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精霊の舞踏譜2  作者: 雨野 鉱
4/4

第二途 アイシテイル 其之肆

もし私が私のために存在しているのではないとすれば、誰が私のために存在するのか。

愛詩譚(参)


 キー、キーッ!!

 静かだ。

 キーッ キキーッ!

 ワンッ! ワンッ!

 培養室には動物の鳴き声しか響かない。私の思考を煩わせ、苛立たせるような人語が絶えた。

 キャウンッ!

 ケケッ! ケハッ! キキ……ケハ……

 ありがたい。おかげで大抵の動物を持ち込んでもばれない。

同僚も院生も教授もどこかへいなくなった。おかげで気分は悪くない。

 コンコンッ。

 研究室の扉をノックする音が聞こえる。

「……」

 私はムシュフシュの顕微鏡観察を中断する。黒い分泌液を出させている最中だった動物のいる培養室のカギを掛ける。

自分の机に戻る。防音扉のせいで、動物の声は止む。

 コンコンッ。

「どうぞ」

 ガチャッという音を立てて、ゆっくりと扉が開く。

「こんにちは」

「何か御用でしょうか」

 警官と学務の人間が私の研究室を訪れた。用事を聞くと、今学内で行方不明者が続出しているという。

それで学校関係者や研究室の人間に注意を呼び掛けてまわっているらしかった。

「まさかここの研究室の面々もその件に何らかの形でかかわっているということですか?」

「そのことなのですが、消息は依然として分かっていません。行方について存じ上げていることはありませんか?

言伝などを預かっていたりですとか、ありませんか」

「いいえ、残念ですがそういうのはありません」

「そうですか。とにかく気を付けてください」

「はい。ありがとうございます」

 バタンッ。

 警官と学務の人間が去った。行方不明者?くだらない。どうだっていい。自分が自分でなくなりさえしなければそれでいい。

あと少しなんだ。あと少し。

「智くん……お姉ちゃんが必ず助けてあげる」

 ムシュフシュが作る液に初めて出会ってから半年。

あと少しでその液から智宏の体に合った薬の開発が成功しそうだった。

蒸留酒のような、限りなく透明に近い黄金色。もう例のヘドロのようなドロドロの黒い液体とは完全に別物だ。

「ドロドロは自分でどこかへいなくなってくれるから助かるわ。おかげで始末に困らないもの。ふふ」

 黒い液体を手に入れるためにムシュフシュを感染させた動物は夜、窓を開けておくと、黒い液を残してどこかへいなくなる。

そして二度と戻ってこない。そうこうしているうちに、行方不明者が街で増えているというニュースを耳にするようになった。

「イヴェット……女神もそう言えば行方不明だったわね……因果関係は大、かしら。

まあ液さえ手に入ればどうでもいいのだけど」

 本当にどうだっていい。あの無邪気な女神が私のペットに食われ、

ついでにドロドロの液体をまき散らして夜の街をさ迷い歩いていようといまいと、知ったことじゃない。

人間なんて細菌みたいなものだ。どうせ放っておいても増える。少しくらい減ったところでそんなの誤差範囲だろう。

森を焼き、泉を枯らし、互いに殺し合うだけの醜く知恵のない生き物め。

 森?

「……黙れ、黙れ」

 私は頭をふる。ここ最近、私はどこかおかしい。研究に没頭しすぎたのか?独り言が増えた。

しかも時々、自分の意識が自分ではないような気がするときがある。自分の中に、また別の自分が挿入されたような違和感が私を襲う。

「そんなこと、許さない。認めない。私は私だ」

 少なくとも、まだ私は私でいなければならない。智宏の病を癒やす治療薬を生み出すまでは、私は誰にも私を渡さない。

「もう少し、あと少し……」

 髪をかきむしりながら、私はまた研究室に戻る。

 ピスッ!

 微調整した試験薬を注射器に入れ、それを自分の動脈に注射する。そのまま床の上に横になる。意識を失い、目を覚ます。

時計を見ると、横になってから四時間ほど経っているのが分かる。

「問題なし……」

 私は立ち上がり、実験ノートに一言二言記した後、培養室に置いてある骨髄サンプルを見に行く。

それは日本から送ってもらった智宏の貴重な骨髄だった。人の通常体温より高温にさらされると、

白血球が赤血球を捕食し自己分解してしまうという奇病の原因はやはり骨髄以外にありえないと思った私は、

智宏の入院する病院に連絡した。聞けばやはり骨髄中の多能性造血幹細胞に異常がみられるという。

多能性造血幹細胞はあらゆる血球細胞に分化する元だ。ここから白血球や赤血球は生まれる。智宏の場合、この段階に問題があった。

私はこの問題を解決するため、病院から智宏の骨髄を提供してもらった。

「今度こそ……」

 DNA解析を行い、ゲノム創薬を行うあるいは遺伝子治療を行うということもあるいは可能かもしれない。

けれどその技術はこの時まだ、確立した技術ではなかった。そしてその確立には時間とコストがかなりかかりそうだった。

そんなものを待っている余裕も金も時間も私にはない。

またそういう研究機関で研究を行うために渡りをつけるような社会的苦労をするのも嫌だった。

 前はその程度の労を厭わなかった気がするが、近ごろは嫌になった。

この土地を離れようとすると、自分の中の何かがそれを止める。即ち、「ここにいろ」と呼びかける何かが私の中にあった。

 私以外の何者かに煩わされることの大嫌いな私はだから、この大学でも可能な、従来通りの創薬を行うことにした。

つまり私は今、智宏の骨髄中の造血幹細胞を健全にするために、ムシュフシュの分泌液をさらに精製調製した試験薬を

逐一動物の骨髄細胞に添加して細胞レベルの観察を行いながら、その成分の微調整を続けていた。

「今度こそ……」

 放射線照射によってあらかじめ様々な血球細胞、その前駆細胞、骨髄幹細胞、

リンパ系幹細胞、多能性造血幹細胞を破壊したマウスを使い、ムシュフシュ由来の精製液を投与し、効果を確かめていく。

「智くん……」

 恐ろしく時間がかかると思われたこの微調整はやはり恐ろしく時間がかかったが、やがて破壊した多能性造血幹細胞を回復させ、

しかも他の血球細胞まで問題なく分化させられる精製液を開発することに成功した。

「誰よりも愛してる……今度こそ……」

 一番問題だったのは、実際に智宏の造血幹細胞で同じことが起きるかどうかだった。

私のムシュフシュが智宏の造血幹細胞を救うことができるか。これを確認する実験は、慎重に取り組む必要があった。

けれど時間も資源もない。

 資源というのは、智宏の骨髄サンプルのことだ。これは無限にあるわけじゃない。だから大切に使う必要があった。

 もう一つの時間というのは、私が意識を保っていられる時間だった。体の調子はすこぶるいいはずなのに、眠気がひどい。

まるで今まで眠らなかった分の借りを返せと体が言っているかのように、睡魔が私を襲った。

けれど、睡魔に妥協するわけにはいかない。私は昔のように自らの肉を刃物で傷つけ、傷みで眠気を覚ましながら実験を続けた。

幸い、どこの肉をどんなに深く抉ったり傷つけたりしても、私の体は次の日には完全に再生していた。ふふふ…… 

「お願い……治って……」

 智宏の骨髄サンプルで実験をしている間、私の口からはいつも“お願い”があふれた。

「智宏を救って……」

 誰に祈っているのだろう。私は宗教を信じていない。神を信じていない。

ということは、私が祈りをささげているのはムシュフシュだろうか。

「智くん……病気が治りますように」

 あるいは、私は私の脳髄にでも祈っているのだろうか。この難題を解決できますように、と。

「……!」

 私のような悪魔の祈りが通じたらしい。実験結果が出た。

 人の体温より少し高めに設定した環境下においたシャーレの中で、智宏の造血幹細胞は自己増殖をしていた。

さらに自己増殖した造血幹細胞をシャーレにとりわけ、それぞれに分化を促す様々なサイトカインを加えたところ、

白血球、赤血球が生じ、しかも白血球は赤血球を食べず、共に自己溶解も起こさなかった。

 智宏の造血幹細胞は、健常人のそれと同等になった。

「ああ、ああ……」

 データを全て確認した後、私は激しく泣いた。なぜか涙は血の色だったが、そんなことはどうでもよかった。

 顔面を血だらけにして泣いてこの成果を喜んだ。あと少しだ。あと少し。あと少しで、智宏を救える。

 念のため、同じデータが元の智宏の造血幹細胞からも得られるかどうか、何度も試した。

結果は良好だった。私の調整に調整を重ねたムシュフシュの精製液は智宏の奇病に効果があるとはっきりした。

「あと少し、あと少し……智くん……」

 最後の難関があった。治験だ。

 そもそも生きている動物にこの精製薬を投与しても問題ないか、私は確認する必要があった。

精製薬の調整の初期段階でマウスを使い似たようなことを試したが、より高等な動物での治験はまだだった。

まず、犬猫を適当に探し、捕まえてきて治験に使用した。意外にこれがすんなりいった。

つまり副作用がほとんどなく、肉体が多少活性化するにとどまり、物理的に破壊されない限り安定して生存できることを確認した。

「やっぱり……すごい」

 ムシュフシュがどれだけ奇跡を体現しているか、改めて思い知らされる。

そもそも骨髄をどうにかしたいのなら骨髄移植をする以外にない。けれどムシュフシュはそれを必要としない。

動脈に精製液を注入するだけで、骨髄をどうにかしてくれるのだ。

そのメカニズムには大変興味があるが、智宏を救う直接的な研究テーマではないので、今は放っておこう。

とにかくこの「奇跡の塊」のおかげで、治験は思わぬほどスムーズに進んだ。

 次に私は人間、つまり自分の体を使って治験を始めた。

哺乳類、特に人に薬物を投与する際はうんざりするほどの手続きと費用がかかる。

だけど最終的には人で治験しないと十分とは言えない。人体で異常をきたすような代物を弟に与える訳には絶対に行かないからだ。

では誰で治験するか?

