第七十五話「無形の神祖」 The Formless Divine Ancestor
試合開始の合図が鳴った。
最初に動いたのは、相手だった。
全身に魔術刻印を浮かべた若き召喚士。手にした短杖を掲げ、虚空に呪文を紡ぐ。
「我が契約に応じ、混沌の門より出でよ――獣王ザルバザン!」
地鳴りが轟いた。虚空が割れ、真紅の巨大な獅子――それも六肢を持ち、三つの頭を持つ幻獣級の召喚体が現れた。
同時に、召喚士本人も空間操作の結界内へと消え、絶対距離を確保する。
完全に召喚士スタイルの定石。
だが。
芦屋神祖は、一歩も動かない。
長衣の裾が風に揺れる。
その背には、ヌメるような質感と透明感を持つ光のオーラ。マザースライムとの同化融合により、彼の身体はすでに“物理を超えた干渉体”となっている。
「太極、とは陰と陽の循環。だが……」
静かに、左足を半歩引き、重心を落とす。
その姿勢は「受け」の型――太極拳の構えに見える。
が。
「私は今、円を断つ。」
――地が反転する。
敵の召喚獣が大地を踏み砕き、咆哮と共に突進する。
だがその足は、芦屋神祖に届かない。
“重さ”が消えている。
芦屋の周囲、半径十メートルの空間にだけ、“質量”という概念が存在しない。
踏み込めば、足が滑る。
動けば、力が抜ける。
打てば、拳が宙を泳ぐ。
「天を掴めぬ者に、地を制する資格はない。」
左手をゆるりと円を描くように回す。
召喚獣の首が、その動きに合わせて逆に振れた。
右手が浮き上がる。拳ではない。掌打。
太極拳の型「雲手」から「攬雀尾」へと自然に移行する――と見せかけて、掌が次元の裂け目に差し込まれた。
次の瞬間、召喚獣の三つの首のうち、ひとつが爆ぜた。
召喚士が動揺し、結界を維持しようと詠唱を走らせる。
「無駄だ」
芦屋神祖の後ろに、マザースライムの残滓が浮かぶ。
その一部が分離して、光の粘液となって宙を漂い、無音で召喚士の結界に染み入った。
侵蝕。
召喚士の詠唱が、逆再生されるように巻き戻り、キャンセルされる。
召喚獣が吠え、炎を吐く。地を裂く。空を割る。
あらゆる攻撃が、芦屋の身体を直撃する。
しかし。
すべてが、彼の掌で吸収された。
“反応した”のではない。彼が“そう在る”と決めた空間が、炎も雷も通さなかった。
芦屋が掌を広げ、言葉を紡ぐ。
「――式鬼、応変せよ。」
その声に応じ、地から白い人型の式鬼たちがずらりと出現する。
50体。いや、100体を超えている。
召喚士が再度、召喚術を発動する。
巨大な鎧騎士、飛行型竜種、重魔導具兵器、影の槍兵団――次々と召喚しては制御する。
だが、一体として芦屋に届かない。
式鬼たちが、召喚された瞬間を読み取って召喚座標そのものを塗り替え、召喚獣たちを別次元にずらす。
あるいは、出現と同時に時間の速度を遅延させて数十秒先送りにする。
そして芦屋本人は、悠然と歩み寄る。
その手には、一枚の“札”。
「陰陽・破結呪。」
それは、召喚士たちが決して使わない“破戒”の札。
召喚師の基盤たる「契約領域」を根本から削除する呪文だった。
芦屋が札を放る。
虚空に一閃の光。
すべての召喚体が一斉に崩壊し、召喚士の周囲の術式結界が**“無”へと溶け落ちる。**
召喚士が、膝をついた。
芦屋は静かに構えを解いた。
「あなたは強かった。だが、術に依存しすぎた。」
背後に、マザースライムの微笑が浮かぶ。
どこか――懐かしく、神々しい微笑だった。
試合終了の合図が鳴る。
芦屋神祖――勝利。
その場にいた誰もが知った。
この男は、陰陽師でも、スライムでもない。
“ただの芦屋”ではない。
彼は、すべてを調和し、制御し、創造する者。神祖とは――そういう存在なのだ。