24 変化
正午きっかりにイーサンは食堂へ走っていった。魔法使いは空腹のあまり、調べものに集中できずにいたので、エルシーは目を瞑るしかなかったのだ。あくまで体はウィルなので、他の職員に話しかけられたとき注意するよう念を押したのだが――。
「おや、ウィルじゃないか。この時間に来るとは珍しいね」
「腹が減っては戦が……いや、研究が進まないんでね」
料理担当のアンナが朗らかにイーサンに声をかけた。彼女はエルシーの祖母と同じくらいの年齢だ。恰幅はいいが働き者で愛嬌がある。研究者たちへの気配りも見事で、食堂の名物おばさんで通っている。
「しばらく研究所を離れていたら、食堂の味が恋しくなったよ」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか! 山奥の遺跡を調べに行ってたんだって?」
エルシーは、アンナとイーサンのやりとりをそばで見て冷や冷やしていた。
「エルシーさん、ですよね?」
遠慮がちな声に振り返ると、若い女性職員が立っていた。エルシーよりも小柄で、波打つ黒髪が印象的だ。
「そうですけど、えぇと?」
シャルブルーム魔法研究所に出入りする人間はかなりの数だ。同じ職員でさえ顔と名前が一致しない者もいる。
エルシーにとって彼女もそういった類の人間だった。
「私はサラといいます。今年研究所に入った助手見習いです」
「たしか研究室に挨拶に来てくれた……」
各職員への挨拶まわりは新人職員の初仕事だ。サラも他の職員と一緒に挨拶に顔を出してくれたのだろう。しかし、なぜ彼女に呼び止められたのかわからなかった。
「突然声をかけてすみません。なかなか食堂でお見かけしないので、以前お世話になったときのお礼を言いたかったんです」
「お礼?」
エルシーはますます訳がわからない。
「ごめんなさい。私、お礼を言われるようなことは何もしてないけど」
「私が他の職員に絡まれているところを助けてくれました」
ウィルを除く職員同士の交流に無関心だったエルシーは、他の職員との接触さえ避けていた。
「廊下で、本をぶちまけてしまったのを叱られていて」
「ああ!」
サラの説明で、エルシーはようやく数ヶ月前の出来事を思い出した。同時に魔法関連書籍が散乱した廊下まで思い描けた。
運悪く荷物を抱えていた者同士が研究所の廊下でぶつかった。互いに抱えていた本やら道具を落としてしまったのだが、問題はその後だ。
「なんてことをしてくれたんだ。この本は半年間探しまわってやっと見つけたんだぞ!」
若い職員がしきりに頭を下げて謝罪しているのに、ベテランの職員がしつこく抗議を続けていた。元々評判の良くない研究者だったが、相手が新人の小娘とわかると意地悪くまくしたてた。
エルシーは図書室へ向かう途中、偶然その場に出くわしただけだった。散乱している本の題名や年代物の装丁を見て黙っていられなかったのだ。
「ジョンソンさん、それ持ち出し禁止の本じゃありませんか? こっちの本は図書室の返却期限が過ぎているはずです。ちゃんと司書の方に話を通してあるんですか?」
エルシーに指摘された年配の職員は、血相を変えて本を拾い集めると逃げるように立ち去った。ジョンソンという職員は以前から研究所の物品を私物化することで有名だったが、エルシーがそれを知ったのは彼が研究所を解雇された後だった。
「あのときは、本当に……本当にありがとうございました!」
「あれは、成り行きというか……気にしないで」
エルシーがほほ笑むと、サラもつられて笑みを浮かべた。
「今日は眼鏡をかけてないんですか?」
「あ、うん、そうなの。最近壊しちゃったものだから。やっぱりおかしいかな?」
素直に不良魔法使いに捨てられたとは言えなかった。
「じつは、眼鏡がないほうがエルシーさんの表情が見えて話しかけやすかったんです」
表情。
眼鏡はまさにエルシーにとって仮面の役割を果たしていた。眼鏡をかけると気持ちは落ち着いたが、素顔を覆うことにで自分の世界まで狭めていたのかもしれない。
エルシーは、先に昼食を食べはじめていたイーサンに視線を注ぐ。
――イーサンの言い分にも一理あるのかも。
その後、サラと一緒に食事をした。思いがけなく会話が弾み、危うく午後の仕事に遅れるところだった。
エルシーが研究室に戻ると、イーサンはすでに魔法呪文集とにらめっこをしていた。
「イーサン、これあげる」
「なんだこりゃ、菓子か?」
エルシーが魔法使いに渡したのはクッキーの包みだった。クルミとチョコチップが練り込んであり、食堂で販売されている人気商品だ。
「もらいものだけど、またお腹が空いたときに食べて」
食堂を後にする際、サラがくれたものだ。
最初は断っていたエルシーだったが、「感謝の気持ちですから!」と彼女の気迫に押しきられてしまった。クッキーの包みを二つもらったので、一つはイーサンに譲ることにした。
「気前がいいな。どういう風の吹きまわしだ?」
「一応、お礼よ」
イーサンは「へえ」と声を発したが、彼はそれ以上何も聞き出そうとはしなかった。




