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くれない織

富美島での仕事を始めてから一週間ほどして、雅貴は雪乃から個人的な仕事の手伝いをするよう指示された。それを伝えたのは雪乃本人ではなく、彼女から伝言を託されたみのりである。

「明日は花の仕事はしなくていいので、奥様のお手伝いをするようにですって。何時に終わるかは分からないけれど、早く終わったらそのまま上がっていいそうよ。集合場所は朝九時に礼拝堂。多少遅れても構わないから、絶対に九時より早く来ちゃダメだって」

几帳面な雅貴には、遅刻しないように気を付けるよりも気を使う指示だった。

仕方なしに九時ぴったりに自分の部屋を出て礼拝堂に向かった。下宿用の建物から、お屋敷を通って外に出て、庭を横切り、温室を通り過ぎて礼拝堂に着く。それでも二分ほどで着いた。

雪乃はすでに礼拝堂の中におり、雅貴に気が付くと、先に挨拶をした。

「時間ぴったりにいらしてくださって助かりますわ」

雪乃は今日は洋装だった。雅貴は最初に挨拶したときと、花の仕事の初日の二回彼女に会っている。その時はどちらとも和装で、藍染めや黒い地色の着物に赤い帯といういで立ちだった。今日は光沢のあるネイビーブルーのブラウスに同系色のふんわりとしたボトムスを履いていた。スカートなのか幅の広いパンツなのか分からない、近年もてはやされている形のものだ。全体的に見てゆったりとした立ちだった。さりげなくポイントになるように、ウエストのところに赤い細身のベルトをしている。傍らには杖が置かれていた。

「それで、僕は今日何をすればいいんでしょうか?」

「糸紡ぎのお手伝いをお願いします。準備だけで終わってしまうかもしれませんが・・・」

「糸紡ぎですか?」

「ええ、私個人の仕事で、織物をしているんです。色々事情があって、こちらをメインのお仕事にするのが難しいんですが、とても大切な仕事なんです。糸紡ぎから機織りまで全部一人でやらないといけないのでとても手間がかかるんです。雅貴さんには糸紡ぎを手伝って頂こうと思っています。昨日、ちょうど養蚕家さんから繭が届いたんですよ」

雪乃はそばのかごを示した。ふんわりした、白い小さな粒がたくさん入っている。

雪乃は、彼女の父・松尾が独自に考案した絹織物である、富美くれない織を織っていた。八王子時代から始め、事故で芸者を引退してから本格的に取りかかるようになった。雪乃の本心では、こちらを生業にしたいのだが、色々な障害があるため、叔母でもあり、本家の当主である蘭子から任せられたフラワーアーティストをしながら少しずつ続けている。雅貴は初耳だったが、姉の蓮子が工芸品を扱う店を始めるので、そこで扱ってもらえるよう話がついていると言った。

おそらく、蓮子が我が姉と慕う雪乃のために動いたのだろうと雅貴は思った。

「近所に養蚕家の方がいらっしゃるんですね」

「近所と言うには、少し遠いかもしれませんが、こちらとふもとのちょうど中間のところで養蚕を始めた方がいらっしゃるんです。その方と契約して繭を売ってもらっています。他の方には織物のことは内密にしていますから頼めませんし、私はふもとまで行くのは難しいですからね。以前は買い付けを頼んでいたんです。あの、あなたのお義兄さんになる方なんですけれど」

「まさか、善也(よしや)さんですか?」

雪乃は気まずそうにうなづいた。

桐野善也は蓮子の婚約者である。蓮子が雅貴のために芸者を休業して、料亭で働いていたころ知り合ったと聞いている。有名な美大を卒業して、画廊で働きながら自分も絵を描いている人物だった。美大に入るのに何浪かしているので、彼は蓮子とはかなりの年の差があった。

芸術家は、個性的な人物が多いが、善也もその例に漏れなかった。女性から冷たい眼差しで見つめられることに非常に悦びを感じるという体質の人間で、蓮子をからかおうとして冷たくあしらわれたために、恋に落ちたという。始めこそ迷惑がっていた蓮子だが、度重なる猛アプローチに何か思うところがあったのか、彼の求愛を受け入れ、婚約まで取り結んだということだった。婚約後、雪乃の手助けをしたい蓮子の勧めで、富美島の絹山に一軒家と土地を買い、養蚕をしながら絵を描くようになった。雅貴は婚約が決まって姉から紹介された時、一度だけ会ったきりで、彼の変態的で浮世離れした考え方のために付き合い方が分からず、積極的に関わるのは避けていた。とはいえ彼は個性は強すぎるものの、常識は弁えており、芸術家のしての才能もある。個展とまではいかなくても展示会は何度も開いている。姉の夫としては好もしい人物に思えた。少なくとも、蓮子に苦労を掛けたりはしないだろう。しかし、女性にいじめられたい欲求をむき出しにするので、彼と関わった女性は大抵善也に苦手意識を持っている。口ごもったところを見ると、おそらく雪乃もそうなのだろうと思った。花街で世話になった雪乃には蓮子はいの一番に結婚報告をするはずである。

