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いっしょに食べよう  作者: 河野彰


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6/11

 翌朝、六時。  

 いつものように、ドアの外で僅かな物音がした。タッパーを置く、あの静かな音だ。   昨日までなら、それだけで救われるような気持ちになった音。だが今は、それが実咲貴の寝首を掻こうとする悪魔の爪音にしか聞こえない。貴史はドアに駆け寄り、内側から狂ったようにドアを殴った。

「帰れ! 二度と来るなと言っただろう!」  

 外の気配がピタッと止まった。重苦しい沈黙の後、力なく遠ざかっていく足音が聞こえ、貴史はその場にへたり込んだ。

「パパ? いっちゃん、いないの……?」  

 目を覚ました実咲貴が、廊下で不安そうに立っていた。  

 貴史は立ち上がると、実咲貴の小さな肩を、強く掴んだ。指が震えているのは先程修吾を追い払った負い目だとは思いたくなかった。

「実咲貴、ごめんな。あのおじさんは悪い人だったんだ。パパたちを騙して、おかしなことをしようとしてたんだよ」

「そんなことない! いっちゃんのごはん、おいしいもん!」

「ダメだって言ってるだろ!」  

貴史の怒声に、実咲貴はビクッと体を震わせ、次の瞬間にはわあわあ泣き出した。

「ああ……ごめん、ごめんよ。でも、実咲貴を守るためだから」

 その火がついたように熱い身体を抱きしめながら貴史は小さくつぶやいた。


 その日から、貴史の独断による「正常な生活」への矯正が始まった。  

 修吾と接触させないために、貴史は実咲貴を朝五時に起こし、まだ外が真っ暗なうちに出発した。預け先は、会社から二駅も離れた場所にある、古びた託児施設だ。そこには何の教育プログラムもなく、ただ狭い部屋に子供たちが押し込まれているような場所だった。 「いいかい? いっちゃ……あのおじさんのことは全部忘れるんだ。あんなのは……親切な人じゃないんだ」  

 自分に言い聞かせるように何度も伝えて、泣きじゃくる実咲貴を職員に無理やり預けた。

 しかし、そんな無茶な生活が回るはずもなかった。  

 仕事中もずっと神経が尖りっぱなしで、修吾が合鍵を作って部屋に入ってくるんじゃないか、実咲貴を連れ去るんじゃないかと、そんな妄想ばかりが頭をぐるぐる回る。一度異常な連中だと思い込んだら、修吾の今までの優しさが、すべて誘拐犯の下準備にしか見えなくなった。  

 昼休み、貴史は弁当を食べる気にもなれず、ただコンビニの苦いコーヒーを胃に流し込んだ。修吾の作ったあの温かいフレンチトーストの味を思い出すたびに、貴史はそれをバイ菌のように脳内から消し去ろうと必死になった。

 夕方、すっかり疲弊した身体を引きずり実咲貴を迎えに行くと、娘は部屋の隅っこで膝を抱えて、まるで生気のない顔で座っていた。

「……帰ろう、実咲貴」  

 実咲貴は何も答えず、ぼーっと貴史の後に続いた。  

 家に着いても、会話なんて一つもない。  

 シンクには洗っていない食器がピラミッドのように積み上がり、生ゴミの嫌な匂いが漂っている。掃除機をかける余裕さえないから、床には実咲貴の抜け毛や綿埃が散らばり、足の裏に不快な感触が残る。

 夕食はまた、あのスーパーのチキンナゲットだ。  

 実咲貴は以前のようなぼんやりとした無表情のまま、それを機械的に口に運び、飲み込んでいる。修吾のごはんを食べていた時の、あの太陽のような笑顔はどこにもなかった。  

 貴史自身も、ストレスから胃がキリキリと痛み、何も受け付けない。脱ぎっぱなしの服が散乱するリビングで、貴史は呆然と座り込んだ。  

 咲良がいなくなってから、修吾が必死に繋ぎ止めてくれた「家庭」が、貴史自身の手でバラバラに壊されていく。    

 深夜、天井をじっと見つめながら、上の階の住人の気配に耳を澄ませた。  

 あいつは今、何を思っているのだろうか。  

 あの時、彼が流そうとした涙は、俺たちを食い物にできなかった悔しさだったのか、それとも……。  

 そこまで考えかけ、貴史は激しく首を振った。

「違う……あいつはゲイなんだ。まともじゃないんだ。俺たちは、これでいいんだ……」  ゴミ屋敷のようになった部屋で呟く貴史の声は、虚しく響くだけだった。  

 回らなくなった家事、泣かなくなった娘、ボロボロの肉体。  

 正しい道を選んだはずなのに、元に戻っただけなのに。貴史はただ、静かに崩壊する日常を見つめるしかなかった。

 

 生活が荒廃し、精神が摩耗していく中で、貴史の心は皮肉にも、拒絶し傷つけた修吾のことを考えることが増えていった。

 ふとした瞬間に、鼻の奥が修吾の店のスパイスの香りを思い出す。スーパーの惣菜コーナーで、プラスチック容器に入った味の濃いキッシュを見かけるだけで、修吾が焼いてくれたあの震えるほど繊細な卵の甘みが蘇り、吐き気と切なさが同時に込み上げる。

「忘れなきゃいけないんだ。あんな、おかしな奴のことなんて」  

 独り言を呟いても、声は虚しくゴミの散らかったリビングに吸い込まれるだけだった。

 貴史が恐れていたのは、修吾が異常であること以上に、自分の中にある飢えのような感情だった。  

 どんなに「不潔だ」「汚らわしい」と罵ってみても、夜、冷え切った布団の中で思い出すのは、あの帰り道に触れた修吾の指先の熱だ。あの一瞬の接触が、凍りついていた貴史の孤独をどれほど溶かしてくれたか。温かな手料理がどんなに胃を満たしてくれたか。それを認めそうになるたび、貴史は激しい自己嫌悪に陥り、さらに頑なな態度を自分に強いた。

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