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精霊の舞踏譜2  作者: 雨野 鉱
3/4

第二途 アイシテイル 其之参

恋のない一生は、夏のない一年。


三、カナしき歌を踊る者


臼井と新体操部の地下練習場で訓練を始めてから三日たった。

「ふう……すぅ~」

 歩くのをやめて目を閉じる。夜に紛れる“死の匂い”を手繰ることに集中する。

 頭の中にこびりついて離れない『愛詩譚』を一旦隅に追いやって、三日間を掘り起こしてきて、丁寧に振り返る。“死の匂い”の恐怖に捕らわれないために。


ハドロンとバリオンの武器と鎧を初めて装備したあの日、気を失って目を覚ました時は午後五時を少し回っていた。

臼井はすぐに出発するから踊って装備を整えろといって僕を躍らせ、もう一度シャムシール二本と鬼服を用意させた。そのままの格好だと面倒だから鬼服の上にウィンドブレーカーを着こみ、シャムシールはリュックに無理やり押し込んだ。ちょっと前の同人誌即売会なんかで見る、ポスターを何本もリュックにさした猛者みたいな姿になって僕は臼井と一緒に学校を出た。

 臼井はというと、鏡の前で踊って出現させたメイスを、その辺に転がっていた紙袋に入れて持ち歩いていた。だから傍から見ると紙袋をぶら下げた女子高生にしか見えない。僕よりいくらか自然な感じだった。まさか紙袋の中に全長五十センチの鎚矛が二本も入っているなんて誰も思わないだろうから。

「……あれだ」

 午後七時。つまり僕が匂いに気づいて歩き出してしばらくしたころ、目的の菌屍に出会えた。

 商店街や廃墟の病院の時のように群れてなく、人型の菌屍は単独で移動していた。歩速はスケートリンクをゆっくりと滑走しているかのように不自然に速い。それに対し臼井は同じように早歩きでついていったけれど、僕の場合、早歩きでは間に合わず、

最終的には走って菌屍の後を追いかけなければならなかった。

 菌屍は人通りの少ないところにあえて入っていった。たぶん少数で移動している獲物の集団もしくは単体を狙っているんだろう。ゾンビとほとんど変わらないとはいえ、大通りのような人の数の多すぎるところをさけるのは、これが戦闘の本能だからなのかもしれない。つまり「兵力は多い方が勝つ」ことを菌屍もまた本能で心得ている。単体で行動している以上、無闇に大勢を相手にしないってことだ。

 そしてそれは僕と臼井二人にとって当然都合がよかった。

 菌屍が路地裏などの人通りの少ない場所に入った時、僕たちはわざと菌屍の注意を引く。

少し足音を大きくしてみたり、自転車や空調に体をぶつけて音を出して見たりする。すると菌屍はこっちに気を取られる。二人しかいないことを確認すると、「こいつらにするか」とでも思うのか、普通に襲ってきた。

「ケハッ」

「私の動きをよく見て、盗めるものは盗みなさい」

 そう僕に告げると臼井は僕の傍から駆け出す。商店街で見せた時とは違い、消えるほど速くないのは、僕に実戦のイロハを教えるためなのだろう。だから僕は目を皿のようにして臼井と菌屍の戦いを見守った。臼井は攻撃を紙一重でかわすような彼女本人にしかできないようなことはあえてせず、一本のメイスで菌屍の攻撃を受け止めたり払ったりいなしたりしてみせた。

そしてもう一本のメイスで菌屍の脇の下や股間、顔面といった普通の人間なら確実に身動き取れなくなるか致命傷を負う急所に的確にメイスを打ち込んでみせた。菌屍が臼井を両手でつかみかかろうとすれば両方のメイスで相手の両腕を外にはじき、体勢が崩れたところを蹴り飛ばして見せた。僕にもこれくらいやれという意味なんだろう。

「……ケハ!」

 急所に何度も攻撃を受け、ようやく動きが鈍くなったところで菌屍が笑う。

「その不協和音、やっぱり耳障りよ」

 そろそろケリをつけようと思ったのか、菌屍の笑みを合図に臼井がようやく消えるような速度で動き出す。

 シュッ!

 臼井が手にしていたはずのメイス二本が菌屍の脇の下に挟まっている。こっちに見えている柄頭の鉄片の一部が菌屍の脇の肉にめり込み、黒い液体を不気味に垂らしていた。

 バキバキッ!

「ハキャ!?」

 右脇に挟まれたメイスの柄が、左脇に強引に挟み込まれる。

 バキバキバキバキッ!!

 ブシュウ――ッ!

 逆に左脇に挟まれたメイスの柄が、右わきに強引に挟まれる。メイスは折れず、代わりに菌屍の肩が砕け折れる嫌な音が狭い路地に鈍く響き渡る。折れた鎖骨と肋骨の先が大胸筋と三角筋があるはずの肉を突き破り、黒い液体がしぶきを上げて中から噴き出す。

 ドッ!

 こんな状況でも笑みを浮かべたままの菌屍の体が浮く。菌糸の背後に冷然と構える臼井がいる。彼女の右手は菌屍に無理やり挟み込んで背中でクロスさせたメイスを握り、そこを持って菌屍を宙に浮かせている。

 ブオンッ!

そのままバックドロップのように菌屍は小さな弧を描いて頭から落下する。後頭部を強打した瞬間、避けがたい運命を知らせる音が響く。

 ブチブチブチッ!

 ブシュウッ!!

 脇に無理やり挟まれていたメイスによって両腕がとうとう肩から削がれて千切れ落ちる。

黒い液体が凄まじい勢いで噴き出るが、臼井はそれが服に着く前にパッと菌屍から離れる。

 全ては一瞬だった。一瞬のうちに菌屍は取り返しがつかないとしか思えない無残な姿に変えられていた。

「あなたの番」

 臼井の握るメイスに付着した黒い液がメイスの上で突如燃えだす。それを見つめながら臼井が言った。

「え?」

 僕の番?っていうか、あれで、どう見ても終わりだろう?

「まだ動いているでしょ?」

 ズガンッ!

 臼井が突如、火のついたメイスを上に向かって投げる。メイスはそのまま建物の壁面に突き刺さる。

 突き刺さったメイスから紫の火の粉が降り注ぎ、それが空中で時々小さな爆発を起こしている。後でこの時のことを聞いたら、どうやらこれは空中に飛散しつつあったムシュフシュを燃やしていたらしかった。

 こんなことをした理由は、時間を稼ぐため。

 僕が「実戦」を知る時間を稼ぐため。

「首を落しなさい」

 時間をつくった臼井が火の粉の舞う路地裏で僕に宣告する。即ち殺せと。

「……」

 腕を付け根から無くした菌屍はピクピクして少しの間その場から動かなかったが、やがてモソモソと両足と腰を動かしその場からの移動を試みる。壁際に這ってゆき、そこで壁を使いどうにか菌屍は立ち上がる。頭頂部はへこみ、顔面の穴という穴から黒い液体を噴出させている。おぞましさをありったけ集めたような姿だった。

「まだ噛みつくことくらいはできるから用心しなさい」

「はあ、はあ、はあ」

 目が意味もなく潤む。恐怖で、呼吸がおかしくなる。首を落とすって、どうするんだ?まさか、斬りおとせってこと?でもどうやって、えっと、何で斬ればいい!?どうしよう、こっちに来る!来るな!やばい、体が動かない!

 ボグッ!

「うっ!」

 僕の頬を一瞬強烈な痛みが襲う。よろけて何が起きたのか確かめる。臼井の右拳が殴ったままの姿勢で止まっていた。

「しっかりしなさい」

 姿勢を戻した臼井が一言そう言った。

「はあ、はあ、はあ……ああ。ありがとう」

 恐怖で掻き消されていた僕の心が僕の中に戻ってくる。体が動く。

「背中のオモチャ、役に立つといいわね」

 言われて、背負ったリュックの中のシャムシールをハッと思い出す。

 フッ。

 そして臼井はいなくなった。

「はあ、はあ、はあ」

 ここからはもう助けない。ここまでお膳立てしてどうにもできないなら、もうお前は死ねってことか……。

「ケハ」

 恐竜のように前傾姿勢で菌屍が僕に迫る。

「はあ、はあ、はあ」

 リュックを無我夢中で僕はおろし、中から二本のシャムシールを急いで取り出し、手にする。けれど二本の刃を振り回す自信が急になくなって、初めて舞踏譜を踊ってシャムシールを握った時と同様、一本をその場に捨てる。手に残った一本を両手で固く握り直す。

どうにか体は動きそうだけれど、全身に走る震えが止まらない。歯の根が合いそうにない。

「ケハハッ!」

 首を落とすには、単純に考えて、横に斬り払うしかない。だから走った。走って、そのまま斬り抜けるつもりだった。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 ブンッ!

 スカッ。

 ?

 僕はどうやら思い切り空振りをしたらしかった。

「ケハッハハッ!」

 菌屍に攻撃をかわされたのか、それとも単に僕が菌屍との距離を見誤って剣を振ったのかは分からない。けれどとにかく僕の攻撃が菌屍に当たらなかったのは確かだった。しかも勢い余って僕はそのまま菌屍の側で転倒した。やばいと思って態勢を立て直そうとした時、菌屍が倒れるようにのしかかってきた。

「やめろ!やめろ!」

 黒い液体と菌屍の全体重が僕の心を恐怖で押しつぶそうとする!

 カン!カン!カン!

 カン!カン!カン!カン!

 菌屍の上下の黄色い歯がぶつかる音が連続する。食い殺すという本能がゼロ距離でぶつかって来る。

「臼井!助けて臼井!」

 カン!カン!カン!カン!カン!

 カン!カン!カン!カン!カン!カン!カン!カン!

 呼んでも返事はない。菌屍が顔面を僕の体に押し付けてくる。

 ガブッ!

「ぐああっ!?」

 とうとう肩に噛みつかれた。肉がぶちぶちと千切れる嫌な音が僕の中に響く。痛みの激震が肉体を走る。

 その時、僕の頭の中で何かが弾けた。

 ブツッ!

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 死ぬ。

 生きる。

 そうした事象の一切が消え去る炎の瞬間。

 ブチキレル――。

それが僕の中にもあることを、僕は菌屍に肩の肉を食いちぎられて初めて知った。

僕は、僕の記憶している限り初めてブチ切れた。切れること自体の良し悪しはともかく、事態はそれで急転した。

「おああ!」

 ドンッ!

 噛みついた菌屍を横に押し飛ばす。両腕のない菌屍はコロコロと横に転がっていった。

 タンッ。

 僕はシャムシールを手にしたまま思い切り飛び跳ね、菌屍の胴に乗っかった。

シャムシールは背骨と平行に胸板に突き刺さり、肋骨の砕ける音が足裏から響き、菌屍が脚だけを上げて体を「く」の字に曲げる。

「死ね!」

 後になって思うとゾッとするけれど、このとき僕はバリオンとハドロンの技を勝手に真似し、現実に実行していた。

 土器散華かわらけさんげ――。

 相手の体の上でシャムシールを手にしたままジャンプし、あとは重力に任せて膝から落下する。

肋骨を蹴り潰すだけなら、踏まれていない骨が肉を突き破って飛び出すこともあるだろう。

けれどそれをさせないために、シャムシールが胸板を突き刺す。結果的に相手の体はプレス機に挟まれたみたいに完全に潰される。

内臓を損傷させるということに重点を置いたとしか思えない残酷な技を、僕は何も考えずに実行したらしかった。

 ゴキゴキゴキッ、

 グシャアアッ!!

 ゲームなら傷口など見えず、敵の体全体に光が走り上のゲージが大幅に減っているだけだ。

その後ゲージが残っていれば敵はゲージを減らしただけで無傷と同じ姿で立ち上がるし、ゲージがなければ立ち上がらず、

KOのサインが画面に出てしばらくすればまたゲージが満タンの状態になって無傷の状態で立ちあがる。

けれどその時僕が突き立てたシャムシールは光を上げず、ただ菌屍の胸板に卒塔婆のように突き刺さったままだった。

骨が粉砕し飛び出した真っ黒な臓器も黒い液体も流れ出て止まることはなかった。

「はあ、はあ、はあ」

 何もかも、さっきとは変わってしまっていた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 もう、菌屍は動かなかった。

