富美島
「叔母さん、いくら何でもそれは無茶ですよ」
雅貴は珍しく語気を強めた。電話の向こうの叔母に、何としてでも今回は断るという意思を示すためだ。当の涼子はどこ吹く風で続ける。
「大丈夫よ、そんなに難しい仕事じゃないし。あなたにしか頼めないのよ。華道家の息子でしょ?」
雅貴の姉・蓮子の古い友人が離島でフラワーアーティストなる仕事をしているらしい。多忙で手が足りないので誰か手伝いに来て欲しいとのことだ。最初は姉本人から頼まれたが、雅貴が頑として断ったため、叔母に泣きついたのだ。雅貴に何か頼み事を断わられたときに二人がよく使う手段だ。
「僕は華道なんかやったことありません。大体、引き受けたなら姉さんが行けばいいじゃないですか」
「蓮子だって始めは自分で行くつもりだったのよ。でも急に大口の取引が入ったんだから仕事を抜けるわけにいかないでしょう」
蓮子と雅貴の母は10年前に急死している。姉は20歳になったばかりだった。蓮子は、生活費や雅貴の学費を稼ぐため、がむしゃらに奔走した。別れた父は当てにできず、当時、事情があった叔母にも頼れなかった。姉にも夢や目標があったはずだが、それは二の次。だから雅貴は姉に頭が上がらない。大抵の頼み事は快く聞いて、自分のために苦労した姉に恩返ししているつもりだ。だが生来気まぐれで奔放な姉である。雅貴が働き始めてから、再び自分の夢を追い始めた姉から、とんでもないタイミングで電話がかかってきたり、急に海外へ行くから付いてきてくれと言われたりしたこともあった。これまでならどんな無茶ぶりでも何とか引き受けることができた。雅貴は在宅で翻訳をしているから、時間と場所の都合はつけられるからだ。
「でも今回は嫌ですよ。どこにあるかも分からない離島に無期限で行け、なんてさすがに無茶ぶりにも程があります」
「そんなの、ネットで簡単に検索できるでしょ」
「なら、叔母さんが行ってください」
「行きたくても行けないわ。じきに映画が公開になるし、スケジュールは全部埋まってるのよ。一分だって 抜け出せない」
背後で何やら慌ただしい音がしているのを聞くと、その言葉は本当のようだ。
「僕だって仕事があります」
「だってこの間脱稿したでしょ」
「次の依頼が入るかもしれないんです」
「それは心配しないで。とりあえずむこうひと月あなたへの仕事の依頼は断っておいたから」
涼子は何でもないことのようにさらりと言ってのけた。
「ちょっと、勝手に何やってるんですか!」
雅貴はぎょっとして声を荒げた。仕事がなければ、雅貴は翻訳料を稼げない。フリーランスの雅貴にとっては死活問題だ。心配性の彼は、来月の生活費のことを考えると急に怖気づいてきた。
「島に行ってくれればお給料はもらえる。私と蓮子からも謝礼出すから。それでも嫌って言うならむこうひ と月無給で過ごしなさいよ。私、ちゃんと手は回したからね」
「一分も無駄にできない人が、なんでそんな余計な事してるんですか、、、」
大物作家の涼子に実力行使に出られては、雅貴では歯が立たない。叔母にここまでさせるとは、離島の友人という人は蓮子にとって相当大切な人なのだろう。
「わかりましたよ。行きます」
叔母の、『ひと月無給』という言葉で降伏した雅貴はそう言うと、受話器の向こうの気楽な『ありがとう』の言葉を聞きながら電話を切った。
フェリーに揺られながら、雅貴はため息をついた。これまでのやり取りを思い出すと尚更、自分の押しの弱さに情けなくなる。いくら押しの強い叔母と姉とはいえ、また根負けしてこんな所で船に揺られているなんて-。
(これも血筋か。)
涼子の電話を切るか切らないかというタイミングで、今度は蓮子から送られてきた島への経路をぼんやり眺めつつ雅貴はひとりごちた。雅貴の父は華道家で、その世界では名の知れた実力者だった。優秀な仕事ぶりに反して、私生活では優柔不断で押しに弱い人だった。雅貴は話を聞いただけだが、母との結婚中、別の女性から好意を寄せられて、ずるずると関係を続けた挙句に子供を身ごもった不倫相手が親ぐるみで強く出てきたということで、相手に言われるまま母と別れてその人と一緒になった。母の葬儀の時に初めて会ったが、始終落ち着きがなくどうしたらいいか分からないふうだった。見かねた現妻が代わりに雅貴たち遺族に挨拶をし、てきぱきと話し合いをしていた。
