第二途 アイシテイル 其之弐
馬鹿にするより、馬鹿になったほうがいい。
愛詩譚(壱)
旅立ちに必要な一切の手続きが済む。
まだこんなに早い時間なのに、空港のロビーは顔を綻ばせ何かを話さずにはいられないような顔をした人々でごった返している。
家族、親戚、友人、恋人、同僚――。
そんな関係にある彼ら彼女らが互いにトラベルバッグをころがし、あるいはリュックを背負い、バッグを肩にかけ、
これから行く目的地について、済んだ荷造りについて、手に入れなければならない土産について、あれこれを語り続ける。
そして、椅子に腰かける私の前を去ってゆく。
私はそういった雑音を聞き流しながら、日記帳のページを丁寧にめくる。
めくりながら、自分の乗る便の搭乗アナウンスが流れるのをひたすら待ち続ける。
「……」
ページに張り付けられたいくつもの大切な写真に目がとまる。
生まれたばかりの妹の写真、産湯に使っている妹の写真、歩行器に座ってこっちを見つめる妹の写真、
ハイハイをする妹の写真、顔中をミートソースで汚してスパゲッティを夢中で食べる妹の写真。幼稚園の入学式の妹の写真。
遊具で遊ぶ妹の写真、病室で私の手を握る写真。
全部妹。どれもこれも懐かしい。
「うふ」
私と妹は、歳が十一も離れていた。つまり私が小学校五年生の時、妹は産声をあげた。
妹の誕生前と後でその理由は異なるとはいえ、両親は今も昔も蟻のように忙しく、だから妹の面倒はほとんど私が見ていた。
自らの乳房から母乳を与えること以外はほとんど全てを私は経験した。
おむつも取りかえたし、お風呂にもいれたし、離乳食を食べさせることも、普通の食事も作って食べさせた。
泣きわめく妹を一晩中寝ないであやしたこともしょっちゅうだった。幼稚園の送り迎えも七割は私がやった。
風邪を引いたとき病院に連れて行ったのも私の方が数多いし、病弱で寂しがり屋の妹と一緒に寝たのも私の方が両親より圧倒的に多い。
病気で妹が入院すれば、時間が許す限り妹の傍にいた。
「ユリちゃん……百合花……」
ページが進む。寝ている妹の写真。一緒にお風呂に入っている写真。そして……
「うふふふ」
卑猥な写真が始まる。どれも自分が、六歳の妹の寝ている間にした悪戯をこっそり撮影したものだ。
それを見ながら、私は自分を異常者だと自覚する。そして悲しくなる。
日記帳を閉じる。目を閉じる。
「馬鹿ね、私って」
妹が可愛くて仕方なかった。妹は私にとって、目に入れても痛くないくらいの存在だった。
その感情を最初は母性愛か何かだと信じていた。けれど妹が長じるにつれて、そんな生易しいものではないと私は私を捉え始めた。
妹の事を考えるだけで体中が激しくうずいた。そしてそのたびに熱くなる血を鎮めようと、私は自分の体を傷つけた。
想念を振り払うために、肉を傷つける。これは、私にとってはある意味でやむを得ないことだった。
運動は苦手だが学業成績は一応優秀だった私は、学校でのその体裁を保つために、勉強を続けなければならない。
少なくとも続けなければならないと感じていた。
けれど妹への執着が強くなって他のことが手につかなくなりそうになる私は、
その気持ちを押さえつけるために、毎日のように、切れ味の悪いカッターナイフで手のひらや腕の皮膚をゆっくりと傷つけた。
気が高ぶれば刃で肉を切り、参考書に滴る血を見つめては気を鎮め、
物理・化学・生物・幾何・代数・国語・倫理の問題を解くのがついこの間までの私の日課だった。
血まみれの参考書は私の本棚の中でいつしか鉄の匂いを放つようになっていた。
けれど自分の体を傷つけたところで、妹へのたぎる思いは容易に抑えられなかった。一線を超えたいという情動は徐々に強まっていった。
間抜けだ。今考えると、間抜けとしかいいようがない。だけど、いつかはそうなると思ってはいた。
だから、仕方なかった。妹への悪戯が始まった。悪戯をすませると私は罪悪感に襲われ、私はさらにこの身を傷つけた。
気づけば肉体を傷つけることで妹への悪戯を正当化している自分がいた。腐ってる。
