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いっしょに食べよう  作者: 河野彰


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8/11

 そんなある日の夕暮れ時だった。  

 無理な早退を繰り返し、上司から冷ややかな視線を浴びて会社を出た貴史は、実咲貴を迎えに行く途中の駅前で、見てはいけないものを見てしまった。

 人混みの中で、ひときわ背の高い、見間違えるはずのない後ろ姿。修吾だった。   

 修吾は一人ではなかった。あの夜、店に現れた瀬乃香月でもない。別の若い男と並んで歩いていた。  

 修吾はその男の話に耳を傾け、時折、あの屈託のない、周囲を明るくするような笑顔を見せている。その笑顔は、かつて貴史や実咲貴だけに向けてくれていると信じていた、あの慈愛に満ちた表情そのものだった。

 その瞬間、貴史の視界が真っ黒に塗りつぶされたような感覚を味わった。  

 心臓を素手で握りつぶされたような、激痛と衝撃。  

 それは異常者に対する嫌悪感などではなかった。紛れもない、猛烈な、そして醜いほどの嫉妬だった。

(なんで、あんな風に笑ってるんだ。俺たちをあんなにめちゃくちゃにしておいて、どうして他の誰かと幸せそうにできるんだ)

 貴史は足が震え、その場に立ち尽くした。  あんなに酷い言葉で拒絶し、あんなに汚いものを見るような目で見たのは自分だ。修吾が誰とどこで笑おうと、今の貴史には文句を言う権利など一欠片もない。  

 それなのに、修吾の隣にいる見知らぬ男を突き飛ばしてやりたいという衝動が、どす黒い塊となって喉元までせり上がってくる。

(嫌だ。あんな顔を、他の奴に見せないでくれ。俺を見てくれ、俺に笑いかけてくれ……)

 自分の心から溢れ出したドロドロとした本音に、貴史は戦慄した。  

 守るためだと言い聞かせて実咲貴から笑顔を奪い、自分の生活を破壊してまで貫こうとした「正義」の正体が、これだったのか。  

 ホモフォビアという言葉の鎧を纏って必死に守っていたのは、世間体でも娘の安全でもない。  修吾を好きになり、彼に依存し、彼の一番になりたいと願ってしまった、自分自身のエゴだったのだ。

 貴史は逃げるようにその場を離れ、実咲貴の待つ託児施設へと走った。  

 冷たい汗が背中を伝う。  

 怖い。

 修吾がゲイであること以上に、彼がいない世界では息もできないほど、彼を欲している自分が怖い。  

「パパ……?」  

 施設から出てきた実咲貴が、貴史の異様な形相を見て怯えたように声を上げた。  

 貴史は返事もできず、ただ娘の手を強く引き、人混みをかき分けた。  

 自分の感情の正体に気づいてしまった今、昨日までの「正しい生活」は、空虚であったと認めざるを得ない。修吾のいない生活、修吾のいない食卓。そんなものはくそくらえだ。

 マンションの自室に辿り着き、重い玄関扉を閉めた後も、貴史の心臓は早鐘のように打ち続けていた。  

 先ほど駅前で目撃した、修吾のあの屈託のない笑顔。それが自分ではない、見知らぬ若い男に向けられていたという事実が、貴史の脳内にどす黒い染みを広げていく。

 かつて、修吾がこの部屋のキッチンに立っていた時のことを、貴史は嫌でも思い出してしまった。  

 実咲貴の偏食を心配し、野菜を細かく刻んで色彩豊かなテリーヌを作ってくれた修吾。実咲貴が「これ、美味しい!」と声を弾ませるたび、彼は大きな身体を丸めるようにして、本当に嬉しそうに目を細めていた。  

 寝付けない実咲貴のために、修吾がそっと頭を撫でながら、温かいミルクを淹れてくれた夜もあった。その時の彼の指先は驚くほど優しく、まるで壊れ物を扱うような慎重さで、母を亡くした娘の孤独に寄り添ってくれていた。

(あんなに温かくて、穏やかで……。でも、あれも全部「男」として俺を誘うための演技だったのか……?)

 そう自分に問いかけるたび、猛烈な拒絶感が胃の底からせり上がってくる。  

 男が男を愛するなんて、まともじゃない。ましてや、父親である自分をそんな対象として見ていたなんて、生理的に受け付けないはずだった。  

 だが、その「嫌悪」のすぐ裏側で、別の感情が鎌首をもたげる。

(あの笑顔を、あの優しさを、今は別の誰かに向けているのか。あの大きな手のひらで、今は別の男に触れているのか……)

 そう嫉妬にまみれた脳内で考えれば、実は自分こそがあんなに忌み嫌っていたホモなんじゃないかと一層の自己嫌悪に陥る。




 「パパ……、ナゲット、もういらない」  

 実咲貴の弱々しい声に、貴史は我に返った。  机の上には、冷え切って油の浮いたチキンナゲットが転がっている。かつて修吾が用意してくれた、湯気の立つ滋味溢れるスープとは比較するべくもない。

「……残しちゃだめだぞ。食べなきゃ、病気になる」  

 絞り出した声は低く、自分でも驚くほど冷淡だった。実咲貴はビクッと肩を震わせ、黙って箸を置いた。    

 以前の修吾なら、こんな時、実咲貴を無理に急かしたりはしなかったはずだ。

『実咲貴ちゃん、今日はパパもお疲れみたいだから、一緒にこれを食べようか』  

 そう言って、魔法のように楽しい食卓に変えてくれた、あの温もりが。  自分にはできない、彼にしか持ち得なかったあの救いが、今は別の誰かの元にある。

(返してくれ。俺のところに……。いや、違う、あんなに傷つけたんだ戻ってくれなんて都合の良い事は言えない……)

 貴史は、拒絶と執着の狭間で引き裂かれていた。  

 ゲイという存在への、古臭く頑なな偏見。一方で、自分と娘の生活をあれほどまでに豊かにしてくれた修吾個人への、言いようのない、ぼんやりとした憧憬。  

 その矛盾が、貴史をどこまでも追い詰めていく。    

 深夜、貴史はゴミの散乱するリビングのソファで、修吾から借りたままの予備の鍵を握りしめた。  

 この鉄の塊を返してしまえば、自分と修吾の繋がりは完全に断たれる。  

 そうすれば「まともな父親」に戻れるはずなのに、指は鍵の冷たさを離そうとはしなかった。 修吾が今、上の階で誰を想っているのか。 捨てるべきだと分かっていたのに、どうしても捨てられなかった鉄の塊。 その冷たさが、今の貴史には唯一の、修吾との繋がりだった。

(俺は、どうすればいいんだ。どうしたいんだ……あんなに酷いことを言って、今更、どの面を下げて……)

 夕闇が迫る街角で、貴史は声を殺して泣きそうになった。 正しい生活に戻ろうとすればするほど、修吾という存在が貴史の魂の深い場所へと根を張っていく。  

 拒絶は、防衛反応だった。  

 好きになってはいけない人を、これ以上なく愛してしまう自分を止めるための、精一杯の、そしてあまりにも愚かな最後の抵抗だったのだ。

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