雅貴が父と会ったのはそれが最初で最後であるが、自分の妻や喪主の涼子の顔色をよく伺っていたのは覚えている。それが、自分自身の姿と重なり、猛烈な嫌悪を感じたことも。
幼いころは、よく自分も母の顔色を伺っていたものだった。ハッキリした性格で気が強い母は、離婚後周りからの援助を一切断り自分一人で子供たちを育てていくつもりでおり、実際にほとんど自力で二人の子供を育て上げた。少なくとも、母の中ではそういう自負があった。自分たちが片親家庭だからと馬鹿にされないよう、二人の子供を軍隊式に厳しく育てていた。きつい物言いをし、何か反抗しようものならヒステリックに騒ぎ立てる。蓮子はそんな母を意に介さず言いたいことを言い、よく喧嘩もしていたが、雅貴は母親の機嫌を損ねるのを神経質に気にしていた。そのせいだろうか、彼は度が過ぎるほど慎重で、必要以上に相手に気を使うようになっていた。姉や叔母の無茶な願いを上手く断れないのもこうした性格に由来しているのかもしれない。その、父に似た性格のせいか母の機嫌を損ねまいとすればするほど、母を苛立たせるようで、よくつらく当たられていた。認めたくはないが、母が亡くなった時には心のどこかでほっとしている自分がいたのも事実である。
(ともあれ、引き受けた以上は全うしなくちゃ仕方がない。)
雅貴は大きく伸びをして、対岸を見る。到着まであとわずかだった。
富美島まで行くのは、予想したほど辛くなかった。空路を使えば1時間少しで最寄りの空港に着く。そこからフェリーの出る港まではバスで十五分。離島の中では規模が大きい島なので、フェリーの本数も多い。フェリーに乗ってしまえば十分程度で着く。蓮子が飛行機を、しかもプレミアムクラスを予約してくれたおかげで、旅自体は楽だった。
波止場に着いた雅貴の目に飛び込んで来たのは、でかでかと『汐谷雅貴様』と書かれたプレートだった。勘弁してくれ、と雅貴はプレートの持ち主に近づく。出迎えたのは二人。そのうちの一人は大の顔見知り、涼子の内縁の夫、カノだった。
「カノさん、ご無沙汰してます」
驚きつつ、雅貴は挨拶をする。カノは柔和な笑みを浮かべて雅貴を迎えた。
「蓮子ちゃんと涼子さんから連絡をもらってね、迎えに来たんだ。よく来たね。急だったけど、大丈夫だっ たかい?」
「ええ、まあ、、、」
さすがに涼子に実力行使に出られました、とは言えない。あいまいな返事をして、雅貴はカノの連れである女性を見る。
「こちらは?」
「青山美晴先生。この島で診療所をしているんだ。雅貴くんが来るというんで、車を出してもらった」
「それは、わざわざありがとうございます。汐谷雅貴といいます」
「こちらこそ。皆さんお待ちですから、すぐに案内します」
美晴はてきぱき言うと、雅貴の荷物をさっと持って大股で駐車場に向かった。改めて見ると彼女が女性としては驚くほど長身なのに気づいた。頭の位置が雅貴とほぼ同じ、ということは彼女は180センチ近くあるということになる。
「美晴先生はね、お母さんがウクライナ人なんだ。その血筋でこんなにスタイルがいいんだよ」
車に乗り込んでから、カノが言った。背が高い、という代わりにスタイルの良さをほめるのは、いかにもカノらしい。当の美晴は、何も言わずに運転に集中している。
「カノさんも、叔母さんに言われてここに来たんですか?」
「そうだよ。ネット関係のほうを見てほしいと言われてね。もうひと月くらいいるかなあ」
カノはIT系のエンジニアで、涼子と一緒に暮らし始めるまでは会社勤めをしていたが、今は会社を辞め、フリーランスでエンジニアリングをしながら涼子の仕事の補助をしている。補助と言っても雑用から出張が必要なものまで、涼子に指示されるままにこなしている。
「雅貴くんが来てくれたので大助かりだよ。花屋さんでバイト経験もあるし、雪乃さんもほっとしてたよ」
「姉さんのお友達、雪乃さんておっしゃるんですか」
「蓮子ちゃんから聞いてないの?」