それがとうとう、親にばれた。そこまではいい。呆れられるくらいならたいしたことなどない。
だけどついに妹まで、私は傷つけてしまった。文字通り、体に傷を負わせてしまった。
ふふっ、最低だ。でもこれはこれでいい機会だと思う。
おかげで、妹の元を離れる決意が固まった。私は妹の傍にいてはいけない。その覚悟ができたという意味では、よかった。
妹を傷つけたその日の夜も、私は妹と同じベッドの中にいた。いつものように……
といっても体の弱い妹は小学校にあがる少し前から入退院を繰り返すようになっていたから、
この日は退院してそうそうのことだけれど、家のベッドで寝ている妹に私は久しぶりに悪戯をしていた。
けれどそこに、留守にしていた両親が帰ってきた。私は悪戯に夢中で、両親が家に帰ってきたことにすら気が付かなかった。
そして、見つかった。仕事で疲労した両親は青ざめ、悪戯で汗だくになった私は驚き、妹は眠ったまま。
その後何を考えているんだと居間で長々と私は説教を受けた。
高校生なのに私は何をどこから弁解していいのかその時分からなくて、ただただ涙ぐんで黙って親の怒鳴り声を聞いていた。
深夜遅くまで説教は続いた。ようやく終わり、今度から妹と別々の部屋で寝るようにと言われた私はそれに従う約束をした。
自分の部屋に戻り、眠ろうとしたけれど、眠れなかった。だから、両親が寝静まった後、私は自分の部屋を出て、庭で踊った。
そう、踊った。
運動神経などからきしない癖に、私は怒られたりムシャクシャしたりすると、踊る。こっそり踊る。
好き勝手に体を動かして踊ると、嫌な思いが私の体の中から少しずつ薄れていく。だから踊る。
踊り方なんて本当に何も知らない。けれど私は踊れた。楽の音などなくていい。
ただ想像すればよかった。
夕日を受けて赤く黄金に輝く大海。風に吹かれて頭を振り香りを振りまく森の木々。
豪雨に砕かれて流れ下る土。闇を焦がす炎に集まる無数の蛾。
自分はそういう、時の流れが生み出す一種の現象だと夢想するうちに、踊りは勝手に私の中に生じ、
私の体を後ろから、前から、上から、下から突き動かした。体は回り、ひねり、手足は舞い、全身はひとりでに流れ動いた。
親の説教を食らったその日その時の私は自分を、月下を舞う妖精だと思った。あるいは夜空から舞い降りた月だと思った。
それは善悪の彼岸を超えた存在で、かつ形而上的で、人の運命を部屋の照明のように簡単に切り替えることができた。
あるいは単に、私はそうした存在に成りたかっただけなのかもしれないが、
とにかくその時の私はそういう、言うなれば「月の精」を想像した。
月のきれいな夏の夜だった。雲は淡い群青に光り、まるで水底を泳ぐ大型魚のようだった。
私はそのまま水底で窒息できればいいなと思いながら、月の下の庭で踊りを踊っている。
精霊になった自分と一緒に、頭の中にはずっと妹がいた。その妹と一つになりたい。
できなければ妹を抱きしめたまま溺死したいと思いながら、独り踊っていた。
「……」
目を瞑りながら好きなように踊って、ようやく踊り疲れて目を開けた時、ベランダに妹が立っていた。
私は一瞬、自分が踊ったことで妹が現れたのかと思った。
「ユリちゃん……」
「お姉ちゃん。何してるの」
月光に照らされた妹の痩せ細った顔が、触れてはならない神秘的なものに私の目には映る。きっと、この「妹」も妖精なんだと私は思った。
それが夏服のパジャマを着てベランダに現れたんだと思った。
「お姉ちゃん?」
「踊っているのよ」
「どうして?」
「眠れないの」
「僕も、さっきお父さんとお母さんが二人で喧嘩しているのを聞いて、目がさめちゃった」
「そう……悪い大人たちね。ユリちゃんを苦しませるなんて」
「ねえお姉ちゃん。何を踊っているの?」
何を踊っているか?いろいろ思うところがあって踊り始めたが、結局は一つに収れんする。そうだ。私は妹との愛を踊っている。
「そうね……」
トクンッ。
苦しい。
トクンッ、トクンッ。
妖精のような妹ともう二度と、一緒に眠ることができないの?
トクンッ、トクンッ、トクンッ。
あの柔らかい唇にもう二度と触れられないの?