 シュ~……

 完全に沈黙した菌屍がやがて銀白色の塊になったとき、いなくなっていた臼井が出てきた。

その手にはいつの間にかメイスが握られていた。そして頭上のメイスはなくなっていた。

「腕を落とした段階でだいぶ失血していたから、乱戦を演じた割にはあまり液もムシュフシュもこびりついていないようね。

噛まれても肩が動くところを見ると、おもちゃの鎧はそれなりに役立ったのかしら」

 力の抜けている僕の全身を見ながらそう言い、臼井はフェナカイトさんのライターを取り出し、銀白色の残骸に火をつけた。

紫の炎となって残骸は間もなく跡形もなく焼滅した。

さらに臼井は一本のメイスの先に再び火をつけた。メイスの柄頭に紫の炎が薄く灯る。

それを僕の体の周りで軽く振ると、僕の体に付着している銀白色の小塊は尽く燃えていった。服には焦げ跡一つ残らなかった。

「怨みて兵、厳殺し尽くされ、超遠の野に晒さる。彼の者達、皆往いて還らず……」

「……」

「分かったでしょう。これが戦うということ。これが戦。遊戯ゲームとは違う。

腕も千切れるし、血液も飛び散るし、肋骨も折れるし、内臓も出るし、剣も刺さる。そして元には戻らない」

「……」

「次に行くわよ」

「……」

「今度は気をつけなさい。獣みたいに暴力的な本能に身を任せるのは、今の一度きり。これからは使命を意識して戦うこと」

「……使命」

「忘れた?あなたは何のために戦うと決めたの?」

「……」

 そう言われて、その時自分が大切なことを忘れていたことに気付いた。

気づいて、忘れて武器を振り回していたことがあまりに深刻なことに思えて、涙が流れた。

 両手で顔を覆う。

 多くの命を救うために戦う。そのために幾多の罪を背負うことになるなら、その罪に背を向けず生きる。そう決めた。

「何のために戦うか忘れないこと。そしてそれは」

「……殺した者たちのことを、忘れないこと」

「そうね」

「……」

 僕は頬を両手で叩き気合を入れた後、リュックにシャムシールをしまい、臼井と共に路地を出た。

 その晩さらに五体の菌屍を僕は匂いで感知し、臼井とともに後をつけて仕留めた。

臼井は僕に実戦を教えながら、戦うことの意義を繰り返し説いた。

「恐怖で足がすくむようなら、剣が握れなくなるなら、その刃の切先を見て思い出しなさい」

「その剣で誰を犠牲にしてきたかを。そうやって己を追い込むしか自分の強さを極限まで引き出すことはできないわ」

「剣の声に耳を澄ませなさい。聞こえるでしょう。斬るほどに、薙ぐほどに、叩くほどに、潰すほどに、殺すほどに」

「お前は、自らの強さを信じる責を負う者だって」

 僕は臼井のその言葉を胸に刻み、次の日も戦った。

菌屍を弱らせた後、僕に仕留めさせていた臼井は徐々に、その負担の割合を減らしていった。

相対的に僕の死ぬリスクは少しずつ高まった。二日目には菌屍の攻撃で二回も意識を失った。

目覚めたその都度僕は鏡になり得る場所を探しては舞踏を踊り、シャムシールと鬼服を幻出した。

菌屍との戦闘も疲れるけど、この舞踏譜で武具を召喚した直後ほど肉体的にも精神的にも疲労を感じることはなかった。

臼井が火のついたメイスを僕が暴走した後一度も見せなくなったのも、舞踏譜を使用する際のこの疲労感が原因にあると思う。

あるいは全然推測とは違って、舞踏譜を使う必要がないほど、臼井にとって菌屍一匹を倒すのは容易いからなのかもしれない。

 臼井の強さの秘密はフェナカイトさんの記憶にあると、臼井本人は言う。

フェナカイトさんの積んだ戦闘経験がそのまま自分に更新されているみたいなことを臼井は言っていた。

けれど、僕はそれが必ずしもすべてではない気がした。

 臼井が物理的に強いのは、確かにフェナカイトさんの魔法や経験にあるのかもしれない。

けれど、臼井の精神的な強さはそれと別だと僕は思う。臼井は普通の人よりも自分の輪郭みたいなものを正確に把握している。

だから冷静な判断を瞬時に下して行動ができる。それが強さの秘訣だと思う。

そしてそういう強さを持った人物だから、中西由美は臼井に魅かれたのかもしれない。

人生の指針になり得るから。少なくとも僕にはそんな気がしていた。だからそのことを言った。

そんなもの僕にはとてもないと付け加えて。けれど臼井は別に喜びもせず、静かにこう返した。

「輪郭を知るということが必ずしもいいということにはならないわ」

「どうして?」

「輪郭を知るというのは、『私はこの程度だ』って自分の中に限界を設定することに他ならない。

度を超した馬鹿はしなくなるでしょうけれど、それじゃ世の中何も変えられない。

あなたはまだ生きているのだから、輪郭なんてものはおぼろげに知っていればそれでいいのよ。

限界を知るのは、最後の最後でいい。それまでは自分の可能性を諦めず、死ぬ気になって努力したらいいんじゃないかしら?

輪郭が見えて得をするのは体が思うように動かせなくなる晩年か、理の深淵を探る魔法使いか、私みたいな死者くらいよ。それと」

「?」

「どうして精神的にそんなに強いのかと聞いたわね」

「うん」

「私は別に強くなんてない」

「そんなことないよ」

「……ただ一つ言えることは、私には最初から失うものがない。それ故に強く見えるのかもしれない」

「失うものがないっていうのは、事故で死んじゃって、魔法でよみがえったからってこと?」

「違うわ。私は生きている時から、もう失うものがなかった」

「どうして?そんな人間いるはず……」

「いるのよ……いるところには」

「……」

 それについては結局、臼井は何も答えてくれなかった。

特殊な事情があって、それが臼井という女の子の印象をどこか暗くしているということだけしか、その時の僕には分からなかった。


「金井君」

「ん?」

「大丈夫?ぼうっとして」

「ああ。ちょっとこの二、三日いろいろあったからさ。それが急に頭の中をよぎって」

「そう。でも走馬灯を見るのは少し早いわ」

「確かに。見るべき時は今じゃないだろうな」

 今日も昨日までと同様、昼は臼井とみっちり訓練をし、夜は菌屍を倒しに街に出てひたすら歩く。気になる『愛詩譚』を休憩時間に少しだけやって。

睡眠時間を限界まで削っての活動に体は最初こたえたけれど、背負った使命と責任の重さを自覚するにつれて、耐えられるようになった。

シャムシールも最初は一本を振り回すのがやっとだったけれど、今はしっかり、二本を操れるようになった。逆手の一本は敵の攻撃を殺すために、順手の一本は敵の命を絶つために。

 タッ、タッ、

 タッ、タッ……。

 街を歩く。

 マスクとゴーグルをつけて急ぎ足で歩く仕事帰りのサラリーマンやOL、マスクをつけることも忘れて狂ったように笑い騒ぐ大学生の酔っ払い集団、あるいはマスクを買う金に困り街を彷徨うホームレスに紛れて紛れて僕らは歩く。同じように紛れて獲物を狙う菌屍を見つけるために。

「どう?」

 臼井が尋ねてくる。

「匂いはある。……たぶんあの辺だ。いるよ」

 街に紛れた菌屍は大抵目を瞑っている。けれど人目につかない所でその瞼を開く。闇が広がり、その闇が獲物を確認すると、黒い液体が垂れはじめる。もちろん目を帽子やサングラスで隠している慎重な菌屍もいる。そういう連中は外見で判断するのは難しい。けれど「匂い」という決定的な証拠はそれでごまかされることはない。

最終的にはそれで全て判断する。

「あれだと思う」

 僕は指ささず視線だけで菌屍の位置を臼井に知らせる。ベンチに腰かけた男女のカップル。二人ともうつむき、髪の短い茶髪の女は隣の男の肩に寄りかかって目を瞑っている。

一見したところでは、二人の男女が危険な夜の街で、改めて絆を確認し合っているように見えなくもない。

でも、確かにそのベンチの二人から菌屍特有の匂いを僕の鼻は感知していた。

「どうする?」

 無論その言葉には、「どうやって処分するか」という意味を込めている。逃げる、見逃すという選択肢を僕と臼井は現段階で用意していない。

「私がおびき寄せる。二人が動き出したらあなたは背後からそれをつける。二人で挟んで討つ。いいわね?」

「分かった」

 紙袋を手にした臼井は二人のすぐそばを通り過ぎ、路地を見つけて入っていく。

 サッ。

 カップルが目を閉じたまま立ち上がる。列になってカップルは臼井の入った路地にさっさと消えていく。僕はリュックサックのチャックを少し開いて、その後を追う。

 タン、タン、

 タン、タン、

 タン、タン、

 タン、タン、

 タン、タン……。

 革靴の地面をたたく音が壁に反響して響く。僕も臼井もランニングシューズだからこんな音はまず出ない。だから僕らの足音じゃない。おそらくさっきの菌屍の足音だ。でも、

 タン、タン、タン、

 タン、タン、タン……。

 足音が一種類しか聞こえないのはどうしてだ?確か女はブーツを履いていたし、男は革靴だから二種類聞こえてもいいはずだ。なのに……

 スンスンッ。

 なるほど……。

「そういうこと、か」

 匂いが上からミストのように降ってくるのに気づいて、上を見上げる。壁に、ブーツの女が蜘蛛のように張り付いていた。両手両足の先が黒いドロドロの液体で完全におおわれていて、その四肢で壁をペチャペチャと音を立てながら女は這い始めた。

「壁も登れるなんて……」

 リュックからシャムシールを素早く取り出す。路地裏は狭いとはいえ、三日月刀二本を振り回すくらいの空間はある。だから二本とも装備する。初めて戦った時とはもう違う。今は二本を扱える。

 ジャキッ。

 一本は逆手に握り防御に備え、もう一本は順手に握り攻撃に備える。

「ふう」

 額に汗がブワッと浮かぶ。怖い。けれど動けないわけじゃない。短い期間だけどその間死ぬほど訓練を積んできた。

心と技を磨いてきた。

だから、動けないわけじゃない。恐怖に完全に捕らえられたわけじゃない。何とか、何とかなるはずだ。

「来い!!」

「ケハッ」

 バッ!

 ガキンッ!!

「く!」

 フェイントもへったくれもなしに菌屍のブーツ女が高所から躍りかかってくる。黒い液体を濃くまとった拳撃を逆手に握ったシャムシールで受ける。そのまま勢いで肘まで切り裂けると思ったのに、液体をまとった拳は異常に固く、シャムシールの刃先は拳を覆う黒い液面で止まる。逆に剣を握るこっちの腕がぶつかった衝撃でしびれた。

 順手で握るシャムシールの切っ先を、飛び込んできた菌屍の喉元に合わせる。照準があったところで腕を一気に伸ばす。

「突き」を見舞った。

 ボッ! 

 ガシュンッ!

 菌屍は僕の狙いに気づきとっさに顔を斜め下に下げる。結果的に僕が順手で握るシャムシールの刃は菌屍の顔面の頬を貫いただけだった。

 ドフンッ!

「うっ!」

 剣を握ったまま腕を伸ばしきったせいで次の行動に出遅れた僕に、容赦なく菌屍の黒いボディーブローが襲い掛かる。それがまともに鳩尾に入り、呼吸ができなくなる。思わず順手に握っていたシャムシールから手が離れてしまう。

「かはっ!」

 ブシュッ!

 菌屍は顔に刺さっていたシャムシールを引き抜き、それで前のめりになった僕の首を斬り落とそうと剣を振りかぶる。

 ブオンッ!

 逆手に握ったシャムシールで僕はあわててそれを受ける。火花が上がる。

 ガンッ!!

 一本奪われた形になったから、逆手に持っていた左手のシャムシールを右手で順手に握り直し、菌屍に斬りかかる。

 ブンッ 

 ブオンッ

 キンッ

 キキンッ 

 僕の攻撃を菌屍はシャムシールと、黒い液体に覆われた手、そして両足で防ぐ。致命傷を負わせるために僕は菌屍の懐に飛び込もうとする。けれどそれは菌屍が振り回すシャムシールが許さない。

状況は幾分こっちが不利……。

 落ち着け。落ち着け。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 僕は菌屍からいったん離れて距離をとろうとする。けれどそうはさせないと菌屍が追いかけてくる。

 ドン。

 僕の背中が壁にぶつかる。もう後ろには引けない。そう思った途端、全身の神経が研ぎ澄まされる。

「ケハッ」

 菌屍がまた笑い、剣を大きく振り下ろす。

 ガシャンッ!

 僕は菌屍の剣を受け止めなかった。代わりに背後の壁が、菌屍のシャムシールを受け止めた。間合いを詰め過ぎたせいで菌屍の剣は僕の肉に届かなかった。菌屍が壁に剣をぶつけた衝撃でのけぞった瞬間を逃さず、僕は菌屍の両肘を切り上げた。黒い液の付着していなかった菌屍の肘に刃物はスッと入る。そしてそのまま骨を断ち、結果的に腕を二本とも胴体から切り離した。

「ケハッ」

 意味不明の笑い。いや、笑っているように見えてあるいは泣いているのかもしれない。だったら、それでいい。

「恨め」

 ついでに僕を。報われなかったアンタの人生を僕は背負い、声にならないアンタの無念は僕が晴らす。

 シュルシュルシュルンッ!!

 シャムシールを持っていない方の手から急速に解いた鬼服の一部を菌屍の頭部めがけてぶつける。

 鬼服の帯はそのまま菌屍の頭部に巻きつき、目元と口元を完全に隠してしまう。

「ごめん、もう笑えない」

 言って、菌屍の喉から下に僕はシャムシールを容赦なく突き入れていく。攻撃が止まらぬよう、体を駒のように回転させながら。

 ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクンッッ!!

――惨烈風斬刃さんれつかざきりば

 ハドロンとバリオンのハメ技、つまり「私的制裁リンチ」を菌屍のブーツ女に見舞う。

プライヤーの操作する双子の一人が鎧のはずの鬼服を解き、その帯で敵を雁字搦めにして押さえ込み、もう一人が、動きを封じられた敵を切り刻む。鬼服を解いた双子の一人はしばらく鬼服を装備できず、従ってこの技の発動後、敵がKO負けしていない場合、防御力がガタ落ちの状態で闘わなければならなくなる。捨て身技の一つだ。

確実に勝てると決まっていない限り、使うプレイヤーはまずいない。

 ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクンッッ!!!

 だからこそ使用した。腕を失い唯一の武器である牙を封じられ、視界を封じられた敵にとってこの攻撃は死を意味するはずだ。

 ドサッ。

 シュ~……

 菌屍が倒れて、動かなくなる。やがて銀白色の塊に変わる。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 菌屍に奪われたシャムシールには菌屍の腕がくっついたままで、それはもう銀白色になっていた。だからうかつに触って菌のムシュフシュを飛ばすわけにもいかない。

僕はシャムシールを静かに地面に置き、ここで臼井が戻るのを待った。臼井ならブーツ女と一緒にいた男の菌屍一体倒すのは朝飯前だろう。もしその男の菌屍がこっちに現れたら、臼井と僕で挟み撃ちにすればいい。大丈夫。何とかなる。

「?」

 背後に突然、“匂い”がした。けれどそれは攻撃的な、いつもの匂いとは違った。

 背中から想い人を抱きしめようとする女の子のような、優しい香水の香りだった。

 あまりにこの場に似つかわしくない匂いに驚いて振り向く。

「およ?誰かと思ったら冴えない失恋君じゃありませんか」

 クラスメイトの荻原時雨がいた。マスクをつけず、シャンパン色の髪を団子みたいに束ねた女子学生は、肩から鞄をかけ、手にはポータブルゲームを持って僕の後ろに立っていた。

「どったの?」

「え……いや」

 路地裏でまさか荻原に会うとは思わなかった。ほかのクラスメイトだったらあるいは驚かなかったかも知れない。いや、今この時期だったらクラスメイトどころか誰に会っても驚いたかもしれないけれど、

とにかく、まさか、こいつとここで会うなんて……なんてこった。

「『マジか~、よりによってコイツかよ』って思ってるでしょ?」

「うん」

「マジか~」

 荻原はうなだれるようにしてため息をつく。その仕草がおかしくて思わず僕は吹いてしまう。

 毎朝くだらない話を周囲にして笑いをとる。

誰かを馬鹿にすることで生まれる笑いだけれど、その誰かの中にいつも荻原自身が入っている。だから道化みたいで面白い。皆が彼女の周りで彼女を笑い、何の変哲もない教室の一角に花が咲いたようになる。