「いいえ。急ぎの案件というので、すぐに出発しなくちゃいけなかったので」
「そう、、、」
雅貴の返事を聞いたカノは、珍しく押し黙ってしまった。美晴も黙ったまま山道に車を進める。傾斜は緩やかで、道もきちんと整備されているから、それほど辛い道ではない。山というより小高い丘のようだ。
「絹山って言うの」
今まで黙ってやり取りを聞いていた美晴が口を開いた。
「絹山、ですか」
「昔はこの辺りに住んでいた人たちがみんな養蚕をしていたんですって。だから絹山」
時代の流れか、車窓に映る家はほとんど人の気配がない。
「今、この山に住んでるのは、僕たちと美晴先生だけなんだ。他は、みんな山を下りてふもとで生活して る。島を出た人もいるしね。でも、養蚕をやっている人はまだたくさんいるよ。島の主要産業だからね」
今度はカノがいつもの明るい調子で続けた。
「『僕たち』って、どこで寝泊まりするんですか?」
「山のてっぺん。雪乃さんのところ、下宿屋もやってるんだ。わざわざ山の中まで泊まりに来る人はいない から、部屋はいくらでも空いてるしね」
「ずいぶん色々なさってる方ですね」
「行ってみれば分かるけれど、土地が無駄に広いのよ。廃校になった学校をそのまま使ってるんでね」
今度は美晴が応じた。
もう少しで頂上、という辺りで美晴は車を止めた。山奥には溶け込まない、モダンな建物が建っている。美晴が数年前に開業したクリニックと、自宅だという。
「荷物も少ないし、歩いてすぐだから、悪いけど車はうちに止めさせてもらうね」
そこから先は道が細いので、車では通りにくいという。美晴の自宅の真ん前に駐車場らしきスペースがあるので、山頂に用がある場合はそこに車を止めて歩かねばならないらしい。
美晴は車を降りると、まるで自分の持ち物かのように雅貴のボストンバッグを持って歩き出した。
「あの、青山先生、荷物は自分で持ちます」
雅貴は大急ぎで美晴に追いつく。が、美晴は無視してすいすいと歩を進めた。
「持ってもらえばいいよ。長旅で疲れただろ」
カノに言われて、仕方なく後に続く。
美晴の言う通り、山頂までの道はあまり整備されていなかった。道幅も細いから、普通車はまず通れない。ゆっくり歩いても三分程で着くが、坂が急なので息が切れる。坂を登り切ったところに見えたのは、欧風のいかめしい門だった。門の前には女性が二人。
「お待ちしておりました。今日からよろしくお願いします」
五十年配の痩せた女性が丁重に辞儀をした。雅貴も慌てて頭を下げる。
「今日からお世話になります、汐谷雅貴と申します。よろしくお願いします」
「坂城豊美と申します。このお屋敷で女中頭をしております。こちらは娘のみのりです」
豊美は傍らにいる小柄な娘を指した。色白でぽっちゃりしているが、顔立ちは母と瓜二つだった。
「この二人は私の母と妹です。長年このお屋敷で仕事をしているから、分からないことがあったら二人に何 でも聞くといいわ」
「お母さん?」
先ほどカノから聞いた話と違うが、深く聞くには気が引ける。ともあれ、彼女たちは屋敷の主ではないらしい。
「私の父の再婚相手とその連れ子さんなの。正確にはね。でも、両親が離婚して、母はウクライナに帰って しまったからほとんど豊美さんに育ててもらったようなものなの」
美晴はさらりと付け加え、雅貴の代わりに運んでくれたボストンバッグをみのりに託した。みのりはすぐにバッグを抱えてどこかへ行った。
「奥様がお待ちですから、ご案内致します」
「じゃ、私は帰るから。汐谷くん、何かあったら、私の診療所に来てください。私のクリニックが、ふもと との窓口になっていますから」
雅貴が礼を言うのを聞き流して、美晴は名刺を差し出すと、来た時と同様に大股ですっすと帰って行った。
豊美の後に続いて門を入ると、広大な敷地が広がっていた。三階建てのどっしりしたレンガ造りの建物、その傍らにはガラス張りの温室と礼拝堂。先ほど通った情けない山道の先にこんなに広大なお屋敷があるなんて、と雅貴は息を呑む。
「ここは昔、学校だったんですよ。良家のご令嬢向けに家政学全般を教える学校で、学校自体は何年も前に 移転したのですが、奥様がここの土地を買い取ったんです」
