34 侵入者
職場に忘れ物をすることは珍しくない。顔なじみの守衛たちに頼んで研究所の中に入れてもらえるので支障はなかった。
しかし、この日はいつもとちがっていた。
「すみません、忘れ物をしてしまったので中に入れてくださ…」
守衛室の窓から中を覗き込むと、エルシーは異様な光景を目にした。
守衛室に詰めている者すべてが眠っていたのだ。
「全員?」
夜勤で睡魔に負けた者がいたとしても、全員ということはあり得ない。日ごろから職務熱心な責任者までも机に突っ伏して眠っていた。
「守衛さん! 起きてください!」
エルシーが窓を何回たたいても誰一人起きる気配がない。
「どうなってるの? 魔法でもかけられたみたいに眠り込んで――」
自分が発した言葉にエルシーはハッとした。本当に眠りを誘う魔法かもしれない。
嫌な予感がして、研究所の正門の扉に手をかける。
なんの抵抗もなく扉が開いた。
「まさか……」
脳裏に過ったのはウィルの研究室で眠っているイーサンの存在だ。
エルシーは廊下を走り、ウィルの研究室を目指した。建物の最も奥に配置されていることがもどかしい。
「あっ」
二つ目の角を曲がった直後、エルシーの体は硬直した。
正面に黒いローブを身にまとった人物が立っていた。
――誰?
フードを目深に被っているので顔はよく見えない。体つきから男性であることはわかる。
エルシーの足はすくんだ。
黒いローブが不気味というわけではない。彼が放つ気配が異質なのだ。
相手もエルシーの存在に気づいているようだが、逃げる気配もない。顔は見えないものの、その注意が自分に向けられていることはわかった。
「あなたは誰なの?」
エルシーの問いに返事はない。
代わりに、何かが焦げるような臭いがしてきた。空気の対流を感じてエルシーは一度振り返る。
視線を戻した時には、男の姿は消えていた。
――エルシー、急いで。
エルシーの頭の中に直接声が響いた。盗賊にとらわれた時に聞いた声と同じだ。
「きゅ、急に、どうして――」
――急がないと火の手がまわる。急いで逃げて。
エルシーはそれを聞いて出口とは逆方向へ走り出した。やはり研究所内で火事が起きている。
「イーサン!」
イーサンの無事を確かめなければならない。火事が本当ならば、彼の体ごと避難させる必要がある。彼の肉体が燃えてしまったら、魂が還る器がなくなってしまう。
今はローブ姿の男の正体などどうでもいい。
ようやくたどり着いたウィルの研究室の扉をエルシーは力任せに開けた。明かりが点かないためカンで進むしかない。わずかに差し込む月の光だけが頼りだ。
簡易式のベッドで横たわるイーサンの体に歩み寄り、彼の手首に触れて脈をとる。
「よかった……生きてる」
ローブ男に危害を加えられていないかと危惧していたが、魔法使いの体に異常は見当たらなかった。
「逃げなきゃ」
イーサンの無事を確認すると、今度は彼の体をベッドから引きずり下ろした。
――重い。
意識のない人一人の体は想像以上に重かった。それでもなんとかして研究室から出た直後、通路で対流する空気がさらに熱くなっていた。見ると遠くに炎の塊が見える。
おかしい。魔法研究所にはかつて偉大な魔法使いが防御魔法をかけた。炎や水の災い耐えうる術だと聞いていたのに。
「あつ……っ」
イーサンの体を運ぶ自身はなかったが、助けを呼びに行く暇はない。このまま置いていけば結果は目に見えている。
エルシーは覚悟を決めて、イーサンの両足首をつかんで引きずる。
息苦しいのは、大人一人を引きずっているうえに火事で酸素が薄くなっているからだ。通路にも煙が立ち込めてきた。
――苦しい。でも……
「私が、助けるんだから」
折れそうな心を自分で叱った。
イーサンのような人間だからこそ、誰かが助けなくてはいけない。
いや、エルシーは自分で助けたいと願った。
大切な時間を引き換えにしてまで王国の平和を守ってくれた魔法使い。イーサンだからこそ、助けたい。
腕の感覚が麻痺してきた。イーサンの腕を掴む手に感覚がなくなっていた。
『俺の体を粗末に扱うなよ!』
以前イーサンに言われた言葉が脳裏を過る。
「ごめんね」
熱と煙で視界が遮られていく。
強いめまいを感じた次の瞬間、エルシーはその場に膝をついてしまった。
目の前が真っ暗になり、急速に意識が遠のいていく。
エルシーは、ふと風の気配を感じた。
だが、倒れているはずの自分のもとへ、なぜ風が吹いてきたのか考える余裕はは残っていなかった。
「エルシー……っ」
――ウィルの声……じゃない?
目を開けて確かめる気力もない。間近で叫ぶ声にさえ応答できなかった。
「よく頑張った。もう大丈夫だからな」
大丈夫。その言葉に安堵した。
エルシーは自分が死んでしまったのかもしれないと思った。体が宙に浮いたような気がしたせいだ。
魂が体から離れてしまったと錯覚し、エルシーは完全に意識を手放した。




