第七十四話「九つの尾、千の呪」 Nine Tails, A Thousand Curses
闘技場に降り立つ、その姿に観客席が一瞬、ざわめいた。
九尾晴明。
黒の衣を纏い、その背には九本の尾がゆらりと揺れていた。
それは風による揺れではない。意志だ。
それぞれの尾が異なる性格を持つように、独立した生体のように動いている。
その顔は常に静か。だが、その眼は何千年も未来を見通しているような深さを持っていた。
彼が掲げるは、一枚の符。
「……式は整った」
それだけを呟くと、地面が光を帯びた。陣が描かれる。
しかも一つではない。前方、上空、地中。三重四層の多次元結界式。
相手は雷術を操る剣士。
速度と爆発的な一撃を武器とする技巧派――だが、あまりに相手が悪い。
試合開始の号砲が鳴った。
剣士が一歩を踏み出した瞬間、地が裂けた。
否、**“裂けたように錯覚させる幻視”**を結界が演出し、その隙に四重の火符が虚空に浮かぶ。
次の瞬間、空間が逆転した。
視界が反転し、剣士の背後に晴明の姿が現れる。
「……水、金、火、土、木。五行、反転解」
五色の気流が絡み合い、雷を風に変え、風を土に変え、土を火に変え、火を水に変え、水を無に変えた。
剣士の雷撃が、空を掠めるただの風となって散っていく。
晴明は、動かない。
ただ九つの尾が、戦っている。
一尾が氷を撒き、二尾が雷を遮断し、三尾が分身を繰り出し、四尾が時間をズラし、五尾が因果をねじ曲げ、六尾が敵の武器を紙に変え、七尾が地を割り、八尾が火の雨を降らせ、九尾が敵そのものを“過去に戻そう”とする。
敵は――耐えている。だが、理解が追いついていない。
戦っているはずなのに、何と戦っているのか分からない。
剣を振るっているはずなのに、剣が風になる。
目の前の男に斬りかかっているはずなのに、位置が逆に回転する。
晴明は一度、唇を開いた。
「……天元無尽、万象帰一。」
地面から式神が現れる。
牛頭馬頭、白澤、鎌鼬、百々目鬼、夜叉。
すべて過去の戦で一度倒され、封印し直したはずの伝説級物怪たち。
その存在が、何故かこの場に一時的な“召喚式”として復元されている。
晴明が指を鳴らすと、五体の物怪が敵へと襲い掛かった。
剣士はそれを切り裂こうとするが、斬っても斬っても**“切られたのは別の式”**。
切られたのは“幻”。
本体は、いま空中で星座のように組まれた陣に位置していた。
──そこからは、言語すら失われる時間だった。
斬った瞬間に三日前に戻される。
跳んだつもりが、逆に地中に埋まっている。
構えたはずの剣が、紙になって燃えている。
走る足元が、鏡面になって虚無を映す。
敵の攻撃が、自分の背後から出てくる。
過去の自分と、未来の自分が同時に反撃してくる。
言葉にすれば、たった数秒。
だが剣士にとっては三日三晩の迷宮を彷徨う悪夢だった。
最後に、九尾の尾がすべて一点に収束し、敵の胸元に光を突き刺す。
「陰陽転。封滅之印。」
その瞬間、敵は闘技場の中心で動きを止めた。
白い煙が身体から抜け、全身が一瞬で蒼白に染まる。
そのまま、ゆっくりと意識を失い、膝をついた。
判定の光が、天から降りる。
九尾晴明――勝利。
だが観客は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
何が起きたのか、誰一人、理解していなかった。