雅貴の当惑を見た豊美が説明してくれた。
「奥様というのは雪乃さんのことですか?」
「ええ。葉山家をご本家にお持ちで、こちらは分家の一つです」
「葉山家というのと、あの栄華グループの、、、」
「うちは、特に関係はありませんけれど」
豊美はあっさり答えて屋敷の扉を開ける。栄華グループは傘下にいくつもの企業を持つ、日本でも指折りの財閥だ。事業は幅広く手掛けているが、元が呉服商だっただけあって繊維産業に強いと聞く。教育分野にも力を入れており、傘下のカメリア女子学院は、良家の子女を対象とした徹底した貴婦人教育で知られていた。
カメリア女子学院は雅貴もよく知っていた。入試担当者が父の寄付金とコネクション目当てに蓮子の入学を強く進めてきたからだ。当時、母と不仲だった蓮子は自ら望んで父親夫妻の養女となった上で、寄宿舎に入った。そこで一般で言うところの中学校と高校の六年間の課程を修了した。
「姉とは、どういったご縁があるんでしょうか?」
姉の友人は裕福にやっている人が多いが、みなごく普通の一般家庭の出身だ。蓮子本人も肩の凝る学生時代を過ごしたカメリア女子時代を黒歴史と言っている。普段、頼みごとをしても弟が強く拒めば、蓮子は大抵引き下がる。涼子に泣きつき、多忙な自分の代わりに雅貴を送り込んでまで手助けしたい友人とはどのように知り合ったのか。
「その辺は奥様から伺うといいですよ。私どもは詳しい経緯は存じ上げませんので」
豊美は屋敷の一番奥のどっしりとしたドアの前に立った。革張りのドアを慣れた手つきで叩く。
「失礼いたします。汐谷さんをお連れいたしました」
どうぞ、と返事がして豊美はドアを開けた。雅貴に入るよう促すとドアを閉めて持ち場に戻って行ってしまった。中は和室になっているらしく、小上がりと襖があった。
雅貴は靴を脱ぎ揃え、失礼します、と声をかけて襖を開けた。
「ようこそお越しくださいました」
中にいたのは、目の覚めるような美女だった。弓型の眉の下にある、綺麗な切れ長の目は長い睫毛でくっきりとふちどられ、形のよい鼻は鼻筋が綺麗に通っている。小ぶりの唇に、小さなたまご型の輪郭を囲む髪は顎のあたりで切りそろえられ、ふんわりウェーブがかけられていた。シンプルな絣模様の、あっさりした藍染めの着物と、深紅の帯が顔の白さを引き立てていた。
「初めまして。汐谷蓮子の弟の雅貴と申します。いつも姉がお世話になっております」
美貌に圧倒されながら、雅貴はなんとか挨拶を済ませる。
「武蔵間雪乃と申します。こちらこそ、蓮子さんにはいつもお世話になっております。急な話ですのに、来 て頂いて助かりました。本当にありがとうございます」
口調は柔らかいのに、冷たい印象を与える話しぶりだった。蓮子の友人なので、おそらく三十歳前後だろうと見当はつくが、彼女は年齢不詳だった。少女にも見えるし、もっと大人の世代の女性にも見える。
雅貴が、勧められた座布団に膝をつくと、彼女は淡々と仕事内容について話し始めた。姉の強力な頼みで来た以上は、蓮子との関わりについてある程度は知りたかったが、今はその隙が無かった。
「雅貴さんには、お花の管理のほかに、ブーケづくりと加工のお手伝いを主にやっていただきたいのですけ れど」
「はい」
「ブーケのデザインは私がしますので、デザイン通りのものを作ってください」
「はい。加工のほうは、何をしますか?」
「ドライフラワーを作ったり、プリザーブドフラワーを作ったりして頂きます。ご経験があると伺いました ので、そちらもお任せしたいと思います」
「分かりました」
話を聞く限りでは、雅貴が学生時代にしていた花屋のアルバイトと変わらない。主に結婚式場と取引をしている花屋だったので、アルバイトといえど厳しい研修を受けた。高校から大学、また翻訳家としてデビューしてからそれ一本で食べていけるまで続けた。特別なことがなければ、多少ブランクがあってもそつなくこなせそうだった。
雪乃は一呼吸置いてから、
「それから、私の個人的な仕事のお手伝いもお願いしたいのですが」
