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いっしょに食べよう  作者: 河野彰


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10

 鉄の扉が閉ざされた後、貴史は実咲貴を連れて、這うようにしてマンションへと戻った。

 夕食は何を食べたのか、どうやって娘を寝かしつけたのかも覚えていない。

 ただ、実咲貴の寝顔を確認し、リビングに一人残された瞬間、昨日の出来事が、そして修吾の唇の感触が、津波のように貴史を襲った。

 「男を好きになる」

 そんな選択肢は、二十六年の人生の中で一度も持ったことがなかった。

 亡き妻・咲良を愛し、彼女との間に実咲貴を授かった。それが貴史にとっての「普通」であり、疑いようのない世界の形だった。

 だが、今、自分の唇に残っているのは、咲良との思い出よりも鮮明で、暴力的なまでに熱い修吾の体温だ。

 修吾を失うことが、これほどまでに恐ろしい。

 それが友情や依存ではなく、修吾が突きつけた「男としての愛」に繋がっているのかを確かめるために、貴史は震える指でスマートフォンのブラウザを開いた。

 検索窓に、今まで一度も打ち込んだことのない単語を入力する。

 表示されたゲイ向けのサイト。そこには、逞しい肉体をもつれ合わせる男たちの姿があった。

 貴史は顔を顰め、胃のあたりに不快な重さを感じた。……やはり、興奮できない。男同士の生々しい営みは、貴史にとって異世界の光景でしかなかった。

「……やっぱり、違うんだ」

 そう呟き、画面を閉じようとした瞬間。

 不意に、あの鉄の扉の前で受けた、触れるだけのキスの熱が蘇った。

 修吾の、泣き出しそうな真っ赤な目。自分を求めて震えていた大きな掌。

「……っ」

 突如、下腹部が熱くなった。

 画面の中の見知らぬ男たちには何も感じなかったのに、修吾に触れられた記憶だけで、体が疼き始める。

 貴史はシーツを掴み、情けない声を漏らしながら、ゆっくりと自分の股間に手を伸ばした。

 自分を慰めながら、脳裏に浮かぶのは修吾の顔ばかりだった。

 エプロンをきつく締め、キッチンで笑っていた修吾。

 実咲貴を抱き上げ、慈しむように見つめていた修吾。

 そして、あの悲痛な叫びとともに、自分に唇を重ねてきた、一人の人間としての修吾。

 その体温を、その重みを、もう一度。

 貴史は激しく腰を震わせ、自分でも驚くほどの熱を放って、一人の夜に果てた。

 虚しさはなかった。ただ、ドロドロとした執着と、初めて自覚した恋の痛みが、貴史の全身を支配していた。



 同じ頃、四階の部屋で、修吾は冷え切ったベッドに横たわり、天井を仰いでいた。

 後悔が、毒のように全身を回っている。

 「あんなことをするつもりじゃなかった」

 誠実に謝罪に訪れた貴史に対し、あろうことか実咲貴の前で無理やりキスを奪った。

 その時の貴史の、石のように固まった感触が忘れられない。

 あれで、本当に終わってしまった。

 優しい隣人という仮面すら被れなくなった自分を、修吾は激しく呪った。三坂貴史は、真っ当な、そして誰よりも真面目な父親だ。あんな無垢な人を、自分の独りよがりな欲望で追い詰めてしまった。

 もう、このマンションにはいられないだろう。

 店も閉めるべきか。そんな暗い思考が渦巻いていた時、枕元のスマートフォンが短く震えた。

 どうせ香月か誰かの嫌がらせだろうと、無視しようとした。

 けれど、通知に表示された「三坂さん」という名前に、心臓が跳ねた。

 恐る恐る画面を開く。

 そこには、一言だけ、掠れた叫びのようなメッセージが綴られていた。

「貴方が好きかもしれない」

 修吾は、呼吸を忘れた。

 「かもしれない」という、震えるような戸惑い。

 だが、それは三坂貴史が二十六年の常識を捨てて、地獄のような葛藤の果てに、修吾に差し出した唯一の手だった。

 修吾はスマートフォンの画面を胸に抱き、声を殺して慟哭した。

 夜の帳はまだ深い。けれど、閉ざされた鉄の扉の向こう側に、確かに光が差し始めたことを、二人はまだ知らない。



「ぱぱといっちゃんは、けっこんするの?」

 翌朝、食卓でトーストを齧っていた実咲貴が、何でもないことのように首を傾げて聞いてきた。

 貴史の喉が、引き攣った音を立てる。コーヒーを飲み込もうとしたタイミングでその問いをぶつけられ、激しくむせ返った。

「な……っ、何を、いきなり……」

「だって、きのう、おんもでちゅーしてたでしょ? ぷりきゅあも、最後にちゅーしたら結婚するもん」

 子供の観察眼ほど、残酷で純粋なものはない。

 昨夜のあの路地裏での出来事は、実咲貴の目に「愛の誓い」として映っていたのだ。

 貴史は顔が焼けるように熱くなるのを感じた。昨夜、一人で修吾を想って果てた時の後ろめたさが、一気に脳内を支配する。

「……パパといっちゃんは、男同士だから。結婚は、しないよ」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていて、硬かった。

