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いっしょに食べよう  作者: 河野彰


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7/11

(指を……握られた気がする)

 貴史はコートのポケットの中で指先を擦り合わせながら、先程触れた修吾の指先を思い出していた。

 修吾の店を出た帰り道だった。

 実咲貴以外の人間に触れたのはいつぶりだろうか。料理人は手が冷たい……というのは寿司職人の話だったか。どちらにしろ修吾の指は冷たく滑らかで、その指先がそっと貴史の指先を握って離れた……ような気がする。

(励ましかなにかだったのかな。そんなに疲れて見えてるのか、俺)

 貴史は、今まで周囲から子育てで苦労してると思われたくなかった。

 それはそのまま実咲貴を「可哀想な子」にしてしまうからだ。

 「お母さんがいない可哀想な子」、「一人親で寂しい子」、「親が苦労して育てている子」、そんなレッテルを勝手に、実咲貴に貼られたくなかった。

 自分一人でもきちんと子育てができるんだというプライドもあった。

 しかし、修吾の店で泣き、事情を話したことで、一時的とはいえかなり気持ちは楽になっていた。

(不思議な人だな。なんか……側にいると楽になれるというか)

 修吾は一見体格が大きく、圧迫感がある。しかし屈託のない笑顔がそれを感じさせない。押し付けがましくない程度に先を読んできて、丁寧に、親切に接してくれる。甘えてはいけないと思いながらもその心地よいお節介が何より嬉しいのだから、手に負えなかった。


 日常は穏やかに過ぎていった。

 貴史は毎晩修吾の店を訪れて少し遅い夕飯を食べる。修吾は甘やかし上手だった。大の男の成人男性が甘やかされるのはどうも……と感じつつ、差し伸べられるその手の大きさと頼りがいのある笑顔に自然と惹かれていた。単なるご近所さんとはすでに呼べなくなっていた。

 好意とでもいおうか。貴史の気持ちは急速に修吾へと傾いていった。

 休みの日には家まで来て実咲貴の遊び相手をしてくれる。そして昼食や夕食を一緒に作り、食べて笑い合う。ついつい、味見などを任されるとこの味付けには愛情がスパイスとして入っているんでしょ、などと茶化される。そういうなんでもない会話が心地よかった。

 しかしそんな日々は長くは続かなかった。4月だというのに肌寒いその夜。

 「ビストロ・ソワール」に来店した貴史が見たのは信じられないような光景だった。

 いつものように家事を終えて店に来たのは二二時過ぎ、貴史はその夜も修吾のスペシャリテを口にしていた。今日はウニの暖かいスープと鶏肉のディアボロ風だった。どれもしっかりと味がついているのに食べるとほっと温まるような料理だった。常連もみな帰り、二人だけになるとカウンターの奥から秘密ですよと言って修吾がワインを出してくれた。ほっこり温まる料理とおいしいワインで貴史はついグラスを空けてしまう。

 カランと入口のベルが鳴った。「もう閉店ですよー」という修吾の済まなそうな声を無視してその男は入店してきた。

「修吾、相変わらず地味な店。もっと華やかな場所でやればいいのにさ」  

 店に入ってきた瀬乃香月せのかつきという男は、そう言うと勝手に貴史の隣のカウンターへ腰かけた。。金髪をラフに遊ばせ、彫刻みたいに整った顔立ちには、見る者を小馬鹿にするような不敵な笑みが張り付いている。 タイトなレザーパンツに包まれた長い脚を組み、オーバーサイズの白いファー付きのダウンコートを身にまとい、わざとらしく貴史の方へ身を乗り出してくる。  

 その男から漂う野性的で、それでいて計算された色香に圧倒され、貴史は思わず椅子を引いた。

 修吾はといえば、さっきまでグラスを磨いていた手を止め、指の関節が白くなるほど強くそれを握りしめていた。

 「香月……お前、なぜここが分かった」

「冷たいなあ。元カレの様子を見に来るなんて、よくある話でしょ?」  

 香月は修吾の困り果てた様子を、まるであざ笑うかのように手を叩いてはやし立てた。元カレ……?