ただし、雪乃の弁では、彼が絹山で養蚕を始めてくれたおかげで、彼女の織物がしやすくなったという。繭の買い付けのためにあちこち奔走しなくて済み、善也は質のいい繭を適正な価格で売ってくれるからだ。

「雅貴さんのことを話されていましたよ。せっかく近くにいらっしゃるならお会いしたいとおっしゃっていました」

「そうですか。僕は姉に紹介されてから会っていないもので…」

「後で連絡先を教えます。さ、お仕事に取りかかりましょうか」

雪乃は大鍋を渡し、水を入れてくるように言った。雅貴が水を入れて戻ると、どうしつらえたのか、礼拝堂の中にある料理用ストーブの上に置いて温めた。沸騰したところで重曹をいれ、繭を煮る。

柔らかくなったところで、手で少しずつ広げながら、水にさらして真綿を作る。

まだ糸すらできていないが、大変に手間のかかる力作業だった。

「これをお一人でやられてたんですか?」

他に仕事を抱えているうえ、足が不自由な雪乃にとっては大変な労力である。雅貴には、雪乃がたった一人でこの重労働をこなしているとはどうしても信じられなかった。

「今のように、お手伝いを頼むことがほとんどです。ご当主は、たまにカメリアの生徒さんをうちに送り込んでくるんです。規則を破ったとか、そういうことをした子たちに奉仕作業と言う名目でね。彼女たちには、具体的なことは言いませんが、私では骨の折れる作業を頼むんです。鍋に水を汲んでくるとか、糸染めのお手伝いですね。大抵週末とか、お休みの時に数日だけ来るので、彼女たちはバタバタですよ。何をしているか分からないうちにどんどん指示がきますから。それでもお手伝いの当てがなければ、私一人でしなければなりません。でも、ある程度機械の力も借りていますから一人で作業しても苦にはなりませんよ」

雪乃はてきぱきと真綿を作っているが、これが意外と難しい。力の入れ加減をうまく調節しないと広げる途中で破けてしまう。雪乃がやり方を丁寧に教えてくれたが、雅貴はかなりの時間をかけねばできなかった。

「ゆっくりで構いませんよ。急ぎではありませんから」

雪乃は雅貴の手元をのぞき込みながら、

「雅貴さんはなかなかセンスがありますね。明日香の初期のころよりお上手ですよ」

と冗談めかして言った。明日香とは蓮子の芸名である。蓮子も、時々雪乃の織物の手伝いをしていたという。花街時代の関係者に関しては、気を抜くとつい、芸名で呼んでしまうのだと雪乃は詫びた。

「そういえば、雅貴さんは昔から何をするにも丁寧だと明日香が言ってましたわ。あの子は何でもそつなくこなすけれど、ちょっと大雑把なところもあるから」

「こういう、細かい作業って僕、好きなんです。時間を忘れて没頭できるし、やり方を覚えれば一人でできるし」

「だからこそ、明日香はあなたを推薦したんでしょうね。確かに初めてにしてはそれなりにできているし、集中力も大したものだわ」

真綿かけが終わると、今度は真綿を乾かす作業に入る。雪乃が手本を見せ、その後は雅貴が、彼女の指示を聞きながらすべて干すことになった。乾くまでに数日かかるので、その間は花の仕事に戻るように言われた。

「着物を一反折るのに、繭がいくつ必要かご存知ですか?」

作業が一区切りついたとき、雪乃が唐突に尋ねた。契約していた就業時間が近づいたので、今日はここまでにしましょう、と雪乃が言った。片付けの前に一息つくために、お茶を淹れてくれたのだ。