 それは実咲貴に言い聞かせると同時に、自分自身の心に楔を打ち込むための言葉だった。

 修吾からの返信はまだない。

 「好きかもしれない」と送った後、貴史は恐ろしくなってスマートフォンをクッションの裏に隠してしまった。

「おとこのこ同士は、だめなの?」

 実咲貴は不満そうに口を尖らせた。

「いっちゃん、パパのことだいじだいじしてたよ? パパも、いっちゃんのこと、ぎゅーしてた。……だめなの?」

「ダメじゃ、ないけれど。世の中には、いろいろな形があるんだ。パパたちは、その……」

 言葉が続かない。

 「男同士だから」という言い訳は、かつて自分が修吾を「異常者」と呼んだ時の思考と地続きにある。

 だが、今の貴史には、修吾から与えられた熱烈な口づけを、実咲貴にどう説明すればいいのか分からなかった。

 ただ一つ分かっているのは、修吾を失ったままの食卓は、どんなに晴れた朝でも、薄暗く、寒々しいということだけだ。

 トーストの味すらしない。

 貴史は震える手で、隠していたスマートフォンを取り出した。

 画面には、修吾からの通知が届いていた。

『今夜、お店が終わった後、僕の部屋へ来てください。実咲貴ちゃんが寝た後で構いません。……話がしたいです』

 結婚という形には、たどり着けないかもしれない。

 世間が笑うかもしれない。

 それでも、この無垢な娘に「いっちゃんとパパは、ずっと一緒にいるよ」と笑って言える未来が、今の貴史には何よりも必要だった。

「……実咲貴。パパ、今日はいっちゃんに、ちゃんとお話してくるよ」

「ほんとう!? じゃあ、いっちゃん、またお家に来てくれる?」

「……ああ。きっと、ね」

 娘の輝くような笑顔を見ながら、貴史は初めて、修吾の待つ四階を見上げた。



 実咲貴の寝息が一定のリズムを刻み始めるのを待ってから、貴史は静かに寝室を抜け出した。

 心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っている。

 エレベーターを使う余裕さえなく、階段を一段ずつ、己の決意を確かめるようにして四階へと上がった。

 四〇二号室。

 震える指先でインターホンを押すと、ほどなくして扉が開いた。

 そこに立っていたのは、あの夜の悲痛な顔ではない。

 いつもの、少しおっとりとした温かな笑顔を湛えた修吾だった。

 ただ、その目元には隠しきれない困惑と、触れれば壊れてしまいそうな危うさが同居している。

「いらっしゃい。本当に、来てくれたんですね」

 修吾の声は、冬の陽だまりのように穏やかだった。

 貴史は言葉を失い、ただ頷くのが精一杯だった。

 促されるままに足を踏み入れた修吾の部屋は、彼の作る料理と同じように、整理整頓されながらもどこか人の温もりが漂う空間だった。

「適当な椅子に掛けてください。……ええと、お酒でも飲みますか? それとも……はは、だめだな。どうしても緊張してしまう」

 修吾がキッチンへ向かい、背を向ける。

 その広い背中。

 かつて実咲貴を抱き上げ、貴史を守るように立っていた、あの大きな影。

 貴史の理性が、音を立てて崩れた。

 気づけば足が動き、無我夢中でその広い背中にしがみついていた。

「……っ!」

 修吾の身体が、岩のように硬直した。手に持っていたグラスが、カタリと音を立てる。

 

「貴史……さん?」

「……こういう意味で、貴方が好きです」

 貴史は修吾の背中に顔を埋め、震える声で絞り出した。

「昨夜、一人で貴方のことばかり考えていました。男同士だとか、そんな理屈じゃ説明できないくらい、貴方の熱が、貴方の存在が、俺の身体から離れないんです。……これは、隣人としての好意なんかじゃない」

 修吾がゆっくりと、貴史の腕を解こうとする。

 その力が、ひどく悲しい。

「だめだ……。三坂さん、貴方はまだ混乱しているだけだ」

 修吾が振り返る。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

「昨日も言ったでしょう。僕の世界は、貴方が思っているよりずっと暗い。……貴方や実咲貴ちゃんを、こちら側へ引き込むわけにはいかないんです」

 