トクンッ、トクンッ、トクンッ、トクンッ。
あの柔らかでしなやかな肢体に……。私はそれを思うと切なくなった。
それで、箍が外れた。
「何を踊っているのか知りたい?」
「え、うん」
「それはね」
私は、善悪の彼岸を超えた存在。形而上的な何か。ただ募る想いだけを残し一切の形象を捨て去ろうと望む者。
「お姉ちゃん?」
だから妹の傍へ行く。そしてしゃがむ。
ガリッ!
ズズズ。
「!」
その柔らかい腕の肉に、私は噛みつき、血を吸った。
「痛い!」
妹が叫ぶ。真夏の夜の夢から覚めて、私ははっとする。妹の腕と私の口から血がしたたり落ちる。妹が泣き叫ぶ。
それで両親がもう一度目覚める。庭に出て来る。そして、また私はしぼられた。
私は妹の傍にいてはいけない。これ以上妹と一緒にいたら今度こそ、食い殺してしまうかもしれない。
噛みつき事件のあとひどく反省した私は、留学を決めた。留学先は欧州の、とある医学校。
私が両親に通わせてもらっている中等教育専門学校の提携校で、それが欧州で医科大学を経営している。
成績さえよければうちの学校を卒業して、そのまま入学できる。だからその道を選択した。
妹の元を離れるというのが留学の口実だが、病弱な妹を食い殺すのではなく、
できることなら妹の体を健康な状態にしてあげられればと思ってこの進路を選んだ。
狂っている自分としては最上の判断をしたつもりだった。
噛みつき事件や悪戯もあって、両親は私の意思を止めなかった。
「姉妹だけど少し距離を置いた方がいいかもしれない」と言って、私の提案に同意した。
私はそれ以来、本棚の血まみれ参考書と問題集を相手に、ひたすら勉強した。
今まで自分を観察して気づいたこと、妹を前にして感じたことを書き連ね、
興奮して撮った写真を張り付けてきた日記帳は、留学を志した時点から一度として開かなかった。
開けばまた、振出しに戻ってしまうと思ったから。
留学に必要な試験は一位で通過した。総合成績もトップで、留学費用はそのおかげでタダになった。
私の本性を知らない周りは私を優秀だ、天才だと言った。けれど少しもうれしくなかった。
当たり前だ。こんなもの、別に何でもない。
英語の論述試験もフランス語の面接も、一次変換も微分方程式も、化学平衡も有機化合物も、
熱力学もコンデンサーも、タンパク質合成も窒素固定も、何でもない。
それについての問題にスラスラ答えられるようになる努力など、妹のことを考えれば、これっぽっちの苦にもならない。
百合花のためなら、どんな苦しみもいとわない。この身は全て、百合花に捧げるためにあるから。
「そう、それでいいのよ……私はそれでいい」
飛行機の搭乗アナウンスが流れる。私は唯一妹とまともに二人で写っている写真だけ日記帳から剥がし、
それをブラウスの胸ポケットに入れる。そして久しぶりに開いた日記帳を閉じる。立ち上がり、荷物を持って搭乗口に向かう。
ごみ箱の前で立ち止まる。
「……」
捨てたくない。ここには、妹がたくさんいる。私の、妹が。
「ダメよ……捨てなきゃ……捨てなきゃ」
ここには、妹はいない。あるのは私の歪んだ心。だから、捨てなければいけない。決別しなければいけない。
ゴサッ。
私は日記帳をゴミ箱に捨てた。
そしてチケットをバッグから取り出し、係の人に見せ、機に乗り込んだ。
機内で指定された席を見つけ、手荷物を座席上の収納スペースしまい、席に腰をおろしシートベルトを締め終わった後、することのなくなった私は胸ポケットにしまった写真を取り出した。
写真に写る妹の笑顔を見ながら、妹を苦しめる病はどうやったら治せるのだろうと考えた。
そうこうしているうちに、飛行機は滑走路を徐ろに移動し始め、機長のアナウンスの後、ついに異国の地に向けて飛び立っていった。
二、Champignon liqueur
月光の下、寒さに凍る白い吐息とゴーストタウン以外に、ようやく街の明かりらしきものが遠くに見え始める。
フェナカイトさんと出会い、そして別れた燕塚病院から歩き出して三十五分。腕時計を見ると針は午後十二時を過ぎていた。
同級生に聞いたらこんな時間に家に帰ったら親に怒られて洒落にならないっていう。けれど僕の場合、その心配はない。親父は世界中をあちこち出張しているし、老人ホームで働くお袋は宿直が多くて家にほとんど帰らない。
だから僕は多くの時間を独りで過ごす。いつ帰ろうと帰るまいと、誰も気にはしない。