「個人的なお仕事というのは?」
「それはその時になってからお伝えします」
「はあ、、、」
何と言っていいのか分からない。雅貴はあいまいな返事をした。返答に困ったときによくやる癖だ。蓮子と涼子には直すよう言われている。
「心配なさらないでください。危ないお仕事ではありませんから」
雅貴の不安そうな表情を見た雪乃がきっぱりと言った。大きな声を出したわけでもないのに、口調が尖ったからだろうか、雅貴はびくりと身を震わせてしまった。
「本来は、蓮子さんにお願いするお手伝いだったんですが、弟さんなら信頼できると言っていたので、雅貴さんにお願いすることにしました」
蓮子と雪乃の間には、よほどの信頼関係があるらしい。それならば尚更、雅貴と面識がないのが不思議だった。姉弟の友人たちは大抵きょうだいぐるみでの付き合いがあるからだ。
「姉とはカメリア女子でお知り合いに?」
雅貴は思い切って目の前の美女に尋ねてみた。蓮子はカメリア女子時代の同窓生とは没交渉だが、社交的な姉のこと、一人や二人友人がいてもおかしくない。が、雪乃は首を横に振った。
「いいえ。蓮子さんは八王子時代の私の妹分でした」
「じゃあ、花街の?」
「明日香は、いい半玉でした。お母さまのことがなければ、東京花街で一番の芸者になっていたと思いま す」
明日香というのは蓮子の芸名である。蓮子は母が亡くなるまで芸者見習いをしていた。蓮子が憧れていた女優が若いときに八王子で芸者をしていたからだ。カメリア女子学院を出たあと、八王子花街で半玉としてデビューした。母の死を機に一旦は花街を離れたが、ことが落ち着いてから、蓮子は『かもめ』と呼ばれるアルバイトの芸者として再びお座敷に出たり、芸事の練習を再開した傍ら、新しい仕事を始めた。
芸者・明日香としての姉のことは雅貴は知らない。蓮子の在籍している置屋くらいは知っているが、詳しい交友関係までは分からない。ただ、彼女が芸者の仕事を愛しているのだけは知っている。
雪乃は話を事務的な方面に戻した。
「雇用契約書を交わさなければいけませんから、いくつか書類に目を通してください」
渡された契約書は、よくある印刷された紙切れとは全く違っていた。桜色の和紙に綺麗な和書体で書かれている。さすがに手書きではなかったが、雅貴は面食らった。あとの書類はアルバイトを始めるときに書くのと同じ書類だった。雅貴は丁寧に契約書を読み、サインをすると雪乃に渡した。
「ありがとうございます。お疲れのところ申し訳ございませんが、早速明日から始めて頂きます。よろしく お願いいたします」
書類を確認すると、雪乃は再び丁重に手をついた。雅貴も頭を低くしてそれに応える。
「豊美さんが、お部屋に案内して下さるので、今日はごゆっくりお休みください」
「お気遣いありがとうございます。失礼いたします」
丁重に辞儀をして、部屋を出る。重い革張りのドアを開けると、いつの間に戻ってきたのか豊美が待っていた。
「お部屋にご案内致します。こちらへどうぞ」
絨毯敷きの廊下を美晴と同じようにすっすと歩き、渡り廊下のある一角に来た。その向かいが下宿だという。
「寄宿舎の一部を利用したものです。建物は古いですが内装は全部リフォームしてありますから快適に使っ て頂けます」
豊美の言葉通り、中はモダンな作りだった。浴場も手洗いも最新の設備が整えてある。さながら洒落たホテルのようだった。
雅貴の部屋は一階の奥から二番目の部屋だった。一人で使うのがもったいないほど広々として清潔である。大学を出てから住み始めた狭い賃貸マンションより居心地がいい。
先ほどみのりに預けたボストンバッグは部屋の荷物置きにきちんと置かれていた。中にはホテルと同じように利用案内のファイルが置いてある。
「あまり気負わず、お好きにやって頂いて結構ですよ」
豊美が息子を見るような顔つきで言った。
「今、この下宿にいるのはあなたとカノさんのお二人だけですし、お風呂も洗濯場も食堂も24時間使ってい ただいて構いません。ただ、夜はお屋敷の門は施錠しますから外出するときは注意してくださいね。その 時は一言おっしゃってくだされば開けますから」