「さあ…。きっと、すごくたくさん必要なんでしょうね」

「ものにもよりますが、平均で三千ほど必要なんですよ。もちろんお蚕も同じだけ必要になります」

「そんなに、ですか」

「お蚕も生き物ですから、命に変わりありません。ですから、私は織物をする時はできるだけ丁寧に扱っています。雅貴さんも慎重に扱ってくれて助かります」

雅貴は茶器を置いた。

「それは買いかぶりです。僕は真綿かけの間、蚕の命のことは考えたこともありませんでした。ただ、善也さんが一生懸命作ってくれた繭だということ、そして、この仕事が奥様にとってとても大切な仕事であるとみんなから聞かされていたから、慎重に取り組もうと思っただけなんです」

雪乃は茶器を持ったまま、雅貴をまじまじと見つめた。それからふと我に返って微笑した。芸術家なら絵や彫刻にしたいと思うほどのみごとなほほ笑みだった。

「あなたはご自分の意見を率直におっしゃいますね」

「気を悪くされたなら謝ります。申し訳ありません」

雅貴が頭を下げようとするのを、雪乃は制した。

「あなたが嘘をつくのが下手だというのは、明日香から伺っています。でも、ここまで正直にお話しされるとは思いませんでした。ですから、あなたのことは信用していますよ。ただ、外ではあなたの気質では生きにくいでしょうね」

「外とおっしゃいますと?」

「お屋敷の外の社会のことです」

雅貴はわずかな間考え込んだ。率直な考えを伝えるか、さらりと流すか。結局、きちんと話すことにした。元芸者ならではの気配りや話術によるものか、雪乃は姉や叔母とは違う安心感があった。女性が苦手な雅貴でも気負わず話ができる。

「僕は、人が多いところでは、あまり自分の思うことを話しません。でも、表情に出てしまうようで、それで人間関係では苦労しました。たぶん、普通のサラリーマンとしてはうまくやっていけないだろうと早いうちから気づいていました。だから、叔母の勧めもあって翻訳の道に進みました」

雪乃は不思議そうな表情になった。

「お姉さんは、あなたは作家を目指していたと聞きましたけれど。弟さんが何か小説の賞をもらったと言って、明日香がいつか自慢したことがありました」

「ええ。中学から高校の頃には小説を書いていました。ライトノベルのコンクールで賞をもらったこともあります。姉が言ったのはそのことだと思います。でも、大学に入ってから急に文章が書けなくなってしまったんです。アイデアや風景は頭に浮かぶのに、それを文章にすることができないんです。だからレポートのある授業では随分苦労しました。かろうじて、論文とか批評文や、リサーチペーパーなんかは書けました。でもフィクションはどうしても書けませんでした。今、やっている翻訳も、マニュアルや説明書、論文の翻訳なんです。僕が得意な論文の文章力が生かせるんで」

「どうして書けなくなってしまったのかしらね」

「心当たりがなくて困っているんです」

「あなたは小説をお書きになりたいんですね?」

「はい」

「それなら書くしかありません」

雪乃はきっぱり言った。雪乃は今まで何度となく挫折を経験してきた。手先が器用ではないから、半玉として稽古を始めたときは苦労をした。織物を始めた時も失敗ばかりで惨めな思いをした。その時は事故で芸者を引退することを余儀なくされたこともあいまって、相当に落ち込んだのだという。

「それでも、続けないといけないんです。そうすると、こうすればよりよくなる、と言うのが見えてくるんです。そうなったらもうあとは夢中になってやりました。面白くてたまらないんだもの。ですからね、雅貴さん、次に何か風景が浮かんだら大雑把でいいから書き出してごらんなさい。そうすればおのずとあるべき形になりますよ」

「なるほど」

「軌道に乗るまでは苦しいですけどね、その覚悟があるなら」

「覚悟ですか」

「ええ。うまくまとめることができなくても、やり続ければ、いつかいい作品ができます」

部屋に戻ると、雅貴はタブレットを開いた。何年か前にふと思いついた小説のプロットがずっとそのままにしていたのを思い出したのだ。ある程度の肉付けはしてあるのに、どうしても文章が浮かんでこなかった。作品を生み出すどころか、陣痛すらこないようなものだった。

(中心思想を変えたほうがいいのかもしれない)

この作品は、本当に書き上げたいものなのか自問自答した挙句に、結論付けた。

(逃げていることにならないだろうか?)