イヴェットを使うという手もなくはなかったが、やろうとした時には行方不明者のリストに彼女は上がっていた。

であるからして、私は自分を選んだ。これが現段階では一番安くかつ手早く済む。

「今度こそ……」

 しかし、やはり眠気がひどい。だから意識のはっきりしている時間に何もかも済ませておきたかった。

 自分で薬を試している間は、眠った。そして起きて、採血、採尿、脈拍などを片っ端から試す。

それが問題ないことを確認して、また薬を投与する。それを繰り返した。繰り返したが、問題はなかった。

「やっと……できた」

 私は確信した。智宏の奇病をついに克服できる薬を開発したと私は確信した。

「できた、智くん……できたよ」

 智宏の造血幹細胞が完全回復した時に比べればあまり感動はしなかったけれど、ほっとしたせいか目からボロボロと涙がこぼれた。

白衣で拭うとやはり涙は鮮紅色をしていた。

「できた……できた……」

 仕事の九割は終わった。あとは、この薬を増産して弟に届けないとならない。そこまでが私の仕事であり使命だ。

「智くん、お姉ちゃんが絶対に助けてあげる」

 私は血の涙で赤く染まった実験ノートの内容を確認し、ムシュフシュ由来の精製液の増産にとりかかることにした。

 三日後、私は精製液の増産を終え、無菌状態で密封した後、弟の元へそれを送った。

両親には医療現場との混乱を避けるため、あえて病院の方には黙って智宏に与えてほしいと手紙を添えた。

何かあったら大問題だが、せっかく作った薬剤を取り上げられるくらいなら医療人の資格を取り上げられた方がましだと私は思っていた。

それに、絶対の自信があった。これでダメだったら、私は……もう立ち直れないかもしれない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 薬を智宏へ送ってから、私は学校に行かなくなった。

正確に言うと行けなくなった。眠気があまりにもひどかったからだ。

ほとんど一日中アパートの自室で眠るようになっていた。でも都合はよかったのかもしれない。

学校はとうとう一時閉鎖されてしまった。

学内の行方不明者が増える一方で、その不可解な事態は学外にも明らかな広がりを見せているためらしい。

街には猟奇殺人を疑った警察だけでなくテロの可能性を心配した軍隊まで日夜出動し、警備に当たっていた。

それでも事態は収まりがつかないという。眠りから覚めてつけっぱなしのラジオでそうした情報を私はポツリポツリと耳にする。

そして起き上がり、ミネラルウォーターを一口飲むと、またベッドに横になり、長い眠りにつく。

眠りたいとは少しも思わなかったが眠くて仕方がなかった。瞼を押し上げているのすら辛かった。

しかもこの眠りはひどく疲れた。どうしようもない、面倒な夢をいつまでも繰り返し見させられたからだ。

私は夢の中で子供を産み続けていた。だけどその子供はみな羽が生えていて、空を自由に飛び回っていた。

私自身も跳べたが、大抵は繭を休みなく森の中で産み続けていた。繭の中から、子どもたちがそれを割って出てくる。

私はそれを無表情で見ている。

生まれた子供たちはしばらく空を飛び回っているけれどやがてそれに飽きて飛び回るのをやめて降りてくる。

皆で森の中にある泉に移動し、そこで集まって酒宴を開く。おそらくあれは酒宴だ。

泉の水を木で作った器に汲んであおるだけなのに、皆そのせいで陽気に歌い出し、狂ったように踊るから。

そして私はというと、その酒宴に出される液体を見た時初めて顔の筋肉を歪ませる。

理由は弟のために作った製薬と様子が合致していたからだ。そしてそれを浴びるように飲む。

すると、気分が高揚する。快楽の泉に裸で飛び込んだような爽快感が全身を襲い、何もかもどうでもよくなる。

そうなるとあとは、私と子どもたちのいる森に迷い込んできた人間の子どもや森の傍で働いている樵をさらってきては、

皆で嬲り殺した。

そうして一通り殺害を楽しんだところで突然、森が燃え、次に私たちがその火で燃えた。

必死に逃げるけれど、火の手からは逃れられず、私の子どもたちは羽から燃え尽き、結局私も焼けた。

そんなくだらない夢を何度も何度も私は見た。

目が覚める。ジメジメして寒い。

「……」

 窓を見ると真っ暗だった。つけっぱなしのラジオが午前二時を知らせている。どうやら夜らしい。

 ドクンッ。

「ぐっ!」

 私は心臓を針で刺されるような鋭い痛みを覚える。それで一気に目が覚める。

体を起こし、キッチンに行って水を久しぶりにガブガブ飲む。

 ドクンッ。

ドクンッ。

「く……なに、これ」

 流し場に手をついたまま、私はしゃがみこむ。鼓動に合わせて、刺すような痛みが連続する。

「はあ、はあ、はあ」

 ドクンッ!

 ドクンッ!

 ドクンッ!

 ドクンッ!

「う……いたい……なんなの……」

 あまりの痛みに目の前が真っ暗になる。気を失いそうだ。一体どうして?

 ドクンッ!

 ドクンッ!

 ドクンッ……

「?」

 突然、痛みが止まる。鼓動の音だけが体内に響く。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 目を開ける。私は立ち上がり、額に浮いた汗を袖で拭く。

キッチンの端に置いてあるワインに目が留まり、それを掴み、コルクを引き抜いてそのままでグビグビと飲んだ。

半分ほど残っていた赤ワインを全部喉の奥に流し込んだ時、ようやく体が楽になった。

「なんだったのかしら、今のは」

 フラフラと窓辺に移動する。カーテンを開き、夜空にかかる星を見る。新月なのか、月はない。

ただたくさんの星が空にちりばめられて美しかった。

「少し、歩こうかしら」

 外に出て夜気を胸一杯に吸いたい衝動に私は駆られた。命の洗濯といえば大袈裟かもしれないが、とにかくガス交換がしたくなった。

私はトイレをすませ、服を着替え、髪を櫛で梳いた後、外に出た。

 夜間外出禁止令が出ているとラジオで聞いた。

ということは、一般人は誰もいないけれども武装した公務員は警戒のために外にたくさんいるはずだ。

けれどその日その時は誰も外にいなかった。ただ私独りだけが夜の街を出歩いていた。

「す~、は~」

 いい気分だった。夢の中で浴びるほど酒を飲み、目が覚めてすぐに赤ワインを流し込んだせいかもしれない。

今なら本当に空だって飛べる気がする。

 カツッ

 カツッ

 カツッ

 カツッ

 カツッ

 寝静まった街には靴音だけが響く。

かつては酔っぱらいの歌や笑い声、車の走る音がいつまでも聞こえたが、今はそのどれもない。

みな家の中で息を潜めているのだろう。あるいは息の根を止められたのかもしれない。

 サ~……

 霧が出る。この国のこの時期なら別にそれ自体はめずらしいことではない。けれど霧の出方がいつもと違った。

霧の出始める方角が違う。しかも出たと思うとあっという間に足元が見えなくなった。

さらに、異常なほど濃くて、体に絡みつく。

「はぁ……」

 霧そのものは趣があって嫌いではない。けれど今は腹が立った。私は星月夜に興を覚えて散歩している。

だからそれを邪魔するような存在はどうしても許せなかった。

「……イラつくわね」

 霧をかき消したい。何だろう、例えば大きな団扇かなんかで、一気に扇ぎ飛ばせればいいのに……ああ。あれでいいか。

 私は立ち止まる。背中に意識を集中させる。夢で見たように六枚の翼が背中に生えているイメージを結ぶ。

そしてそれを羽ばたかせる。

 目障りな霧め。

「消えなさい」

 ブオオオンッッ!!

 髪が乱れる。駐車してあったパトカーが吹き飛ぶ。

霧は渦を巻いて掻き消える。

道路を挟む両側の建物の窓ガラスという窓ガラスが割れ、道路標識の棒がへし曲がる。

道路に敷き詰められた敷石が何枚か剥がれ飛んだ。

「そうね、こうでないと」

 空を見上げる。星がきれいだ。

今なら飛んでいって手でつかめそう。つかめなくても、壊せるかもしれない。星の一つや二つ……。

「?」

 人の気配がして、視線を落とす。ひっくり返ったパトカーの横に、男が立っている。

月のように明るい星明りは私に、さらにその男についての情報を提示する。皮の手袋をはめ、黒い服に身を包んでいる。

髪は銀色だが、顔の皮膚からすると、まだ歳は若い。彫りの深い顔だ。おそらく日本人ではない。

不思議なのは、ブラックオパールのように黒く青く光る二つの瞳だ。

弟に昔読んであげた絵本に出てきた「星を食べた蛇」を私はふと思い出した。

濁流のような色をした蛇は輝かしい星を食べて、その体色をもっとましなものにしようとするが、

体の色は変わらず、目だけがなぜか光るようになったという変な話だった。その変化した目の色が、ちょうどこの男のそれに似ていた。

それが今、私を正視している。

「……」

 が、別に男などどうでもよかった私はまた歩き出した。男は前を向いたままその場を動かない。

けれど私が彼の傍を通り過ぎようとした時、

「縄張りに近づいた人間に寄生し、“怒れるムシュフシュ”を渡した。貴様で間違いないな?」

 訳の分からないことを告げてきた。私はもう一度聞き返そうと振り返った次の瞬間、

ドンッ!

「!?」

 銀髪男が放ったアッパーを顎に食らい、私は空高く吹き飛ばされた。

 ドゴ―――ンッ!

 民家の三階の壁に大穴を開けて、私は倒れている。なんだろう、腹が立つ。なんで私が殴られなければならないんだ。

いや、確かに自分の都合で色々なものを犠牲にしてきたから、誰かに恨まれていても仕方ないのかもしれない。

 ムクッ。

ゴキゴキ。

「ひいっ!?」

 私は起き上がり、首を鳴らす。すると寝巻を着ている四人の家族らしき人間が部屋の隅で身を寄せ合い震えあがっている。

突然大砲の玉みたいに私が飛んできたからだろう。それは確かに怖い。

「ごめんなさい。起こしてしまって」

 私は慇懃に謝る。睡眠の邪魔をしたのだ。お詫びに眠らせてあげよう。永遠に。

 ザッ! 

 私が突っ込んだ家に銀髪男が飛び込んでくる。

「また来たの?」

 私は言いながら、寝巻の夫婦二人の顔に手のひらを充てる。

手のひらからムシュフシュ入りの黒い液体がドロドロと湧きだし、二人の目や鼻や口や耳に流れ込む。

私はムシュフシュの研究者だ。ムシュフシュを体内に仕込んだ覚えはないけれど、ムシュフシュの分泌液くらい出せても不思議じゃない。

たぶん治験の副作用だろう。どうでもいい話だ。

「貴様」

 銀髪男が眉間に怒りを込める。私めがけて飛び込んでくる。

 ガシッ!

「ケハ!」

 けれどすでに黒液を注ぎ終えてある夫婦の子どもたちがそれを阻止する。

「何のつもりか知りませんけど、私の散歩を邪魔した罪は重い。死をもって償いなさい」

 夫婦に黒液を注入し終えると、私は銀髪男が私にやったように拳を固め、アッパーカットを決めるために加速した。

銀髪男は二人の子どもたちを逆に盾にする。そうね。確かにそうすれば私は直接銀髪男を殴ることができない。でも、

 グシャッ!!

