6.お前かーっ
結局、徹夜仕事になってしまった。
どろどろの作業着を脱いでビニール袋に詰め込み、社用車のトランクルームへ。スニーカーも同じように。帰社後の車内掃除は出来る限り簡単に済ませたい。
運転は鬼久川がするというので、マオは悩んだが任せることにした。出発前とまるで表情に変わりがなく、体力気力が残り二割程度の自分が運転するよりよほど安全に思えたからだ。
それでも当然、眠るつもりはなかった。なかったのだが、信号もほとんどなく、対向車もいない。一定間隔の振動を伝えるシートがゆりかごとなり、気づいた時には教会支部最寄りのコンビニの駐車場だった。
なぜコンビニかと言えば、朦朧としながらどこかのタイミングで朝ごはんを買いたいと口走ったためだろう。
よだれは――、良かったぁ濡れてない!
後輩の前で爆睡をかました羞恥により覚醒は早かった。鬼久川からは何のリアクションもなかったので気にしないことにする。
コンビニでは朝食用にミックスサンド、お茶のペットボトルを購入した。あとおにぎり二個くらい腹に入るが、報告書を一枚提出したら帰って寝るだけだ。おデブは体に悪いわよと内なる天使さまが囁く。
鬼久川はといえば、唐揚げ弁当、生姜焼き弁当、味噌汁、コーヒーを買っていた。燃費で苦労していそうだ。
警備員以外はまだ誰もいない事務所に戻って、自席でパソコンを開きつつサンドイッチをかじる。行儀が悪いが早く終わらせてシャワーを浴びたい。
報告書は聖女と騎士それぞれに所定の様式があるものの項目に大して差はない。
依頼主のプロフィール、依頼内容、原因と処置、結果、その他報告事項。経費は別紙参照。
聖女、騎士、それぞれの立場から報告を行う。
さて、仕上げる前に相棒へ確認しなければならない。タマゴサンドを置き、お茶を一口飲む。
「鬼久川さん、ちょっといいですか」
「はい」
鬼久川のデスクはマオと背中合わせに配置されている。後ろに椅子を回すと、相手も向き直る。あれだけ買っていたのに、まだデスク上の弁当は手つかずだった。
「鬼久川さんがノーム兄弟にしたことについて、報告書に上げようかちょっと迷っています」
少し首を傾げ、鬼久川は口を開く。
「銃による牽制は、騎士にふさわしい振る舞いではなかったでしょうか」
ニンフに銃を突きつけたことか。精気を吸われそうになったのなら仕方ない。そうではなく。
「ジャグリングはないでしょう」
「……ああ!」
そっちか! みたいな顔をするな。
「やりすぎです」
「申し訳ありませんでした。あの時は少し、瘴気に腹が立っていたのかもしれません」
お辞儀が綺麗なことで。こちらもお返しする。
「いえ、助けていただきありがとうございました。でも彼らだって被害者ですからね」
「被害者」
「魔王の瘴気でおかしくなっちゃっただけですから。あの兄弟だって、私たちが突くまで、ナス以外への加害も無かったようですし」
視覚的には有害だったけども。
ああそうだ、ナスどうしよう。休憩室の冷蔵庫に「ご自由にお取りください」と書いて置いておいてもタッパーは手に取りづらいだろう。ゾウさんみはもう無いし、味だってとてもおいしいのだけど。一人二人、気にしなさそうな同僚にこっそり配って、あとはやっぱり私たちで分けるしかないか。
「つまり、聖女マオは、裁かれるべきは魔王とおっしゃるのですね」
「それはそうでしょう」
当たり前すぎて、尋ねられるのは初めてかもしれない。
「私も同意見です」
あらゆる生き物が「魔物」へと変貌するのは瘴気のせいだ。瘴気の発生機序には謎が多く、例えば発生しそうな「穴」を探り当て事前にふさぐことはできない。
おまけに、よほど高濃度でもない限り、一般人には五感で捉えることができない。目にも見えぬ、手にも掴めぬ「瘴気」を疎むより、その瘴気を発生させる源が「魔王」という人格ある存在であれば、瘴気でなく魔王に処罰感情を向けるのは自然なことだとマオは考える。
ただし、その魔王は正体不明なのだが。
「今回は組んで初回ですし、ジャグリングについてはお互いに書かないでおきましょう」