しばらく逡巡してみた。書いていて苦しいと言うのではない。筋が浮かばないわけでもない。ただ、苦しんでまでそのプロットを文章化したいか、と聞かれれば、答えはノーだった。

しばらくタブレットの画面を睨んでいたが、しっくりくる文章は浮かばなかった。これ以上は頭が痛くなるだけだと判断した雅貴はプロットを閉じ、メールチェックを始めた。


真綿が乾くまでの数日間、雅貴はみのりとともに、フラワーアーティスト補助の仕事に戻った。みのりは雪乃との作業については一切立ち入ったことを聞かず、いつも通りに指示を出したり雑談をしたりした。

花の作業に戻って五日目、再び雪乃から伝言を託されたみのりより手伝いをするように言われた。

「もしかしたら、今日で雅貴君の花の仕事は最後かもしれない」

みのりの口調はあっさりしていたが、表情はむっつりしていた。温室作業のほかにお屋敷の家事まで一人で担っているので、また激務になるのが煩わしいのだろう。

「そうですか。みのりさんにはお世話になりました」

伝えられるうちに感謝の言葉を伝えておこうと、雅貴は頭を下げた。

予想外のことに、ぎょっとしたみのりが慌てて言う。

「馬鹿ね、まだ最後って決まったわけじゃないのよ。そういう挨拶は帰る時でいいわよ」

「言えるときに言っておかないと」

「そんなことにまで気を使わないで。とにかく、明日九時に礼拝堂よ。九時より先に来たらダメだからね」

礼拝堂に来るよう指示をされていたが、翌日、雪乃と合流し、乾いた真綿を回収すると、屋敷の雪乃の仕事部屋で作業をすることになった。糸紡ぎの道具がその部屋にあるらしい。

雪乃は手紡ぎ機の使い方を雅貴に教え、自分は手作業で糸を紡ぎ出した。

「手作業は慣れるまでに時間がかかりますからね。お手伝いの方には機械を使って頂くんです。少しでも機械を使ったほうが早いですし」

と雪乃は言った。

「手作業でも、機械でもどちらでも構わないんですか?」

雅貴は以前、海外向けに伝統工芸品についての翻訳をしたことがある。それには、伝統工芸品と認められるために、様々な要件が求められていた。なかには時代に合わないような工程まであった。その手間が価値を生むのだろうが、それに比例して値段もコストも上がる。それでも、職人たちは美しい工芸品や技術を後世まで残そうと奮闘していた。

一方、雪乃は雅貴の問いにあっさりとうなずいた。

「くれない織は父が発案したもので工程や定義は詳しく遺してくれましたが、必ずこうしなければならないと言う指示はありません。時代の変化に合わせて作り方も変えるようにと書いてあります。これは伝統工芸品には指定されていませんから、臨機応変に対応できます」

「そうなんですか」

「そういえば、雅貴さんはまだくれない織りをご覧になったことがありませんね」

「確かに、拝見したことはありません」

「そのまま、紡いでいてください」

言い残して、雪乃は私室へ行き、たとう紙に包まれた包みを持ってきた。姉が和装で仕事をするので、雅貴にもそれが何かはある程度検討がついた。大きさから見て、帯のようだった。

雪乃は雅貴の手紡ぎ機がキリのいいところになるのを待ってから、包みを開いた。

予想通り、中身は帯だった。深紅で、同じ色の糸で花の柄が織ってある。地色も柄も同じ色なので、一見無地に見えるが、光の加減で花模様が浮かびあがる。一言で言えばみごとな帯だった。

そういえば、初めて雪乃に会った時も紅い帯を付けていた。しかし、あの帯と同じものかどうか確信が持てない。最初に会った時は、彼女の美しさに圧倒されていて、服装の細かいところまで意識を向けられなかった。

今、くれない織りの帯を目の前にすると、雪乃に最初に会った時の圧倒された感じを思い出した。シンプルな紅色の帯なのに、身に付ける人を選ぶような高貴さがあった。この帯を身に付けるためには、それにふさわしい人間とならなくてはならないような…。和装に慣れている人でも、手に取るのをためらわせる何かがあった。

「綺麗な赤ですね」

雅貴はやっとそれだけを口に出した。くれない織りの美しさに感動のあまり多くは語れなかった。

「名前の通り、くれない織りは赤い織物なんです。赤といっても緋色からワイン色まで明るさによって様々な色合いがあります。着物の分類でいえば紬ですが、しゃりっとした質感と光沢感を出すのに何度も何度も糸を染めるんです。この織物は糸染の過程に一番こだわりがあるんです。雅貴さんがいらっしゃるうちには間に合いませんから、お見せできずに残念ですわ」

