第九十四話「奈落の匂い、死地を裂く光」 Scent of the Abyss, Light Splitting the Death Ground
血の臭いが染みついた空気の中、三つの影が転送陣の光から崩れ落ちた。ここは二十五階層のセーフゾーン。理論上は安全圏のはずだが、その異様な姿はすべてを物語っていた。
脚を引きずる獣人、肩を吊った魔族、そして血塗れのエルフの少女。彼らの瞳には恐怖ではなく、深い戦慄が宿っていた。まるで“奈落”そのものを見てきたかのような冷徹な眼差し。
「回復班!早く転送陣に──!」
詠唱が走るが、魔力の乱れが空間を歪ませ、治癒魔法は安定しない。
「いったい何が起こった!?」
苛立つ戦術官の問いに、少女は震える声で答えた。
「……罠だ。通常の罠じゃない。あれは……“フェロモントラップ”が起動した」
*回想:二十六階層・四刻前
最初の攻撃は、突然の奇襲だった。
壁が裂け、地面が割れ、巨大な蠍型モンスターが姿を現す。魔力を遮断し、毒針が飛び交う。防御壁は一瞬で崩れ、小隊は押し戻された。
しかし、戦術の立て直す間もなく、天井が砕け散り、緑の有機質が降り注ぐ。
それは罠だった。
粘着質の液体が地面を染めると、空気は一変した。
「この匂いは……獣の……いや、捕食の合図か?」
壁が震え、獣の咆哮が響く。
「奴らが来る。階層の垣根を超え、あらゆるモンスターが集結している!」
巨大蟲、飛翔体、下層の怪物までもが一斉に殺到。まるでダンジョンが“狩場”として彼らを呼び寄せたかのようだった。
「このトラップは、旧世代の封印技術。モンスターを一箇所に誘導する“捕食誘導型”だが、今回は制御が利いていない。リポップも加速している」
撤退命令が出た瞬間、蠍が激突し三人は吹き飛ばされた。崩落の隙間を縫いながら転送陣へ必死に辿り着いたのだが、他の生存者は未だ戻らない。
現在:二十五階層・セーフゾーン
戦術官たちは絶望と苛立ちを隠せず、緊急会議が開かれた。
「通常突破は不可能。もはやこの迷宮そのものが敵だ」
「生存者の位置特定が急務。救援部隊を編成する」
会議室の扉が重く開き、銀の鎧に輝く騎士が静かに現れた。
「ランス。俺が救出に行く。速攻で生存者を回収し、撤退を優先する」
「同行するのは──ルイ、南無三、一つ目小僧。少数精鋭だ。速度が命だ」
「了解」
一つ目小僧は独特の複眼を瞬かせ、魔法でダンジョン全域の生存者の気配を一瞬で探り当てた。
「生存者全員の位置を確認。これを南無三が護衛し、ルイとランスは突破に専念する」
「南無三、よろしく頼む。お前の素早さと鋭敏な感覚が鍵だ」
「てへぺろ、任せなさいっ!」
ランスは光槍を手に転送陣へと歩み出す。
「死地を駆け抜ける。俺たちが、この奈落を裂く光だ」
転送陣の輝きが再び轟きをあげる。
狩られるために集められた獣たちに、今度は──狩る者が舞い戻る。
――奈落階層、救出特別作戦、始動。