「っ!」

 刺し貫くことならできる。私は拳を開き手刀に替えた。おかげで盾になった子ども一人の胴と銀髪男の左手を裂くことができた。

とっさの判断は大事だ。まだこの辺の勘は利くらしい。よかった。何とかなりそうだ。

 シュパッ!

 ドスドスドスドスッ!!

「?」

 と思った矢先だった。大胸筋と外腹斜筋、腹直筋に鋭い痛みを感じる。見るとナイフらしき刃物が私の体に四本も刺さっていた。

飛び道具とはずるい。いや、ずるくない。私も、言ってみれば生き物を飛び道具に使っている。やっていることは同じか。

私がぼうっとしているのが悪い。

「ケハッ!」

銀髪男は子ども一人を除いた三人と戦い続けている。私はナイフを引き抜こうかどうか考えながら三階から飛び降りる。

 スタ。

「……」

 思えば不思議なことばかりだ。

爆風を巻き起こしたことも、三階まで殴り飛ばされて平気なことも、四人の罪のない人間をムシュフシュの餌食にしてしまったことも、

三階から飛び降りたことも、思えば全てありえないことだった。ならばこれは夢か。私はいまだに夢を見続けているのか。

「いつから私は」

 夢を見続けているんだろう。

いつからだ?そしていつまで夢を見続けるんだろう。

いつから現実は始まるんだろう?

現実の中で私は弟とどういう形で存在しているんだろう?

「あはは」

 もう何が何だか分からない。私は、何だ?

「会いたい」

 弟に会いたい。智宏に会いたい。愛歌お姉ちゃんだよ。智くん、私の事覚えてるって、話しかけたい。抱きしめたい。抱きしめられたい。

「智くん……うっ、うっ……」

 もういやだ。考えたくても思考がまとまらない。何かが私を蝕んで、私の時間を奪っていく。もう、何が何だか分からない。

「うっ……ううっ……」

 終わりにしよう。もう、いやだ。薬はきっと効いて、弟はきっとよくなる。それで、おしまい。私の役目もこれで、おしまい。

 ブシュッ。 ブシュッ。

 ブシュッ。 ブシュッ。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 ナイフを引き抜く。黒い液体が体から流れて止まらない。そうか、赤い血は、もう流れていないんだ。

ってことは私は人間じゃないってことか……。

「なんだ……」

 じゃあ、人間の法に従う必要なんてないじゃない。だったら、智宏と一緒になったっていいじゃない……

 ドサッ。

「智宏……智宏……」

 倒れた方が星はよく見えた。仰ぎ見る光を架空の線で結びながら、私は弟の面影を星座でも探すようにして思い出そうとした。

けれど弟の顔は浮かんでこなかった。悲しい。弟のことをこれだけ思っていたつもりなのに、弟の顔すら出てこないなんて。

もうだめだ。唯一持ってきた写真はどうしたっけ?あれ、思い出せない。もう、どうしようもないな。

 カツッ

 カツッ

 カツッ

 物の壊れる音と殴り合う音が聞こえなくなる。すると再び敷石を踏む革靴の音が響き出す。

それはどんどん近づいてきて、黒液の中で仰向けに横たわる私の傍まで来て止まった。

残念だけれどそれは智宏じゃなくて、銀髪男だった。さっき片腕を落したはずなのに、両腕ともきちんとつながっていた。

「智宏……智宏……」

何も言わずしばらく私をじっと見ていた銀髪男だったが、彼はやがて、

「人の子よ。聖柩となり妖精を秘めて眠れ。この世の終わりまで」

そう言って私の額に片手で触れた。私はその手を振り払うほどの気力も起こらなかったから、されるままに任せた。

「……」

手袋ごしに触れられているだけなのに、その指先から何か熱いものが体の内に流れ込んでくるような感じがした。

それが何なのか考えているうちに、私はハッとする。瞬間、弟の面影が私の中に立った。

私はその面影を抱きしめるかのように、目を瞑る。それきりもう、目は開けなかった。

闇の中で様々な光景がフィルムのようにどこかから流れるように現れては、消えていく。

女神、高校の頃の同級生、両親、教授、研究室の同僚、小動物、沼、子どもたち、智宏、そして私。

 私は暗闇の中で、かつての私とかつての智宏が闇の奥底へ歩いていくのを落ち着いた気持ちで見送った。

そしてまもなく……私は……私を……閉じた。



四、KATANA


ホーホウ。 ホーホウ。

 閃光を瞼の裏で感じた。そしてそれが収まってすぐに鳥の低く鳴く声がして、匂いがした。

 匂い――。

 中西や菌屍が出していたあの、戦闘や菌ムシュフシュを連想させる妙な〈匂い〉じゃない。

もっと野性的で、原始的で、心の再生を促すような匂い。 

草の匂い。花の匂い。木の匂い。土の匂い。風の匂い。水の匂い。

昔、家族で登山をしたときに嗅いだそういう自然の匂いが辺りに充満していることに気づいた。そして目を開ける。

「……?」

 森だった。そう、まわりはまさに森だった。

風は冬そのものみたいに凍てついているのに、目に付く太い木々の枝の緑葉は全くと言っていいほど落ちていない。

そして足元は黒い腐葉土で覆われている。クッションのようにそれは柔らかかった。相当厚く積もっているんだろう。

「明るい夜ね。まるで祭りのよう」

「臼井」

 さっき思わず抱きしめた臼井は、僕の胸の中にはいない。かわりに傍の木に寄りかかっていた。

手にはシャムシールを一本握っている。さっき落としたやつだ。それを見て僕は自分もシャムシールを握っていたことに気付く。

少しだけ現実感を取り戻す。シャムシールも幻みたいなものだけど。

「ここは?」

「病院。さっきと同じ場所よ」

「ほんと?」

「間違いないわ……舞踏譜の力のせいで風変わりな意匠が凝らされているけど、場所は燕塚病院の敷地よ。それにしても厄介ね」

「何が?」

「この「世界」は、外部からの出入りが不可能な構造になっている。外からの助けはまず期待できないわ」

「それはつまり……」

「私たちが「任務」をしくじれば、かなりの高確率で、この事件の首謀者を止められる者がいなくなるってことよ」

「そうか」

「全然驚いていないような顔をしているけど?」

「いや……ただもう僕は、誰かにこの仕事を押しつける気なんて全くない。だから、正直何とも思わない」

「……強くなったのね」

「それに外から助けがなくても、臼井が傍にいてくれればそれで平気だよ」

「ふふ、真顔でよく言ってくれるわね」

 僕は空を見上げる。かろうじて覗ける樹間から、風に乗って雲が流れていくのが分かる。

 夜空を雲が覆い始め、僕たちを木々が覆っているのにお互いの位置をはっきり確認できるのは、

「……蛍?」

「さあ、さっきの閃光の名残かしら。それとも未練に身を焦がす人魂か」

 蛍のように草木の間をひらひらと舞う光のおかげだった。

まるで少し暗くしたイルミネーションが揺れ動くように、森の中をたくさんの光がゆっくり、ゆらゆらと移動していた。

「さて、どっちへ行こうかしら」

 ホーホウ。

 ホーホウ。

 鳥。闇を静かに振るわせる低い鳴き声からすると、フクロウなのか?……あっ。

「ちょっと、待って」

 僕は目を瞑り、鼻からゆっくりと空気を吸う。そして確認する。自然の匂いとは違う例の菌屍の匂いを。そして、指をさす。

「こっちだ」

「菌屍の匂いね?そう、じゃあ行って終わらせましょう」

「うん」

 匂いの濃さで分かる。匂いを出す張本人は普通の菌屍じゃない。とすると、姉さんがまだ生きているのかもしれない。

さっき姉さんと直接戦っている最中感じたあの匂いの濃さからすると、それは十分あり得る。

けれど姉さんは、僕が斬った。

だとすると、あるいは姉さんじゃない誰かがいて、それが匂いを出している。姉さん同様、菌屍を操り、束ねる誰かなのかもしれない。

 ホーホウ。

 ホーホウ。

 臼井は一人じゃ歩けないから、僕は肩を貸す。

匂いのする方向へ足を運びつつ、僕と臼井は一本ずつ握るシャムシールで道をふさぐ木の枝や草を斬っていく。

そうやって道を確保し、一歩一歩前に進む。

――もう少し円滑にことを進めるつもりだったのですが、人間相手だとなかなかままなりませんね。

「「!」」

 進むべき方向から、声が響いてきた。

――美しい森でしょう。かつてこの森は神の恩寵と慈悲に包まれ、多様な命を育むことのできる森でした。

けれどその森も人間の火によって焼き滅ぼされてしまったのです。

「「……」」

 道を確保するためにシャムシールを振り回しつつ声を聞き、かつ周囲を警戒して僕らは進む。

「?」

 目がかすむ。森の中を歩いているはずなのに、網膜の奥底に何かが映り込むような違和感を覚える。

――人間とは何て愚かなのでしょう。

あまりに愚か過ぎて、自分たちの命だけでなく他の種の生命をも殺しつくしてしまう。分をわきまえることができない。

 ホーホウ。

ホーホウ。

――しかし私たちも少々愚かでした。人間の中には愚かではなく、分相応に生きることを知っている者もいると信じていましたから。

それ自体は過ちではないのですが、分相応に生きることを知らない人間の方が圧倒的に多いという現実は今も昔も変わりません。

そして人間は他の人間と関わっている。

故に一人のまともな人間に心を許すということは、まともではない危険な人間とも接点を持つ可能性を秘めることになります。

結果的にそれが、森の消失を招きました。

 ホーホウ。

 ホーホウ。

――でも人間と私たちの違いは、それに反省し、同じ過ちを繰り返さないことです。

そしてもう一つ、問題を解決しようと思い立ったら、その問題の根源にあるものを根こそぎ除去する点が人間とは異なります。

人間は妥協し、折衷します。が、私たちはそのようなことはしない。真に合理的にものを考え、行動することができるのです。

 中西の声でも、フェナカイトさんの声でも、臼井の声でも、姉さんの声でもない。

今まで聞いたことのない声が、闇の中に厳かに響く。誰が、そして何を言ってるんだ?

