第百二十話 「決闘裁判」 Duel Decree
黒煙が天を裂いた瞬間、世界は変わった。
地鳴りと共に冥界門が開き、瘴気の海から巨大な黒き王座が浮上する。その中心、禍々しき死の王――ゼルグ=ヴァルダが腐食した王冠を戴き、玉座に沈み込むようにして座していた。骨が剥き出しの手には白銀の杖。その瞳窩の奥で、紫の光がゆらめいている。
「……王の帰還を歓迎せよ。余は死をもって統べる。」
声は低く、地の底から響くようだった。
その気配に即座に反応したルイは、迷わず一矢放った。
鋼糸を纏った霊銀の矢が空を裂き、ゼルグの胸元を正確に貫くはずだった。しかし――。
「──《一騎絶陣》、発動。」
ゼルグが呟いた瞬間、矢は音もなく空中で崩れた。まるで空間そのものに拒絶されたかのように。次の瞬間、世界が一変する。空間が歪み、空気が重くなり、霧が立ち込めて視界が制限される。
「これは……スキルか?」ルイが口をつぐむ。
周囲に立っていた仲間たちも思わず後退する。まるで本能がそれを強いたかのように。
ゼルグが口元を歪ませた。
「《一騎絶陣》──この領域内においては、一対一の決闘以外は一切の干渉を排除する。魔法、スキル、声援、全てが無意味だ。勝者が決まるまで外界は干渉できぬ。」
ナナシが歩み出る。まだ生まれて間もないというのに、その瞳には静かな決意が宿っていた。
「ぼくが行く。」
「ナナシ?」ルイが声をかけたが、彼は小さく頷くだけだった。
「力を振りかざすだけのやつには、負けたくない。」
ナナシが踏み込むと同時に、空間は完全に切り離された。戦場に選ばれたのは、王宮跡地の中心部。割れた大理石の床、天蓋の崩れた玉座。そのすべてが死の静寂を強調する。
ゼルグは座ったまま、右手を軽く動かす。すると地面から黒き霊鎖が沸き立ち、ナナシの足元に絡みつく。
「くっ……!」
ナナシは喧嘩屋らしい反射神経で飛び退き、鎖の束をかわす。だがその鎖はまるで生き物のように追いすがる。ナナシは咄嗟に跳び、空中でひねり、真上から着地と同時に拳を振り下ろす。
「おおおおおっ!!」
その拳はゼルグの顔面を狙った。だが、当たる寸前で不可視の障壁に弾かれる。肉体がしなるほどの衝撃を受けて、ナナシは数歩、後退した。
「未熟だな。」
ゼルグの周囲に、霊体の刃が浮かび上がる。剣、槍、鉤爪。どれも冥界で鍛えられた魔性の兵器。ゼルグが指を鳴らすと、刃が一斉にナナシを襲った。
「くっ……!」
ナナシはスウェーで刃を回避し、背中の龍尾で逆撃を試みる。が、ゼルグの体には届かない。刃の嵐が続く中、ナナシの肩が裂かれ、左足に深い傷が走る。
「がっ……!」
鮮血が飛び散り、彼の動きが鈍る。
「喧嘩とは、意地と覚悟だけで成るものではない。」
ゼルグの語り口は冷ややかだった。
ナナシは再び飛びかかるが、その動きは既に読まれていた。霊剣がその胸を貫き、ナナシの身体が地面に叩きつけられる。
周囲に見守る者たちの叫びは、霧の結界に遮断され、彼には届かない。
そして――ナナシの気配が、完全に沈んだ。
「さて……次は貴様か?」
ゼルグが視線を上げる。
「……ああ。」
霧の外縁から歩み出たのはルイ。柔らかな呼吸を整えつつ、彼は結界内へと踏み込む。
「この結界内では、どんな魔法も技も通じない……が、構わない。」
彼の構えは円。中国拳法の中心、太極を意識したもの。重心は低く、左右の肩と膝が対角で連動し、柔らかな螺旋の気流が周囲に走る。
「一手。」
ルイの掌が動いた。外側から内側へ円を描き、重ねるように内功を通す。ゼルグが防御姿勢を取った瞬間、その中心を突く。
「──発勁。」
一拍置いて、ゼルグの身体が爆ぜた。音もなく、内部から砕けたように、ゼルグの胸骨が崩れ、黒い霊核が空中に舞い上がる。
「これは……」
ゼルグが何かを言いかけるが、その言葉が終わる前に、霊核はルイの手によって砕かれ、粉となって消えた。
冥界門が崩れ落ち、空が晴れる。霧が消え、空間が繋がり、仲間たちの声が戻ってくる。
ルイは、倒れたナナシの傍らに膝をつき、その額に掌を添えた。
「大丈夫。次は勝てるよ。」
静かに、確かにそう告げた。