気にしてもそれはスマホにメッセージで入っている程度だ。こんなの、気にかけている内に入らない。
「……」
そのスマホに今、新しいアプリがダウンロードされた。
「何て読むんだろう……アイシタン?」
ガスライターと一緒に拾い上げたSDカードの中には、ゲームアプリが保存されていた。
愛詩譚――。
読み方は分からない。けれどとにかく起動はできた。悪いとは思っていたけれど、歩きながらずっとやってしまった。感じとしてはアドベンチャーゲーム。……文章を読み進めながら謎か何かを解き明かしていく。謎はたぶん選択肢の形で登場し、正しくない選択肢を選ぶとゲームオーバーになってしまうやつだ。逆に謎を解き明かせば最後、真実にたどりつけるはず……。
「妹に……噛みついて……かわいそ」
文字を読むのは苦手だからアドベンチャーゲームなんてあまり好きじゃない。だけど、どうしてもやめられない。先が気になるのもあるけれど、とにかく何かが強く心にひっかかる。
「!」
けれどそれもようやくやめられた。幸か不幸か、あの“匂い”のおかげだった。
「どこから……」
スマホをしまい、ビルの屋上で赤くゆったりと点滅するいくつもの障害灯を見ながらさらに歩くと、今度ははっきりと匂いと知覚する。
「……」
手に脂汗が浮く。何の感情も持たずにこの匂いを嗅ぐことは、もう僕にはできない。
ドクンッ。
ドクンッ。
鼓動が高鳴る。鳥肌が立つ。どこから匂う?気を鎮め、目を瞑り、鼻先に意識を集中させる。そうやって匂いの方角を嗅ぎ定める。
「そっち、からか」
匂いの先へ。行けば危険に巻き込まれるのは百も承知している。菌屍とかいう化け物や斧を持ったロングヘアの女がいる可能性はものすごく高い。でも、そこへ行かなければ、たぶん臼井には会えないだろう。臼井の探しているのは菌屍やロングヘアらしいから。
だから、あえて危険な場所へ、踏み込む。虎穴に入らずんば虎児を得ず。
「ふぅ~。よし!」
長く白い吐息を吐きだした後、僕は鼻をこすり歩き出す。歩調は次第に速くなり、ついには走り出していた。匂いは幸いと言うべきかどうか、明かりの灯る方へと続いていた。
鼻から冷気を吸い込み、口から煙のように吐く。
冷気と共に香る匂いが薄まるようなら速度を落とし、匂いが少しでも強い方向へと針路を転換して進む。
凍てつく夜気のせいで、鼻は痛かった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
やがて駅前の、個人商店が林立する商店街に僕はたどり着く。駅前とはいえ刻は皆寝静まる深夜。
当然人は誰一人歩いていない。ちなみにコンビニもない。
明かりと言えば通りの左右に立つ街路樹に寄り添う白色灯とプラスチックのアーチ型透明天井から差し込む月光だけだった。
月光は人工の灯とプラスチック天井のせいで幾分退色した感じがした。
通りを抜け裸木を震わす風音だけが耳に届く静かな闇の中、犬がシャッターの下りる店と店のすき間からゆっくりと出て来た。
無音の登場に僕はドキッとする。
けれど犬は別に何事もなかったかのようにそのまま通りを無造作に横切って別のシャッターとシャッターの隙間へと消えていく。
それでまた、通りには誰も何も、いなくなる。
「ふう……」
商店街をゆっくり歩く。犬の登場で乱れた呼吸を整えようと、鼻から深く息を吸う。
「!」
あっと声を出しそうになるのをこらえる。通りは匂いが充満している。
今まではかぎ取ろうと無理に求めた匂いが、ここにきて逆に匂いの方から鼻の中に入り込んでこようとするような強引さがあった。
直感として思う。ここに、菌屍はいる!
「ふう、ふう、ふう……」
前方を凝視する。振り返り、同じく凝視する。
その間も凍るような風が足元をすくうように鋭く容赦なく過ぎ去ってゆく。
裸木を離れて散らかった落ち葉が勢いよく舞い上がる。僕の歯はガタガタ震えた。
ボチャッ。
「?」
吹きさらす風の止んだ束の間、比重の重い液体が滴る音が耳に届いた。
驚き、僕はガタガタと音を鳴らす歯の根に力を入れ、音を消す。けれど既に音はない。空耳?けれど今確かに……
ピチャッ。
「!」
聞こえた!すぐにその音の方へ体を向ける。
シャッターの下りる店と店の隙間に、犬がいた。
口と目から黒い液体を垂れ流した、普通じゃありえない姿をした犬が。……菌屍!!
