聖女の小箱
聖女ルシンダを一言で形容するなら『献身の女神』だ。
生まれ持った癒やしの力で傷を治すことができ、少女の頃から王宮に召し抱えられ、朝から晩まで休みなく働いてきた。
ルシンダ本人は癒す対象を選べず、ただなるべく多くの人を助けたいと身を粉にしてきたが、結果として王族の言いなりだった。
名誉は与えられたが自由はなく、籠の中の鳥だった。
ルシンダの功績は王家の手柄となる。
美しく心清らかで慈悲深い、女神のような聖女。
国の王子はルシンダを妃にした。そうすれば見栄えが良く、国の求心力が維持できる。
しかし王子の本命は側室の女だった。ルシンダは形だけの妻で、同じ王宮に暮らしていても、王子は側室の住む別宮に入り浸っていた。
ルシンダとの夫婦生活はない。
たまに職務的な用件があって話すが、いつ見てもつまらない女だと鼻白んでいた。
清廉潔白で優等生的、面白味もなければ可愛げもない女。
聖女だ女神だと持て囃されて当然だという顔をして、愛想笑いの1つ浮かべない。
清く美しく正しいだけの女。
「お飾りとしてはもってこいだけどな。怪我を治すしか能が無い女さ。よく働いてはいるから大目に見てやってる」
そう言い、王子は側室のヘレーネを抱き寄せてその豊かな胸に顔を埋めた。
「ああ、やっぱりお前といると落ち着く。あんな辛気臭い面した『聖女様』よりも、明るくて女らしいお前に癒やされるよ」
「あんっ、殿下ったらぁ」
時には人前でもルシンダを小馬鹿にした態度を取る2人を、諌めるどころか次第に周りも同調した。
ルシンダは聖女で、次元の違う人間だ。
多少のことには動じない、心が強い、やられてもやり返すことは決してしない、ひたすら許しを与えてくれる存在だと、過信してしまったのだ。
ある日ルシンダはころっと死んでしまった。
疲労からの風邪をこじらせ、肺炎になって死んでしまった。
まさか聖女が風邪くらいで死ぬはずがないと、たかを括っていた。王宮は騒然とした。
自分たちの過失は隠蔽し、短い生涯を閉じたルシンダの死を『神の思し召し』だと神格化し、しめやかに国葬を執り行った。
ルシンダの遺品を整理したところ、美しい小箱が出てきた。
部屋付きの侍女曰く、
「ルシンダ様はこの小箱を大切にしておられ、頻繁に覗いてはひそひそと何か仰っていました。何が入っているのか、わたくしどもは知りません。この小箱には触ることも禁じられていましたので」
小箱は七色の虹のように彩色されたクリスタル製で、より光輝くように細かい角度でカッティングされている。
蓋に空気穴のような小さな穴が開いているのも特徴的だ。
蓋を開けずに、いちいちこの小さな穴から覗いていたという。何の意味があるのだろう?
「綺麗で箱自体が宝石みたいね。覗けばどんな綺麗な光景が見えるのかしらね。貸して、覗いてみたいわ」
側室のヘレーネが言った。
形ばかりの喪が明ければ、ヘレーネが正妃になることが決まっている。
身分が低いため仕方なく側室におさまっていたが、王子の子を宿したことが分かり、今はヘレーネが正妃のようなものだ。
侍女から受け取った七色のクリスタル製の箱を、ヘレーネは片目で覗いた。
「真っ暗で何も見えないわ。つまんないの」
「開ければいいだろう」と王子が言った。
「別に鍵はかかっていないんだから、普通に開くだろ」
「もし良い物が入ってたら私にくださる? 聖女様が毎日せっせと覗いていたのなら、きっと相当素晴らしい物よ」
キラキラした箱の雰囲気からしても、宝石かアクセサリー類が入っているに違いないとヘレーネは踏んだ。
死人のアクセサリーなど着けたくはないが、高価な物なら売っ払えば良い。
「いいよ、何だろうが君にあげる」
わくわくしながら重厚感のある蓋を開けた。
しかし中身は空っぽだった。
「もう何それ。期待させといて空って」
「はぁ、死んだあとまでつくづくつまらん女だな」
死ね。
「え、何か言った?」
もう疲れた。
「え?」
何で私だけこんな。疲れたもう疲れた休みたい。寝たい起きたくない。何でお前らだけ楽しやがってこき使いやがってクソが、死ね死ね死ね死ね死ね死ね、色ボケクソ王子淫乱バカ女低能バカップル滅びろなるべく苦しんで死ね、どいつもこいつも首チョンパされろ、斧でぶった切れろ、切り刻まれて豚の餌になれこの豚豚豚豚豚死ね死ね死ね全員死ね殺す殺す殺す殺す殺す、殺す絶対に許さない絶対に
「なっなななにっ……」
開いた小箱から小蠅のような黒い点がポツポツと現れ、一気にどばっと増えながら飛び立ち、密集して禍々しく大きな黒い影を形づくっていく。
その蠢く影から羽音のように重なり合って聞こえてくるのは、息苦しくなるほどの暴言と呪詛だった。
点が密集したその影は、王子と側室と侍女の全身をすべて覆い尽くすようにまとわりついた。
「ひいっ、やっやめろ」
「いゃあぁあ」
「ひっおっおぅっ」
お許しをと言おうとした侍女だったが、口の中にも黒い点がどっとなだれ込んできて、喉を通り食道を通り胃にどんどん詰まっていく。
王子はなんとか逃れようと駆け出したが、視界も真っ暗だ。眼球の表面から端へ目の奥へ脳へ脊髄へと、無数の黒い呪いは容赦なく侵入してくる。
王子は無我夢中でもがき、足をもつれさせながらバルコニーに出て飛んだ。
真下は幸い大きなプールだったが、その後王子が浮かび上がってくることはなかった。
騒ぎに駆けつけた使用人たちがプールで溺死している王子と、亡きルシンダの部屋で腰を抜かしている女2人を発見した。
しかし2人共おかしくなっており、口から泡を吹きながらブツブツと意味の分からないことを言っている。
日が経っても元には戻らず、精神が病んでいる者が収容される施設へ送られた。
人々はそれを聖女ルシンダの祟りだと恐れ、現場から発見した美しい小箱は教会でお祓いをし、二度と開くことがないようにと結界の中に祀られた。
王子と妃と側室を一気に失った王家にもう未来はないかと思われたが、間もなくして唯一の希望が誕生した。
ヘレーネのお腹の子が生まれたのだ。
母親は廃人で、父親は生まれる前に亡くなっているという不幸な身の上であったが、物心がついた頃にその子どもは悟った。思わず笑みがこぼれた。
ああ、ここに来れたのだ。あのとき母体から入りこんでここに来れたのだ。
さて第二の人生を謳歌しましょうか。