29 エルシーの動揺
ハリソンとの面会がかなった翌日、研究室で呪文集に目を通していたイーサンが急に振り返った。
「俺に言いたいことがあるなら、はっきり言え」
イーサン(体はウィルのままだが)が怖い顔でエルシーをにらんだ。
「昨夜から人のことジロジロ見てため息を連発しやがって。俺に問題があると言いたげな態度だ」
「そんなことは……」
ある。大アリだった。
エルシーの頭の中は、仕立て屋ハリソンに突きつけられた条件でいっぱいになっていた。
「イーサンは、自分の体に戻れたらどうするの?」
「考えても仕方がない。元に戻ってから考える」
魔法使いの答えに、エルシーは前回と異なる印象を受けた。魔法使いの仕事さえも投げ出しかねない態度だったのに。やはり肉体が順調に回復してきた影響だろうか。
しかし、楽観的になるのはまだ早い。魔法使いが自分の体へ戻らなければ、話ははじまらない。
「いずれは肉体から意識を切り離す呪文を検討するべきかもしれない」
最初はイーサンの独り言だと思った。だが、自分への提案だと気づいてエルシーは慌てた。
「肉体を切り離す呪文って?」
「ウィルの体から、俺の魂を切り離すんだ」
エルシーは素朴な疑問を魔法使いにぶつける。
「それでイーサンが自分の体に戻れるの?」
「必ず戻れるという保証はない」
――もし、自分の体に戻れなかったら……イーサンの魂は?
「ダメよ!」
エルシーは声をあげていた。
「そんな危険なことはさせられないわ! あなたもウィルも元に戻れなかったら取り返しがつかない」
「俺が出て行けば、おそらくこいつの意識は戻る」
早くウィルの意識が戻って欲しいと願っていたことは事実だ。けれど、イーサンが犠牲になっては意味がない。
シャルブルームの平和のために自分の大切な時間を失った人に、新たな犠牲を強いることはできない。
それ以上の犠牲など、とても。
「おまえだってウィルには早く戻ってきて欲しいだろう」
魔法使いの思いがけない言葉に、エルシーは衝撃を受けた。
「ウィルのためにイーサンがどうなってもいいって、私が考えているとでも?」
怒りを通り越し、悲しくなった。エルシーの瞳が見る見る潤んでいくのでイーサンが慌ててなだめにかかる。
「ちょっ、待て待て待て! そんなことはない! 俺はただ、これ以上ウィルの体を使い続けるとおまえにも悪いかと思って、だな」
普段、人の都合など考えもしないのに、妙なところで律儀だ。単純にエルシーに泣かれては困るから、かもしれない。盗賊の一件といい、彼は女性の涙に弱いようだ。
「俺の肉体は十分回復しているのに魂が戻れない。あくまで打開策の一つとして言ってみただけだ」
「それじゃ、魂を切り離す呪文は使わないわね?」
イーサンは「そうだ」と何度も大きくうなずいた。まるで泣いている子どもを必死にあやす父親のようだ。
「そうだ……だから泣くな」
エルシーはイーサンの答えに胸をなで下ろす。鼻をすすってから魔法使いに訴えた。
「あなたが危険に晒されるようではダメなの。たしかにウィルに元に戻って欲しいけれど、それはイーサンだって同じよ」
イーサンはエルシーの言葉に目を瞠る。
自分の願いや幸福のために、誰かが犠牲を払っているとしたら本当に幸せとは言えない。
「無茶な魔法は使わないで。人の犠牲に成り立つ幸せなんてあってはいけないの。そんな幸せ……誰も喜ばないわ」
エルシーがそう言った直後に、魔法使いの表情がこわばった。
「この話は終わりだ。今までどおりの方向性で呪文を試していくぞ」
イーサンは呪文集に集中しはじめる。
彼の背中を見つめながら、エルシーは取り乱した自分に驚いていた。
――泣いてしまうなんて。
魔法使いの一言に動揺した理由を、エルシーはまったく自覚していなかった。




