第百六十三話「裁きの六腕」Sixfold Judgment
……静寂が広がっていた。
眼を開かずともわかる。空間そのものが、己の呼吸に応じて震えている。
皮膚を撫でる空気は薄く、まるでこの世の法則すら一枚向こうへ退いていくかのようだった。
(変わったな……いや、変わっちまったのか)
アシュラは、深く息を吸い込んだ。
肺に流れ込む気は、もはや酸素ではない。
それは、異能と異端と異質の混濁。神にも似た存在が吸う“位階の空気”。
肉体の中心――魔核の位置に何かが根を張っていた。
それは、六つの“異なる核”のようでありながら、確かに一つの存在にまとまっている。
(喰った魔石の中身……全部、俺の一部になっちまった)
記憶の奥底で、かすかに燃える光景がある。
獣のような魔物、異形の腕、凍てついた刃、黒炎の呪……
かつてなら見ただけで胃が軋んだであろう異能の塊どもが、いまや血肉と同じ温度で己の中にある。
――装備、展開。
意識を向けるだけで、身体が応える。
肉体から音もなく六本の腕が滑るように現れた。まるで最初からそこにあったかのように自然で、滑らかだった。
二本の腕が「獄炎羅刹」を握り、二本が「輪廻の契り」を纏い、
残る二本には「無常ノ装」の断片と「六道念珠」が脈動するように光を放つ。
鬼面「業炎の咆哮」は肩口に浮かび、薄く笑っているようですらあった。
ただの装備ではない。
それぞれが“生きている”。意思を持ち、相互に干渉し、六つの法則を形にしていた。
それはまるで――ひとつの“六道そのもの”がこの身に宿っているかのよう。
(こりゃもう……神すら、通過点だな)
万能感。
そんな言葉では到底言い表せない。
重力に従わない軽さ、時間の流れが撓むような感覚、
存在するだけで空間を圧迫する圧倒的な“格”。
歩くだけで足元が軋み、視線を向けただけで壁がひび割れる。
異能の暴走ではない。これは“器”の力だ。
この六道アシュラの肉体そのものが、既に“現世の器”としての限界を超えている。
(……ルイ)
ふと、ひとつの名が胸に浮かんだ。
ルイ――主。
かつての主ではない。いまも、そしてこれからも、自分を導く者。
自分はあの男の“式神”である。
そう造られたのではない。そう在りたいと、心から望んだ。
神に届いたこの身の底で、未だに脈打つのは、ただ一つ。
「主のために強くあれ」という、獣よりも古い“式神の本能”。
(この姿を見たら、ルイは……笑ってくれるか?)
人間離れした少年の、まっすぐな目が浮かんだ。
弱きを庇い、強きに立ち向かい、敵でさえ救おうとする愚直な“化け物”。
アシュラは心の奥で、その姿に何度も救われてきた。
力を得たのは、復讐のためでも、自己満足のためでもない。
“主の役に立ちたい”。ただそれだけだった。
(……俺も、役に立てるよな?)
いまの自分は、ただの式神じゃない。
魔物でも、人間でも、神でもない。
「六道そのもの」を体現した、唯一の戦鬼。
あの少年が地平の果てに立つ時、最前線を切り開く矛となる存在。
この手は、もはや誰にも止められない。
(……使いこなすだけだ)
その先は戦場だ。
この六本の腕に宿る力は、まだすべてを見せてはいない。
獄炎の刃、輪廻の防御、怨念の鎧、咆哮の角、念珠の術式、鬼面の支配力――
それらをすべて、“己”として制御する。
(……ルイ。俺はもう、準備できてるぜ)
アシュラは静かに立ち上がった。
六本の腕が音もなく展開し、身体の周囲に流れる空気が震える。
歩くたびに地に刻まれる印――それはまるで、六道を導く印章のようだった。
その背に、地獄が笑っていた。




