9 帰還
調査隊が神の足跡山脈を下りたのは退去命令を受け取ってから三日後のことだった。盗賊の襲撃もあって命令に異議を唱える者はいなかった。
麓の村までたどり着くと、あらかじめ手配しておいた数台の馬車に乗り込み、二日をかけて王都シャルーフへ帰ってきた。
「王都を離れて半月しか経ってないのに、すごく懐かしい」
シャルブルームの王立魔法研究所は、二階建てで白の煉瓦造りの建物である。王宮の造りを参考にした設計者が、華美装飾を徹底的に取り去ったことで役所とまちがえられそうな外観に仕上がった。
規模の大きな施設であるにも関わらず、研究所は王都のはずれに位置している。魔法具の暴走や実験の失敗に備えた結果だとエルシーは聞いていた。
調査隊が研究所に帰還したころには、日が沈みかけていた。
「ここは変わらないな……いくらか古臭くなったが」
研究所全体を見上げたイーサンは、感慨深げにつぶやいた。彼の口ぶりからして、昔研究所を訪ねてきたのかもしれない。
魔法院にも出入りしていた魔法使いならば、研究所を知っていて当然と言えるだろう。
「おかえり」
疲れきった調査隊を一番に出迎えたのは、魔法研究所の所長テオドール・クルスだった。
古代魔法文字の解読と魔法具の研究、製作において彼の右に出る者はいないだろう。五十代半ばで体型は中肉中背。オールバックになでつけた鳶色の髪には、かなり白髪が混じっている。エルシーが研究所で働きはじめたころには、彼はすでに眼鏡をかけていた。
「あれがおまえの上司か?」
他の研究者と言葉を交わすテオドール、愛称テオの姿を遠巻きに観察していたイーサンがエルシーに尋ねた。
「そうよ。この魔法研究所の最高責任者。職員みんなに信頼されているの」
所長という立場にありながら、研究に対する情熱は若い研究員たちを圧倒する。相手を選ばず気さくに応じてくれるので、新しい職員でさえ「テオ」と話しかけることができるのだ。
エルシーの話を聞きながら、イーサンは何かに弾かれたように「あっ」と小さな声を上げた。
「テオがどうかしたの?」
「いや、別に」
そう答えておきながら、イーサンの口角が右側だけつり上がる。すぐに真顔に戻った魔法使いは、エルシーに二つ目の質問をした。
「ところで、例のものはどこへ運ぶつもりなんだ?」
「ウィルの研究室がいいと思うわ。他の職員の出入りもないし、仮眠用のベッドもあるから都合がいいと思って」
イーサンは「よし」とうなずいた。
「まずは、あいつにも事情を話しておかないとな」
イーサンがテオに向かって歩き出したので、エルシーは慌てて止めに入る。
「テオに話すつもりなの?」
「後からバレて面倒なことになるくらいなら、話しちまったほうが身のためだ」
エルシーの心配をよそに、イーサンは「大丈夫だ」としか言わずテオに接近していく。
「どうしたんだ、ウィル?」
テオがウィル(中身はイーサンだが)に気づいてほほ笑みかけた。
「大事な話があるんだ、テオドール」
話を切り出したイーサンは、自分の体が積んである馬車に視線を移した。
内密に――そう頼んで、話し合いはウィルの研究室で行われた。
エルシーは遺跡で起きた出来事をテオに打ち明けた。封印されていた魔法使いと黄金龍。龍は封印から解放された直後に姿を消し、魔法使いは衰弱した自分の体の代わりにウィルの肉体に憑依してしまったこと。
「突飛な話だね」
エルシーの話を聞き終えたテオは肩をすくめた。
「俺の体はそこにある」
敷き布の束と称して持ち込んだイーサンの肉体は、まだ布に巻かれたまま簡易ベッドに横たえてあった。
「百歩譲って、その魔法使いの体だとしよう。しかし、ウィルの体に彼の意識があるというのは……」
「老けたら頭が固くなったな、でこ眼鏡」
イーサンの言葉に、テオはぎょっと目をしばたたかせた。
「その呼び方は、あの不良魔法使いしか……いや! だが、そんな、まさか……」
――不良魔法使い? でこ眼鏡?
エルシーはわけもわからずイーサン(体はウィルだが)とテオの顔を見比べた。
「イーサン?」
「研究員見習いから所長とは、大した出世だな」
イーサンがぱちんと指を鳴らすと人差し指の先に小さな炎が灯った。ろうそくにつくようなささやかな火が輪を描く。
「もっと大きく燃やしてみるか? おまえが研究室でボヤ騒ぎを起こしたときみたいに」
とたんにテオの顔は血の気を失った。次いでイーサンは包まれた自分の顔にかかっていた布を外してみせた。
イーサンは、二ッと意地悪な笑みを浮かべる。
「所長がボヤ騒ぎを?」
われに返ったテオは、慌ててせき払いをする。
「む、昔のことだ。もう四十年……いや、あれから三十七年経ってるんだぞ、イーサン!」
「俺しか知らない事実を言わなきゃ信じてもらえないだろ?」
魔法使いは正しかった。テオはその会話で、イーサンがウィルの体に憑依していると確信を持ったのだから。