第百六十七話「嵐の兆し」Omen of the Storm
翠風の迷宮――第四十四階層。
訓練を終えた広場には再び静けさが戻っていた。
だがそれは、あくまで“嵐の前の静寂”に過ぎない。
床下、壁面、空間の隙間。
あらゆる方向から、じわじわと“気配”が滲み出してくる。
それはダンジョンの“法則”が作動し始めた証。
この階層はゾロ目――「無限湧き」の発動時間帯に突入しようとしていた。
あと15分。
四方から、際限なくモンスターが湧き出す。
しかも、“神界”の勢力が、同じこのタイミングで侵攻を始める兆しを見せていた。
「……そろそろやな」
アシュラが低く呟く。
迷宮の奥深く――底部から脈打つ魔力。
それに呼応するように、空気が微かに震え始めていた。
アーサーが聖剣を抜く。
澄んだ音が静寂を切り裂くように鳴り響く。
「……来るか。ならば迎え撃とう」
その声は静かに、だが力強く響いた。
彼の視線は、すでに目に見えぬ“敵”を捉えていた。
ランスは目を閉じ、精霊たちのささやきに耳を傾ける。
この迷宮に棲むモンスターは、単なる獣ではない。
**精霊に近い知性**を宿し、意思を持つ存在。
「……話が通じるなら、共に戦えるかもしれません」
彼は柔らかく微笑んだ。
敵の敵は味方になる。そうなれば戦況は大きく動く。
「……や、やってみるしかねぇ……」
ナナシが前髪をかき上げ、小さく笑った。
その表情には、不安と高揚が混じっていた。
四人は中心部へ向かって歩き出す。
空気の密度が増していく。
地面からの振動は徐々に強まり、階層の下――第四十五、第四十六層で何かが蠢いているのがわかる。
**神界との境界が――開かれようとしている。**
このままでは、手を打つ前に全てを呑まれる。
アシュラはふぅっと、長く煙を吐くように息を吐いた。
「勝ち筋はひとつきりや……**乱戦**や。わやくちゃにして、全部ぶっ潰す」
“無限湧き”。
それは脅威であると同時に、敵にとっても制御不能な“混沌”をもたらす。
ならば、その混沌を逆手に取る。
モンスターすら味方につけりゃ、戦場はひっくり返せる。
アシュラは足を止め、仲間を振り返った。
「……決まりやな」
その目に宿るのは、死を恐れぬ者特有の、冷たく燃える焔。
「……頼みがあるわ」
アシュラの声は、どこか哀愁を帯びていた。
「ランス。アーサー。……ルイたちに、この事伝えたれ。オレはここで一丁踏ん張る」
アーサーは眉をひそめた。
「貴殿、一人でどうにかするつもりか?」
アシュラは肩をすくめて笑った。
「地獄に神のひとりふたり、道連れにすりゃ御の字やろ。……ルイに会うのは、その後や」
ランスの目が揺れる。
だがやがて、真剣な決意をその瞳に宿らせた。
「……わかりました。必ず、伝えます」
アーサーはうなずき、聖剣を構え直す。
「ならば我らが成すべきは明白。貴殿の意志、必ずルイへと届けよう」
そのとき、ナナシがゆっくりと口を開いた。
「……お、俺も残る。……こっちの方が、たぶん、面白ぇ」
アシュラは口角を上げる。
「ほんなら、好きに暴れたらええわ。地獄の舞台、始まりや」
その瞬間、足元が微かに震えた。
“最初の波”が――来る。
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一方、地上――。
迷宮の補給拠点。
ルイたちは、ちょうどそこへ到着したところだった。
数名のエルフ戦士たちが警戒態勢を維持し、
“卵”となった真祖とアラクネの融合体が、厳重に保管されている。
だがルイたちは、まだこの激動に気づいていない。
――けれど、いずれ否応なく巻き込まれる。
**乱戦の幕開けは――すぐそこにある。**
そしてそれは、単なる戦闘では終わらない。
神界と冥界、精霊と妖精、秩序と混沌――
**全てが衝突する、“本物の戦争”の前触れだった。**