――森の中に人間が足を踏み入れるのは、これは致し方ありません。人間も動物の一種ですから。

森に惹かれるのは当然のことです。けれど私たちの〈譜面〉を人間が踊ることは、致し方があります。

人間に譜面を提供したのが間違いの発端でした。私は譜面を回収する必要がある。いいえ、回収では生ぬるい。

そんなものが人間の手に渡る可能性を残すことすら認めない。即ち舞踏譜及び舞踏譜を知る存在の消滅。

それが私の目的、と今は言っておきましょう。

 舞踏譜。その言葉と流れから察するに、声の主は舞踏譜の真の所有者か。

――いずれにせよあと寸刻待てばいい。つまりこの幻森を歩む一体の魔人形と、一人の悪魔を殺せばそれで済みます。

 人形。たぶん、臼井のことだろう。だとすれば悪魔っていうのは、僕か。

――ええ。……過去を振り返れば、あなたこそ悪魔でした。

「!」

 心が読まれてる。

――最初からあなたを葬っておけば、ことは円滑に進んだのですが、それだけは絶対不可能な肉体を私は選んでしまいました。

本当に、運命の女神とはまことに恐ろしい。私すら彼女の手札の中の一枚なのでしょう。こればかりは覆りません。

 どういうことだ?

――あなたと血のつながりのある娘を、私は選択しました。私の傍にいたものですから。ただそれだけの理由で彼女を選択した。

けれど、それが過ちだったと言えますね。あれほどの狂気を備えた娘だったとは……。

 声の主は、姉さん、つまり金井愛歌を選んだという。つまり姉さんはこの声の主に操られていた……ということか。

――その「姉さん」に憑いた私は当初、フェナカイトという精霊を殺すために兵隊を作ろうと考えました。

この者こそ、私たちのかつていた森の中にやってきて、私たちの森が焼かれる遠因となった「元」人間です。

そして舞踏譜の継承者。彼の者と舞踏譜を消し去るために、私は兵隊を作ろうと考えたわけです。

「それで、ムシュフシュの封印を解いたのね」

 ザシュッ。

 ザシュッ。

 ふふっと笑いながら臼井が草を薙ぐ。

――ええ。彼女の体内に潜り、その肉体の支配権を得るまでの間は、

彼女の記憶を利用して暗示をかけることくらいしかできませんでしたけれど、

それでもムシュフシュの在り処を指し示すことは最初からできました。

 姉さんが、ムシュフシュを手にした。

 ホーホウ。

 ホーホウ。

――しかし、さすがに学者だっただけのことはありました。

私は確かにムシュフシュの在り処を示しましたが、ムシュフシュの効力についてはその段階で何一つ彼女に伝えてはいません。

けれど彼女はムシュフシュから、人体に害のない特殊なキノコ酒を作ってみせた。

「……」

 キノコ酒?

「私の頭の中で精霊が警告している。キノコ酒には関わるなって」

 臼井が言う。

――そうですね。ムシュフシュによって生み出されるエキスを薄めただけの純粋なキノコ酒は私たちの生きる力の源になります。

けれど人が摂取すればたちまち人は人でいられなくなる。

「それはつまり……」

 人は人でいられなくなるというのは……菌屍のことを言っているのか?

――似たようなものです。

「ふふ。それに勝る優れたものをあなたの姉は作ったそうよ?独力で」

「姉さん……」

 その過程できっと多くの人や生き物が犠牲になった。たくさんの菌屍が生み出された。

姉さん……どうしてこんな奴にのっとられたりしたんだ。

――あなたの姉は鋭い方でした。

確かにいくらかの生き物をムシュフシュによって菌屍に変えたこともありましたけれど、その結果を踏まえて、彼女は薬を生み出した。

キノコ酒を精製し、あなたの体の病を癒やすことに特化した成分調整を行い、聖水の域まで昇華させた。

そしてそれが、あなたという菌屍耐性をもつ悪魔を生み出すことになった。

病。

そう。僕は昔病弱だった。

けれどいつの間にか丈夫な体になっていた。

あれだけ苦しんでいたのに、気付けばほかの子と同じように外を走り回ったり、海で泳げるようになっていた。

――聖水です。あなたのためにすべてを捧げ私やムシュフシュすら利用したあなたの姉の奇跡が、病を癒やした。

その後あなたの姉は私が支配しましたが、支配が完了する間際でフェナカイトに出会いました。

結果を言えば、フェナカイトは娘に対して同情し、殺さずに封印した。けれどその封印を解いたのは皮肉にも人間の営みでした。

人間によって同胞を奪われた私が、人間によって復讐の機会を与えられるなどと……。運命の女神の戯れでしょうね。

「……」

 姉さん。ごめん――。

 ホーホウ。

 ホーホウ。

「森が終わるみたいだ」

「出られたわね」

 青い光が木々の隙間を埋める。木々の隙間が増え、光の割合が徐々に多くなり、ついにそれで世界が満たされる。

「湖だ」

 森を出て歩きながら、僕は思ったことをそのまま口にする。

「ええ。しかも」

「「どこかで見たことがある」」

 僕と臼井の声がかぶる。けれど別に驚きもせず、僕らは目の前に広がる湖を見ていた。

 湖を囲むようにして背丈の低い草本で構成された草原があり、その草原を囲むようにして今歩いてきたような森がある。

どうやら僕らは森の中にいることは変わりないようだけれど、その森の中には水をため込んだ一角があるらしかった。

あるらしかったと自分で自分に言い聞かせているのに、

言い聞かせられている自分は「そんなの、前から知ってる」と変な応答をする自分がいる。不思議だった。

こんな光景、僕は見た事なんかない。けれど強い既視感が僕を掴んで離さなかった。臼井はどうなんだろうか。

見たことがあるって言っていたけれど……ああ、夢か。夢で見た。そんな気が……

 ブチャッ!!

「うっ!?」

 顔面に、黒い液体がかかる。慌ててそれを払いのける。これは、嫌と言うほど見覚えのあるものだった。

菌屍がいつも垂れ流している、アレだ。……まさか菌屍がすぐそこにいる!?

「……」

 誰もいない。

「?」

 けれど、湖面に何かがあった。最初は気のせいかと思った。

でも空を流れる雲が切れて月がその光線の足を湖面に這わせたとき、それは確かにそこにいると分かった。

 滑らかな頭。膨らんだ胸元。くびれた腰。不自然にしなやかな四肢。

神経細胞が巨大化したような六枚の翼。そしてガラスのような透明感を放つ異様な体表面。

内部まで透けて、後ろの像が屈折して見える。

――そうやってキノコ酒を口元までわざわざ運んでも、あなたは菌屍にならない。

物として破壊する以外に排除する術がないということですね。

「!?」

 ガラスの天使の体内がぼんやり白く光った途端、さっきまでの声が頭の中に響く。

 あれが、声の主!

「そう、そういうことだったの……」

 臼井がこっちを見る。

「要するにあなたは小さい頃に〈ワクチン〉を接種した。だからムシュフシュの引き起こす菌屍化に抗うことができる。

あの光っている奴が言うキノコ酒はこの黒いドロドロとした液体の濃度と成分をいじったもので、

液を浴びてもあなたが菌屍にならないのはあなたがドロドロ由来の特別な薬を既に摂取していて、

それがワクチン作用を示して免疫をもっているから。アレが耐性とか言っていたのはそういう意味よ。

そしてその薬の開発者があなたの姉の、何と言うのかしら」

「……金井愛歌」

 ドクンッ。

「そう。金井愛歌」

 ドクンッ。

――弟を救えるなら一万回処刑されても構わない……いつもそう自らに言い聞かせ、血と時間をひたすら流し続けた薄幸の娘。

そしてその思いは結晶化し、私の計画を狂わせる能力を備えたあなたという存在を世に残した。

……彼女こそ“女神”だったのかもしれませんね。運命すらものともせず突き進んだ愛の女神。

そしてそれは最後、奇跡を残して菌屍となった。

 ドックンッ!

「……」

 記憶が、頭をよぎる。

 ドックンッ!

 どこかの病院で入退院を繰り返した日々のこと。つきっきりで看病してくれた姉さんのこと。

 姉さんが海外へ留学してから、孤独感が募り、もっと病状が悪くなったこと。姉さんの名前を呼んでいつもシクシク泣いていたこと。

 ドックンッ!

 姉さんの事を思い出すと涙が出るのが辛くて、姉さんの事を忘れようと思ったら、思い出さなくなったこと。

 時が流れ、見舞いに来る両親がある時から、薬を入れた水筒を持ってくるようになったこと。

 理由を聞くと、忘れていた姉さんの話をしてくれ、姉さんからの贈り物だと話してくれたこと。

 医者や看護師に姉さんと姉さんのくれた薬を自慢しようとして両親に固く口止めされたこと。

 飲み始めて間もなく、一度出ると止まらなかった咳がすぐに止まるようになったこと。

 夜ぐっすり眠れるようになって、ご飯がおいしく食べられるようになったこと。

 人と話すのが億劫じゃなくなったこと。歩くのが楽しくなったこと。

 そして、病院に入院しなくなったこと。姉さんの薬が送られてこなくなったこと。

 姉さんが異国の地で行方不明になったこと。

けれど体が健康になって姉さんのことなどどうでもよくなって本当に、忘れてしまったこと。

 ドックン。

 何もかも忘れていた。

小学校を卒業するまでまともに学校なんて通えなかったのに、中学に入ってから毎日のように学校に通えて、

しかも普通の生徒と同じような日常生活が送れるようになって、それが楽しくて、

いつの間にか自分がかつてどうしようもないほど病弱だったことすら忘れていた。

そして連絡が途絶えた姉さんのことも記憶の彼方に葬っていた。

 何て薄情なんだ、僕は。

――幼子の、それも人間の心ですもの。仕方ありません。まったくもって気にすることはありません。懺悔も必要ありません。

どのみちすぐ娘の後を追うことになります。

不幸な姉弟の顛末を物語ったお陰でもう十分に時間をいただきましたし、私は必ず目的を達成します。

「……」

 さっきから人の心を読んだように話しやがって……

「誰なんだよお前!!!」

 姉さんを壊した張本人のくせに他人事みたいに不幸だの薄幸だの女神だの抜かす相手に腹が立って、思わず僕は叫んでしまった。

――申し遅れました。私の名はメリュジーヌ。

かつて世界にひっそりと、秩序を保って在ったのにそれが乱され人間によって森と共に滅ぼされた小さな妖精村の首長。

それ以上でもそれ以下でもありません。

 ザバ~……。

「?」

 僕は頭に響いた内容を理解しようとする。けれどそれを待たずに湖面が乱れる。

その中から、天使と同様ガラスでできたような姿の子どもが一体現れた。羽も数枚ある。

 ガラスの子は湖の上に浮かんだ状態で、両手を前に伸ばし、親指二本と人差し指二本で三角形を作る。

そのすき間から、たぶん僕たちを見ている。

 ピカッ。

 ガラスの子の胸の奥で小さく光が上がる。それはさっき森の茂みの中で見た蛍のような発光体の出す光によく似ていた。

 ツツツツツツツツ……

ただそれは今度、ふわふわと浮遊したりせず、二つに分かれ、両腕を通って、指先に達しようとしている。

何だ?何をしようとしているんだ?

