当にいると思います?」

「戻らないイコール不倫も安直すぎるのでは」

 ですよねえ。

 依頼人の手前、全否定はしなかったが、やはり不倫は考えにくい。

「ちなみにウンディーネの縛りと、瘴気による魔物化、ぶつかったらどっちが勝ちます?」

「……後者が勝つのならば、ウンディーネの縛りなどというものは有名無実化しているのではないでしょうか」

 一理ある。

「何してるんです?」

「潜って探してみようかと」

 鬼久川は腕まくりをして靴を脱いでいる。

「見つかりそうですか」

「瘴気に侵されていればおそらくは。しかし、ここは清浄だと思いませんか」

 マオは、鬼久川の言わんとすることを察する。

 鬼久川が立ち上がっても、シルフの力が働く舟はびくともしなかった。へりに足をかけて飛び込んだ。

 水中で計測した瘴度を見せてもらうと、なんと二パーセントだった。

 その間に鬼久川は潜水を続ける。その場で四方を見回し、浮上してきた。

「いました」

「はやっ」

 それだけ言い置き、また潜ってしまう。水を足で蹴り、手で掻き分け、ぐんぐん進んでいく。

 マオが黙考していると、突然乗っている舟が暴れ出した。

「なになに!?」

 ジョー○か? クラーケンか? ここ淡水? 大型魚? 魔物? 瘴気の気配はなく、そもそも冷静に祈りを唱える暇もない。

 横揺れは、左右に傾斜をつけながらどんどん激しくなっていく。これは水棲生物の仕業というより、巨人がその手の中でいたずらに舟を転がしているよう。

 いたずら――あ、シルフか。

 マオは後方一回転半ののち、背中を水面に打ち付けた。

 やっぱりオールを他人に任せちゃいけない。まして魔王になんて。あの曲の忠告を聞き入れるべきだったのだとマオは自分に悪態をついた。カナヅチではないが、あいにく今日はタイトスカートなのだ。船上からの目測より実際の深さはもう少しあった。深度五メートルといったところか。頭上は転覆した舟によって塞がれている。足を自由に動かすには、まず腰に巻き付いている布をたくし上げないといけない。

 腹に何かが絡まった。

 驚いて空気をすべて吐き出してしまう。

 完全にパニックになるよりも前に、しかしマオの顔は水面に浮上した。

 むせ込んでいるうちに、岸がマオを迎えに来た。

 いや、正しくは岸まで連れて行かれたのだ。

 顔面から倒れ込んだ先のむわっと鼻を突く草いきれが今は嬉しい。草を抱き込むようにして体から力を抜いていく。

 その背中を摩る手の持ち主は。

「つゆき、さま?」

 振り返った先にあった花貌の破壊力ときたら。

 水のベールに守られた透明感のある肌に乗っているのは、同じく水をたたえた色素の薄い瞳、シャープな鼻筋に添えられた華奢な小鼻、花びらで染め蜜を塗りあげた薄い唇。Tシャツを身に着けていてもなお浮世離れした美しさだ。マオは頬が火照るのを自覚した。

「靴を拾ってくる」

 礼を述べる暇もなく、ウンディーネはそう素っ気なく言い置き、また水中に戻ってしまう。潜る一瞬、下半身にまとうウロコが水晶のように太陽を反射するのが見えた。

「マオ先輩」

「先輩!?」

 確かにマオは鬼久川にとっての先輩で、だが初めての呼称だったので驚いた。過剰な反応をしてしまったのは、ウンディーネに見惚れていた事実に気付かれたくなかったのもある。

 じゃぶじゃぶ水音を立て池から上がった鬼久川は、自身の体から引きはがすようにシャツを脱ぎ、マオの下半身にかけた。

 マオははっとしてかけられたシャツをめくる。

 ほぼ足の付け根までずり上がったスカートと、伝線したストッキングと、うっすら透けるショーツとそれぞれ目がった。

 シャツを戻した。

「……すみません」

 そう言って鬼久川は困り顔でそっぽを向いている。

 恥ずかしいのはこっちだ。マオがモグラもかくやの動きで地面に穴を掘っていると、ウンディーネが戻ってきた。

 ジャケットと靴を持っている。ありがたく受け取りジャケットをすぐに羽織った。ちなみに上半身もブラウスの下のタンクトップが透けていたが、色が黒だったおかげでさらに下のブラジャーは守られた。

 最低限の身なりを整え、聖女スマイルを浮かべる。パンツまで晒していまさら聖女のありがたみも無いんじゃないかとか考えてはいけない。これでも頑張ってお仕事をしているのだ。

露木(つゆき)さまですね、私は聖サンクス教会の聖女マオです。こちらは騎士キクガワです。先ほどは危ないところを助けていただき感謝します。そのうえでこのようなお願いをすることを大変心苦しく思いますが、あなたには浄化の祈りを受けてもらわなければなりません……ということで騎士キクガワ」

 しっしと手を振る。祈るのをまた阻まれたらかなわない。

「夫に言われてきたんだね。それでぼくは、瘴気に侵されているように見える?」

 白魚の手を差し出され、戸惑いつつその手を取る。

「いいえ。しかし……」

「夫は何て?」

 逃げる気配はなく、正直に話すことにした。

「……あなたが不倫して戻ってこないと」

「おかしいのはあの人だよ」

 露木は、そのかんばせを悲しげに歪めた。

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