第百六十一話「銀腕の契約」Silver Arm Pact
翠風の迷宮・第四十三階層。
壁をなぞるように吹き抜ける風が、どこか安らぎと緊張の両方を孕んでいるようだった。
ランスは魔法陣の前に静かに立ち、その場に膝をついた。
試練を超えたばかりの身体には、いまだ戦いの余韻が残っている。
切断された左腕の肩口がかすかにうずいたが、血は不思議なほどすでに止まっていた。
「……終わった」
ぽつりと漏れた言葉は、自分に言い聞かせるような呟きだった。
長い迷宮の歴史において、幾人もの挑戦者があの“風眼ノ間”で消えていったと聞く。
そして、彼は生きて戻った。そのことが何よりの答えだった。
深く息を吸い、呼気に意識を落とす。
微細な魔力の震えが空間を満たしていくのを感じた。
「……試練を終えし者よ」
空間が震え、薄い風の帳が立ちのぼる。
やがて風はひとつの輪を描き、再び彼女が姿を現す。
精霊。風の化身。《翠風》と呼ばれる領域の守護者にして、その本質たる存在。
以前と同じ、けれど確かに“何か”が違っていた。
その目には、はっきりとした評価と……敬意が宿っている。
「汝の歩み、妾は確かに見届けた。
断ち切られし腕、消えかけた意識……それでも剣を握り続けた心を、妾は認めよう」
淡い微笑とともに、精霊はそっと手を差し出す。
その手から漏れ出る風は、光となって彼の肩口に触れた。
「妾の名は、《アリエス・リーフ》。
風に生まれ、風を統べし精霊のひとつ。
今より汝と契りを交わす。……よいな?」
ランスはゆっくりと頷いた。
「応じよう。俺は、お前の力を借りる。だが、依存はしない。
共に戦う。対等に──それが、俺の信じる“契約”だ」
「ふふ、面白き男よの」
アリエスの瞳が細められた刹那、ランスの身体に風が突如として収束する。
肩口に触れた光が奔流となって渦を巻き、まるで新たな命が芽吹くかのように――
銀の光が、彼の肩から形を成してゆく。
それはただの義肢ではなかった。
風の魔力と精霊の魂が混ざり合い、構成された神秘の器官。
筋繊維の代わりに風が通り、骨の代わりに魔力が支柱をなしている。
やがて腕は完成し、静かに沈黙を保った。
「……銀の腕……か」
ランスはそれを見つめながら、ゆっくりと指を動かした。
違和感はない。いや、むしろ自然だ。まるで最初からそこに在ったかのように。
風が流れている。腕の中に。
そしてその風は、彼の意識に語りかけてくる。
それは、アリエスの意思だった。
(この腕は妾そのもの。汝が歩むとき、剣を振るうとき、妾もまたその中に在る)
彼は拳を軽く握った。
確かにそこに宿る気配。自分以外の魔力が、血と共に流れていた。
けれど、それは不快ではなかった。
「……なるほどな。ルイに再生魔法を頼もうと思っていたが」
銀の腕を肩まで軽く振り、くるりと回転させる。
「こっちの方が性能も良さそうだ。……いや、ずっと良い」
風の魔力が微かに腕を包み、彼の肌に反応する。
それはまるで、忠犬のように主の命令を待つ精霊の気配。
彼の呼吸に応じ、風は律動する。
ランスは口元に笑みを浮かべた。
「土産話ができたな……アイツらも、驚くだろう」
片腕を失って帰還する予定だった男が、神秘の銀腕を引き連れて戻る――
仲間たちの反応が、ありありと脳裏に浮かぶ。
けれど、今はそれも先の楽しみ。
「よし……再開するか。ダンジョンは、待ってはくれんからな」
彼は立ち上がり、背中の双剣をゆるく背負い直した。
風がひと吹き、彼の銀腕を撫でた。
その音は、まるで「ゆけ」と囁くようでもあった。
精霊と共にある剣士。
かつて“空の器”と自嘲した男は、今やひとつの完成に至りつつある。
彼の歩みが再び迷宮を進むとき、そこにあるのは試練ではない。
覚悟を証明する舞台だ。
――風よ、導け。
――銀腕よ、貫け。
ランスは前を向いた。
銀色の刃が、迷宮の深奥へと踏み込んでゆく。