ダッ!
菌屍が僕にとびかかってくる。眼窩から黒い液体をまき散らし、赤い血肉と悪臭のこびりついた犬歯が僕の喉笛に迫る。
「うああっ!」
ドグゥシャッ!!
けれど眼前で菌屍の首はさく裂したようにバラバラになる。
ガラガラガラーンッ。
菌屍の頭部を粉砕したらしい鈍光を放つ鉄パイプが僕のそばで地面に落ちる音を聞くのと同時に、
菌屍の胴体は僕にぶつかり、黒い液体を首元からドバドバと吐き出す。
おかげで僕の体は精製前の重油でもかけられたかのように真っ黒になる。
体が一気に重くなった感じがする。けれどすぐにその黒は銀白色に変化し、綿を圧縮したようなモコモコした感じになる。
途端に重さが消える。僕はあわてて体についたそれを全部はたく。
はたいた瞬間銀白色のモコモコはタンポポの綿毛のように空へと舞いあがっていく。
「今度そんなことしたら菌ごとあなたを燃やすわよ」
「!?」
体にくっついた銀白色のモコモコをはたいている時、真後ろから人の声がする。
心臓が口から飛び出すほど驚き全身が瞬間、硬直する。
モソッ。
「ひっ」
僕が振り返る前に僕のズボンのポケットの中に何かが飛び込み、そこで動き回り、強引に何かを取り出していく。
ようやく動けるようになった僕は後ろを振り返る。
「う、臼井」
臼井百合花だった。
彼女は僕のポケットに入っていたライターを左手でつけながら、そこに転がっていた鉄パイプを拾おうと体を前にかがめる。
拾いながらライターの炎を、首を無くして転がる銀白色の塊に火をつけた。
フェナカイトさんの時とは違い、炎は普通のオレンジ色を出してしばらく燃えていた。
「ムシュフシュというこの菌は空気に乗って感染者を増やすと同時に、情報を伝播するの。
つまり今この場所で自分は殺されました。ついでに餌が転がっていますって情報が風にのって他の菌屍に届く。
その連絡を受けた菌屍はすぐにここへ集まってくるわ。
分かった?ムシュフシュを燃やさずはたき飛ばしたあなたのせいでこの場所はまもなく地獄と化す」
「……」
そんなこと言われても。そう言おうと口を動かし始めた時だった。
「来たわ」
臼井は僕を見るのを止めて通りの先の闇に目線を移した。
通りの出口が、黒いシルエットで埋まる。サラリーマンらしきシルエット、力士らしきシルエット、
塾帰りの子どもらしきシルエット、犬らしきシルエット、猫らしきシルエット、鴉らしきシルエット。
たくさんのシルエットが通りの出口を埋め尽くす。こんな真夜中に、しかも突然。
「嘘……まさかあれ全部……」
「行き着く果てを超えし不死者。すなわち菌屍。……ムシュフシュの支配下に置かれた道化よ」
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
逃げることはできないのか!?慌てて僕は菌屍が占領する出口と反対の方向を見る。
「……そんな」
主婦らしきシルエット、腰の曲がった老人らしきシルエット、スコップを手にした土方らしきシルエット、
警棒を持つ警察官らしきシルエット。出口と同じく、たくさんのシルエットで入口も埋め尽くされていた。
「既にこんなにいるなんて」
舌打ちをしながら臼井が周囲をきょろきょろしている。何か使えるものはないか探しているような感じだった。
「これ」
「?」
「持っていてもらえない?」
何か見つけたのか、拾い上げたばかりの鉄パイプとライターを臼井は僕に渡し、渡し終えると歩き出す。
「矛盾の唸る場末の街に呪液の滴る不死者の姿……命育む人の身には辛い書き割りね」
臼井はぶつぶつそう言いながらシャッターの降りていない、改装工事中の一件の店前に移動する。
その間にも、通りの出口と入口をふさいでいた黒いシルエットは徐々にこっちに迫ってくる。
「まだ少し聞きたいことがあるから、助けてあげるわ。端へ避難して。そこにいるときっと邪魔だわ」
「掃除の」と付け加え、臼井の背中は改装中のブティックの前で止まる。そして踊り出す。
「?」
僕は言われた通り、道の真ん中から端のシャッター際へ急いで移動しつつその一部始終を見守った。
目を瞑ったまま軽やかな足取りで素早く臼井は舞いながら、その全身が映り込むブティックのショーウィンドウに、踊り終わった後そっと触れる。
シュンッ!!