「姉がお店で扱いたいと思うのも分かります。こんな綺麗な織物、着物にしたら、さぞ映えるでしょうね」

雪乃はそれには同意しなかった。

「着物は、着たときに布の面積が大きいでしょう。ですから、こういう色合いだと明るすぎるんです。織り始めてから、知り合いの方々がいくつか買ってくださったことがありますけれど、みんな帯や他の小物にしていました。若い娘さんなら映えるかもしれないですが、それならもっと華やかなやわらかものの振袖をお召しになったほうがいいですからね。もっとも、暗い色合い、ワインレッドとかなら着物にしてもそんなに派手にはなりませんけれど」

雅貴の表情が曇ったのを見て、雪乃は最後にさらりと付け加えた。

「蓮子さんも買ってくれたんですよ。確か、その時はタペストリーとランチマットにしたと聞きました。これから作るものも、蓮子さんのものなんです。彼女に内緒で善也さんがくれない織りの帯をプレゼントしたいとおっしゃっていてね」

雪乃はスケッチブックを見せた。善也がデザインしたという。大ぶりな牡丹と小さな睡蓮が絶妙な配置で描かれている。

「これを、姉に?」

「ええ。結婚指輪代わりに。蓮子さんの芸名の明日香というのは、牡丹の品種から取ったんですよ。本名の蓮と、芸者・明日香の牡丹。この帯は蓮子さんを象徴している帯です。色合いも彼女らしい紅色にします」

紅色はオレンジがかった赤色だ。勝ち気で才気渙発、活動的な蓮子にふさわしい。

善也は個性が強く、付き合うのは難しいが、蓮子のことは本気で愛している。デザイン画からもそれがはっきり分かった。

「旦那さんがデザインして、弟さんが紡いだ糸を使ったら、蓮子さんはさぞ喜ぶでしょう」

「だから、僕を呼んだんですか?」

「いいえ、単純に人手が足りなかったんです。葉山家の人は誰も、この辺鄙な分家のことはろくに構いもしてくれないもので。ほら、元は蓮子さんが来るはずだったでしょう。彼女には何も知らせずに手伝ってもらうつもりだったんです。彼女は勘のいい人だから、作業中に気づかれたかもしれませんけれど。ですから、あなたも東京に戻ったら、このことは内緒にしておいてくださいね」

「わかりました」

と返事はしたはいいものの、姉に強く出られたら負けることが分かり切っていた雅貴は、姉との接触は当分控えようと密かに思った。

結局、糸紡ぎの工程が終わったところで雅貴の契約期間が終わった。

本来ならそれで帰京できるはずだったが、折り悪く大型台風が二つ続けて富美島を通過した。みのりの姉で武蔵間屋敷とふもととの連絡係を担っている美晴が漁協に確認したところ向こう1週間程は船もフェリーも出さないとのことだった。

(なんてタイミングが悪い)

雅貴は内心困惑した。今まで武蔵間屋敷に一緒に滞在していたカノは台風が来る前に所用ができたので一足先に東京に戻っていた。

屋敷の従業員に男性はいない。当主の雪乃も女中の豊美・みのり母娘も結婚していない。

ふもとから遠く離れたこの女性ばかりのこの屋敷で男一人というのは何も起こらないとわかっていても居心地が悪かった。

雪乃からの意向を託されたみのりによれば、仕事の契約期間は終わっているので、好きに過ごしてもらって構わないとのことだった。みのりがいつも激務なので、雅貴は彼女の仕事を手伝うつもりでいたのだが、台風で物流が滞っているので花の仕事が止まっており、いつもより暇らしい。雪乃の織物も、荒れた天気ではままならないのでこちらの手伝いもできなかった。

何もしないと一日経つのが長い。甥を心配した涼子が、仕事の依頼がを転送てくれたので、それをこなしつつ、小説の題材になりそうなものを探すことにした。武蔵間屋敷が元学校だけあって、図書室には本が充実していた。みのりが部屋に本を持って行ってもよいと言ったので、雅貴は遠慮なく読書に没頭した。

雪乃の織物を手伝ったことで、雅貴はくれない織りに関心を抱いた。くれない織りに関する資料はごくわずかで、すべて雪乃の手元にあったが、織物産業に関する書籍は図書室にたくさんあった。これは、富美島が養蚕が盛んだったことに由来する。くれない織り以外にも、島や対岸の街には織物の名産品が多くあるのだ。

くれない織りの資料が手元になくても、雪乃の手伝いで得た知見と関連書籍を調べれば、どの製法を参考にしたかくらいは見当をつけられる。

貴重な書物を心行くまで調べられたおかげで、この気まずい1週間を乗り越えられそうだった。

ところが、明日が滞在の最終日という日に、武蔵間屋敷がにわかに騒がしくなった。

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