「で、どうしてこんなところに失恋君はいるの?」

「失恋君って……そういうお前はどうしてこんなところにいるんだ」

「こう見えても塾通いです」

「で、行き返りにそうやってゲームをやってるってわけか」

「おうよ。……ウププッ」

 荻原が突然口元を隠し、えくぼを浮かべて笑う。

「なんだよ」

「君こそニャんだね、ここに散らかっているブツは?」

 言われて、シャムシールが二本地面に置いたことに気付く。一本はブーツ女の腕がくっついていた。もちろん銀白色になって。

「これ、か」

 シャムシールを“恥ずかしい”とは思わなかった。それより本物同様に切れ味の鋭い三日月刀について問い詰められたらどう弁解したらいいのか、困った。ついでに腕についても。

「失恋君、いくら純愛がRPG対戦車ロケット弾の直撃を食らったみたいに砕け散ったからって二次元プレイに走るとは……」

「それは違うよ」

 答えになっていないけれど、他にどう答えていいのかよく分からなくて、僕はとりあえず否定した。否定してすぐに否定する必要もなかったんじゃないかと後悔した。

「ヘイ、メェンッ!どう見ても服の下に見えるその包帯チックな感じは……コイツだね!?」

 ジャ~ンッと言って、荻原は手にしていたポータブルゲーム機の画面を見せる。それはついこの間まで僕がゲームセンターでよくやっていた『鬼区』がポータブルゲーム用に移植されたソフトの映像だった。歩きながらこんなのやってるのか、こいつ。

「君の格好、ぶっちゃけハドロンとバリオンのコスプレっしょ?いくらしたの?手作り?それとも誰かに作ってもらったの?あっ、あの人でしょ?最近夜一緒に歩いている女の子?誰よアレ?お姉ちゃんに教えなさい」

「え……なんで歩いてること、知ってるんだ?」

 ドキリとして、僕は荻原に尋ねる。

「君のような不良と違って私は毎日塾通いなのです。だからこうして毎晩歩いていると、なんと君たちは堂々と大手を振って夜の街を歩いている。だからしょうがなく、こうして後ろから跡を……ウップス」

「つけてるってわけか」

「ウソウソ。たまたまさっき二人で歩いているの見かけたから、どういう関係なのかな~って」

「……」

「なんかまずいこと言った?分かった。カノジョのことならウチ誰にも言わへん。ほんま、ちょっとからかっただけやから」

「いや、そうじゃくて」

 死んだはずの臼井について余計なことを言いふらさないことは、それはそれで重要なことだろう。けれど、もっと大切なことを言わなければならないとこの時思った。

「なあ荻原、本当はこんな時間に毎日うろついているわけじゃないんだろ?」

「え?うん、でも塾があるからさ、週四日はこの時間しょうがなく外出してるよ」

「なあ、今週だけでいい。塾はサボって家にいてくれないか」

「え?」

「理由は聞かないでくれ。とにかく、今この辺、危険だから」

 考えてみれば、こんな状況になって塾に行かせる親の気が知れない。というかこんな状況でもやっている塾の気も知れない。彼ら全員にどなってやりたい衝動に駆られたけれど、今は時間がない。だから荻原が夜出歩いて菌屍に襲われないよう、せめて注意を促すしかない。

「う~ん、どうしよっかな~」

「頼む!何かあってからじゃ手遅れなんだ」

「いや、親はさ、共働きで家にほとんどいないのさ。だからサボろうと思えば塾なんて平気でサボれるんだわさ。だけど家に独りでいるのは退屈でね」

「まわりで変なことが起きてるんだからここは……」

「そういう君は平気なの?失恋君」

 荻原がこっちを見る。こっちがのぞき込んでいるのに逆にのぞき込まれているような不思議な瞳を荻原はしていた。

「それは……」

 答えに詰まる。

「うふ、まあいいや。そんなに心配されちゃったら、何か大切なところがジュンとして、切ないから……」

 こっちが返答に困っているのを察して荻原はふざけて見せる。目を伏せ、顔を赤らめる荻原を見て僕はホッとする。いつもそうだ。お茶を濁す機会をこいつは自分から作る。

「じゃあ、家に……」

「ダメよ、そんな……私を独りにする気?このままじゃ疼いて眠れない。

ああ、いったい私はいつまでこの切なさを胸に体を濡らさなければならないの……」

「荻原!」

「分かったって。もう、冗談だよ。帰るからさ。その前に一つだけお願い」

「何だよ」

「こいつよ。倒してチョ」

 荻原はそう言ってポータブルゲームを僕に手渡す。ゲームの中にはハドロンとバリオンが映っている。そして相手はアーケードモードでいつも登場するラスボスが映っていた。

「こいつを倒したら本当に家に帰ってくれるか?」

「応。二言はねぇっス」

「分かった」

 仕方なく廃材を椅子にして腰を下ろし、荻原の傍でゲームを始める。ゲームセンターのコントロールスティックには慣れているけれど、ポータブルゲーム機の十字キーはほぼ初心者に近い。だからいちいちスタートボタンを押してハドロンとバリオンの技のコマンドを確認して……

「!」

 確認しつつ、今自分がこの上ない幸運にあることに気付く。

そうだ。今自分はハドロンとバリオンの技を再確認する機会を手に入れたんだ。そう思うと僕は得した気分になり、慣れないゲーム機で一生懸命敵と戦った。

「うひょ!マジか~そんな牽制ができるなんて。さすが体はオトナ頭脳はコドモ……ありゃ!兄さんメクリが思ったより下手やがな。あっ、その動きじゃ三フレ足りないって、ほれ見んしゃい!うはっ、ザマ~」

「うるせぇ!」

 僕の両肩に荻原の手が乗っている。薄い革ベルトの集まりのような鬼服を僕は着ているのに、その手から温かい靄のようなものが僕の体へ染み出し、全身をゆっくりと流れてゆくのが分かる。温みは全身を包みつつ、体に蓄積した骨や肉の傷みを静かに散らしていく。時々かかる白い吐息や香水のような甘い匂いは睡眠不足と重い使命で凝り固まった心を優しくほぐしていく。ゲームをしながら思わず僕は泣きそうになった。

「あと、少し……」

「うん、頑張れ」

 とうとう僕はハドロンとバリオンを使いラスボスを倒した。軽く目を瞑り、ふうっと息を吐く。

「ほら、倒したよ」

 言って隣を振り返る。

「あれ」

 そこに荻原はいなかった。

「ちょ、あいつどこ行った?」

 その時汗でベタベタになった手からゲーム機が落ちた。ヤバイと思って慌てて手元を見る。

「!」

 けれどゲーム機はそこになかった。

「そんな……」

 菌屍を初めて見た時のように凍り付く。だって今の今までゲーム機はここにあって、荻原もいて……え、なんで?

「疲れてんのか……参ったな」

 目を瞑る。首を回す。その場でピョンピョンと跳ねてみる。体はけれど軽い。蓄積した疲労感はなく、あるのはハドロンとバリオンが敵と戦う鮮明な姿だった。

 うん、頑張れ――。

 荻原。あれは夢だった?でも確かに、荻原時雨はすぐ傍にいて……癒やしてくれた。

「あいつが?……それは……ないか」

 「マジか~」と言って額を抱えている同級生を思い出す。おかしくて思わずにやけてしまう。

「ははっ。……す~、は~」

 目を開く。心も体もどういうわけか知らないけれどスッキリした。今まで以上に戦いに集中できる気がする。

「あ、臼井」

 しばらくして、臼井が戻ってきた。けれど、少し様子が違う。服がところどころ破れて、汚れていた。傷も膝や顔にある。赤い血が流れていた。

「大丈夫か?」

「ええ。何でもないわ」

 言いながら臼井はポケットに手を入れる。中からフェナカイトさんのライターを取り出し、僕が倒して生じた菌屍の残骸に火をつける。さらにメイスにも火をつけ、僕の体にこびりついた銀白色の小塊も焼き払ってくれる。

「?」

 火をつけた後、臼井は壁に寄りかかったまま動こうとしない。冷たい風が狭い路地を吹き抜けていく。臼井のショートヘアがその風に乗ってなびく。

「疲れているんじゃないのか」

 その質問にすぐには答えず、紫に燃え逝く銀白色の塊を静かに見つめながら臼井はやがて言った。

「時間が、残されていないようね。本当に」

「……」

「あの学者を今すぐ斬り捨てたい。でも私に万一のことがあった場合、今のあなたで太刀打ちできるかしら……ふふ、世の中ままならないわね」

 そう言って臼井は壁に寄りかかりながら腰をズルズルと下ろす。

「今のあなたは時間の経過に比例して強くなる。それは結構。そして知っての通り、私は逆。反比例して、弱くなっている。フェナカイトの魔力も残り少し。だからタイミングよく……あの学者にあってケリをつけたい」

「タイミング……」

「私がピンピンしているうちに会えれば問題なかったけれど、向こうはそう簡単に表に顔を出さなかった。こうなったら……私が消えるギリギリのところで、あの学者に会いたい。つまり、あなたに懸ける。学者に出会ったその時、あなたは今までで一番強くなっていないと困る。そして私の不足分を補って」

「……うん」

 強くなる。それは、絶対に約束する。でもそれとは別に、消えない、死なないと、臼井に誓ってほしかった。

けれどそれはできないんだろう。冷静な臼井が冷静に判断して、やがて自分は消えると断言しているんだ。それについては、変えられないんだろう。これが、運命なんだろう。

「風がやんだわ」

「そうだね」

「行きましょう」

「肩を貸すよ」

「いいわよ。一人で立てるし、歩ける」

「じゃあ、手をつなごう」

「?」

「ごめん。ただ……今にも臼井がいなくなってしまいそうで、不安だったから」

何言ってんだと自分に言う自分と、確かにそうだと自分に言う自分がいた。

「私が?……うふ。そうね。どうせ私は影の見る夢みたいなものだから」

 そう言いながら臼井は立ち上がり、近づいてきた。

「手は血と憎しみで汚れているからつなげないわ。だからこれで許して」

「!」

 ショートヘアは風もなく揺れる。気づけば僕の両肩に臼井の両手が乗り、僕の唇に臼井の唇が触れていた。甘くもやわらかくもなく、ただ冷たい臼井の唇に、逆に僕は自分の体温を感じた。

「なんでそもそもあなたが由美を追いかけていたのか、考えた。そういえば好きだったのよね?由美の代わりにはなってあげられないけれど、これで諦めて」

 臼井は僕から唇を離して、そんなことを言った。

「……臼井」

「ただのあだ花かもしれないけれど」

 臼井はもう一度僕の唇に唇を重ねてくる。そして、ゆっくりと離す。

「由美と私は、あなたのために花咲こうと思う」

 頬を赤らめもせず、臼井はほんのわずかな距離で僕を見つめながら諭すように言った。

「ありがとう。がんばるから、ほんとに……ほんとに」

 それが悲しくて、うれしくて、悔しくて、僕はクシャクシャになって泣いてしまった。臼井はしばらく何も言わなかった。

「さあ、もういいでしょ。泣いている場合じゃないわ。冗談抜きで私の時間は限られている。リップサービスはここまでよ。急ぎましょう」

 また刺すような冷たい風が路地を吹き渡る頃になって、コツンと僕の額に自分の額をぶつけて臼井は体を離す。

「リップサービスって……」

 臼井はさっさと路地から出ようと歩き出す。僕はシャムシールをリュックにしまい、慌ててついていく。

歩き出すと自然に涙も止まった。まだやらなきゃいけないことはたくさんある。だから立ち止まって泣いている余裕なんて今はない。

戦い、使命を全うする。今はそれに全てを集中させよう。路地裏から人通りの多いはずの広い通りに戻る。もう時刻は午後十一時を過ぎている。さすがに人影はちらほらとしか見えない。

「あともう一、二体は今日中に仕留めたいわ」

「できるの?そんな体で」

「あなたが戦いなさい。私はアシストに回る。徐々に分担を変えていかないと、実戦訓練にならないわ」

 ヒュ~……

「!?」

 また風が吹く。それは別に驚くことじゃない。驚いたのは、

「どうしたの?」

「いや、あのさ……匂いが」

「好都合ね。どっちの方角から」

「いくつか、分かれてる」

「さっきみたいなカップルが複数組潜んでいるのかしら。気をつけましょう」

「うん……」

 匂いは分かれている。たぶんそれは間違いない。けれど、一つはあまりにも強烈だ。まるで、あの……

「で、どっちに行けばいいの?」

「あ、うん」

匂いそのものはいつもと変わらない。

けれど東からたなびく匂いは微弱だ。さっきのカップル二匹から匂ったのより、弱い。

もう一方は北西からだ。こっちは、洒落にならないほど濃い。むせ返るような感じだ。でも、建物の配置のせいかもしれない。

北西にはビルが多い。自然、ビル風も甚だしい。逆に東側はビルが少ない。匂いが拡散しているといえば拡散している。

ということは拡散した分を集めれば北西から匂う濃さになるのか?分からない。

とにかくこんな、匂いの斑なんて、今まであったか?匂いが四方八方から微弱に感じられるのはいつものことだ。

けれど斑なんていうのは、経験がない。どうするか。

「……」

 そしてもう一つ。今出てきたばかりの路地からも、東から匂うのと同じくらいの濃さで匂う。どうしてだろう。さっきまで匂わなかったのに。ひょっとすると銀白色の塊を焼却するまでにムシュフシュが飛散したのか?だとすれば戻ればきっとたくさんの菌屍が集まってる。危険だ。危険だけれど、でもチャンスと言えばチャンスかもしれない。

ひと晩の間に、三日分くらいの成果があげられるかもしれない。何より自分のレベルアップにつながる。

個対複数の戦闘はそう簡単に経験できない。それに時間が多く残されていない臼井にとっても、そっちの方が都合がいいかも知れない。ロングヘアをおびき寄せるにはとにかく兵隊の菌屍を一体でも多く始末する必要があるはずだから、

今日たくさんの菌屍を倒すことができれば慌ててロングヘアが出て来るかもしれない。

出てきたとして、臼井は悲観的なことを言っていたけれど、あるいは二人で力を併せればもしかしたら、ロングヘアを止められるかもしれない。今こそ、好機なのかも知れない。

どうするか。

……。

……北西。

北西に、行くか。

 匂いの斑はあるいは気のせいかもしれない。

「臼井」

「なに?」

「あっちだ」

 僕は北西を指し示す。

「そう、じゃあ行きましょう」

 臼井と僕はビルの乱立する北西へと歩く。時間が時間だから、ほとんど人気はない。

 キーコ、

 キーコ、

 キーコ。

「……」

 そんな夜遅く、自転車をこぐ学生がいる。黒い学ランを着ているんだから学生だろう。荻原みたいに学習塾か何かの帰りか?