――理解しなくてもよいのです。

その命の価値が妖精の足元にも及ばないあなた方など、滅び、ムシュフシュの苗床にでもなればそれでよいのです。

 キ―――……ンッ!

「ちっ!」

 臼井が舌打ちをする。

「え?」

 ドンッ。

 ガラスの子が作った三角形からまばゆい光が出る。瞬間自分の体が熱くなり、

そして自分と一緒にいた臼井が僕の脇で暴れるのを感じた。臼井に暴れられて僕が倒れ込んだ時、光が僕のすぐ上を通過していった。

 ドサッ。

「?」

 臼井?

 シュ~……

 臼井の下半身は、立っていた。けれど上半身は地面にうつ伏せに倒れていた。

片腕の先の手首も上半身から切り離されて落ちていた。

 え?

 え?え?

「これが……魔法よ」

 うつ伏せになった状態を立て直そうとしているのか、体を震わせながら、臼井の絞るような声がした。

臼井の立ったままの下半身と手首が砂のようにサラサラと崩れていった。

「臼井!!」

「私はもういい!まだ、まだ……くるわ」

 どうでもいいはずない。

臼井はもう戦いなど明らかに不可能な体に成り果てていた。

両手はなくなり剣もメイスも握れなくなり、ついに走り回るための足も失った。

でも、どうでもいいはずなんてない。

「奴らが余計な光を発したら、全力で……逃げな……さい」

「逃げるなんて……」

「いいから、行きなさい!」

 抱き起こすとそのボロボロの体で、臼井は僕を拒絶する。

手首から先を失った腕で、僕を拒絶する。

力ない顎で僕の鬼服に覆われた腕に噛みつく。

「臼井……」

僕はただ、

「ごめん、逃げるよ」

そう告げる。腕に食い込む歯の力が弱くなる。

「でもさ、臼井」

噛むのをやめた臼井はうつむいたまま、こっちを見ようとしない。……別に、それでもいい。

 ギュッ。

「!?」

噛まれた以上に強く抱きしめる。

「僕は自分の気持ちからは逃げない。絶対にお前は置いていかない」

たとえ一万回魔法で焼かれたとしても。

「……」

馬鹿な僕に怒ったのかどうか、臼井は肩を震わせていた。

「ごめん、逃げるよ。一緒に」

「……勝手にしなさい」

傷だらけの愛しい顔を、雫が一筋流れ落ちた。

――宙のように虚しい芝居はそろそろ果てましたか?

「……」

――狙いは外しましたがよく燃えますね。さて……ほほ。焼き殺ぐという行為は人間の業と同じで私はこれを甚だしく憎みます。ですからこれから終いまでは、ただ優しく潰し尽くして、肉塊と亡砂にして差し上げましょう。

 湖面をにらむ。

 ガラスの天使が一体。そのまわりにガラスの子どもたちが次々と波紋を広げて湖の上に浮かび上がってきた。

――“分”という話を先ほどしましたね。繰り返すようですが、人間は欲望の限度をわきまえない。それどころか際限のない欲望をそれ自体正当化する性質があります。これはよろしくありません。ですから、森を焼かれた憾みもありますし、私はもう一度〈妖精の森〉を、人を使って造ろうと思っています。これが私の本当の、そして終の目的です。

「!」

その言葉に反応するかのように、森から湖に向かって異常なほど冷たい風が吹く。草がなびき、水面をさらに波立たせる。

 妖精の森……。

――村落なり国家なり社会なりを成立させるためには、そこに〈民〉がいる必要があります。けれど私の民は幾度も話しましたが、人間という妄執の塊のせいで灰燼に帰しました。

ですから人間で〈民〉を賄うことにします。菌屍となった人間を苗床に、私が胚という愛を注ぎ込む。そうしてこのような、かわいらしい同胞をよみがえらせるのです。

「それが、目的……」

――ええ。人間と妖精が一番よく似ているのは、その復讐性。人間も妖精も復讐の女神が腹を痛めて産み落とした子。簡潔に告げるのならば、「奪われたら奪い返す」。これだけのことです。そしてこれだけのことを考えながら、私は長い間泥中に眠っていました。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

復讐。それが一切の理由。

――然り。この世で一番真っ当な殺人理由です。

 奪われたら、奪い返す。

――あなたもそう思って私に牙を向けて構いません。復讐心と策略を多く備える者だけが生き残る。幸せかどうかはともかく、それが世の摂理です。

「……」

ガラスの天使。

その素性は、かつて人間の手で大切なものを奪われ、破壊された妖精の長。

それ故に人間の命を奪い、その命で自分の大切なものを取り戻す。

なるほど、言っていることは、筋が通っている。

やられたら、やり返す。

やり返さねば、気が済まない。

それが、その思いがなくなれば、どんなに世界は幸せになるか。

けれどなくならない。

復讐の根は太古の昔から生きる植物のように深い。

しかも新しい復讐は絶えず古い復讐の跡にかぶさる。

悲しみと怨嗟の味がする不幸の実はそれゆえ地上にあふれ、絶えることがない。さらなる不幸の種をまき散らす。

――見知ったようなことを言いますね。いえ、あるいは知っているのかもしれませんね。なにせあなたは悪魔ですから。できることならあなたも私たちの共同体の一員として転生して欲しいものです。けれど、それが叶わない体にあなたは既になっていますから。残念ですけどここで屍になっていただくほかありません。死ねば、さすがのあなたも土に還るでしょう。

「……」

やられたらやり返したい。嫌な目に合わせられれば誰だってそれを一度は願う。相手の不幸を祈る。

けれどそれを実現させない所に、苦しいけれど、希望はあるんじゃないのか。

やられたら誰だって腹が立つ。

だけれども、やり返すために時間を使わない。そんなことのために努力しない。

やられたりやり返したりする螺旋から歯を食いしばって抜け出すために、時間を使う。そのために努力する。

そこにこそ、希望はあるんじゃないか。

「そして……」

その希望に目を向けなければ人の存在は無意味だ。だってそうだろう。

自分たちの存在を突き詰めていった先に、人は恨み合いながら人を殺す者に過ぎないなんて答えが待っていたら、そんな生き物、ない方がいいに決まってる。

だからそんなの、絶対に間違いだ。

人は人を恨んでしまう生き物かもしれないけれど、人に頼られたり頼ったりして協力できる生き物だ。

そこに、人の生きる意味はあると思う。

人は、協力して喜べる。その喜びが、復讐心にとってかわることって、できないのか?

――できません。人の性はそれを認めません。

「……認めないのは、お前だろう」

――ふふふ。

「大切なものを奪われたお前にかける言葉がそうそう見つかるとは、僕は思っていない。

そんなにいろいろとものを知っているわけじゃないから。ただ、お前の考え方だと、誰も救われない」

――いいえ。妖精が救われます。

「そしてまた人と殺し合う。復讐の名の下に」

――いいえ。妖精が、限りなく妖精らしいものが、この大地のすべてを覆えば、そのような心配はありません。

「そしてその挙句、人間と似ているお前たちなら仲間を犠牲にしたり裏切ったり妬んだりは絶対にしない?村の中に〈長〉がいるのは異なる意見を取りまとめる必要があるからじゃないのか?」

――……。

「奪われたことは、気の毒だと思う。だけどそれを理由にお前が人から何もかも奪おうとするのなら、僕は止める。割に合わないとお前は思って僕を八つ裂きにしようするのなら、それは受けて立つ。けれど僕がお前を止める理由は、人を擁護したいからじゃない。奪いあうだけじゃ絶対に誰も救えないと本気で僕は思うからだ。だから、全力でお前を止める」

そしてもしお前を止めた暁には、お前のことを絶対に忘れない。

背負った罪は絶対に忘れない。償える形を見つけて必ず償う。人生に時間が残されている限り。

――ほほ……おほほほほほほほほほほほほ……。

「!」

そのときふと、臼井が動かなくなっていることに気づく。

「……」

僕は何も考えないようにして臼井を抱いたまま立ち上がり、森の中に駆ける。

――悪魔だけあって、色々と言葉を弄して相手を丸め込もうとするのがお好きなようですね。けれど無駄です。無謀です。無理です。あなたがそう言っても他者はどうでしょうか?人間の心は有限でしかもバラバラです。どれもこれも異なることを考えて、しかも考えている一人一人が次の瞬間には思想を変える。要するにあてになどなりません。けれど唯一宛になるのが、復讐心です。これだけは決して消えない。裏切らない。あなたの言う〈協力〉というのは理性です。理性は究極において本能に勝てない。自然に対して理性など通用しません。故に、無意味。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

分かってくれとは言わない。

ただ僕はお前に挑む理由を、きちんと伝えたかっただけだ。

――……それなら、もう語るのはよしましょう。あとは互いに意志を貫けばよいだけのことです。どちらかの意志が消えるまで。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

頭に響く声がここで止まる。僕は臼井を抱きかかえて走れるだけ走った。遮蔽物のある森まで、ガラスの天使は攻撃してこなかった。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 森に逃げ込んだあと、一本の樹木を背にして僕は隠れる。そこで臼井をおろし、シャムシールを構える。

臼井を運ぶために一本は持ってこられなかったから、もうシャムシールは一本しかない。

「はあ、はあ、はあ……これで防げるか……」

 相手は魔法を使う。あの荒々しい光。

あれはいくらなんでも剣じゃ防げない。もう使わないみたいなことを言っていたけれど、それは信用できない。

だから、使うという前提でこっちは行動するしかない。

防ぐのではなくて、当たらないように避ける。

そしてシャムシールは防御のために使わない。もう、斬るだけだ。

刃圏に入ったらガラスだろうと天使だろうと妖精だろうと斬り捨てる。これしかない。

「す~、は~……」

 乱れる呼吸音で居場所を察知されないようにするために、急いで呼吸を整える。

かつ気を鎮めながら、もう喋らない臼井を見つめた。

このまま二度と目を覚ますことなく砂になったらどうしよう。そんなことをふと思ったら、目から涙が流れた。

慌てて、拭う。泣いている場合じゃない。剣を握り直す。

 ホーホウ。

 ホーホウ。

 匂う。

濃い匂いの塊から少し離れて、幽かに一つ、近くで匂う……。

「ふぅ……」

 ヴ。

 きた!

