第九十九話「月下霊譚 十尾が穿つ異界の門」 Moonlit Spirit Tale The Gate to the Otherworld Pierced by the Ten Tails
セーフティエリアの庭園は、風もなく、虫の音すらない。
まるでこの場所だけが時の流れから切り離されているかのようだった。
池の水面には、空に浮かぶ月の光と、その中心に立つ一つの影が映っている。
九尾晴明。
もはや「九尾」という名では収まりきらぬ存在となった彼は、かつての人の身を超え、式と魂、世界の境界をも越えた者となっていた。
百の式神、灯火の儀
庭園の中央で、晴明の周囲には百の式神が輪を描いている。
獣や鳥、蛇、霧、無名の形まで多種多様な姿。どれも未完成で、質量を持たず漂っていた。
しかし晴明は一つひとつに手をかけ、灯火へと変えていく。
彼が一歩歩むたびに式神たちは淡く発光し、煙のように宙に舞い上がった。
やがてそれぞれが小さな灯となり、宙に漂う。
晴明は右手で灯を掬い、左手の掌で転がしながら霊力を混ぜる。
「――汝、ここにて“識”となれ」
呪の言葉とともに百の灯火は一つの結晶へと収束した。
それは淡い蒼白の勾玉――儚さと膨大な霊的質量を同時に宿したものだった。
勾玉が額に宿った瞬間、晴明の背に新たな尾が揺れ始めた。
十本目の尾。
他の九尾とは異なり、色や形が常に変化し、光と影をまとい、霊視でも形を定められない。
まるでこの現実に完全には存在せず、別の位相に触れているかのようだった。
その尾はダンジョンの壁に深く刺さり、魔力を吸収している。
まさに世界の裂け目に触れ、次なる戦いへのエネルギーを取り込んでいた。
晴明は尾の正体を完全には理解していない。
だが確かなのは――その尾がこれから挑むダンジョンの構造に干渉していることだった。
その時、庭園の空間に微かな歪みが生まれた。
風も音もない静寂を破り、ただ“何かが現れた”という気配だけが広がる。
晴明は微笑みながら目を伏せた。
「……息子よ、来たな」
現れたのは一人の少年。
――今は「ルイ」の姿で歩む九尾の息子だった。
彼はルイの着ていた衣を纏っている。お下がりだが、サイズはぴったりだ。
少年は静かに晴明を見上げ、言った。
「今は『ポンタ』という名を頂いている」
晴明はその名を口にし、以降はこう呼んだ。
「良い名だな、ポンタ」
ルイは小さく頷き、父と呼ぶにはまだ遠い距離を感じながらも安心したように微笑んだ。
「十本目の尾……感じはしたが、見えはしなかった」
「見えなくていい。あれは“見るもの”ではない」
ポンタは数歩進み、晴明の背に揺れる尾をじっと見つめた。
「でも安心したよ。まだ、“ここ”にいる」
晴明はわずかに目を細めて答える。
「あたりまえだ。お前が来ると思って、ずっと待っていたのだからな」
「では次は?」
「“門”をくぐる。まだ名もなき異界の門だ」
「十本目の尾が指し示す先か」
「そうだ。尾はダンジョンの壁に刺さり魔力を吸収し、俺たちに道を示している。あれがある限り、踏み込める」
晴明は額の勾玉を指先で撫で、第三の眼を一瞬開いた。
淡い光が闇の奥深くを照らし出す。
「“あちら”がこちらを見ている。ならば俺たちも、目を逸らさず応えねばなるまい」