それともこの間までの僕みたいにゲームセンターで時間をつぶしていたんだろうか?どっちにせよこんな時に、不用心な奴だ。

 キーコ、

 キーコ、

 キーコ。

 僕たちから見て対向車線の真ん中を、自転車は走ってくる。しかも手には傘を持っている。

「匂いは、する?アレ」

「え?」

 言われて、僕はあの自転車に乗っている学生が匂いを放っているかどうか確かめる。

けれど前方から吹く風が運ぶ匂いが強すぎて、よく分からない。

「あの自転車の来る方角から強い匂いがするってことしか分からない」

 目はどうだろう。そう思って学生の顔を見る。学生は眼鏡をかけている。

そのレンズが街灯に反射して目がどうなっているのかこっちから確認できない。

「……」

 臼井が立ち止まる。紙袋からメイスを取り出し、両手に持ち直す。

「つまり、あれは菌屍かもしれないってことね」

「「かもしれない」ってだけで菌屍かどうかは分からない。あくまで灰色であって白じゃないってだけだ」

「じゃあ、殺しましょう」

「何言ってんだよ!」

「常識を言っただけよ。もしあれが菌屍だったらあなたか私のどちらかが死ぬかもしれないわ」

「でも、違ったら、俺たちは人殺しになるんだぞ!」

「今更何を言ってるの?私たちはもう十分人を殺している。人の成れの果てだけれど、人を殺め続けている」

「だけど!」

「だけど、何?」

「……まだ、普通の人かもしれないだろ」

「普通の人じゃないかも知れない」

「……」

 キーコ、

 キーコ、

 キーコ。

 自転車の学生は車が走っていないことをいいことに、対向車線の真ん中を走り続けている。その異常行動が僕たちを混乱させている。

ふざけて真ん中を走っているのか、それとも真ん中とかそういう概念すら失って自転車をこぐだけの菌屍なのか。

「いいわ。なら私が殺る。あなたが罪を背負う必要はないわ。どうせ私はすぐに消える身」

「そんな」

「ならあなたが殺るの?」

黒か白か分からない状況。だけど選択は刻一刻と迫られている。

どうするか?

どうするかを悩んでいる時間はあるのか?

ないのに悩んでどうするのか?

「はあ、はあ、はあ」

「私がいくわ」

そう言った矢先のことだった。

ブオオオオオオオオオ……

改造車特有の爆音が聞こえる。けれど姿が見えない。慌てて振り返る。ハイビームで後ろから凄まじいスピードで走ってくる。

「あいつ、轢かれる!」

ブオオオオオオオオオオオオオオオ!ブ――――――ッ!!

エンジンに負けないくらい強烈なクラクション。その音の先に、自転車の学ランがいる。

ゴグチャキュウウッ!!

「!」

自転車と自動車がぶつかった音。肉が弾き飛ばされた音。ガラスが砕け散った音。間に合わない急ブレーキの音。全てが悲惨に混ざり合った轟音が上がる。自転車も乗っていた学生も上に吹き飛ばされ、落下した。自転車は砕けて大破し、学生は荷物を散乱させ、五体があらぬ方向に向いた状態になった。

シュウ~……

車がエンジンをふかして急にバックする。まさかこのままひき逃げするつもりじゃ……

ビュオンッ!!ガシャンッ!!!

倒れている学生の腕だけが動き、まだ手に持っていた傘が槍のように跳んで車のフロントガラスに突き刺さる。車の動きが一気に遅くなる。

「ケハ」

蛇腹の蛇のように体を這わせた状態で、学ランはスルスルと車に移動していく。車に到着するとそのままフロントガラスを手でぶち破り、反対を向いた頭から中に入っていく。

「ぎゃああああっ!」

揺れる車体。上がる悲鳴。ひび割れたサイドガラスは呼気で曇り、血で染まる。

ガオンッ!

「!?」

ガソリンの給油口に、火のついた何かが刺さる。隣を見ると、臼井の手にあったはずのメイスの一本がなかった。

ドバアアァ――ンッ!!

爆発を起こす。けれどそれでも車はまだ走れるらしく、急発進する。

キイイイイイイッ!!

でもまもなく、近くの商業ビルに突っ込んで静止した。

「やっぱり、菌屍だったわね」

冷静に臼井が言う。「メイスを取ってきたら、さっき言ってた別の場所に移動しましょう」と言って、燃え盛る車の方へ足早に移動していく。

「……」

菌屍との戦いは少しだけ慣れた。だけど目の前で戦いを想定していない普通の人が襲われる光景には、どうしても慣れることができない。そしてもう一つ、普通の人に化けていた菌屍が、かつてはきっと、きっと普通の人であったと受け入れること。……まだ、苦しい。

「……」

居ても経ってもいられず車に轢かれて散乱した学ラン菌屍の遺留品の傍に僕は向かった。その中に学生鞄があった。ほんの少し前まで、自分と同じように毎日を過ごしていたんじゃないのか、この、持ち主も。

鞄を持ち上げる。見る必要なんてないはずなのに、見たいと思って、鞄をひっくり返す。

ヌチャッ。

誰かの耳が二つと、目玉が二個、それに指が一本出てくる。そしてボトリと、血まみれの手帳らしきものが落ちる。

「はあ、はあ、はあ……」

手帳を手に取る。

手帳のタイトルには『イノリノハテ』と書かれている。タイトルの下にはオーエスの文字がある。イニシャル?

「それは開かない方がいいわ」

「!」

開こうとした直後、背後から声がして心臓が飛び出そうになる。慌てて振り向くと臼井だった。

「私の中の人形が強く言っている」

僕が手にした手帳を静かに取り上げる臼井。

「開く者を試す魔の書だから挑むなって。さあ、戻りましょう」

「う、うん」

消防や警察が駆け付ける前に僕たちは元の場所に戻った。


「まただ」

「匂いが?」

「うん、どうしよう……今度は南と西」

「どっちでもいいわ。どうせ行く先で始末するだけだから」

「あのさ臼井」

「なに?」

「……ごめん、なんでもない」

匂いが強いのは南だ。そして匂いの強さは、僕にやっぱり危険を訴える。

「西だ。そっち」

臼井の言うとおり、僕はまだ十分な強さを備えていない。

「そう。西ね」

「ああ」

 脳裏にロングヘアの女が浮かぶ。大斧でフェナカイトさんを切断したアルト声の魔物が浮かぶ。

 強い匂いの先に、きっとあのロングヘアはいる――。

 だとすれば、今は避けるべきだと思った。

確かに臼井が時間の経過に伴い衰弱していくのなら、それは適切な判断じゃない。けれど臼井が言った通り、万が一臼井が今ロングヘアと戦って戦闘不能になった場合、僕が一人で止めなくちゃいけない。

菌屍一匹倒すのにあれだけまごついている僕が、あのロングヘアとまともに戦えるか?

あのロングヘアが用意してくる菌屍の大群を相手に満足に戦えるか?それを考えると、南に足を向ける気にはなれなかった。

「路地裏の……」

もしドロドロの液体を両手両足にまとっているさっきのブーツ女みたいな菌屍が大量にいたら、今の僕じゃ勝ちは拾えない。

「車を襲い返す……」

轢かれた車に襲いかかった菌屍を爆殺する時、メイスを臼井は投げたけれど、もしあのままメイスが焼失していたら、どうなる?

臼井だってメイスなしで戦うのはもうあぶないかもしれない。

気を失い、今紙袋で持ち歩いているメイスを失った場合、また舞踏譜でメイスを出現させることは可能と言えば可能だろう。

けれど、そんなことをすれば、衰弱はさらにひどくなるだろう。ますますロングヘアと対峙した時の勝算が低くなる。

「何をさっきからぶつぶつ言ってるの?」

「なあ臼井」

「やっぱりこの道は間違いだったなんて言ったら張り倒すわよ」

「言わないって。そんなことより、あとどれくらい臼井は、臼井でいられるんだ?」

 知りたくはないけれど、きちんと知っておかなければならない質問を、僕はした。

「前に言った通りよ。……持ってあと三日。それを過ぎたら、ただの人形に戻る。私の体や心は、どこかその辺の落葉にまじって落ちているかもしれない。それは分からないわ」

「じゃあ、急ごう」

「さっきからそう言ってるわ」

 歩き続けながら僕は、ロングヘアの立場に立って、匂いが斑になって流れていたさっきの状況の意味を考えてみた。せっかく生み出した菌屍を次々に殺されてロングヘアは何とも思わないはずがない。数を減らされることに対して焦りを感じているか、あるいは苛立っている。だからさっき、僕を「誘って」きたんじゃないか?

僕が菌屍の憑いた動物の匂いを辿れることを、ロングヘアはきっと知っている。

どういうわけか知らないけれど、それを知っている。だから誘ってきた。だとすれば、今後こういう〈誘い〉は頻発する気がする。だけどそれは、裏を返せば、僕はいつでもロングヘアのもとに行けることを意味する。どんな罠を仕掛けてロングヘアが待っていようと、匂いによって居場所が特定できることに変わりはない。ならば、慌てることはない。止まることはできないけれど、焦ることはない。

「よしっ!」

「どうしたの?」

「気合を入れたんだ」

「そう。てっきり戦い過ぎてイカれたのかと思った」

「そんなわけないだろう」

「冗談よ」

「臼井も冗談を言うんだな」

「あら、私はいつだって会話の中でユーモアのセンスを大切にしているわ」

「よく言うよ。いつだって直球じゃないか」

 匂いの濃い場所にロングヘアは待ち構えている。だからそこへ三日後に行く。三日後に、ロングヘアを必ず倒す。それまでは死ぬ気で自分を鍛える。菌屍に囲まれても動じないくらい強くなるために、自分を極限まで追い込んで強さを磨く。

絶対にあきらめない。絶対に、絶対に、臼井を無駄に死なせない。絶対に、絶対に、絶対に、中西や多くの人の無念を晴らす。やってやる!

「張り切りすぎて死なないようにね」

「そうだな。お互い気をつけよう」

「言われるまでもないわ」

 話しながら僕は、ハドロンとバリオンの技を全て思い出す。誰かさんのおかげでその作業はそれほど難しくない。

「す~、は~」

 技を鮮明に脳裏に思い描き、二日間で出来る限り技を真似することで一切を体得しようと心に誓った。


 三日が過ぎた。

それはつまり、燕塚病院でフェナカイトさんに会ってフェナカイトさんが死んで、臼井が生まれて、七日経ったということ。

「はっ!!」

 ドンッ。

 シュパンッ!

 ガスガスンッ!!

 ドパッ!

 満月の晩。犬ほどもある大きなネズミの形をした菌屍の懐に僕は踏みこみ、その首を刎ね飛ばす。切断面から跳ね上がる黒い液体を全てかわす。刎ねた首が地に落ちる間に残りの犬ネズミ二体の始末に取り掛かる。

 バッ!

 ドシュンッ!

 素早く移動し、逆手のシャムシールを一体のネズミの首に当てて上に持ち上げ、瞬間的に動きを固定し、そこへ上から順手のシャムシールを打ち落とす。ギロチンが作動したかのようにして犬ネズミの首が一つ、また飛ぶ。

「キキッ!!」

 残る一体の鋭い齧歯が、首のない犬ネズミの死骸を飛び越えて僕の肩に噛みつこうとする。

 パッ。

 逆手に握っていたシャムシールを僕は手放す。重力に任せてそれは即落下していく。

 ボッ!!

 柄頭が足元に来たとき、僕はそこを思い切り蹴る。口を開けて目前に迫っていた菌屍めがけてシャムシールは飛び、口蓋から突き刺さり頭蓋を貫通する。

「ケッ?」

 異物が突如口に侵入したせいで菌屍は驚き、その動きが鈍る。すなわち突進力は減衰し、結果として僕が菌屍の真横に出るのを許してしまう。

「はっ!!」

 ズドンッ!!

 順手のシャムシールを大きく振りかぶり、上から下に菌屍の首をそぎ落とした。もう一本のシャムシールに串刺されたまま、その首はクルクルと宙を舞って落ちた。

「ふう」

 ドサッ

……ボワッ。

 ビルのエアコン用室外機の上に座って様子を見ていた臼井が手に持っていたライターで三体の残骸を燃やしていく。

ライターを手にする臼井の姿は七日前と比べて明らかに憔悴していた。目元はくぼみ、細見の体はさらに痩せ、肌の色は紙のように白くなっていた。

「お疲れ様。けがはない?」

「うん。大丈夫」

「これなら、いけそうね」

「ああ」

「あとは出て来るのを待つだけ」

「うん」

 臼井と僕と、沈黙の三人で少しだけ歩く。やがて沈黙が寒風に乗って去って行ったあと、臼井がそっと口を開いた。

「本当は、あの学者がどこにいるか知っているんじゃないの?」

「……気づいていたのか」

「この二日間、あなたが匂いを辿る際に、なんとなく匂いを選んでいるように見えた。本当は学者の位置を既に知っていて、けれど迂闊に近づかず、慎重になっているんじゃないかって……そう思っただけ」

「……」

「あと、強いて言えば菌屍との闘いに、今まで以上に熱が入っていたこと。制限時間を気にかけるような追い詰められた目。だけどどこか悟った雰囲気。それを見てひょっとしたらと思っただけ」

「黙っててその、悪かった」

「いいわ。……じゃあ行きましょう。私と同じで向こうも我慢の限界だと思うから」

「本当に、ごめん」

「あなたの判断は正しい。伸びしろが多く残っている方の意思を優先するべきなのよ、こういう場合は。だから私のことをあまり気にする必要はない。むしろ私は感謝するわ。私の砂時計の砂が落ち切るまでのこの短期間であなたがこれほど成長してくれたことを」

「……」

「ただ、学者はそれすらも想定している可能性がある。だから用心に越したことはない。死力を尽くして戦うだけじゃなくて、常に学者の狙いに注意しながら立ち回らないといけない」

「分かった」

僕はリュックサックからタオルとミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、タオルで顔と手を拭き、水分補給した後、シャムシールも含めて全部リュックにしまい、それを背負って臼井と共に歩き出した。

いつも通りならここから僕が前を歩き、臼井が後ろを歩く。けれどこの日は並んで歩いた。どっちがそうしようと言ったわけでもないのに、気づけば二人で闇夜を並んで歩いていた。途中、「テナント募集」と書かれた無人の建物のショーウィンドウの前で臼井は舞踏譜を踊った。