 さっきまで湖面を飛んでいたガラスの子が突如姿を現す。手には透明のその体と同じように透明な三日月形の刀を手にしている。

シャムシールに似ていると思った次の瞬間、 

 ヒュルヒュルッ!!

「?」

 シャムシールを握る僕の右手に何かが巻き付く。鞭のように細長い透明な物体が僕の右手を絡め取り、右手の動きを封じる。

それは僕と臼井が隠れた木の真上から伸びていて、その先には別のガラスの子が隠れていた。

 ヴ。

 ザシュッ!

 目の前にいたガラスの子の翅が超高速で動く。気づけばワープでもしたかのようにガラスの子が僕の目の前にいる。

手にしたガラスのような三日月刀で、動きの封じられた僕の右腕を切り上げる。鬼服ごと僕の腕は切断された。

「ぐああっ!!」

 けれど右腕を失ったために、体の自由を取り戻す。腕を切り上げて満足しているガラスの子の顔面に僕は左手を素早く這わせる。

 ガシッ。

 顔面を本気で掴み、ガラスの子の両足を踵側から払い、宙に浮いたところを地面めがけて叩き落とす。

といっても、地面に叩きつけるなんて、そんな「生易しい」ことはしない。

かつて臼井が夜の街の戦闘でやってみせたように、僕はガラスの子の落下を始めるのと同時に、腰を落とし左足を曲げ、

自分の膝めがけてガラスの子の首を全力でぶつける。

 バシャッ!

 膝の上にガラスの子の首のみが接触する。そしてそこだけにすさまじい力が集中する。

頸椎で自分自身の全体重を受けたガラスの子の首が通常とは逆に大きく折れ曲がり、ついに千切れる。

臼井はこれを「ギロチン」と呼んでいた。

ガラスの子の首も胴体も三日月刀も水のようにビチャビチャに飛び散り、そこはすぐさま鏡面のような鋭い光を放つ銀色に変わる。

 ヴ。

 ドスッ!

「うっ!」

 ようやく右腕の付け根に激痛が走り始めた時、背中に違和感を覚える。鬼服を突き破って自分の胸から透明の三日月刀が飛び出ている。

ああそうか、ようするにこのガラスの子たちは僕の真似をしているんだ、

さっきのガラスの鞭は鬼服で姉さんを倒した時の真似だ。それでこの三日月刀は僕のシャムシールの真似で……

 ブンッ。

 頭ではそんなことを考えているのに、体は意思の命令を待たずに戦うための行動をとっさにとり始める。

全力で左足を後ろに蹴り上げる。僕の背後にいて三日月刀が抜けないガラスの子はその足に驚いて剣を手放す。

三日月刀は僕の胸元で水のように溶け散る。すぐさま僕はガラスの子の方を向く。

 その顔はよく見ると、今はアルバムでしか見ることのできない、幼いころの僕の顔だった。

 一瞬気味悪いものを感じつつも、戦闘に集中する。体に意思を合わせる。

 ヒュルヒュルッ!

 ガラスの子の左手が伸びて、僕の残された左手に巻きつく。たぶんこれで動きを封じたつもりなんだろう。

でも、この距離だとそれはあまり意味がない。間抜け。

 ダッ!

 ガシッ。

 僕は左手の動きを封じられる前に、一気にガラスの子との間合いを詰める。

そしてガラスの子の首に左手の人差し指・中指・薬指を思い切り差し込む。ちょうど気道を切断するようなイメージで。

そのままガラスの子の体を浮かせ、今度は地面に叩きつける。ただし腐葉土というクッションの上ではなく、固い木の根の上に。

 バシャッ。

 僕の三本の指がさらにガラスの子の首にめり込む。首が一瞬伸び、そして千切れて、液化した。気づけば一面銀色に光り輝いていた。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 その銀世界を、僕の右腕から出るおびただしい量の血が赤く染めていく、

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 腕と、胸にあいた穴からの出血がひどい。このままだと、まずい。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 出血を抑えないといけない。そんなことわかっているのに、

「はあ、はあ……」

 僕の体は、臼井の元へ向かっていた。

「臼井」

 木の根元で動かない臼井のもとまでたどり着く。木に寄りかかり、僕は臼井の顔に左手で触れる。

「はあ、はあ……」

 もう、おしまいかもしれない。もうすぐ、この地球のどこにも僕はいられなくなるのかもしれない。

 ヴ。

 ヴヴ。 ヴ。

 僕と臼井の所に、またガラスの子たちが現れる。今度は三体も集まった。それなのに、僕はこのザマだ。

「……」

 僕しかいなかったら、たぶんもう諦めていたと思う。

こんな姿になったら、もうあとは勝手にしてくれって、投げ出してしまったかもしれない。

全身に力がほとんど入らない今、きれいごとなんて言っていられないって、投げ出してしまったかもしれない。

「臼井……」

 ギュウッ。

 でも、僕は一人じゃない。

この銀色の世界ですら、僕は一人じゃない。

こんなボロボロになるまで戦い抜いた臼井を独りぼっちにしてあきらめるくらいなら、最初から生まれなかった方がマシだ。

「好きだよ……誰よりも」

 お前を想うこの気持ちだけは最後まであきらめない。……本気でお前のことを愛しているから。

 ガラスの子たちはニコニコ笑っていた。攻撃を仕掛けてこない。それどころか、地面に降りてその場で踊り始めた。

仲間の流した「血」で生じた銀盤の上で、彼らは思い思いに好きな踊りを踊り、口を開き声なき声で歌を歌う。

その体の中心が、ガラスの天使が僕に話しかけてきたときのようにキラキラと光っていた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 僕の死に際を見届けるために、いるらしい。

「……」

 ……。

「……」

 悪いけど、こんなところで絶対にあきらめない。死ぬまで絶対に僕はあきらめない。

「……」

 考えろ。何かある。何か全てをひっくり返す力がどこかにあるはずだ。考えろ。考えろ。考えろ。何か、何かあるはずだ。

「……」

 舞踏譜――。

 そうだ。そもそもそれがあったから、ここまで戦ってこられた。そうだ。舞踏譜だ。

舞踏譜を……でもどうやって、どうする?

もう立てない。立てたとしてもまともにステップを踏める状況じゃない。

踏めたとしても、鏡はどこにある?第一何を望む?……やばい、急がないと。

あきらめたくないけれど、出血が多すぎて意識が朦朧とする。何か、何かないのか。

「……」

 暗くなる。無邪気に光るガラスのせいで周囲が明るくなったのに、また何もかも暗くなる。

それでも精一杯目を見開き、見えるもの全てを見る。

森。銀色の残骸。ガラスの子の踊り。

臼井。千切れ飛んだ僕の腕とシャムシール、僕の体を守っていた鬼服。

「……あ」

 “アレ”は?

 アレが、あった。

けれどアレがこの場合、どういう結果になるのか分からない。

 KATANA――。

 双子のハドロンとバリオンは、融合できる。

ゲームの場合、融合したことで特に新しい技を使えるようになるわけじゃないけれど、とりあえず守備力と攻撃力がともに上がる。

そして一定時間を経過すると元に戻る。これが、特殊技を多くもつ彼ら唯一の必殺技だ。

特殊技が多すぎる故に必殺技をちゃんと用意されなかった唯一のキャラともいえる。

確か名前の由来は「刀」じゃなくて形を無くす、つまり「形無かたな」だとネットで調べたら書いてあったのも今、思い出した。

 形無――。

 僕と臼井で、やれるか。どちらも一人じゃもう戦えない。

力を合わせることでもう一度立ち上がることができるのなら、やりたい。

でもどうやって?

 ヴ。

 ヴヴヴ。

 ヴ。

 ヴヴ。

 僕らの周りで踊るガラスの子は少しずつ増えていく。彼らはみな単独で踊っている。けれど時々、複数になった。

地面の下にまったく同じ踊りをしている一体が現れる。……違う。違った。

ガラスの子を殺した時に生じた銀色の体液の上を彼らが移動した時、鏡のようになって真下にその姿が映り込んでいるだけだった。

「……鏡」

 鏡は、ないことはない。僕の寄りかかっている木の根元とその周辺は、ガラスの子の体液で銀色に光っている。

これを、鏡に見立てて、踊りを踊れないか。

「……」

 踊る。けれどそのための足が臼井にはない。僕は失血が多すぎてもう立てない。

けれどまだ、指がある。

「……」

 臼井や、フェナカイトさんは踊るといったとき、足で踊らなければいけないと言ったか?

指先を、足先に見立てることはできないのか?

「……」

 試す価値はある。

というよりもう、これ以外に試せる手段はない。

「ぐぅ」

 ずっと抱きしめていたくても腕が一本しか僕にはもうないから、臼井を体の前にのせるようにして抱く。

体をずらし、寄りかかる木の根元に左手全体が映り込むようにする。

「はあ、はあ、はあ……」

 残された力をふりしぼり、指を二本、足に見立てて土の上に立てる。

銀白色に染め上げられた木の根元に今、僕の左手が二本、指を足にして立っている。

まるでピアニストがピアノを演奏している途中で時間を止められたような姿だった。

「はあ、はあ、はあ」

 指で舞踏譜を「踊る」なんて、ダメかもしれない。フェナカイトさんが知ったら、「正気か?」と言うかもしれない。

「ふふ」

 ダメなら、その時はその時だ。開き直り、目を瞑る。舞踏譜の踊りを思い出しながら、KATANAを強く願う。

具体的にどう願えばいいのか考えているうちに、僕の脳裏に、臼井と二人で踊る姿が浮かんだ。

それがあまりにうれしくて、僕は夢中でそれをイメージした。ただ、それだけ。あとは指を丁寧に銀樹の傍で動かした。

暗闇の中で「踊り」を終えた僕らは言葉もなく、唇と唇を重ねた。

 シュンッ!!

「!」

 一瞬のことだった。

指先で例の、願いを込めて舞踏譜をきちんと踊った時に見える閃光が走った。

「「「「「?」」」」」

 ガラスの子たちは踊るのをやめ、こっちに首を向ける。

――ぼうっとしてまた刺されたり腕を斬られたり足を焼かれたりするのはもうゴメンよ。

「?」

 臼井の声がした。

けれどその臼井は、もうどこにもいない。

僕の胸の中にいたはずなのに、どこにもいない。

かわりに僕の鬼服の上に、たくさんの砂があった。ああそうか、臼井、もう……

――確かにあなたの手の届かない所にいる。でもまだくたばってなんかいないわ。

 また臼井の声がする。きっと僕は失った臼井の幻を引きずっている。ごめん、臼井。舞踏譜で君を救えなかった。

――メソメソしている暇なんてない!

