50 素直な気持ち
テオからアンジェラの話を聞いて以来、エルシーは乱調つづきだった。メモを取り忘れたり、資料に使っていた魔法書をどこかに置き忘れてきたり、仕事に身が入らずウィルからそれとなく注意を受ける始末だ。
もっとも問題なのは、イーサンとの会話がぎくしゃくしていることだ。エルシー自身は自然に会話をしているつもりだったが、食堂で二人の会話を聞いていたサラには「けんかでもしたんですか?」と言われてしまった。
――やっぱり、イーサンにアンジェラのことを聞いてみようかしら。
自分の提案を何度却下しただろう。結局エルシーも正面切って不良魔法使いにアンジェラのことを聞けずにいたのだ。いつも前向きな彼女でも、さすがに尻込みしてしまう。
悶々とした日々をやり過ごしていたある日、ハリソンからの手紙が届いた。
便箋代わりの紙に二行。「いつまで待たせるんだ。仮縫いをしたいから早くイーサンを連れてこい」という内容だった。エルシーは青くなった。
アンジェラの話を聞いて以来、魔法衣のことをすっかり忘れていたのだ。
詫びを入れなければと、エルシーは仕事を抜け出してドリスの店があるオリッツァ通りへと馬車を走らせた。
「すすす、すみません! イーサンに魔法衣のことを言い忘れていました。後で本人を連れてきますから……」
仕立て屋の機嫌を損ねてはいけないと、一も二もなく頭を下げた。
「ああ、お嬢ちゃんか。仮縫いなら別に急がなくてもいいんだ」
手紙の文面とは対照的なハリソンの態度に、エルシーは面食らった。
「驚かせて悪かったな。俺は少し遅くなってもよかったんだが――」
ハリソンは年の離れた若い女房をチラリと盗み見た。彼女のほうはエルシーに気づくとすぐに駆け寄ってきた。
「エルシーちゃん、きてくれたのね! こないだ様子がおかしかったから心配してたのよ。この人に理由
を聞いてみたら、余計なことを吹き込んだっていうじゃない? ホンットに気が利かない人でごめんなさい」
ドリスは早口で話しながら自分の亭主の脇腹に肘鉄を食らわせた。力加減がないので相当痛いはずだが、ハリソンは妻の仕打ちに黙ってたえている。
「それで、エルシーちゃんは魔法使いとけんかなんてしなかった?」
「いえ、けんかっていうか……会話が少ないもので」
エルシーの答えを聞くなり、ドリスは夫に食ってかかる。
「私の言ったとおりになったわ! あんたが昔の女の話なんてするからいらぬ波風が立ったじゃない!」
「俺だって、こんなことになるとは思ってなかったんだよ」
ドリスの剣幕にハリソンはたじたじだ。
ここ数日の間、エルシーに「昔の女」ことアンジェラについて話したことを責められていたのだろう。
「ドリスさん、私は大丈夫ですから、ハリソンさんを責めないでください」
「そうはいかないわ! 乙女心を傷つけた無神経さを徹底的にたたき直してやらなくちゃ」
ドリスの血走った目ににらまれて、ハリソンは「ひぇっ」と声をあげて後ずさりした。来店当初は亭主関白に見えた年の差夫婦だが、力関係は女性のほうが上らしい――圧倒的に。
「心配してくださってありがとうございます。でも、イーサンが私に昔のことを報告する義務はないし」
それ以上続けられず、エルシーはうつむいた。
「義務の問題じゃない。エルシーちゃんがどう感じているかが大事なのよ」
――私が、どう感じているか?
「大切なのは、エルシーちゃんの気持ちだもの」
自分の気持ち。急な事態に振りまわされて考えも及ばなかった。いや、気づかないふりをしてきたのだ。
「……悲しいです」
声は震えていたが、エルシーははっきりと答えた。
「私よりも長い時間をイーサンと一緒に過ごした人がいて、イーサンもその人のことを本当に大切に想っていて、そう考えただけで私は……」
ぽろり。
気づくと目から涙がこぼれていた。慌てて取り繕おうとしても手遅れだ。
何か言おうとしても言葉にならない。
「いいのよぅ、それが当たり前なの。好きなだけ泣いちゃいなさい」
ドリスがエルシーを抱き締めてくれた。優しく背中をさすられると、涙が止まらなくなってしまう。
――イーサンのことが好き。
エルシーは泣きながら、ごまかしてきた気持ちを受け入れるしかなかった。
ようやく涙も止まったエルシーは、恐縮してドリスに謝罪した。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんてとんでもない! うちの亭主が余計なことをしたんだから、気にしなくていいのよ」
エルシーは、ドリスの朗らかな笑顔に救われた。泣くだけ泣いたらふさいでいた気持ちが晴れた。くよくよしていたのが馬鹿みたいに思えるほどだ。
「でも、お店の中で泣いたりして……」
営業中の店内で泣きだしてしまった点は反省した。穴があったら入りたい。そんなエルシーの態度に、ドリスは腕組みして何かを思案している。
「エルシーちゃん、今夜はここに泊まっていきなさい」
「えっ?」
女店主からの提案に、エルシーは困惑した。ドリスの店は店舗兼住居になっている。
なぜエルシーがここで一晩過ごさなければならないのだろう。
「部屋ならいくらでもあるから、研究所から離れて一晩ゆっくり休みなさい」
「そんな急に……外泊届も出してないし」
「だーかーらっ、それが真面目過ぎるのよ! もうちょっと肩の力を抜いて!」
ドリスはあきれたように、けれど優しい声で諭した。
「エルシーちゃんはいい子すぎる! もっと自分の気持ちに正直になるべきだわ。誰かさんだって、あなたのありがたみを知るいい機会だわ」
――本当にそうかしら。
無断外泊したまま放置されたら、別な意味で悲しい。
「あの魔法使いが迎えにきてくれたら嬉しいでしょう?」
そんなに上手くいくはずがないと思いながらも、エルシーは否定できなかった。イーサンが、自分のことを気にかけてくれているのか知りたい。
お守りの指輪を見やり、エルシーは初の無断外泊を決行することにした。




