2.もしもし勇者です
自席の内線が鳴ったのは、コーヒーのドリップパックをデスクの引き出しから取り出そうとしたときだった。
「はい、聖女マオです」
『お疲れ様です。聖女カトウです。外線にお電話入ってます。椎葉さんという方から。用件は名乗れば分かると言われて、すみません、訊けませんでした。お繋ぎしてもいいでしょうか?』
「……シイバァ……?」
『やっぱり折り返してもらいますね……?』
うっかり警戒を解いていたタイミングで登場しくさったその名前に、ついドスを利かせてしまった。顔にも出てしまっていたようで、デスクをいくつか挟んだ向こうでヘッドセットを着ける後輩聖女カトウがぷるぷる震えている。
「すみません大丈夫です。回してください」
『あの、私が用件を訊きましょうか?』
「いえ、私が対応します。本当にごめんなさい」
それじゃあ……、と聖女カトウが了承し、マオは操作の数秒間を待つ。
ざわざわと市街地の喧噪が耳に入ってきて、相手と繋がったのが分かったが、こちらから話しかける気は起きない。
『あ、もしもし? こちら勇者です』
この声。反射的に胃がむかむかしてくる。
『あれ、繋がってるよね? 聖女マオ~? マオちゃ~ん?』
「……はい」
あぶない、物にあたるところだった。努めて静かに引き出しを閉め、ドリップパックのパッケージを破る。
もろもろを察した隣席の聖女が、手振りで合図を送ってくる。頭を下げ、マグを預けた。
『この前の件なんだけど』
「どちらの件でしょうか」
『ほら、マオちゃんからお願いされた件だって』
「恐れ入りますが記憶にありません」
『マオは忙しいと忘れっぽくなるからなあ。海蜘蛛事件って言えば覚えてるだろ? その顛末を共有しとこうと思ってさ』
海蜘蛛事件。
港に停泊中の小型船舶に海蜘蛛が棲みついてしまい、船内外を粘着性の糸に絡めとられ出航できないという相談だった。
コールセンターに入電があり、確かにマオが応対した。
出張による浄化を希望されたので、港を担当する第一支部の聖女に要請をかけた。断じて椎葉になど要請していない。
ままあるところが最悪だが、この椎葉という男は、己の興味関心で他人の仕事を横取りすることがあった。とくに同支部に所属している聖女たちは、その被害に遭いやすい。また聞き耳を立てていたのかなどと指摘するのも面倒だった。
「現場からコールセンターへの口頭でのフィードバックは義務ではないので結構です。報告書のファイルを所定の場所に保存いただければ後日勝手に見ますので」
『ほら見るんじゃん。気持ちはわかるぜ、自分の勇者がどんな活躍をしたか気になるんだろ? どこか怪我してないかって気が気じゃないんだろ? だから俺が直接教えてあげるって。時間空いたからさ、今から本社までいくわ。会議室確保しといてくれるか?』
「あいにく会議室は満室なので、いますぐ、この電話でお願いします」
『欲しがるねえ~』
「一生ホイホイに絡まってろ」
『ん、ホイホイって言ったか? 何だよアレでも出た?』
「はい、なかなかしぶとくて。そんなことより早く報告お願いします」
同僚がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。チョコまで恵んでくれたため、なんとかマオの癇癪玉が破裂せずに済んでいる。
『いやあ大変だったのよ、中も外もクモの巣だらけ。そうそう、まさにありゃ人間ホイホイだな。俺たちゃGかよって』
自覚があったようでなによりだ。
『浄化の祈りの前に掃除手伝いましょうって聖女が、あ、俺の聖女はマオちゃんだけな? だからまぁ暫定的な俺の聖女な? あいつが業務外のこと言い出して、仕方ねえだったら燃やそうぜっつった俺のナイスアイディアをさ、何考えてるんですかとか激おこで詰めてきて、結局俺はその後四時間掃いて拭いて、ガチの四時間だぜ?』
ああその聖女のなんと可哀そうなことか。異動願いが無事受理されることをコールセンターより祈っています。
「ありがとうございました。よくわかりました」
『いや、まだ続きがあるんだって』
「ではメールでお願いします」
『だってチャット送っても見てくれないじゃん、マオちゃん』
「すみません、パソコン操作に不慣れで。でもメールは見ますので」
『えー、じゃあお返事頼むぜ? 届いたか不安で電話しちゃうからな?』
「わかりました」
『で、明日のランチなんだけど、俺迎えに』
「すいません着信入りました失礼します」
不通音が幻聴でないことを五秒間しっかり確かめ、ヘッドセットを外して頭を抱える。さらに三十秒耐えたあと、隣の聖女にお礼を言った。
「コーヒーとチョコありがとうございました」
「いえいえお疲れ様。やつれてるよ」
「帰りたい……」
「眞尾さんっ、すみませんわたし知らなくて……!」
タイミングを見計らっていたのか、椎葉の電話を回した後輩聖女の加藤がすっ飛んできた。
「気にしないでください。こちらこそ、入ったばっかりの加藤さんに変な気を遣わせてしまってすみません」
「外線からかけてくるところが悪質よね」と隣の聖女。
「あれが勇者シーバですね。覚えました。今度かかってきても絶対に回しませんから。わたしが相手します」
「勇者なんて言わなくていいですよ。それに下手に相手すると粘着されますから」
「実体験」
隣の聖女が自らの胸をさす。
「うわーキモ」
加藤も容赦がない。
「で、相手にされないと眞尾さんに戻ってきちゃうんだよね」
「なんでそんなことに?」
思い当たる節がないわけではない。
「昔、外回りでコンビを組んでいた時期があって、あの男のなかであの頃が美化されまくってるんですよ……」
椎葉が早速メールを送りつけてきた。
海蜘蛛事件の報告書は確かに添付されていたが、内容は自賛のための無駄な修飾語ばかりで読みにくいったらなかった。
メール本文には人気レストランのURLが貼られており、明日の十二時に迎えに来ると書いてある。
マオのいるコールセンターと椎葉のいる第一支部は同市内にあり、非常に残念なことに徒歩圏内だ。昼休憩の突撃は、現実味のある危機感としてそこにあった。
寒気がしてマオは自らを抱きしめる。
昼休憩は交代制なので、十二時前に先んじて外に出ておくしかない。
返信待ってるねと追加のメールが届いたので、歯をガチガチ鳴らしながら上司をCCに追加し「受領しました」とだけ本文に載せて返した。
後日、聖女ヒガシダからの報告が上がってきた。例の「裏アカ系年下サブカルワンコ」の件だ。
自宅周辺に瘴気が発生しており、その瘴気にあてられた夫が「魔物」になっていたのだという。
祈りの最中、動転した妻が「もう少し夫のワンコみを感じていたい」と乱入するアクシデントはあったものの、浄化は無事完了したとのことだ。
瘴気、あるいは魔物に影響を受けることを俗に「魔が差す」なんて言ったりもする。
魔が差すとき、その生物は何かしらの屈折した欲求を抱え込み、扱いあぐね、ストレスを感じていることが多い。瘴気に影響を受ける者とそうでない者との違いは主にそこにある。
夫が真逆のキャラクターになって妻を誘惑したのは――。
浄化が完了すれば、あとは夫婦間の問題だ。そこにはどんな聖女の出る幕もない。