いい?あなたの中に私はまだいる。

いつまでいられるか分からないけれど、今はとにかくここにいる。だからやるわよ。

 やるって、何を?

――決まってるでしょ!闘うのよ!!

 ヴ。

 三日月刀を握ったガラスの子二匹が迫る。

――貴方の中で私が踊る。あなたはその手にした獲物で戦いなさい。

 シュンッ!

 ガキンッ!!!

「はあ、はあ、はあ」

 振り落された二本の三日月刀を、それそっくりのシャムシール二本が受け止める。シャムシールは二本とも、僕の手にあった。

シャムシール?っていうか、僕の右腕、いつの間に。しかも僕、あれ?立ってる。もう立てないはずだったのに。

――来るわ!

 臼井の声で我に返る。三日月刀を止められたガラスの子二体は羽を使って一旦後ろに引き、

今度は僕の背丈より少し高いところに高速で移動し、もう一度刀を振り落とす。

「……」

 臼井。一緒にいるんだな。

――ええ。しばらくの間、ここに間借りするわ。

「いつまでもそこにいてくれて構わない」

――そうね、うれしい誘いだけど遠慮するわ。時間がなさそうだから。

「そうだな」

 時間、ないんだった。

じゃあ急がないと。

まだ話したいことがたくさんあるから。

 ガキンッ!

 再び落ちてきた剣を受け止めた直後、僕は右足でガラスの子の脇腹を蹴る。

その威力は自分でも驚くほど強く、一撃でガラスの子はビチャビチャと崩れてしまう。

たぶん臼井のもつ技量が影響しているんだろう。それなら使わせてもらおう。存分に。

「うおおおっ!」

 即座に僕は順手に握っていた二本のシャムシールを空中で逆手に持ち返る。両方とも防御に使う。攻撃は、足を使う。

 キシィ―――ンッッ!

 薙ぐように振ったガラスの子の三日月刀をシャムシールの刃先で受け流す。

瞬間火花が散り、三日月刀の刃を完全にかわしきったところで、

 ズゴォンッ!

 僕は足を振り上げ、つま先をガラスの子の顎にぶつけて、首から上を粉砕する。

大地に倒れる間もなくガラスの子の体が溶ける。

 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ。

 これでもかというほどたくさんのガラスの子が僕らの前に集まる。

みんなこっちを見て笑っている。

「……あのさ」

 さっきまでその笑顔は僕に恐怖しか与えなかった。けれど今は違った。ただ、イラつく。

その表情は、その飛行は、その踊りは、時間を稼いでいるようにしか見えないから、無性にイラついた。

「遊んでいる暇はないんだよ!!」

 シュルシュルシュルシュルシュルシュルッ!!

 僕が怒鳴るとほぼ同時に、透明な鞭が僕をめがけて四方八方から伸びる。

ガラスの子どもたちの、鬼服による、おそらく〈双羅回天〉の真似。

僕を怒らせ、冷静さを失わせたうえで技を発動、動きを封じて、確実に敵を倒す算段だろう。

 シュルシュルシュルシュルッ!!

 透明な鞭が空間を埋め尽くす。

そしてその中を、鞭に触れぬように無心で駆ける。

ガラスの子の一体を蹴り殺した後、木を駆け上り、宙高く飛び上がったあと、僕は僕の〈双羅回天〉を発動する。

――ダメ。一人で踊っては。

 ギュルギュルギュルギュルッ!!!

 僕は鬼服の帯を全て解放する。体を包んでいた帯がすべて右腕の肘から先に集まる。おそらく鬼服は右腕から解放され、鞭のように先に延びるだろう。僕はそう思った。けれど違った。

――二人で踊るの。私たちなら一緒に踊れる。

 臼井の声が強く響いた。そうだ。僕らは最後まで一緒だ。一緒なんだ。

――教えてあげましょ。本物の“捨て身”ってヤツを。

 ギュルギュルギュルギュルギュルッ! 

 僕の鬼服が僕のシャムシール二本を取り上げた。しかも鬼服は僕の体に巻きつくのを止めた。

でもどこかへ消えてなくなったわけじゃなかった。

 ギギギギギギギギギギギギィィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!!!!!!

――行くわよ!

 右手の先に、鬼服が、シャムシール二本が集まる。激しく絡まる音と光を上げて、それらは一本の細長いメイスのようになった。 

 僕を追って空を昇ってきた三体のガラスの子。彼らは何をされたか分からないまま、たぶん崩壊した。

 ヴ。

 ヴヴッ……ギュアンッ!!

 パシャッ!

 パシャシャッ!!

 僕の右手には、杖のような長いメイスが一本あった。

 ヴヴヴヴ。

 ズギュアンッ!!

 シュパッ!

 パシャッ!

 メイスの上下には、見覚えのある三日月の刃が付いていた。

 ヴ……ブオンブオンブオンッ!!

 パシャンッ!

 バシャッ!!

 即ち、天地剣。僕は鬼服と同じ色の縞がある長い柄を握りながら、舞うようにそれを振り回していた。

 特に考えていはいない。ただ生き残るために、ただ倒し尽くすために、最適と思われる動きを、最善と思える動きを続けた。

 ヴァシュオンッ!!

 でもそれで十分だった。

裸に近い格好で生み出す剣舞はかつてないほど高速で、その剣圧は重かった。何者であろうと、刃先に触れればそれで潰える。

「ああ、一緒に行こう。臼井」

 ここにきてKATANAの正体を僕は知る。それはつまり、僕と臼井の「舞闘」だった。

 ギヂュ。

「!?」

 学んだのか、あるいは狂ったのか。ガラスの子の一人が別の子を、鬼服を模した帯で縛りあげ、それを持って突っ込んでくる。

「仲間を盾にしているのか……」

 天地剣を振り回しながら、その悲しい光景を前に僕はどう「踊る」か決める。

 バスッ!

 ズギュアンッ!

 ガキンッ!

 天地剣の片方で「盾」を弾き、自分の体を回転させて剣で斬ろうとしたが、

「盾」を真似した他の子どもが僕の剣を防ぐべく、割って入る。 

 ヴィキッ。

 「盾」からニョキニョキと三日月刀だけが飛び出してくる。鬼服に雁字搦めにされたガラスの子の仕業だろう。

それが本人の望んだことでないことは、鬼服の隙間からしみ出てくる透明の夥しい液体で分かった。

「終わらせてやる」

 誰にとってもプラスにならない戦いを終わらせるために、僕は天地剣を持って「盾」を手にしたガラスの子たちの巣に飛び込む。

 ゴアアンッ!!

「「「「「?」」」」」

 天地剣の長い柄の中心で、僕はガラスの子一人が手にしている「盾」をぶん殴る。

「盾」から飛び出していた三日月刀が別のガラスの子の体に突き刺さって抜けなくなる。

 バスッ!!

 ガスガスンッ!!

 天地剣を投げ、それで別の一体の顔面を貫きつつ、

今目の前で盾から飛び出した三日月刀に突き刺されて戦闘不能になっている子の手にある三日月刀を奪い、それで別の二体を狩る。

奪った子が息絶えていなかったせいか、奪っても刀は水のように溶けなかった。

「せあっ!!」

 その刀をまた投げ、手離して木に突き刺さっていた天地剣を素早く回収し、最後の一体と戦う。

 ガキンガキンッ!!

 扱いに慣れない「盾」での戦闘は長く持たず、結局「盾」に振り回されたガラスの子はあっけなく隙を見せ、天地剣の露に消えた。

 ズギュアンッ!!

 パシャッ。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」

 銀盤がさらに色濃くなっていることに気付いた。

耳障りな羽音は一切止み、動く者はついに僕だけになった。

「臼井、助かった」

 臼井のおかげだ。そうじゃないとしても、そうだと思いたい。一緒に戦える。

そう思うだけで、持てる力の何倍も出し切れる気がする。

だから、そう思いたい。臼井と一緒だから天使の群れから切り抜けられたと。

――そうね。私のお陰かどうかは知らないけれど、なんとかなったみたいね。でもまだ終わりではない。首謀者は死んでいないわ。

「ああ」

 ガラスの天使はまだ湖にきっといる。

――アレを相手にこの格好は危険だわ。……鎧、元に戻すわ。

 天地剣が崩れ、鬼服がシュルシュルと体に戻っていく。僕は両手にシャムシールを握り直す。

「臼井」

――何?

「……何でもない」

――そう。……大丈夫よ。ずっと傍にいる……から。

「うん。知ってる……知ってるよ」

 僕はガラスの子がもう残っていないことを確認して、再び湖の方へ向かった。

 ガラスの天使は、湖の上に浮いていた。

こっちに顔を向けたまま動かない。僕は湖のほとりまで歩いた。

「まだ、仲間はいるの?」

「いいえ。……今のところは、皆あなたのせいでいなくなりました。かつてのように」

「そうか」

「違うとすれば森が燃えていないことと、いまだ私がここにいるということ」

「……じゃあ、あとは」

「そうですね。最後はこれしかありませんね」

「……」

「……うふ」

 ビシッ!

 湖面が凍り付く。ガラスの天使はそこに降りる。

 ザスンッ。

 カッ! 

 舞い降りた後天使の左手に光が走る。その手には、“あの”大斧があった。

僕が廃墟の病院で姉さんと久しぶりに遭った時に見たのと同じ、あの大きな斧だった。

「始めましょう。結怨より築かれしこの物語は、どちらかがいなくならない限り、終わりませんから」

 タンッ。

 僕も湖面に降りる。

鬼服が足の裏まで覆っているからか、それとも湖面を覆う白い物体が氷とは違うのか知らないけれど、足元は少しも滑らなかった。

「分かった。僕らも全てをかけて戦う」

「“僕ら”ですか。………分かりました。

“私たち”もこの一戦にかけましょう。総てを」

 全力で駆け出す。

駆け出しつつ、両手のシャムシールを逆手にする。鬼服と剣を守備に、足を攻撃に使うつもりだった。

 ヴオンッ!

 想像通り、手元が見えないほどのスピードでガラスの天使は斧を振り回し、そして思い切り振り落とす。

 ドガァ――ンッ!

氷の剥片が爆風で舞い上がる。斧を何とか交わした僕は、跳び蹴りを放つ。

けれどその蹴りを天使の六枚の翼が受け止める。天使の胴に僕の蹴りは届かない。

 ガンッ!……ブオオンッッ!

 着地寸前の僕を狙った斧がうなりを上げて真横から迫る。

 ギャイィ――ンッ!