 タッ。

 この二日間で一度、臼井は気を失った。

 タタッ。

 菌屍にやられたわけじゃなくて、普通に気を失った。死ぬほど心配したけれど、すぐに臼井は目を覚ました。

 タタンッ。

 けれど気を失ったせいでメイスは消えてしまった。それ以来、臼井は今の今までメイスを幻出させず、雑貨店で買ったステンレスの包丁一本を持ち歩いていた。

 タンッ。

 僕はただその包丁を臼井が振り回す機会が訪れないよう願いながら、ひたすら目の前に現れる菌屍を斃し続けた。

 タタッ、タンッ。

「……」

 あの時は目を瞑りながら踊っていた臼井はこのとき、目を開けていた。鏡と化した夜のウィンドウ越しに、何度も臼井と目が合った。

 踊り終わり、メイスを幻出した後、額に汗を浮かべ、さらに衰弱した感じの臼井と共に僕はまた歩き出す。

たぶん臼井は二度と舞踏譜を踊れない。踊れば、僕の手の届かない所へ行ってしまう。そうならないよう、僕がしっかりしなきゃならない。臼井の姿を見ながら僕はそう思い、目頭が熱くなった。

「不思議ね」

「え」

 凍てつくような夜の闇の中を並んで歩き出してまもなく、臼井がぽつりと話し始めた。

「同じ学び舎に通っていたとはいえ、本来なら一生話すこともなかったかもしれない相手と、毎日一緒に過ごして、殴り合ったり蹴り合ったり斬り合ったりしている」

 一日が終わった後、臼井は僕の家で泊まった。どうせ両親は帰らないから臼井はそうやって夜をうちで明かした。

そして朝になり、学校へ行き、僕の訓練に付き合い、夜は街に出て菌屍を倒す。

考えてみればこの一週間、片時も臼井と離れたことがなかった。それを臼井は言っているんだろう。思えば、不思議な縁だと。

「あの学者を倒すために、ね」

「ええ……不思議ね」

 臼井は長いこと目を瞑り、そして開く。

「そして私たちを結んだ悲惨の源へ、私たちはこれから向かおうとしているのね」

「うん」

「……」

「……」

「悪いことをしてきた。自分勝手に生きて、由美を悲しませ、死んだあとも由美を翻弄してボロボロにしてしまった。そして今、もう一つ悪いことをしようとしている」

「あの学者を殺すこと?」

「違うわ」

「?」

 臼井を見る。いつも無表情か自虐的な寂しい笑みを浮かべるだけの臼井はその時、頬をわずかに赤く染めていた。抱きしめて温めて、もっと濃くしてあげたいと思うほどその色は淡かった。けれどその色のために臼井の白い顔は、ゲッカビジンの純白花のように美しく見えた。

「あなたに慕われて、死にたい」

「……」

「その思いが、私の中に生まれた」

「……」

 言われて、自分もそういう感情があったことに気付いた。けれどそれは考えないようにしていた。それを考えると、使命とか覚悟とか、そういうものが鈍る気がしたから。

「残りわずかな〈私〉の中には、そういう気持ちが芽生えた。そんなもの厄介なだけと思っていたけれど、ふふ、案外いいものね。こういうのも」

 臼井は頬を赤くしたままクスクスと笑う。

「この七日間、もう動けないと思った瞬間が幾度もあったし、もうどうでもいいと投げ出したくなる瞬間もたくさんあった。けれど踏みとどまった。踏みとどまれた。そういうギリギリの状態のとき、私は背負ったものの重みを考えたんじゃなくて、いつもあなたのことを考えた。そうしたら耐えられたの。……不思議ね。そういう感情って、何か炎のように自身をひたすら燃え上がらせるものって思っていたけれど、私の場合そうじゃなかった。絶望につぶれそうな時に、足元を照らして立ち直らせてくれるような、灯みたいなものだったんだって、思い知った」

 そうだった。確かに、そうだった。

 この七日間必死に僕は自分を鍛えた。信じられないくらい自分を追い込んだ。追い込めたのはもちろん使命感があったからだ。

 けれど、それだけじゃなかった。

 確かに使命に対する責任感は僕を勇み立たせた。けれど、その使命の達成はすぐ手の届くところにあるわけじゃない。だから時々、本当に疲れ切った時、そこに本当に手が届くのかどうか自分が信じられなくなってしまう時があった。僕ごときが使命なんて、背負えないんじゃないか。ただ格好をつけたいだけなんじゃないか?そもそも僕が使命を背負おうとすること自体、無意味なことなんじゃないか。どうせみんな最後は死ぬんだからって。

 だからこんなとき、すぐ手の届くところにある何かにすがった。それが臼井百合花だった。

 臼井は今、ここにいて、僕を育てようと昼間はずっと戦いの相手をしてくれている。あるいは僕を助けようと、夜は菌屍を相手に僕の傍で戦ってくれている。彼女のために途中で絶対に投げ出さないという気持ちだけは、最後まで貫けた。どんなときも、それだけは絶対に手放さなかった。

そういうのを、臼井も感じたのかも知れない。

 ギュッ。

「好きだ」

 僕は臼井の手首を握って、そう言った。本当は手を握りたかったけど、彼女の手にはメイスがあったからそれはできなかった。

「私は……由美にはなれないわ」

「僕は」

 よく知りもせずに、中西由美に好意を寄せた。

そしてその後、別に好きな人、特別に守りたいと思える人が出来て、心変わりしてしまったとして、もしそれに償いが必要なら僕は、……それが償いと呼べるものかどうかは分からないけれど、知り合って共にすごし、本気で一緒になりたいと感じたその人を愛し抜くことで、その罪を償えたらいいと思った。

「臼井百合花が好きだ」

 僕のせいで中西を束の間でも煩わせたのなら、僕は中西に謝りたい。

彼女を弄んだロングヘアを倒すために命を懸けることで、この埋め合わせはする。

これから先、中西が少しでも安らかに休めるように。

「そう……でも私の過去を知ったら、きっと……」

「自分を責めるなよ」

「いいの。わたしは死ななければならない理由をいくらでも抱えて……」

「死ななきゃいけない理由なんてもう、探さなくていい。お願いだ。生きる理由だけを見つめてくれ」

「……」

「そう言われると……困るわね」

 月光の下、臼井は僕を見つめて微笑む。透き通るような白い肌の上を、風に吹かれた髪がもつれあいながらなびく。深い瑠璃色の瞳はわずかにうるんでいるように見えた。

「難しそうだけれど、やってみるわ。ほかならぬ……あなたの願いだから」

「ありがとう」

 涙がせきあげてくるのを必死にこらえて、僕は一言そう告げた。

「ここが、匂いの居城……因果ね」

「うん。やっぱりここだった」

 手をつないだまま僕と臼井は二人で歩き続けた。彼女のメイスは僕がリュックに入れて持った。いつまでも続いてほしいと願う時間に限って、それはあっという間に過ぎ去ってしまう。中西の匂いを辿ってこの場所に初めて来たときに流れていた時間は、果てしなくゆっくりと僕には感じられた。けれど今は、本当に短い時間しか僕の周りには流れていなくて、その流れに身を任せて、僕はこの奇妙な病院にまた訪れてしまった。そんな感じだった。

 燕塚病院――。

 冬なのに夏草の生い茂る謎多き場所。

あるいは匂いの滞留所。

そして始まりの場所にして、おそらく、終わりの場所。

「さてと、そろそろその脂汗でギットギトの手から解放してくれないかしら」

「そういうところがかわいくないんだよな、臼井は」

「悪かったわね。今度から気を付けるわ。今度があればだけど」

「はいはい。ほら、メイス返すよ」

 廃墟の病院を前にしてお互いに苦笑しながら、ずっと指を絡め握り続けてきた手を離す。離す直前、臼井は僕の手をぎゅっと握りしめた。

まるでこれが最後だと伝えるかのように。

 シャンッッ!!

 リュックから取り出したシャムシールで僕は金網のフェンスを切断する。

「行こう」

「ええ」

 丘の上、病院の敷地内に足を踏みいれる。

「匂いはどう?」

「そこら中から漂ってくる」

「そう。探す手間が省けてうれしいわね」

 二人で周囲を警戒しながら建物に近づいていく。

「!」

 足元から強烈な〈匂い〉がスチームのように立ち上る。その勢いと濃さに危険を察して僕は飛び退く。それを見て臼井も飛ぶ。

 ドゴ―――ンッ!!

「これも、菌屍!?」

 曇ることのない月明かりに染まる闇を、巨大な触手が次々と地を裂いて伸び上がる。丸太のように太い触手は全部で八本あり、それらは伸びきった後、僕らを追いかけはじめた。

 ドゴンッ! ドドンッ!!

 ドンッ!!! ズドーンッ! バシャンッ!

 ドドドドンッ! ボドンッ! ギュオンッ!

 空気を切り、唸り声を上げて移動する触手が地面に叩きつけられるたびに、この世の終わりみたいに大地が揺れる。ついでに地割れが走り、粉塵が舞う。

 ガスンッ!!

 だけど攻略の糸口は意外に簡単に見つかる。叩きつけた瞬間の隙を狙って触手に傷を負わせればいいだけの話だった。

 ジャキッ。

シャムシールを二本とも順手に握る。あとは、かわせるかかわせないかだけだ。

 ドゴンッ! ガスガスンッ!

 ド――ンッ ガシュガシュンッ! ブオンッ!!

 ザシュッ! ブオンッ!ブチブチブチッ!

 ブシュウッ!!

 触手はシャムシールに切り刻まれていくうちに自ら生み出す遠心力に耐えきれなくなって勝手に千切れ飛ぶ。

間抜け。でかければいいってもんじゃない。

 ガスガスンッ!!

 触手の本数が減れば減るほど、未だ動く触手を攻撃するための時間は相対的に増える。

一本一本を斬りおとすのにかかる時間は相対的に減っていく。ついに分かれて戦っていた僕と臼井は合流する。一緒に戦い始める。

「誠に勇にして武。終に剛強にして鬼雄と成れり……期待しているわよ」

「任せろ」

 ブオンッ!

 ドゴドゴドゴドゴッ!!

 ガシュンッ!

 触手を臼井の燃えるメイスが殴りながら焼き、そこを僕のシャムシールが切り刻む。触手が千切れ飛ぶのを待つのではなく、今度は純粋に、千切る。

 ドシャッ!

 ドス―――ンッ……

「よし!」

「……まだよ!」

「?」

 八本の手先を切られた触手の残り部分が地中にザザッと隠れる。ゲームや映画だったらそろそろ本体が現れてもいい。そう思って待っていたら、後ろから細長い何かがバタバタと四足歩行で走ってきた。どれもオオトカゲのような形をしていた。それらが切り落とした触手の落ちていた方から全部で八体、地響きを立ててこっちに走ってくる。

「こいつらも菌屍か!」

 バァクンッ!

 菌屍は赤い牙だらけの口を開き、間合いに入るや否や食い殺そうと口を閉じる。僕はいったん逃げ、どこを斬ればいいか急いで考える。同じような咬撃を受けた臼井は初撃をかわすも、別の一体が振り回した尾を腰に食らい、吹き飛ばされる。助けに行きたいけれど僕自身三体のオオトカゲに同時に攻撃を仕掛けられて思うように身動きが取れない。

とにかく目の前の菌屍を何とかするしかなかった。

「ふう…………」

 激しく動き回る三体の菌屍のせいで、臼井の心配をしている余裕が一切なくなる。

だから心配するのをやめ、無事をひたすら祈り、自分の戦闘に集中する。

「はあああああああっ!!!」

 一旦鎮めた血を、一気に沸騰させる。食い殺そうと突き出された菌屍の顔に向かって跳ね、狙い定めたシャムシールを一本、可能な限りの高速で首に突き入れる。別の二体が襲い掛かってくるのを紙一重でかわしながら、突き入れたシャムシールのグリップを、僕がいまだ手にするシャムシールの刃先の反対側のしなりで思い切り殴る。そして殴られた力の向きとは反対にシャムシールは回転して菌屍の首を刎ね飛ばし、黒い液体を噴きこぼす。

首を失った菌屍を踏み倒しながら残り二体はなおも攻撃の手を緩めることなく迫る。たまたま二体の首の位置が上下に重なった瞬間を見計らい握っていたシャムシールを逆手に持ち替え真上から全体重をかけて突き入れる。

 ゴブジュッ!

 頭を串刺しにされて身動きが取れなくなったところで、僕は急いで落ちているシャムシールを拾い上げ、二体の首を力でそぎ落とした。

「りゃああっ!」

 ガスンッ!

 ドドスンッ!

「はあ、はあ、はあ」

 まだ、動けるトカゲ菌屍は五体いるはずだった。けれど僕のもとには一体もいない。ということはつまり臼井の所に五体いる!急がないと!!

「はあ、はあ、はあ」

 菌屍の頭部を二つ串刺したままのシャムシールを引き抜き、臼井の元へ必死に走る。銀白色になりつつある死骸からムシュフシュらしき白い綿が舞う。構わない。「綿」の警報を聞きつけてここに来るなら来い。集うなら集え。どうせ今夜で最後だ。最後にしてやる。僕はここにいる。お前たち全員が動けなくなるまで、ここにいてやる!

もう逃げも隠れもしない。ここで、戦い続けてやる!

「!?」

 動かなくなって弱々しく燃える菌屍が二体。そして、左腕が肩からなくなった臼井が三体の菌屍を相手に戦っていた。

「臼井!」

 フェナカイトさんの最期が頭の中を何度もよぎる。臼井を失う不安と恐怖で僕は頭が真っ白になる。胸が張り裂けそうになる。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 鬼服の一部がこちらの意図を理解したように解け、それこそ蛇のように素早く動き、目の前の菌屍の目と口を覆う。

――惨烈風斬刃。

 ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクンッッ!!!

 敵一人を斬殺するために捨て身となる双子の剣技を、僕は一匹の菌屍相手に実行する。

 ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクンッッ!!!

これはつまるところ、技じゃない。「意志」だ。

ハドロン&バリオンの場合、勝ちたいから守るのをやめて、斬り尽くすことに専念する。そして僕の場合……臼井を守るため、自分を守るのをやめて切る。

そこになければならないのは、最後までその思いを貫こうとする意志だ。

「ああああああっ!!」

 この技は、憶えようとする必要なんてなかった。感じたことを本気で表現すれば、おのずと出る。故に必勝の剣技。

「ケキャッ!」

 けれど敵は一体じゃない。三体もいる。一体への攻撃のために無防備になった僕を菌屍が放っておくはずがない。それが現実だ。二体のうちの一体が臼井から僕に攻撃対象を変えて迫ってくる。どうする?今攻撃をやめて防御に回っても完全には防ぎきれない。仮に防いだとしても僕が攻撃中の菌屍が攻撃を仕掛けてきたら、今度はそっちが防げない。

「くそっ」

 攻撃中の菌屍を今すぐ潰す。「それから」、向かってくる菌屍の相手をしよう。

 それから――。

 それはつまり……迫りくる菌屍の初撃を覚悟すること。

「来いっ!!」

 腕の一本くらい、この際くれてやる。まだもう一本ある。今はこの斬撃に全てを駆ける。

 ボグシャッ!

