36 不良魔法使いの完全覚醒(2)
「うぅ……っ」
頭が痛い。
頭痛の次に感じたのは、背中の違和感だ。
視界いっぱいに広がっていたのは研究所の天井で、イーサンは廊下で倒れていた。
――成功したのか?
イーサンは固く握りしめていた拳を開く。にわかに体の感覚が戻ってきた。
動きやすい服に着替えたように体が軽い。
すぐそばで、自分に寄り添うようにエルシーが倒れていた。
飛び起きたイーサンは、エルシーに呼びかける。
「エルシー……っ」
反応はないが、かろうじて息をしている。
「しっかりしろ」
二人で廊下に倒れていた理由はすぐにわかった。エルシーが、イーサンの肉体を研究室から引きずって移動させていたのだろう。
奮闘の末、途中で力尽きた。
彼女一人なら簡単に逃げられただろうに。それでも、エルシーはイーサンを守ろうとした。
「よく頑張った。もう大丈夫だからな」
早くエルシーをここから助け出して、外の空気を吸わせてやらなければ。
彼女の体を一度床に横たえて、イーサンは燃え広がる炎と対峙した。
「これは、ひどいな」
状況を見渡してイーサンはつぶやいた。どう見ても火のまわりが不自然である。
イーサンには「助けて」「この魔法を解き放って」と救いを求める声が聞こえていた。
炎の精霊たちにも困惑がうかがえた。風の精霊は苦痛の声をあげている。
研究所内に施された防御魔法を破った反動が精霊たちを苦しめているのだ。
「無茶な魔法を使ったもんだ」
鎮火するには、火事を引き起こした魔法以上の魔力で対抗するしかない。
自分の肉体を取り戻したイーサンに不安はなかった。
体中に魔力が漲っているのがわかる。
地道に治癒呪文で肉体の回復に努めてきた甲斐があったというものだ。
イーサンは目を閉じた――再び気の流れと同調するために。
解放を願う精霊たちの声がイーサンの中に流れ込んできた。
「助けるさ。エルシーも、おまえたちもな」
ピリピリと肌を伝う刺激。魔法と使うときの独特の感覚。
以前の……三十七年前と同じだ。むしろ、今のほうがイーサンの感覚は研ぎ澄まされている。
魔法使いは、大きく息を吸い込んだ。
――これならできる。
どの呪文を使うべきか、イーサンの頭には答えが浮かんでいた。
「うなれ風の柱、あるべき場所へ帰れ。光を以って炎の刃をおさめん!」
呪文を唱えた直後にそれは起こった。
研究所内に光が迸る。
びゅうおおぉっ
魔法使いの唱えた呪文どおりに風がうなった。爆風のような勢いだ。
所内のあらゆる部屋と通路に風が駆け巡り、一気に炎を消し去った。火事で対流していた熱気さえ失われ、肌寒さを感じるまでに気温が低下した。
遠くから石が砕けるような音が響いてきた。
風圧でどこかの壁が崩れたらしい。
「やべ……力が強すぎたか」
張り切り過ぎたせいか、想像以上に効果が大きかった。それでも火事で焼け死ぬよりはマシだ。
所長であるテオも理解してくれるだろう。
イーサンは、横たわるエルシーのそばに屈み込んだ。彼女の頬についていた煤を、魔法使いは優しく手で拭いとる。華奢な体を慎重に抱き上げると、予想以上に軽くて驚いた。
「よく俺の体を移動できたな」
彼女の姿形に見合わない無鉄砲さに、イーサンは呆れて笑う。同時に感謝の気持ちがあふれ出した。
「ありがとな」
無防備な寝顔にイーサンはそっと囁いた。
魔法使いはエルシーを抱きかかえ、たしかな足取りで研究所の出入り口へと歩き出した。




