眠りの森の従者
(リオネル公の別宅に、オチェアノ様のお供として来たはずなのだけど)
仮面舞踏会の最中、中庭の東屋でオチェアノと若い娘との密会の人払いをするために屋外に出たのは確か。
だけど、綺麗に剪定された薔薇の生け垣は乱雑に茂り、公自慢の石畳は見る影もなく、中庭にある東屋は茨の塊と化している。
そんな東屋の近くに人影があった。
「オチェアノ様」
どうか、オチェアノ様でありますように。ソワレは外れたマスクを上着の内側にしまい込みながら近づく。だが、その人物は、
(黒死病医師……)
カラスの頭部を模したマスクに、全身を覆う黒いコートに黒い手袋。長い木の棒で地面をつきながら、白い粉を撒き散らしていた。
黒死病医師は恐ろしい病と闘う者。そんな人物がなぜ公の屋敷の中庭に。
声をかけようとしたその矢先、
「ソワレか。お前の主はとんでもないことをした。見るがいい」
はじめて会うはずの黒死病医師が、なぜ自分の名を知っている? ソワレは首を傾げながら、棒で指し示した先を見た。
そこにはソワレと同じくらいの娘がマスクをつけたままオチェアノの服の上に横たわっていた。その娘の下腹部は膨らみを帯びており……
「……まさか」
「そう、そのまさかだ。ソワレ、リオネル公が招待した仮面舞踏会は、どのような名目だったのか覚えているか?」
「リオネル公の末娘ルウナ様の成人を祝しての舞踏会だと」
「──そう、表向きは」
黒死病医師は愛おしそうに、横たわる娘の頬を撫で、ソワレについてこいと促した。
二人は歩く。黒死病医師が白い粉を撒き散らしながら、ソワレが周りを見回しながら、荒れ果てた中庭から茨に覆われたリオネル公の別宅の中へと移動した。
「事の始まりは、ルウナが誕生したおり、この娘が成人を迎える頃、この一帯に恐ろしい病が流行ると予言された」
リオネル公はその病から逃れるために、ありとあらゆる方法を探り、一つの禁術に辿り着いた。
公は近隣の領主らを集め、ルウナの成人の祝いに託けた仮面舞踏会の最中に百年の眠りの禁術を発した。
「でも、俺は起きています」
「お前のマスクが外れたからだ。マスクをしている者に百年の眠りを与えたと、リオネル公は語っていた」
黒死病医師は白い粉を撒きながら、別宅の部屋という部屋を巡る。どの部屋も仮面をつけた人々が床に倒れ込んだまま眠っていた。全ての部屋を回ると、再び茨の塊と化した東屋の前へと戻った。
「だが、あの日、お前の主はルウナ様と共に舞踏会を抜け出し、愛の蕾を摘み取ってしまった」
では、オチェアノと密会していた娘は……
「ルウナ様に宿った子が産まれる時、眠りの術が解けるだろう。リオネル公はそう語っていた。そこでだ……」
「嘘だ。百年も眠り続けることなど、あり得ない!」
ソワレは黒死病医師に背を向けて走る。ホウセンカの種のように別宅を飛び出し、オチェアノの生家に向かって走り続けた。
だがそこには荒れ地が広がり、屋敷などなく、小さな村があるだけだった。
ソワレはその村に向かい、一番最初に目に止まった農民を呼び止め、オチェアノ一族の屋敷をたずねた。だが、そのような一族がいたというお伽話だよと返ってきた。
ソワレは足をのばして、リオネル公の本宅をたずねた。が、そこも同じような状況で、同じ答えが返ってきた。
ソワレは国の端々まで彷徨った。国のどこに行っても、リオネル公の仮面舞踏会に招かれた者はお伽話の住人となっていた。
その代わりに、よく語られていたのが茨の森から訪れる黒死病医師の話だった。
「あたしのおばあちゃんがまだ娘だった頃のことよ。黒死病医師が村に訪れ、恐ろしい病から逃れる方法を伝授したの」
その方法とは、黒死病で亡くなった方を、生前使用していた物もろとも炎で焼き尽くし、石灰を砕いたものを撒き散らす。
「遺体を焼くという行為は、医師自身に火炙りの刑を招いた」
だが、その刑が施されるとき、かの者の素顔を見た老人が、リオネルと呟いたのをよく覚えていると続けた。
「再びこの村に黒死病医師が現れたのは、四年ほど前だったかしら。その間に、黒死病で亡くなった方は生前使用していた物もろとも炎で清める。そうすれば黒死病に感染しにくくなる。リオネルと呼ばれた黒死病医師の行為は正しかったと、多くの人が認めるようになったの」
その話をソワレが耳にするまで、二年の月日を要した。
(では、あの黒死病医師は……)
ソワレ急ぎ戻る。茨の森と化したリオネル公の別宅へと。
ソワレは茨を切り開き、中へ中へと進む。やがて、かろうじて東屋の面影を残す建物前に倒れ伏す黒死病医師の姿を見つけた。
「オチェアノ様!」
ソワレは倒れる医師を抱き起こし、カラスの頭部を模したマスクを外す。仮面の下には骨と皮だけの年老いた男の顔。だが、その顔は己の主の面影があった。
「……ソワレ、お前に頼みがある」
なぜもっと早く気づかなかったのだろう。なぜあの時、別宅から逃げてしまったのだろう。
ソワレは涙を堪えながら、オチェアノの遺言を聞き届け、逝去を見届けた。
暁と共に産声が起きる。それを合図にリオネル公別宅に集う人々は次々と目覚め、その産声の元へ足進める。
長き眠りから覚めた人々は見た。母となったルウナの側で、産まれたばかりの赤子を抱く若者を。
──その若者が、オチェアノの従者ソワレだと、気づく者はいなかった。
参考文献:『日と月とターリア』