8 退去命令
二日後。王都から早馬が遣わされ、調査隊に退去命令が下った。遺跡から直ちに退去するよう指示されたのだ。
「魔法院の封筒だな」
一時的にウィリアム・クロイドンの体に憑依しているイーサンは、調査隊が受け取った封書に注目した。
「イーサン、魔法院のこと知ってるの?」
荷物をまとめながらエルシーは、不機嫌そうなイーサンに質問する。
「俺を神の足跡山脈によこしたのは魔法院の狸ジジイたちだからな」
「もう、ちょっと口に気をつけて!」
あまり乱暴な言動が目立つと不審に思われる。イーサンがウィルの体に憑依していることを知っているのはエルシーだけだ。
盗賊の襲撃で動揺している仲間たちを、さらに混乱させるわけにはいかない。研究者や学者の探求心は強くても、自分の許容を越える事実を受け入れられない場合がある。
例えば龍の生存、魔法院の隠蔽体質、龍と共に封印されていた魔法使い。イーサンの言葉を借りれば「真っ向から否定される」可能性が高いという。
エルシーも彼の意見を完全に否定することはできなかった。
――テオなら、信じてくれるかも。
テオとは、魔法院でも変人扱いされている魔法研究所の所長のことだ。エルシーやウィルの上司でもある。彼なら無理なく事態を飲み込めるかもしれない。
「とにかく、正体がバレそうな言動は慎んで!」
調査隊の隊長は、村人と交渉して下山時に荷物を運んでもらえるよう手配を整えた。その際、物資の補給を担当していた村人たちが、盗賊の被害に遭っていたことを知った。納品書を持っていたのは、村人から本物を奪い取ったからだ。遺跡で捕らえた盗賊たちは、村の役人たちに引き渡された。
「本当にひどい人たちね」
「奪い取ることでしか生きられないやつらもいる。そいつらばかり責めても仕方がないけどな」
達観したイーサンの言葉にエルシーは反論した。
「あの盗賊たちをかばうの? もう少しでウィルは死ぬところだったのよ!」
負傷したウィルの代わりにエルシーは訴えた。
「別にかばっちゃいない。真っ直ぐ生きられない人間もいるって話だよ。おまえにはわからないだろうがな」
子どもにはわかるまいと見下された気がしてエルシーは唇をかんだ。
「あと、俺の体を粗末に扱うなよ」
「それは私の台詞よ! ウィルの体を乱暴に扱ったら私が許さないから!」
たんかを切ったエルシーに、イーサンは目を丸くした。それから感心したようにエルシーに妙な視線を当てる。
「私が許さない、か……」
意味深な笑みを浮かべたイーサンに、エルシーは思わず目を背けた。
「テントの荷物をまとめてくる!」
頬の熱を逃がすのにちょうどいい。
イーサンを相手に延々とけんかをするわけにもいかない。不満を溜め込まないようにエルシーは自分のテントの中を片付けはじめた。
――人の神経を逆なでする人ね! 早くウィルの体から出ていけばいいのに。
そうかと言って、今イーサンがウィルの肉体から離れてしまったら、ウィル自身がどうなるかわからない。
ジレンマを感じてエルシーは小さくうなった。そして、チラリと毛布で覆われた塊を盗み見た。
毛布や絨毯に包まれているのは、魔法使いイーサン・ブレイクの肉体である。
氷の封印から解かれた肉体は、仮死状態にあったため魂が戻っても定着しないというのがイーサンの言い分だった。
夜中二人がかりで神殿から彼の体を運び出したのだ。
覆いを一枚外すと、イーサンの黒髪と顔があらわになる。目を閉じているので目鼻立ちの良し悪しはわからない。だが、比較的整っているほうだろう。どんな瞳の色か気になるところだ。
「口を閉じていればましなのに」
年齢は二十代前半くらいだろう。仮死状態にあったため顔は妙に青白い。これが健康的な肌色に戻ればいいのだが――。
身に着けている魔法衣はぼろぼろに傷んでいたが、上等な仕立てだった。エルシーは魔法衣についての知識もある。王都に魔法衣を作れる店は限られているが、どの店とも縫製がちがう。
また、エルシーには疑問が残っていた。
――どうして彼の夢を見たのかしら。
なぜイーサンの名前が夢に出てきたのか。理由があるのかもわからない。
ニャアアー
特徴のある鳴き声にエルシーは振り返る。
入り口で一匹の猫が体を縮こまらせて様子をうかがっていた。体全体の毛は鮮やかな金茶色で、尻尾の先端部分だけが白い。
「あら、ルーカス! 今日も来てくれたのね」
一昨日前から見かけるようになった迷い猫である。エルシーはルーカスと名づけて、猫がやってくるたびに餌をあげていた。野生にしては人懐っこく、人間を見ても逃げようとしない。
ニャッ
ルーカスは前足を軽く上下に動かして何かを訴えているらしい。
「餌が欲しいの? 残り物のパンがあったはずだから、ちょっと待っててね」
エルシーは食事の余ったパンを持ち出して猫の足元に置いてみた。猫はパンの匂いを嗅いでから軽くひとなめする。
「気に入った?」
ニャウウゥゥ
ひと鳴きした金茶色の猫は――ルーカスはパンを食べはじめた。
「おいしい?」
返事の代わりに、猫はエルシーが与えたパンを平らげた。
満足したのか、猫はエルシーの足にすり寄って喉を鳴らす。
――やっぱりどこかで飼われてたのかしら。
猫はまたふらりとテントから出て行ってしまった。近いうちにエルシーたち調査隊は王都に帰る。研究所の宿舎では動物を飼うことが禁止されていた。
「連れて帰れたら……」
猫が姿を消した茂みを見つめ、エルシーはため息をついた。