外出、といっても気軽に出かけられるような場所は周辺にはない。ふもとまで行けば何かしら面白い場所はあるはずだが、雅貴は出不精である。よほど必要でなければめったに外出しない。パソコンにタブレット、それに本も持ってきたので娯楽には困らないだろう。
「一つだけ、今は誰もいらっしゃらないのですけれど、お二階は女性専用フロアになっておりますので立ち 入らないようお願いしますね」
「分かりました」
「お仕事は明日の朝9時に奥様のお部屋までいらしてから指示に従ってください」
「はい」
「今日は、あとはお好きに過ごして頂いて結構ですよ」
豊美は鍵を渡すと部屋を出て行った。長旅で疲れてはいたが、眠くはなかったので、雅貴は荷物の整理を始めた。衣類をハンガーにかけ、小物類を引き出しにしまう。パソコン類とスマートフォンにWi-Fiをつないでからシャワーを浴び、ゆったりした服に着替えた。姉も叔母も忙しいから、こちらからは電話をかけない。アプリに到着したというメッセージを送っただけだ。
ベッドに寝そべって音楽を聞きながら本を読んでいるうちにうとうとしてしまったらしい。ドアをノックする音で、雅貴は目が覚めた。時計を見ると午後四時近く。二時間近く眠っていたようだ。
寝ぼけた声で返事をし、ジャケットを羽織って髪をサッと整えてからドアを開けると、カノが立っていた。
「今、仕事が終わったんでね。夕飯前にいっぱいやらないかい?」
どこで調達したのか缶ビールを入れた袋をぶら下げている。
「ありがとうございます。頂きます」
雅貴はカノを部屋に招き入れた。早速缶を開け、乾杯する。
「雪乃さんに会ったかい?」
「はい、お会いしました」
「綺麗な人だった?」
「ええ。とても」
「そりゃ、いいなあ。それほどの美人なら僕もぜひお目にかかってみたいもんだ」
「カノさんは雪乃さんにお会いしたことがないんですか?」
カノはうなずいた。
「僕の仕事はネット関係の保守だからね、豊美さんと一緒に仕事をすることが多いんだ。最初に来るときも 事前に電話で話したきりさ。涼子さんは会ったことがあるっていうけれど、どうも雪乃さんは訳アリらし くてね、めったに人前にでないし、会う人間も選ぶみたいだ。彼女の言動についてはたまに豊美さんから 聞くくらいだよ」
「それなら、どうして僕は会えたんですか?彼女からしてみれば、僕は素性もろくに知らない人間のはずで す」
「君が蓮子ちゃんの弟だということ、そして、君が彼女がするはずだった仕事を引き継ぐからだよ。雪乃さ んは蓮子ちゃんをとても信頼していて、花街時代には、本当の妹のようにかわいがっていたということ だ。蓮子ちゃんのほうでも雪乃さんを慕っていたしね。二人は本当の姉妹みたいだって涼子さんはよく 言ってる。一番大切なのは蓮子ちゃんが君を信頼して、大切にしているってことさ」
カノの言葉に雅貴は苦笑した。
「どちらかと言うと、こき使われてますけどね」
「それに、だ。末端の分家といえど、この家も栄華グループの一員には違いない。君が来る前に素性調査く らいしているよ」
「そうなんですね」
雅貴は、雪乃の顔を思い浮かべた。葉山家の人間は皆、自分の家系にプライドを持ち、非常に誇り高いと聞いている。ゆえに付き合う人間を徹底的に選ぶ。それは、教育の世界でも同じことで、カメリア女子学院の入学に際しては家柄がものを言う。そういう一族にいながら、先ほどのわずかな時間では確証が持てないが、雪乃は、葉山家の一員ということにこだわりはないように見えた。どちらかと言えば他人に興味がないように思える。蓮子の身内というので丁重に扱ってくれたが、もし雅貴が蓮子と何の関係もなければ、彼女はきっと彼に対してもっと冷たかっただろうと思う。
酔った頭で考え事をしていると、猛烈に眠くなってきた。カノからの夕食の誘いを断り、雅貴は真っ先にベッドに潜り込んだ。眠るには早い時間だが、構わない。夜中にぽっかり目覚めたら本の続きを読めばいい。瞼を閉じるとすぐに意識が遠のいていく。きっちりと眠るのは久しぶりだと思いながら、雅貴は眠りに落ちていった。結局、朝まで目は覚めなかった。