 臼井から僕に攻撃対象を変えた一体は突如、僕に噛みつく前に頭を殴り潰された。潰したのはもちろん僕じゃない。左腕のない臼井だった。臼井はそのまま僕が斬撃中の菌屍の真上を舞う。かわりに臼井を最初から睨みつけていた菌屍一体が即、彼女の背後めがけて突進する。

「そいつをお願い!」

 僕は臼井の相手だった菌屍の後始末を頼まれる。

「分かった!」

 僕の相手だった菌屍の後始末を逆に僕は臼井に任せる。

 ズシャッ! シュパンッ!ガシュンッ!

 惨烈風斬刃を今まで僕が見舞っていた菌屍は鬼服の拘束が外れた直後、間髪入れず臼井のメイスによって頭をたたき割られ、突進してきた無傷の菌屍は逆手に握る僕のシャムシールで口を裂かれ、突進の勢いが殺がれたところでその首を、順手のシャムシールによって撃ち落とされた。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 周囲に静寂が戻る。けれど匂いは一向に晴れてなくならない。おそらく銀白色の「警報」を知った菌屍の仲間がこれから続々現れるんだろう。

「助かったわ」

 落ちた左腕が握っていたメイスを拾い、二本のメイスを片手に持つはめになった臼井が僕に礼を言う。

「なぁに……これくらい。それより無事でよかった」

 大汗をかき、僕の体を包む鬼服の隙間という隙間から湯気が立ち上る。

それを見ながら、こんな強い菌屍が後何体出て来るのか考え、道のりの険しさにうんざりした。

「今までとはけた違いに強い気がするのは、気のせいか?」

「いいえ。間違いないと思う。私が弱っていることを差し引いても、ここにいる菌屍は確実に強い」

「それに、あんな姿って、ありなの?」

「ムシュフシュは何にだって取りつくらしい。取りついて、支配する。それだけよ。

ただ支配するのには力というコストがかかる。あんな強烈なのがそう何匹もいるとは思えない」

 ヒュ~……

「う」

 この季節には珍しい梅雨時のような生ぬるい風が吹く。同時に濃い匂いが鼻を刺す。

「貧すれば鈍す。……思えないのではなくて、思いたくないのでは?」

「「……」」

 聞き覚えのあるアルトの声が耳に届き、鳥肌が立つ。天使のような死神の声。急いで周りを見回す。

「私は最初からここにいますよ」

 暴れ回った触手が最初飛び出してきた八つの大穴から黒い液体があふれるようにして下からゴポゴポと湧いて出ている。

その八つの大穴を結ぶ円の中心の液だまりに、女がいた。黒色のロングヘア。

一週間前フェナカイトさんを滅茶苦茶にした、大斧を隠し持つ女だ。

「そっちの人形はともかく、何て元気のいい方なんでしょう、あなたは」

 ロングヘアは僕を見ながら告げる。僕は今までこれほど感情の死んだ顔を見たことがなかった。

それこそまるで、人形のようだった。

けれどそれが人形とは異なることは、意思を持った生き物のように彼女の目の中を流れる赤い光が教えてくれた。

その目を見なければ、街の人々を恐怖のどん底に陥れているような人物にロングヘアは見えないだろう。

けれどその目を見れば、これは間違いなく恐怖の原点だと誰もが確信できる、そんな嫌な目をしていた。

「あなたみたいなロクデナシをぶち殺せるくらいに元気よ、こいつは」

 片腕のひじから先を菌屍に食いちぎられ、人形と呼ばれた臼井がロングヘアの女を鋭くにらみつける。

「覚えてますか、ここを」

 しかしそんな臼井を無視して、ロングヘアは僕を見たままもう一度語りかけてきた。

「たくさんの人が、犠牲になっている。今も、昔も」

 言って、自分の言葉に総身が震える。フェナカイトさんや中西の面影が浮かぶ。

今なら救えたかもしれない二人を思うと、汗で冷えはじめた体に鳥肌が立つ。

弱かった自分へ、そして悲劇を引き起こした相手への怒りが激しく募る。

「そうじゃなくて……まあ、いいですわ」

 ロングヘアはもどかしそうな顔をしながら何かを言おうか言うまいかと言う表情をしていたがやがてため息をつき、話題を変えた。

「やっとこちらに足を運んでくれたことですし、精いっぱいのおもてなしをしてさしあげましょう」

 ロングヘアが右腕を軽く振る。足元の液だまりが至るところでボコボコと音を立てて盛り上がっていく。

それはやがて人型の大きさになってようやく膨れ上がるのをやめる。黒い液塊――。その頭部と思しき所に、二つの球体が浮かぶ。

「菌屍、か」

「そうですよ。ただし深化させました。できる限りしなやかで可能な限り強く。まるであなたのように」

目の位置が定まらないまま、出来上がった菌屍が歩き出す。菌屍が今立っていた位置でまた液面が膨らみ、盛り上がり、人型になり、目を生じ、歩きはじめる。

「これがムシュフシュの創造限界。菌屍の最囚形。そんな躯を二十四ほど御用意しましょう。そこの人形の言う通り、本当はこんなにたくさん拵えると私の体にも障りがあるのですけれど、今宵は無礼講。うふふ……最後は皆で血みどろになって甘美な死を遂げましょう」

 ロングヘアの瞳が息をのむほど赤く輝く。同時に出来上がった五体の菌屍の目も赤く光る。ロングヘアの告白が本当ならこの上さらに十九体の菌屍が作られることになる。無論そんなものを悠長に待っていられるほどこっちには戦力的にも時間的にも余裕なんてない。

 フッ!

 多分同じことを考えていたのか、顔をしかめていた臼井も僕とほとんど同じタイミングで姿を消す。

僕たちから見て一番手前に誕生し、今ようやく歩き出した菌屍を二人で狙う。

 ボチャッ!

 ブシュッ!

「?」

 手ごたえはあった。斬り抜けて、互いの無事を確認しつつ臼井と僕は斬った菌屍を見る。二人とも首を狙った。けれど首は切れていない。切り口は見えた。けれどそれは泥を斬ったかのように、どんどん塞がっていく。

 モコッ。

 菌屍は動かない。ただ赤く灯る目玉だけが、体表を移動し、菌屍の背中に二つ現れた。こっちを二つの灯が見ている。

「臼井、たぶんあの目だ。あれをたたこう」

 直感的にあの二つの目玉こそ弱点だと思った。

「そうだといいけれど」

「そうです。間違いありませんよ」

「……」

 なぜかロングヘアが応える。さっきからロングヘアの反応は変だ。自分の弱みを見せたり、手の内を明かしたり……そうか。

変でも何でもなくて、単に余裕をかましているってことか。

それほどに戦力差があるってことをロングヘアは僕たちに宣告しているのか。

「昏き絶望の淵を踊る二つの狂おしき希望の灯。あれすらかき消されてしまえば菌屍は止まります。

けれど不可能です。だってあなたたちは空を飛ぶこともできませんし」

 ロングヘアがそういうと今僕と臼井が攻撃を仕掛けた菌屍の背中にトンボの翅のような黒い網目の翼が四枚生える。

生えてすぐに菌屍は飛び立つ。風を叩く音が響き渡る。

 バババババババババババババババババババッ!

「地に潜ることもできませんから」

 ドガンッ!

「しまっ!?」

 足場が急に緩くなって体がふわりと持ち上がる。僕と臼井の足元の地中からそれぞれ黒い菌屍が現れる。

現れてすぐ、うなりを上げて放たれる菌屍の拳を僕はシャムシールで受け止め、臼井はメイスで受け止める。

けれど二人とも拳撃の威力に耐え切れず宙に吹き飛ばされる。それを、

 バババババババババババババオンッッ!!

 ドガンッ!

「う!」

「くあっ!」

 いつの間にか二体に増えている飛行菌屍に急襲される。僕は宙で蹴られ、臼井は宙で殴られ、どちらも地面に叩きつけられる。

「二十四躯なんて大袈裟に過ぎたかもしれませんけれど、作るのは何だかとても楽しいので作ります。ふふ、うふふ……ここで転生の祀りを続けながら」

「ゴフッ……ふざけやがって」

 アルト声に向かって呪いの言葉と血ヘドを吐きつつ、僕と臼井はまたバラバラになって菌屍と戦い始める。できれば一緒に戦いたいけれど、それを飛んだり潜ったりする菌屍たちが許さなかった。

 寒く青く染まる暗夜。全てをのみ込む闇色の池の中心で、ロングヘアが跳ねるように、舞うように、無我夢中で踊る。それは舞踏譜とは全く系統の異なった舞踏だった。恍惚とした表情で闇をビチャビチャと跳ね飛ばしながらロングヘアは何かを踊っていた。

 ブオンッ!

「こんなのありかよ!」

 空から、地中から、そして大斧を手にして大地を闊歩する菌屍が容赦なく僕に襲い掛かる。飛行菌屍四体。地中菌屍二体。そして斧兵菌屍十八体。うち斧兵菌屍八体がロングヘアを守るようにして立っている。

戦力・布陣ともに絶望的なほど完璧。

 その地獄の中を、僕と臼井は必死に駆け回る。もはや戦うというより逃げ回るという方が正しかった。果てしなく続く容赦ない攻撃にいつしか希望が蝕まれ、戦意が薄れていく。

このまま続けばいずれダメになると頭が体に語り始めるようになる。けれど体は恐怖か本能か、菌屍たちの攻撃をギリギリのところで受けとめ、あるいはかわして致命傷を避け続け、逃げ続ける。鬼服を纏っていたおかげで肉が千切られることはなかったけれど、拳や頭突きのような衝撃まで緩衝できず、その度に骨は軋み、内臓は悲鳴を上げ、体に激痛という警告を残していった。

「くっ!」

 この絶望を生み出す張本人を僕は何度も睨みつける。ロングヘアはなおも蒼き闇の中で、黒き闇の上で、何かを踊る。白い顔に漂っていた恍惚は、時に泣き出すか笑い出すかよくわからない表情に代わった。それがとても切なくて、懐かしく僕には思えた。それは冬に夏草の匂いを嗅ぐような不思議な気分だった。

「はあ、はあ、はあ」

 僕は、あの波紋のような表情を何度か見た。

 いつ?

 どこで?

 分からない。人間だった臼井の死後、中西が彼女との交換日記帳を見つめていたときに学校で見せていたかもしれない。

でももっと前に、僕はあの表情を見ている。そして最近、特にここ最近、僕はあの表情をよく見ている。

 どうして?

 何のために?

 分からない。

 けれど臼井との訓練や夜の街中での実戦に疲れて束の間家で死んだように仮眠をとる最中であっても、あの表情は常に僕の傍にあった。そしてそれは決して居心地の悪いものじゃなかった。むしろ、欠けていた何かが満たされたような幸福感があった。

 ブオンッ!

 ドゴドゴンッ!

 ババババババババババババババッ!!

 夢で見た――?

 僕は、何かの夢を見ていた。ここしばらくずっと……。

 夢は、訴えていた。あの表情を浮かべながらずっと。私を見せるから、私だけを見てと。

 ドギャッ!

「ぐあっ!」

 夢…………?

 ……違う。

 ……。

 ………あれだ。あの……

「はあ、はあ、はあ」

 ポケットの中に入ったままだったスマホを取り出す。画面はとうに亀裂だらけで、中の機械も飛び出している。

 その中にある、血まみれのSDカード。それは無機物のくせに、まるでそれ自体から血があふれているかのように血にまみれていた。

 ドクンッ。

「……アイシ」

 SDカードに封じられていたアプリのゲームが頭をよぎる。知っているような、知らないような、知り合いのような、他人のような、夢のような、現実のような………

「テイル……」

 文字が頭の中で立ち上がる。立ち上がったそれが脳神経を経巡り、激痛を巻き起こす。文字は血管に流れ込み、破裂させ、頭蓋を埋め尽くす。

 ……百合ちゃん……。

 ……智くん……。

……百合花……。

 ……智宏……。

 ……大切な、妹……。

 ……大切な、弟……。

「ううっ……」

 頭蓋を埋め尽くした文字が反転し、血管に戻る。血管壁が修復され、神経細胞の中へ戻っていく。書き換えられていた何かが失せ、失くしてはいけない何かが戻ってくる。

「はあ、はあ、はあ」

 ズキリ。

 それはおそらく、行方知れずの…………姉の面影。

「はあ、はあ、はあ、はあ」


 ブオンッ!

「くっ!?」

 ガキ――ンッッ!!

 バババババババババオンッ!!

 正面から斧を思い切りぶつけられた。幸い二本のシャムシールで斧の刃先を受けたから、上半身と下半身が切り離れる事態は避けられた。ただ腕の骨が折れるかと思うほどの衝撃に吹き飛ばされた。転げまわった僕は三回転くらいする。その間も襲撃はやまない。飛行菌屍が追い打ちをかける。回転しながら振り回した僕のシャムシールの刃先が運よく飛行菌屍の目玉の一つを掠る。あわてて飛行菌屍が僕から離れる。そのおかげで息をつく暇が与えられる。ふと思い出して臼井の姿を探した。

「!」

 臼井はまだ動いている。けれどその姿は痛々しいものがあった。全身に切り傷を負い、服はずたずたになっていた。片目も、額から頬にかけて斬られている。

 ボフンッ。ガシッ!

 ブオンッ! ヒュッ、ドゴ――ンッ! 

「くっ!」

「臼井!!」

 地中から菌屍が飛び出し、臼井の首を後ろから掴み、そのまま強引に投げ飛ばす。臼井の顔面を空飛ぶ菌屍が掴む。そのまま急降下し、臼井を地面に叩きつける。

 バゴ―――ンッ!!!

 地中菌屍と飛行菌屍が瞬時臼井から離脱する。すぐさま斧兵菌屍の一体が大斧を振る。

「やめろおおおっ!!」

 臼井を確実に破壊することが目的なのか、斧兵菌屍は刃先という〈線〉を向けず、刃面という〈面〉で臼井を殴った。面攻撃のせいで逃げ場を失った臼井は、まるで巨大なフライパンにぶん殴られたネズミのように飛ばされた。

僕はそこへ全力で駆ける。臼井を抱き起こす。けれど反応がない。

「しっかりしろ!」

「……大丈夫よ、まだ……まだいける」

 臼井に声を掛けながら汗まみれの僕は菌屍たちの様子をうかがう。そして斧兵に囲まれて踊る、ロングヘアを確認する。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 あれは、〈ロングヘア〉なんかじゃない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 〈学者〉でもない。ましては〈天使〉でもない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 あれは、〈姉〉だ。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

小さい時からああやって、踊っていた。両親から怒られると、姉は誰もいないところで一人こっそり、舞うように踊っていた。

僕はそれをこっそり、見ていた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 踊りには、音楽やイメージがあるはずだ。けれど、姉はその一切を漏らしたことがない。

それでも姉はいつも辛いときや悲しいとき、躍っていた。

今思えばそうやって踊ることで、自分という存在が何なのか、確認していたのかもしれない。

何を聞き、何を想像しながら踊っているのかは知らない。でもある夏の夜、僕は気になって尋ねた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 バババババババババババババババババババッ!