 両手のシャムシールをタイミングよく動かして斧撃を受け流す。

筋肉が腕の付け根から剥がれたかと思うほどの激痛が肩に走る。

「うおおおっ!!」

 痛みに耐えつつ、天使の翼が最初のポジションに戻って斧撃がもう一度襲ってくる前に、その懐に僕は飛び込む。

けれどまた、翼が昆虫の肢のように精密高速に動いて僕の加速の邪魔をする。

 ガガガガガガガガガガッ!!

 斧に比べて軽いけれど数の多い翼撃を裁くうちに準備の整った重い斧撃が迫る。

 ヴオンッ!

 ドガァ―――ンッ!!

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 舞い上げられた大量の白片が粉雪のように降り注ぐ。一旦天使と距離を取り、呼吸を整える。

酸素が足りなさすぎる。心臓が爆発しそうだ。

 ジャキッ。

 精確な間合いを測らせないつもりか、それともカウンターを狙っているのか。

ガラスの天使は斧の刃先を自身の後ろに隠すように下ろして、じっと待機している。僕からその刃先は見えない。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 あの翼の攻撃の速さは異常だ。まるで先を読んでいるかの……

「……」

 考えれば、天使に心を読まれる、か。道理で早いわけだ。

 どうするか……。

 ……月が、

 ……月がきれいだ。

 チャキッ。……ブンッ!

 右手のシャムシールを順手に持ち替え、僕はそれを空に放り投げて走る。

「!?」

 天使がかすかに動く。

僕はそれを見た後、放物線を描いて落下し始めるシャムシールに視線を移す。

 ブオンッ!

 斧が夜の氷原を薙ぐ。けれどその速度は攻撃に対する迷いのせいか、それまでに比べてわずかに遅かった。

僕は予定通りそれをかわし、懐に飛び込む。バッと右手を天に突き上げる。

鬼服が一気にほどけてそれが右手首から空へ向かって天の羽衣のように跳び上がる。

 シュルシュルシュルシュルシュルシュルッ!!

 バサバサッ!

 六枚全ての翼の羽先が僕の右手を狙う。

 そう。そうすれば確かに、

宙に投げたシャムシールを鬼服でからめ捕り天使に攻撃をしようとしている場合、僕の攻撃を完全に封じることができる。

翼の判断はその点において正しい。

 シュシュシュシュンッ!!

 翼の先が一斉に、僕の右手を貫こうと動く。けれど僕は、

「!?」

 右手を下げる。鬼服はすでに腕を、体を完全に離れたから。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 鬼服がすべてほどけて、ただ宙を漂う。

放り投げたシャムシールが上から下へ落下し、鬼服は勢いよく飛び出して下から上へ束の間上昇する。

けれどそれだけ。それはあくまでも囮。

「くっ!」

 薙ぎ払った斧は僕を過ぎ去り、六枚の翼は僕の右腕めがけて完全に伸びきっている。

その一瞬だけど完全な無防備状態にある天使の首を、僕は左手逆手に握るシャムシールで掻き切った。

 ガサンッ! 

「くあああっ!?」

 首に大きな亀裂を走らせながら、天使はこっちを向く。六枚の翼から悲鳴のような音が上がる。皆バラバラの方を向く。

天使と僕との距離がわずかに開く。僕は加速してたせいでやや体が上に持ち上がりつつある。

「上」

 そして僕のその言葉で天使はとっさに上を向き、宙を泳ぐシャムシールと鬼服を探す。翼も慌てて空のシャムシールの軌跡を追う。

 フワ。

 期待通りの天使のワンアクションの間に、僕は今手にしている左手のシャムシールを手放す。

 ガンッ!!

 重力に任せて足元に落下してきた柄を、右足で思い切り蹴った。

 ビュオンッ! ガシュンッ!!

 片手で首を抑えていた天使の首に、蹴り飛ばしたシャムシールがつき刺さる。

「こんな月の中を」

 ピシッ! ピシピシピシッ!

「姉さんはいつも踊っていた。命がけで」

 ガシャ―――ンッ。

 天使の体全体に亀裂が入り、砕けたガラスのように崩れる。

 フシュワアッ!!

 途端に足元の氷が煙を上げて消失する。

「うわ!」

 氷の上にいた僕はそのまま湖の中に落ちる。

 ブクブク……

 深青色の世界を、上からシャムシールがユラユラと落ちていく。

遅れて鬼服がスルスルと落ちていく。

水晶の破片のような残骸がハラハラと漂いつつ、月光色を帯びキラキラと光りながら落ちていく。

その一つ、マネキンのようなガラス色の天使の首を見た時、頭の中にまた、声が響いた。

――恩愛を得し者よ。歴史はあなたのものです。

私たち敗者は最初から存在しなかった。

泡沫の夢。

舞踏譜の生み出す幻のように……それで、終わりです。

「……」

 首は月の光を受けながらゆっくりと下へ落ちていく。

 ブクブク……

 君は、敗者じゃないと思う。

――?

敗者っていうのがあるとすればそれはたぶん、誰かの心に何も残せずに終わってしまうヤツのことだと僕は思う。

――私は結局のところ、破壊しただけです。

残したことがあるとすれば数知れぬ不幸のみ。未完という名の不幸のみ。

「……」

 そうかもしれない。でもそれだけじゃないと思う。

――……。

 君だけじゃなくて、君が望んで作り出した可哀そうな兵隊たちも、僕に大切なものを残した。

みんな、生きることが何なのか、僕に教えてくれた。

「生きる」っていうのは死を無駄にしないことだって、教えてくれた。

 ブクブク……

 君が復讐に命を燃やしたことを、僕は決して忘れない。そして僕はそうならないよう生きる。

 ブクブク……。

 そうならない人生を貫くことで、僕は君とも一緒に生きていられる。そう、信じてる。

――……そうですか。

 ブクブク……

 首が、底へ沈んでいく。暗くて見えなくなる最後、僕の口から気泡が出るように、天使の首から小さな泡がぽつりと出た。

その泡に手を伸ばす。手のひらで泡は小さくはじけて消える。

――果てる際で、多くを学びました。これで……失礼します。

 僕は妖精の長の最後の言葉を聞いた後、水面に向かって泳ぎ出した。

 ザバッ!

「ぷはっ!」

 水面に顔を出す。

水面まで泳いでいる間に、どうやって森を抜けるか考えていた。元来た道を辿って行けば出られるか?

けれど水面に顔を出した瞬間、それまでの思考は全部無駄になった。

「は?」

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。

周囲を見渡す。土手があって、芝生があって、電灯が何本か光っていて……

「川か?ここ」

僕は川の真ん中にいた。しかもひどく流れの遅い川の中にいた。

「……」

ちょっと驚いてもう一度水中に頭を沈ませる。けれどそこには石ころしか見えなかった。水深はたぶん二メートルくらいしかない。

その水底が薄暗い月光に照らされてかろうじて見えた。

 やれやれどうなっているんだと思いながら、僕は岸辺までまた泳ぐ。病院はどうなったんだろう。あの森は?湖は?

みんな、どこで、どうなってるんだろう?

 バシャバシャ。

 バシャンッ!

「よっと!」

 岸にたどり着き、水から上がった頃、空にかかっていた月が完全に雲の中に消えた。

電灯の光だけが頼りだなと思っていると間もなく、雨が降り始めた。

泳いだ川が、影猫を追って初めて燕塚病院にやって来た時に渡った川だと知った時には天気は土砂降りになっていた。

これじゃ泳いでいる時とあまり変わらない。

一旦燕塚病院まで戻った。病院は廃墟のままだったけれど、森も、湖も、草原も、銀色の残骸も、どこにもなかった。生い茂っていた雑草すら、なくなっていた。まるで病院以外全て最初から何もなかったみたいだった。

「そう思わないか、臼井」

 ……。

 呼びかけるが、声はない。

「もしも~し?」

 ……。

 やっぱり。声はない。

「はあ、そっか」

 うすうす、気づいていた。たぶん、天使と氷の上で戦っている時には、臼井はもう……

「いない、じゃないんだ」

 ずぶ濡れになりながら、天使についさっき伝えた言葉を、自分に言い聞かせる。

 臼井は、僕の中で生きている。臼井百合花だけじゃない。

中西由美も、愛歌姉さんも、フェナカイトさんも、天使さえも、僕の中で生きている。

僕が彼らを忘れずに、彼らの死を考え、その意味を無駄にしない限り、彼らの時間は僕の生と一緒に、進み続ける。

 だから、みんな生きている。

 サ―――……

 全てを流し去ってしまうような、冷たい雨。

 サ―――……

 けれどその後に何かを育むような、温かい雨。

 サ―――……

その中を僕は歩み続ける。

「姉さんは確か……医者志望だったんだ」

 歩きながら、これから先どんな人生を自分が歩むことで、自分の使命を全うできるか考えた。

そして姉さんの選んだ職業が浮かんだ。

「医者となると、まず医学部に行かないとダメか。結構勉強しないと今のままじゃまずいな」

 舞踏譜で何とかならないかな。そんなことを冗談で考えようとした時、ふと、舞踏譜の記憶が頭の中に全くないことに気づく。舞踏譜という用語は消えないけれど、かつて見た譜面、譜面を歩んだ記憶が一切思い出せなかった。

「思い出せないとかそういう問題じゃないよな、まったく」

 どうして舞踏譜の記憶がないかなんてどうでもいい。問題はそんな魔法みたいなものに頼ろうとする僕の態度だ。臼井や中西や姉さんやガラスの天使が知ったら「恥を知れ」って、よってたかってぶん殴ってきそうだ。

「意志あるところに道はある。道が見えたらあとは捨て身の努力のみ……そうだよね、みんな!!」

 大雨のおかげでいくら叫んでも声は遠くまで響かない。だから思いっきり叫んだ。命を救う仕事。

「金井智宏は!医者になって!みんなを!助けたいと!!思います!!!」

 自分の使命を全うできる仕事。そう考えて思いついたのは結局姉さんと同じ医者という道だった。だから僕は医師になろうと思う。そして、できる限り多くの命を救おう。発想は単純だけど、単純なだけに、強く将来の姿をイメージできる。すでにたくさんの命を奪った僕が、その何十倍の命を救うために命を燃やしている姿が。生きている意味を強くかみしめている僕の姿を、僕ははっきりとイメージできる。

「腕も生えたし、胸の傷も塞がってる。これならこの先、なんとかなりそうだ」

 土砂降りの雨の中、僕は白い息を吐きながら家まで走ることにした。もう冷たいとか寒いとかは感じなかった。走った先に待つ未来のことで、頭がいっぱいだったから。


         (第二途 了)

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