「分かりました」
椅子をくるりと戻し、互いに報告書作成業務に戻る。
さあ次は自分の番だ。無難な箇所から埋めつつ、マオは内心で頭を抱える。
――祈りがうまく届かないなんて。
リモートでのお祈りは問題なく神様に届いていた。長いこと内勤で、現場での仕事は久しぶりだったが、以前いた現場でもあんな風にむらっけのある不調は経験したことがない。
たしかに体調が悪かったり、精神的に不安定だったりすると失敗はある。だが、それに今回はあてはまらない。少なくとも自覚している分には。
あるいは、瘴気が非常に濃いケース。聖女一人で対処できない場合は、複数人で対応する。しかし、瘴度の数値は想定を上回らなかった。
やっぱり私自身の問題? 正直に書けば支部長に呼び出されて用無し認定されるかもしれない。椎葉のせいでコールセンターには戻れないので、次に別部署に飛ばされればもう聖女としては働けないかも。
ジャグリングを書かない代わりに私の失態も書かないでくれる? 鬼久川にそう言い出せたら。自分のプライドが憎い。
ツナサンドを手に取る。ここのコンビニのサンドイッチは、パンがしっとりしていて好きだ。仕事を終えた解放感でゆっくり食べたかった。
神経が図太いのか、問題が横たわったままでも腹が満ちれば完徹の脳に睡魔がやってきた。
「聖女マオ」
「……あふ、はい」
やっぱりコーヒー買って来ればよかったなあ。
「魔王なんです」
「何がー?」
眠気のせいで応対が雑な自覚はある。相手の顔すら見ていないのは、キーボードを叩いていないと気絶しそうだからだ。
「私が」
「……ああ、そういう冗談も言うんですね。さっきも思ったんですけど、周りから天然とか言われません?」
「いいえ。近ごろはまったく」
「子どものころは言われてたんだ」
「コーヒー、いかがですか」
「うわー助かりますどうも、実は眠すぎて幻聴が聞こえてくるんですよね、魔王とかって」
椅子をくるりと半回転、聖女スマイルで缶コーヒーを受け取り、さらに半回転。
「お疲れのところ失礼しました。この件は後日改めます」
ぷしゅっとキャップをひねり、中身を三口飲んだ。そして半回転。
鬼久川はまだこちらに体を向けていた。
「たしか魔王って角生えてるんですよね?」
「はい。左右の側頭部に一本ずつ」
「えっ収納式? 着脱式?」
「いいえ、見えないようにしているだけでここにあります。さすがに目立つので」
「へえ」
「視覚情報を歪ませるのが得意な部下がいるんです」
「さらっと怖いこと言いますね。しかも部下。新米騎士なのに?」
「触りますか?」
首を傾け、自身のこめかみのあたりを指さしている。
「うっ」
めまいがした。視覚上では何も捉えていないのに、手にはつるつるとした感覚。指は回らないが、確かに何かを掴んでいる。頭皮から始まり、湾曲しながら天へ伸びているらしい。二十センチは続いているだろうか。だんだんと細く尖って終点へ。
手探りした形からイメージするに、噂どおり牛の角に似ているかもしれない。
手を離すとめまいは治まった。深呼吸をする。
「尻尾もあるんですか」
「あります。さわりますか」
触る代わりに胸倉をつかんで叫んだ。
「裁かれるべきはお前かーっ!」
動揺している自覚はある。
揺さぶっていた胸倉を放し、じりじりと後ずさる。デスクに阻まれた。
どうしよう、諸悪の根源がいまここに? 祈りを唱えたら魔王も浄化できる? 私一人の力でそんなの絶対無理。始業までまだ時間もある。警備へ連絡を。果たして信じてくれる?
「危害を加えるつもりはありません」
鬼久川は相変わらず冷静な表情で、ついでにハンズアップなんかして見せてくる。
「仮にそうだとして私は魔物になりたくない」
「あなたは大丈夫でしょう。聖女ですから」
「説得力が皆無!」
「なぜ私が教会にいると思いますか?」
「なぜって……なぜ?」
教会なんて、魔王にとってみれば敵の本拠地じゃないか。
鬼久川は冗談みたいな台詞を生真面目な顔でのたまった。
「私は、魔王をやめたくてここにいるんです」