 ドスンッ、ドスンッ、ドスンッ……

「愛歌姉さん!!!!」

ピタッ。

全てが、制止する。飛行菌屍もパッと着地して静止する。斧兵菌屍も歩くのをやめ、その場で時が止まったかのように静止する。盛り上がりつつあった地面の土も突如隆起をやめる。黒い液面も波紋を波立たせるのをやめる。

「……」

 ロングヘアはこっちをじっと見ている。瞳が赤から黒に戻っている。気づけば菌屍たちの体に浮いた目玉もみな、黒くなった。

「あんたの名前は金井愛歌。僕の姉さんだろ?」

 ロングヘアは金井愛歌という言葉を聞いて、首を曲げる。波紋のような表情は消え、道化のようにニコニコと作り笑いを浮かべる。

「私は原初の昔からこのままで、あなたと関わったことは今を除いてありません」

 ロングヘアはそういうとまた踊り出そうとした。

「姉さん……」

 かつての記憶がよみがえる。咬まれたあの時。

「ねえ、姉さん」

 あの時とは違い、僕は悲しみをこめて、問いかけた。

「姉さんは何を踊ってるの?」

「転生の祀りだとさっき伝えたはずです。それから私はあなたの姉では……」

 また波紋のような微笑を浮かべはじめたロングヘアの瞳が赤く光り始める。同時に菌屍たちの目玉も赤く光り出す。

「……!?」

 が、ロングヘアは黒い液の上で頭を抱える。

「ウ、ア……アア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」

 空気が揺れる。

 ロングヘアが液の上で突如叫び、ベチャリと膝をつく。

 菌屍がまた動き出す。けれど前と様子が違った。僕や臼井を襲ってくる者もいれば、近くにいる菌屍を襲う者や地面に頭を撃ちつける者がいた。統制はとれてなく、暴走しているようにしか見えなかった。

「何を、したの?」

苦しそうに顔を歪ませながら臼井が僕に聞く。

「あれは僕の姉さんなんだ。……間違いなく」

 僕は思い出したことを口にした。

「?」

「ずっと前、夜中姉さんが一人で踊っているのを見つけて、それで……何を踊っているのか質問したことがある。そしたら……噛みつかれた」

「自分の、姉に?」

「……うん。それがあってから間もなく姉さんは家を出た。以来、会っていなかった」

「……」

「思い出した。ずっと、ずっと忘れていたのに」

 ポケットから、血まみれのSDカードを取り出す。

「これが、教えてくれた」

「そう……フェナカイトの、気配が少しだけある」

 臼井が目をつむってカードに触れた瞬間、それは砂のように砕けて散っていく。

「断片しか見えてこない。……愛詩譚……アイシテイル?」

「……うん」

 「何?」と聞かれたら、一言では説明したくない、姉の、姉さんの……何もかも。

「とにかく」

「ふう」と息を吐き、臼井は身を起こす。

「好機逸すべからず。仕留めるわよ」

「体、平気か」

 壊れたスマホをその場に僕は捨てて、立ち上がる。

「心配してくれるの?」

「変わってやれるなら変わりたいっていつも僕は思ってる」

「ありがとう。でも集中しましょう。終わらせるために」

「ああ。行くぞ!!」

闇液の中でロングヘアがのたうちまわる間に、僕と臼井は統制を失った菌屍たちを倒すべくさっそく反撃に出る。狙うはその肉に二つずつ灯る赤眼。

 ザシュンッ!

 バシュッ!

 ドスンッ!

 ドドドンッ!

「はああああっ!!」

「せあっ!」

 菌屍は赤眼を守るのを忘れて暴れまわっている。だからその攻撃をかわし、懐に飛び込めばいい。あとは壊れて沈め!

 シュカンッ!

 パシュッ!

 ドスンッ!

 ドドドドドドンッ!

 翅を叩き斬る。斧を持つ手首を斬り落とす。土の中からもたげた頭を蹴り潰す。惑う背中を尽き刺す。がら空きの胴を断ち斬る。肢体の付け根を打ち砕く。剣を突き刺し楔のようにして動きを固定し、奪った斧でその体を強制的に解体する。とにかく僕らは急いで菌屍を破壊していった。

「はあ、はあ、はあ、はあ……はあ、はあ、あああ……イラつく、イラつく」

 頭を抱え込んでいた姉さんがようやく立ち上がる。二十四体いた菌屍はその時すでに飛行能力を持つ一体だけになっていた。それがようやく我を取り戻したかのようにして、僕に迫る。

 ビュンッ!

 ズブシュッ!

 シャムシールの一本を僕は投げる。菌屍の片方の眼球にヒットする。

「キュケッ!?」

 思わぬ攻撃に動揺したのか菌屍は翅をバタつかせて空に逃げていく。落ちてきたところを斬る僕の目論見は外れた。

「飛んで叩く!足場を」

 臼井が僕の肩に手を駆ける。それでジャンプするための足場を用意しろと言われていることに気づく。

「分かった!行け!!」

 右腕を伸ばして少し曲げる。そこに臼井が飛び乗る。僕は膝・腰・肩・腕の筋肉のバネを使い、臼井を上にぶん投げる。臼井は僕の腕が伸びきった瞬間、僕の腕を蹴って上に飛び上がる。

 ガンッ!!

 赤く光っていた最後の光を臼井のメイスが叩く。眼球が破裂し、そのまわりの黒い液体が跳ね散り、胴体と共に音を立てて落下する。

 ドス―――ン……。

 ブンブンブンブンブンッ

 ドスンッ。

 臼井が僕の足元に落ちていたシャムシール一本を投げてよこす。僕は再び二刀に戻る。

「はあぁ、はあぁ、はあぁ、はあぁ……」

 液だまりの上に立ち上がったロングヘアは、こっちを見ている。いや……もう、「見て」いなかった。

「姉さん……」

 ロングヘア……姉さんの目は、もうなかった。眼球があるべき眼窩からは黒い液体を垂れ流し、口の端からも黒い液体をこぼしていた。

「智くん……お姉ちゃんね、もう、智くんには会えないの」

 ズビュズビュズビュズビュッ!!!!

 足元に大量にある黒い液体が姉さんの右袖に一気に集まる。そして大斧の形になる。

黒い巨大斧にはいくつもの赤い眼が浮かぶ!

「お姉ちゃん、智くんのお嫁さんになりたかったなぁ……」

 ブワオンッッ!!

 姉さんの右手と斧がうなりを上げて消える。

 ドゴゴゴゴゴ――――ンッ!!

「!?」

 姉さんが上下に振った斧の風圧で地面が一直線に堀のように抉れ、僕の目の前にすさまじい音を立てて迫る。

「智くん」という呼びかけと、あまりに突然の攻撃のせいで体が動かない。

 ドンッ!

 肩が外れそうになるような衝撃が僕を真横から襲う。

「痛っ!」

「ぼうっとしていると死ぬわよ!」

 襲ってきたのは臼井だった。

「ご、ごめん」

「あれはあなたの姉なんかじゃない。たとえそんなものが存在したとしても、今の私と同じ、幻に過ぎない。目を覚ましなさい!」

「ああ、わかってる……わかってる」

 頭を軽く左右に振り、立ち上がる。

「智くんは、いまいくつになったのかなぁ」

 ブワオンッッ!

 ドゴゴゴゴゴ―――ンッ!!!

 警告の後、第二波の迫る音が轟く!今度はギリギリでかわす。

「はあ、はあ、はあ」

「ねえ智くん。どこにいるの?お姉ちゃん本の読み過ぎで目が悪くなったのかな。智くんのことがよく見えない」

 フッ。

 戦慄する。氷のように心臓が冷たくなる。今度は、姉さん自体が消えた!

 ドスンッ!!

「「!!」」

 僕と臼井の立つその間に大斧の刃が落ち、地面を裂き砕く。柄、責金、石突に相当する部分に浮かんだ無数の赤眼がギョロリと僕たち二人を見る。

「大好きな智くんのためなら何でもするつもりだったのに……悲しいな」

 斧を握る姉さんはそう言って斧を引き抜きざま、斜めに斧を持ちあげ、一気に僕たち二人を薙ぎ払う。

かわそうと思ってかわせる距離じゃない。

「うおおおっ!!」

 ジャキッ!!!ギシシシシシシシシシシシッ!!!!!

 覚悟を決めて、僕は斧を止めに入る。順手に握るシャムシールと斧の刃先がぶつかり火花が生じる。巨大な獲物を振り回すために生じる隙を僕のすぐ後ろにいた臼井は逃さず、即、姉さんの懐に飛び込む。

「そうなのよ。この人形が死ぬほど目障りなの。私の大切な智くんに近づいて……」

 パッ。

「?」

 姉さんが斧を手放す。かわりに肩から指先と、腰から両足を黒い液体が瞬時に覆う。

「智くんを誑かしたあのクソ女も、私の将来を奪ったクソ精霊も、このゴミみたいなクソ人形も、みんな死ねばいいのよ」

 姉さんの両手両足が月の光を受けて黒真珠のように不気味な輝きを放つ。この一週間幾度も見てきた装備。けれどそれより遥かに危険だと直感が僕に伝える。

「死ね」

 姉さんの一言を合図に黒い拳から赤い光が、警告を発するかのように漏れ出す。

「死んで、しまえ」

 ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!! 

 壁のように「面」で迫る黒拳は、完全に防御に徹した臼井がかわしきれないほど速かった。さらに無数の「線」となって迫る黒脚は、臼井のメイスを小枝のように容易く砕くほど硬かった。

 ズゴォオオンッ!!

 姉さんの技を受けてフラフラになった臼井を踵落としが襲う。直撃を食らった臼井の上半身が地面にめり込む。

「嘘、だろ……」

 シュ~。

「さあ智くん。智くんを見ている女はお姉ちゃん以外誰もいなくなったわ。智くんは昔言ったわよね?お姉ちゃんが大好きだって」

 フッ!

「っ!?」

 手足を黒く染めた姉さんが瞬時に僕の刃圏に入る。拳の先の赤い光が鬼火のような残像を残す。今まで味わったことのない強烈な殺気に頭がおかしくなりそうになる。

「お姉ちゃんも大好きよ。……いい加減にお姉ちゃんを、女として見て」

 ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!

 僕との間合いを詰めた姉さんは弾丸のような超高速で拳と蹴りを繰り出してくる。

「ぐっ!!」

 蹴撃を食らった瞬間、鬼服を装備しているはずの体に、骨がひしゃげたかのような激痛が走る。確かにシャムシールで受けたはずだけれど、力で押し切られ、胴にその黒脚をねじ込まれた。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!

 痛みが僕に告げる。姉さんによる「面」と「線」の攻撃を、シャムシールだけで完全に防ぎきることは不可能だと。

「お姉ちゃんと一緒になりましょう。お姉ちゃん、智くんと一つになれるんだったら何だってするわ」

「ふ……ざけんな!」

 愛を語りつつ、死をまき散らす姉さんにシャムシールを振り回す。けれどそれは姉さんの首まで届かず、黒拳によって即弾かれる。

「ふざけてなんかないわ。お姉ちゃんはいつだって本気。智くんのために本気なの」

 フッ!

 ドゴゴゴゴゴンッ!!

 ズドン! ズドンッ! ドゴゴゴッッ!!

「く……そ……」

 さっきの菌屍軍団と戦っている方が、まだ生きた心地がする。全身が殴られ、蹴られて頭まで朦朧としてきた。臼井は?どうしてる?まだ地面にめり込んだままか?大丈夫かアイツ?僕がしっかりしなきゃ……臼井はこのまま死んじゃう。

しっかりしないとっ!

 シュボッ。

「クアアアアッ!?」

 目の前で姉さんが突然悲鳴を上げる。攻撃の嵐を止め、姉さんは背後を振り返る。そのあまりの唐突さに、思わず僕も姉さんの後ろへすぐさま視線を送る。

 地中に突き刺さったままの姉さんの斧が、燃えていた。

「昔の人はいいことを言ったわ……」

 そのそばで、地中に上半身が埋もれていたはずの臼井があおむけに倒れていた。

「……汝は不死なる神にあらず。死すべき人間であると知れ」

 口元だけで笑う臼井の残された手の中には、フェナカイトさんのライターが握られていた。

「人形ぉぉぉぉぉぉぉ――――ッ!!!!」

 姉さんの怒号が飛ぶ。僕の前から消え、地面を踏み砕き臼井の傍へ走っていく。何が起きるかはすぐに想像がついた。だから僕も必死に姉さんの後を追った。けれどあまりの速さに、追いつけそうになかった。それに加えて度重なるダメージのせいで足元がふらついて、目に映る世界は二重になっていた。僕の世界は揺れて、僕がまっすぐ走り続けることを許さなかった。

 ドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴッ!!!!!

 ただ、そのダブッた世界で予想通り、臼井がタコ殴りされているのだけが見えた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 このままだと確実に臼井は消される。そしたら今度は僕だ。僕一人で姉さんを止められるか?……いや、そんなのは問題じゃない。問題だけど、違う!臼井がいなくなる。それが僕にとって一番大切な問題なんだ!

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 思い出せ。思い出せ。ハドロンとバリオンの技で何かあったはずだ。他のキャラクターに比べて技が豊富なのだけが取り柄だろ!練習し損ねた技は本当になかったか!?

 思い出せ!

 思い出せ!!

 思い出せ!!!

 思い出せ!!!!

 あっ!

 思い出した。

全身の痛みで、思い出した。

そうだ。あった。あれだ。思い出せなかったはずだ。

ゲーマーだったら絶対に使わない奥の手があった。

初心者用の、あるいはよほどの物好きのための秘密の奥義。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねっ!!!!」

 ドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴッ!