 修吾の額にはうっすらと汗が滲み、あの大きな身体が、まるで化け物でも見たかのように微かに震えていた。貴史の知っている修吾は、いつも堂々としていて、すべてを温かく包み込んでくれる人だったはずだ。それが、この派手な男の一言で、怯える子供のように縮こまっている。

 香月は貴史の視線に気づくと、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

 「ねぇ、君。そんなに引かないでよ。修吾はね、昔から君みたいな『幸薄そうなタイプ』を狙うのが趣味なの」

 「香月、やめろ! 三坂さんは大事なお客様だ!」  

 修吾の悲鳴に近い制止を、香月は軽やかに笑い飛ばした。

 「お客様? 嘘おっしゃい、ほらほら怖い顔しちゃってぇ。修吾がよっぽど熱心に『手懐けた』証拠じゃない? ホモなんですよー、この人♡」  

 香月の手が、貴史の肩に馴れ馴れしく置かれた。長い指先が、貴史のカーディガンの生地をなぞる。

「君さ、気をつけたほうがいいよ。こいつの優しさは全部、男をベッドに誘うための『エサ』なんだから」

 貴史の耳の奥で、ドクンと心臓が跳ねた。  

 ベッド。男。誘う。  

 バラバラだったパズルのピースが、香月の吐き散らす悪意ある言葉で無理やり連結されていく。修吾が自分に向けていたあの熱を帯びた眼差しも、ふとした瞬間に触れる手のひらの温度も、すべては性的な意図を持ったアプローチだったのか。そう突きつけられた瞬間、貴史の足元から血の気が引いた。

「……修吾さん。今の話、本当なんですか」  

 貴史の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。  

 修吾はキッチンの奥で、逃げ場を失った動物のように視線を彷徨わせていた。

「貴史さん、僕は……僕はただ、あなたと実咲貴ちゃんが……」

「修吾はゲイなんだよ。それも、かなり執着心が強いタイプ」  

 香月が追い打ちをかけるように、貴史の耳元でニヤニヤしながら囁いた。

「君みたいなウブな子羊を、じっくり煮込んで食うのがこいつの流儀なんだ」

 修吾の顔から一気に血の気が引き、真っ白になった。カウンターに両手をつき、今にも崩れ落ちそうなのを必死で耐えている。

「違います、僕は! 香月、嘘を言うな! 貴史さん、僕は決して、そんな不純な……!」

「不純……?」  

 貴史の中で、何かが音を立てて壊れた。  

 男が男を愛する。その発想自体、今の貴史には生理的な嫌悪を伴うものにしかならなかった。

 死んだ咲良との思い出を必死に守りながら、一人で娘を育ててきた。その神聖な苦闘の中に、この男は「ホモ」なんていう歪んだ性欲を持ち込んだのか。あろうことか実咲貴にまでベタベタと触れさせ、父親である自分まで毒そうとしていたのか。  

 修吾の膝の上で笑う実咲貴の姿が脳裏をよぎり、激しい戦慄が走った。

「汚い手で、触らないで下さい」  

 絞り出されたその言葉は、修吾の胸をナイフのように正確に貫いた。修吾は絶望に染まった目で貴史を見つめ、唇をガタガタと震わせていたが、もはや言葉すら出てこないようだった。

「娘に、実咲貴に二度と近づかないでくれ。あんたみたいな『異常者』に、あの子を触らせていたなんて……親として失格だ!」  

 貴史は椅子から立ち上がると、肩に乗っていた香月の手を全力で振り払った。  

 香月は「おっと」と芝居がかったポーズで肩をすくめ、愉快そうに修吾を振り返った。 「あーあ、壊しちゃった。ごめんね、修吾。でもさ、嘘は良くないよ?」

 貴史は修吾の顔を二度と見ることなく、逃げるように店を飛び出した。冷たい夜風が頬を刺すが、火照った恥ずかしさと怒りは一向に冷めない。マンションに着くなり、玄関の鍵を二重にかけ、チェーンまで通した。壁の向こうから這い寄ってくる化け物から逃げるように。

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