第九十二話「風纏う双鞭が猛虎の牙を逸らし、静かなる掌底が獣を伏す」 Twin Whips Divert Tiger’s Fang, Silent Palm Floors Beast
リング状に組まれた闘技場。
焼けた赤土が陽を吸い込み、靴底を焦がす。
その中心へ、ルイは音もなく歩を進めた。
息を吐くたびに、空気が澄んでいく。
対峙するのは、グランハルトの猛虎――ギュレ・ファング。
獣人族の中でも異質の存在。
鋼を纏うような肉体は、しなやかでいて重く、全身が“戦い”という概念そのものだった。
黄金の双眼が、じっとルイを射抜く。
言葉は交わされない。ただ、沈黙に火が灯る。
そして。
つま先が、わずかに沈んだ。
その瞬間、赤土が爆ぜる。
ギュレの肉体が風を裂き、地を蹴った。
爆発的な初動。疾風の如き突進。
ルイの視界に、拳が飛び込んだ。
鉄塊にも似た質量が、顔面を狙って一直線。
速い――が、ルイはすでに動いている。
重心を落とさず、足を滑らせ、円を描くように躱す。
避けるのではない。流す。
拳の圧力を、身体の回転で“受け流す”。
虎の懐へ、風のように潜り込む。
そして、鋭く――掌底。
パァンッ!
乾いた音が空気を震わせ、ギュレの背中が一瞬だけ撓る。
だが、退かない。
踏みとどまるその肉体が、今度は膝を軸に回転した。
下段蹴り。
その足が地を叩くだけで、砂が爆ぜる。
ルイは跳ねた。
体を巻き込み、背後へ空中転回。
着地と同時に、鞭を抜く。
二本の鞭――双鞭術。
右手の鞭が斜め上へ閃く。
シュバッ!
音速の閃光。
ギュレは迷わず、それを素手で掴む。
指が鞭を挟む瞬間――
「甘い」
ルイの体がしなる。
左手の鞭が地を滑り、地面すれすれの軌道で旋回。
ギュレの脇腹へ、バチィンッ!
雷のような音が爆ぜる。
筋肉を割って入った鞭の一撃に、ギュレの体がわずかに傾いた。
その隙を、ルイは逃さない。
鞭を引き戻しながら前転。
ギュレの足下へ滑り込み、二本の鞭を絡ませるように足へ巻きつけ――引いた。
バランスが崩れる。
だが虎は倒れない。
体勢を崩したまま、爪を横殴りに振り抜く。
ヒュッ――ガギッ!
ルイが咄嗟に鞭の柄で受ける。
骨に響く衝撃。
だが、軌道は逸らした。
その瞬間。
ギュレの肉体が変質する。
背を丸め、四肢を地に這わせた――獣の姿。
「来る」
地が鳴る。
次の瞬間、音を置き去りにして――
ギュレの牙が迫った。
風を裂く突進。
殺意が形になったような一撃。
ルイは後退しない。
左手を静かに背に回し、弓を引き抜く。
構えることも、矢を番えることもしない。
ただ――引いた。
矢ではない。風だ。
弓を引くという動作が、全身の連動となって――
放たれた“気”が、風となって飛ぶ。
ドンッ――!
風圧が虎の眉間を掠めた。
たった一瞬、動きが鈍る。
そこへ――踏み込む。
ゼロ距離。
鞭が渦を巻くように絡みつく。
封じるのではない。
動きを“逸らす”。
力を“脱線”させる。
ギュレの重心が一瞬だけ浮いた。
そこへ――
ルイの体がわずかに沈み、静かに左足を踏み込む。
腰が回り、肩が流れ、背中を通じて右腕が“振る”のではなく“打ち出される”。
全身を一本の鞭のように連動させた動き。
掌がギュレの鳩尾に、極めて短い軌道で突き入れられる。
ドン――!
瞬間、空気が圧縮され、次いで爆ぜた。
目に見えぬ“衝”が体内に伝わり、ギュレの大柄な体が、地を離れる。
その肉体が宙に浮いたまま、動けずにいる。
ルイはもう一歩、踏み込む。
足裏の力を床に“刺し”、腰を切ると同時に掌を撃ち出す。
肩の力は抜け、筋肉の無駄を削ぎ落とした動き。
内から弾けるような一撃。
二撃目の掌底が、同じく鳩尾を撃ち抜いた。
バシュッ――!
風鳴りとともに、ギュレの身体が吹き飛ぶ。
石を砕きながら後方へ滑るように飛ばされ、大地に叩きつけられる。
荒い息。
力なく横たわるその肉体が、なおも立ち上がろうと震える――が。
その身体に、光が灯った。
青白い輪郭を描くように、薄い光がギュレを包む。
抵抗の意思が、静かに溶けていく。
その瞳に、怒りも誇りもない。ただ、納得と安堵がある。
そして――
淡く輝き、ルイとギュレの間に結ばれる絆。
テイム、完了。
その瞬間、観客席からどよめきが走った。
猛虎を倒し、屈服させ、従わせた。
力でなく、技でなく、その全てで。
ルイは弓を背に収め、ひとつ深く息を吐いた。
戦いは、終わった。
いや、ひとつの縁が――始まったのだった。