「修吾さん……」

「世間は残酷だ。男同士で寄り添って生きていくことが、どれだけ白い目で見られるか。……貴方は若く、輝かしい未来がある父親だ。実咲貴ちゃんにだって、普通の、まっとうな幸せを享受する権利がある。僕のエゴで、それを奪うような人生を送らせるわけにはいかないんだ……!」

 修吾の声は、慟哭に近かった。

 それは、彼が今まで一人でどれだけの「悪意」と戦い、どれほどの「孤独」を飲み込んできたかを物語っていた。

 自分たちを想うからこその、命を削るような拒絶。

 貴史は一歩踏み出し、修吾の前に回り込んだ。

 そして、逃げようとする彼の大きな両手を、力いっぱい握り締めた。

「……世間や、世の中の常識で測るべきじゃなかったんだ」

 貴史は修吾の目を真っ直ぐに見つめ、毅然と言い放った。

「俺は間違っていました。まっとうかどうか、普通かどうか……そんな外側の物差しを基準にして、目の前にいる貴方の、誠実な人柄を、温かな手を、あんなにおいしい料理を、無視してしまった」

 修吾の瞳が大きく揺れる。

「実咲貴が今朝、言ったんです。パパといっちゃんは、だいじだいじし合ってたのに、なんで結婚しないのって。……子供の方が、ずっと真理を見抜いていた」

 貴史は握る手にさらに力を込めた。

「俺の基準は、貴方です。修吾さんが作ってくれるスープの温かさ、実咲貴を撫でる手の優しさ。……俺は、それを信じたい。世間の目なんて、俺が盾になって跳ね返してやる。だから、自分を『こちら側』なんて呼んで、線を引かないでください」

 沈黙が流れる。

 修吾の大きな手から、わずかに力が抜けた。

「……本当に、いいんですか」

 修吾が恐る恐る、折れそうな枝に触れるように、貴史の肩に手を回した。

「……これが、汚いことだとは、思いませんか?」

 

 その問いに、貴史は微笑んだ。

 一点の曇りもない、清々しい笑顔だった。

「思いません。……微塵も」

 貴史は修吾の首に腕を回し、その顔を引き寄せた。

「貴方の手は、今も昔も汚れてなんていない。俺たちを救ってくれた、世界で一番綺麗な手です」

 今度は、貴史から唇を重ねた。

 昨夜の、修吾の悲鳴のようなキスとは違う。

 すべてを受け入れ、すべてを分かち合うための、静かで、けれど確信に満ちたキスだった。

 唇が重なり、互いの熱が混ざり合う。貴史は躊躇うことなく、修吾の口内へと舌を滑り込ませた。修吾が喉の奥で、くぐもった声を漏らす。

 深く、深く、互いの存在を確認し合うようなキス。

 絡み合う舌が、言葉にならない想いを補完していく。

 唾液の甘い匂いと、修吾の肌から漂うスパイスの香りが、貴史の感覚を麻痺させ、陶酔へと誘う。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 ようやく唇を離した二人は、どちらからともなく、折れるほど強く抱きしめ合った。

 修吾の大きな身体が、貴史の腕の中で小刻みに震えている。

「……あたたかい」

 修吾が、貴史の肩口に顔を埋めて呟いた。

「貴史さん。……ありがとう。本当に、ありがとう」

「俺の方こそ。……見捨てないでいてくれて、ありがとう、修吾さん」

 窓の外では、夜の街が静まり返っている。

 明日になれば、また「世間」という荒波が二人を待っているだろう。

 父子家庭の父親が、男と愛し合う。

 それは確かに、平坦な道ではないかもしれない。

 

 だが、今、この部屋に満ちている空気は、どこまでも澄み渡り、優しかった。

 貴史は修吾の背中に回した手に力を込め、目を閉じた。

 実咲貴の待つ部屋。

 修吾の守る店。

 そして、二人が作り上げていく、新しい食卓。

 もう、凍りついた夜は終わったのだ。

 貴史は修吾の胸板に耳を当て、トクトクと刻まれる力強い鼓動を聞きながら、自分たちの未来が、修吾の作るフレンチトーストのように、甘く温かなものであることを確信していた。

 二人の影が、月明かりに照らされたリビングの床で、一つの大きな形となって重なっていた。

 その夜、二人は夜が明けるまで、ただ互いの温もりを確かめ合うように、抱きしめ合ったまま離れなかった。言葉の重みを、二人で分かち合うための夜が、すぐそこまで来ていた。

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