 ガシッ。

「ほぇ?」

馬乗りになり臼井を撲殺しようとしていた姉さんの腕の一本が、止まる。その腕には絡みついた包帯のような帯。

「…………ねえ智くん。なあに、これ?」

 姉さんは首をひねる。自分の腕に絡みついた包帯の先にいる僕を、姉さんは微笑みながら見る。

「……」

 双羅回天ソーラドライブ――。

 防具として使用する鬼服デビルアーマーを、敵の動きを牽制するために使用する技。

惨烈風斬刃と似た特殊技だが、それとは異なる。

どう異なるかと言えば、惨烈風斬刃は必殺の捨て身技であるのに対し、双羅回天はただの捨て身技だということ。

ハドロンでもバリオンでも使用できる。

どちらか一人が包帯のような鬼服をほどき、その鬼服の先を敵の体の一カ所に結びっぱなしにするというだけの技だ。

これを発動すると敵の動きが鬼服のバンドのために遅くなったり特定のコマンドが使用できなくなったりする。けれどそのかわり、使用中のハドロンなりバリオンの防御力は鬼服解除のため一気にガタ落ちする。

言い換えれば敵の攻撃力は相対的に高まる。だから素人が追い込まれた時ぐらいしか使わない奥の手だ。

普通にやりこんだゲーマーならそんなことしなくても他の技で問題なく勝ちを掴める。故にゲーム機にコマンドが書かれていても忘れられ、大抵のゲーマーの記憶の片隅にしかない技だった。

「これは、運命の赤い糸のつもり?うん、あのね、お姉ちゃんもずっと結ばれていたい。

でもちょっと待って。この泥人形を潰滅させるから」

 僕は今から双羅回天を行う。そのために姉さんの片手を封じる。鬼服の帯を左手で操るため、左手のシャムシール一本をその場に捨てる。右手のシャムシール一本のみで戦う。そして完全な捨て身になる。

惨烈風斬刃を見舞う時とは覚悟の次元が違う。あれは敵一体に対し、確実に勝てる保証のない時は使わない。けれどこれは違う。このままでは負けるしかないという時にのみ使う技だ。裸で戦うのとたいして変わらない。

「困ったな、智くん……ちょっとだけでいいから、待ってて、ね?」

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 姉さんの拳なり蹴りなりを一撃でも食らえば命の保証はない。

 だから、攻撃を食らわないための伏線を敷く。姉さんが異常に嫌う臼井を使い、姉さんを挑発して臼井に攻撃の目を向けさせる。姉さんが臼井を蹴ろうとしたり殴ろうとしたりして殺そうとした時、僕と姉さんを結ぶこの鬼服の帯で姉さんの攻撃のバランスを僕が崩す。そしてその隙に攻撃を仕掛ける。斃れるまで繰り返し仕掛け続ける。鬼服の長さはこちらの意思で調整できる。だから僕が気を失わない限り、姉さんを牽制することはできる。

 気を失わない限り――。

 姉さんの攻撃を一撃でも食らえば、下手をすれば、一撃で気を失うか、命を失うかもしれない。鬼服を牽制のための道具に使用する。これはつまり、臼井と僕が助かるための、最後の賭けだった。

「姉さん」

「なあに?」

 一呼吸して、僕は言った。

「そいつは、僕にとって大切な人なんだ。それ以上殴ったら僕は姉さんを本気で殺す」

 慎重に言葉を選んで、告げた。視界はこのときになってようやく回復する。

「……はぁ?」

 姉さんは首をかしげて微笑む。そして立ち上がる。

「……………………………嘘よぉね?」

「本当だ。姉さんなんかよりそこに倒れてる臼井の方がずっと好きだ。だからそれ以上殴るな」

 冷や汗が全身を伝う。冷たすぎる夜気が骨身にしみる。歯が、震える。

「ふふ。……おかしいなぁ。そんなのって……おかしぃいよ」

「?」

 立ち上がった時に仕掛けた挑発でまず姉さんは臼井を踏みつけると僕は思っていた。あるいは上半身を屈めて思い切り殴りかかると思っていた。それを阻止するのが当初の狙いだった。

あるいは今からできるかと思っていたけど、姉さんはこっちに向かってゆっくり歩き出した。鬼服にとらわれていない方の手の指で頬をポリポリ掻いている。

「おかしいよ。だって、お姉ちゃんの気持ちを誰よりもよく知っているのは、智くんのはずだもの。それが、こんな、人形を好きぃだなんて…………あなた誰?智くんじゃないでしょ。智くんはどぉこ?どこに隠したの?」

「……」

 キレた。

 ヤバイ。

 絶対にヤバイ。

 攻撃対象は完全に僕だ。僕はたった今、「智くん」じゃなくなった。

「ふう~」

 とは言っても、「智くん」と呼ばれていた時から殴られてたからあまり変わらない。冷静になれ。集中しろ。

「智くんじゃないよ、僕は」

「知ってるわ。だから、あなぁたは、誰?」

 臼井。どうやら僕が“先”だ。先に逝く。でもやれるだけは、やるから。

「金井智宏。……臼井百合花を想う、金井智宏だ」

 よかったら後で、一緒になろうな。

「そう。智くんの名をあなたは騙るのね。…………ブチ殺してやるぅ!!!!!」

 フッ!

 ブオンッ!

「せあああっ!」

 左手で鬼服の帯をしっかりとつかみ、順手で握る右手のシャムシールを武器に僕は姉さんと争う。姉さんが殴りかかろうとすればそのバランスを崩すために左手の帯を素早く動かし、バンドの長短を素早く調整する。鬼服を引きちぎろうと僕の左手に姉さんの攻撃が移れば右手のシャムシールで容赦なく致命傷を狙いに行く。さっきまでに比べれば幾分戦いの体をなしている。けれど、

 ゴスッ!

 ボキボキッ。

「くっ!」

 姉さんのジャブのような軽いパンチを一発食らっただけで骨はへし折れ、口と傷口からは血が飛んだ。負傷のせいで剣速は徐々に落ち、鬼服の捌きも遅れ、それが原因となって重い攻撃をさらに食らう。

ものの二分もしないうちに、僕は菌屍が黒い液体を垂れ流すように、赤い血を体中から垂れ流していた。いつまでこの身は持つか。分からない。ただ体が動く限り、戦い続ける。もう、怖くもなんともない。

 ザシュッ!

「!」

 攻防が突如途切れる。

「きゃああああっ!!」

 姉さんの脇腹から、シャムシールの刃先が飛び出していた。

「さっきは心のこもった挨拶、どうもありがとう。お礼のバックアタックよ」

 黒い液を噴く姉さんの背後に、シャムシールを握った臼井がいた。

 臼井――!

 その姿を見て僕の視界は思わず涙に滲む。もう生きて会えないと思っていたから、死ぬほどうれしかった。

「こぉ、のおおおおおおおおおおおおぉぉおおおおおおっ!!」

 姉さんは自分の体に突き刺さったシャムシールを握る臼井を蹴り払おうとする。臼井はギリギリのところでシャムシールを引き抜き、飛び退く。それを追いかけて今度こそ息の根を止めようと、姉さんが顔中の血管を浮き上がらせて臼井に迫る。けれど、

「させない!」

 力を振り絞って僕は鬼服を操り始める。姉さんの体勢を何とか崩す。結果として臼井への攻撃が鈍る。攻撃をかわした臼井がシャムシールで斬り込む。

一方で姉さんの攻撃の対象が僕に切り替わる。僕は鬼服と右手のシャムシールで防御に徹する。姉さんの攻撃の隙をついてまた臼井が斬り込む。鬼服で動きを制しても僕たち二人よりわずかに速い姉さんとの命を懸けた攻防が始まる。

 ドスンッ!

「くああっ!?」

 姉さんの肉に刃物が突き刺さる音が響く。それはこの一週間で何度も聞いた菌屍の体から出る音にそっくりだった。普段なら聞きたくもない不快音はこの時、「ひょっとしたら自分たちは生き残ることができるかもしれない」と僕に思わせた。

「ひゅうぅぅ……」

 けれど、それが誰も幸せになれない哀しい希望だと気付き、考えることを止める。心を無にし、斃すことに専心する。

 ブオンッ!

 グイッ ガシュンッ!

 ドドドドドンッ! ザシュガシュンッ!

 ガキンッ! ドスッ! ドスッ!

 口の中を血の味が埋め尽くす。

呼吸はままならない。

肺が爆発しそうなほど苦しい。

手首は骨にひびが入ったかのような激痛で、しかもその感覚すら次第になくなっている。それでもただ刃物を振り回し、鬼服の帯を操ることに、神経の全てを傾け続ける。片腕を失い、全身が泥人形のようにひび割れた同級生と共に、狂気に憑かれた肉親を切り刻む。

「!」

 しまった。汗で手が滑り、鬼服の帯を落してしまう。

「死ねぇ!!」

 姉さんが両腕を大きく後ろに引く。手はともに、手刀の形になっている。このままだと、僕は確実に両肺を抉られる。

「ごめんね、お姉ちゃん」

 ピタッ!

 一瞬。本当にそれは一瞬だった。姉さんの動きが一瞬だけ、止まる。そして僕は、その一瞬に全てを賭けた。

 バシュンッ!!

……ドサッ。

 姉さんの上半身が、下半身から離れて落ちる。

「智……くん……」

 そのまま、姉さんは動こうとしなかった。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 僕は鬼服の帯を姉さんの腕から外し、自分の服の上に少しずつ戻す。シュルシュルと音を立てて鬼服は僕の火照った体に巻きつき、元の位置に収まる。周囲は再び静かになる。

今までにないほど辺りは明るい。それもこれも燃やし損なって今なお残る菌屍の残骸のせいだ。

銀白色の塊は月光を照り返し、世界を水色に染めていた。

「終わった、のか」

「……ええ。おそらく」

 臼井はそういうとシャムシールを落とす。倒れそうになるのを僕は走り寄って支えた。

「助けてくれて、ありがとう」

「まったくよ……独りじゃ何もできないんだから」

「うん。だから臼井が必要だ」

 思い切ってそのまま臼井を抱きしめる。臼井は何も抵抗せず、僕の胸の中にあった。

「ねえ」

 少しして、解放された臼井が僕を見ながら尋ねてきた。

「何」

「最後、どうしてあの手を思いついたの?」

「あの手?」

「鬼服を誤って手離してお姉さんにやられそうになった瞬間、あなたはあえて彼女に呼びかけた。「ごめんね、お姉ちゃん」って」

「そうだっけ?」

「覚えてないの?」

「ごめん、戦うことに集中していたから」

「あれで隙が生まれかろうじて私たちは……大丈夫?」

「大丈夫って、傷のこと?」

「それもあるけれど、そうじゃなくて……泣いてるわよ」

「誰が?」

「自分が。気づいていないの?」

 言われて、自分の目から大量の涙が流れていることに気付いた。

「あれ、どうしたんだろう。なんか、止まらない」

 「体から出た言葉だったのね」とつぶやき、臼井は姉さんの死骸を見た。

 ごめんね、お姉ちゃん――。

「……」

 たぶん、臼井の言う通りなんだろう。何かを僕はずっとため込んできていた。それがあの瞬間、体から弾け出たんだろう。

「さっきのあの、フェナカイトの残骸。あれには確かに、あなたの姉の記憶らしきものが入っていた。けれど少しだけ、いじられていた」

「……」

「中身を探ろうとするものに、それが真実の物語だと気づかせるための仕掛け……」

「……うん」

騙されるはずのない者だけが気づける、悲しい仕掛け。

気付かなければいけない者だけが気づける、悲しい仕掛け。

 その仕掛けがなければ、本当に大切なものを大切なものだと思えなくなる。だからそうならないよう、仕掛けられた、大切な仕掛け。

「姉さん……」

 仕掛けは告げる。

 姉さんは、僕のために何もかも捧げてくれた。

そう言った話を両親から聞いたことは一度もなかったけれど、仕掛けは一切を教えてくれた。姉さんの苦悩や、妖精や狼のおとぎ話と一緒に。

 智……くん……――。

 僕は確かに昔、体が弱かった。その僕はいつからか健康になり、そして普通の人と変わらない生活を送れるようにまでなった。

 その背後には、姉さんの犠牲があった。姉さんは両親のかわりに僕の面倒を見、そして僕に愛情を注いでくれた。

「お姉ちゃん……」

普通の人より感情の量が多かったんだ。だから、姉さんは僕に気持ちを注ぎ過ぎて……身を滅ぼしてしまった。

「ごめん」

 姉さん。

 壊してしまったのは……僕なのか。それとも違うのか?……分からない。

けれど今、姉さんに謝れるのは僕しかいない。きっと、僕の体はそのことを理解していたんだ。だからあの時……。

「ごめん、お姉ちゃん……お姉ちゃん……」

 僕はしばらく、涙と一緒にその言葉を地面にこぼし続けた。


――うふふ。


「?」

 臼井と一緒に、姉さんの亡骸を焼却しようとした時のことだった。何者かが笑う声がした。

――愛は盲目。……なんと人間らしい、寂しい響きでしょうね。

 声は、今倒した姉の死骸から聞こえた。もちろん、姉さんの声とは違う。姉さんの死体からは黒い液体がドロドロと流れ出ている。けれど一向にそれは銀白色に変わらなかった。

――罪ある愛がどれほど甘くて腐乱しているか、一同で思い知ったことですし、そろそろ祝祭を創めましょうか。転生の祀りを。

 フワッ。

「「!!」」

 思わず目を大きく見開く。心臓が止まりそうになる。姉さんの上半身が突如、宙に浮かぶ。黒い液体が滴ったまま、体が淡緑色の光に包まれ、シルエットだけになる。

 フッ。

 姉さんの下半身も浮かび上がり、同じく淡緑色の光に包まれる。上半身と下半身はやがてその形状を失って、ただの光の球に変わる。臼井と二人、固唾をのんで見守る中、一カ所にあった二つの光球は互いにはじけるようにして異なる方角へ飛んでいく。そうかと思うとすぐに戻ってきて、またぶつかり、反発するようにして飛んでいく。

「舞踏譜を……踊っている」

「!?」

 臼井の一言で、その光の軌跡が何を意味するのか理解した。姉さんの二つに分かれた体は光となって舞踏譜に描かれている軌跡を飛んだ後、一層強い輝きを放ち、廃墟の病院の中に消えて行った。けれど次の瞬間、

 サッ!!

 沈黙の中、強烈な緑の光が柱となって天に向かって伸びる。その光の鮮烈さに圧倒されて、臼井を抱きしめたまま僕はその場を動けない。やがて柱のように伸びていた光の上端がゆっくりと下降してきて、病院に入った瞬間、

 カッ!!

 建物に閃光弾を投げ込んだかのように緑の光が生じた後、砂嵐のような音を上げて、周囲の闇に光が飛び出していく。

 ビュオオオオオオオオオオオオオオ……

 束ねた流れ星を思わせる光はのた打ち回る竜のように闇を縦横無尽に駆け抜け、周囲の色彩の何もかもをその緑で侵してしまう。

 ビュオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……

 あまりにすさまじい光のせいで僕は目と口を閉じたまま、しばらく開くことができなかった。

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