「!?」
ショーウィンドウが薄桃色に激しく光る。
シラネアオイの花弁のような色の光は束の間の内に消え去り、ウィンドウに触れた臼井の片手にはメイスのような棍棒が二本握られていた。
「やれやれ」
メイスの内の一本を臼井がもう片方の手に持ち返る。メイスのために両手がふさがる。
「愛を見放した者。迷いを囚えた者。その身に刻みし験を示せ」
ボゥッ!
柄頭を持った殴打武器の先に、突如紫炎が灯る。フェナカイトさんが銀白色の塊を燃やした時と同じ色の炎だった。
「臼井……」
体の向きを変え、首を垂らし、肩の力を抜いた状態でゆっくりと歩き始めている。
「迷いをいくら重ねたところで一は一に過ぎない。多になるはずもなし。始めから一。すなわち無であると知るのみ」
菌屍を捕らえて離れない臼井の視線。僕はどうしようもなく背筋が寒くなる。
サササササササササ……
黒い連中は予想通りというべきか、やっぱり菌屍の群れらしかった。それらが臼井の目と鼻の先にもう迫っている。
「……ケハッ!」
臼井との間合いを詰めた菌屍たちは上から、下から、正面から、右から、左から、背後から、
黒い液体をまき散らして臼井にとびかかる!けれど臼井は動じない。
そんな臼井に向かってできるなら「早く逃げろ」と叫びたかった。
けれど菌屍や臼井自身が放射する恐怖のせいで僕は凍り付いて呼吸がおかしくなり、声を出すことができなかった。
「もっとよ」
臼井!頼むから逃げろ!そのままだとマジで死ぬぞ!!
「もっと笑いなさい」
?
「踊理に蹂躙されるその瞬間まで」
声を残して臼井が消えた。
ブオッ!
ボワッ!!
「ケハッ!?」
四方八方からとびかかってきた菌屍の一匹がまず紫に燃え上がり、焼滅する。
「蒸熱の狂宴はいささかの躊躇もなくこれ四肢を燃やし尽くし候……」
そうこうするうちに別の一匹が燃え上がり、また別の菌屍が燃え上がる。
「ケ……ハッ……」
二つの紫炎の軌跡と細い声だけが、臼井の居た場所をかろうじて教える。
二本の炎の帯はシャッターや商店の壁やアーチ型の天井を跳ね回り、菌屍にぶつかっていく。
「望み亡き汝の心腸に我、情け無き焔を灯さんと欲す……燃えて消え敢え」
紫炎と衝突した菌屍たちは吹き飛びながら、あるいは地面にたたきつけられながら即全身を紫に焦がす。
そしてたちまちにして無へと帰す。
「ケハッ」
ゴスッ!
シュボッ!
菌屍は臼井のあまりの速さについていけず、時に同じ菌屍同士でぶつかったり、噛みついたり、殴り合ったりしてしまう。
そしてそんな間抜けを演じている菌屍を見つけると二つの炎はレーザーのように襲い掛かり、菌屍の塊をまとめて燃やし上げる。
どっちが化け物なのか分からないほどすさまじい光景だった。
シュ~……
あれだけいた菌屍が全て焼滅した。
シャッターのほとんどがクシャクシャに丸めた紙のように歪み、通りのアスファルトには月面のようにクレーターが無数にできている。
天井のプラスチック板は何枚か落下し、空いた穴からやや陰りはじめた月の下ろす月光が淡く注ぎ込んでいた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
呼吸音が聞こえる。僕のじゃない。その音は通りの真ん中で膝をつき、肩で呼吸をする学生服から聞こえていた。
「臼井!」
臼井の元へ僕は駆け寄る。臼井の手には既にメイスは握られていなかった。
「大丈夫か」
「はあ、はあ、はあ、私は今大丈夫に見えるのかしら?」
「……」
「それ、貸して」
僕の手にしていた鉄パイプに臼井は手をかける。僕はすぐにそれを渡す。臼井は鉄パイプを杖にしてゆっくりと姿勢を元に戻す
「はあ、はあ、はあ」
「助けてくれてその、ありがとう。僕一人だったらとっくに死んでた」
「はあ、はあ、はあ……当然すぎて言葉もでないわ」
「ありがとう」
「ええ……」
ドサッ。
鉄パイプを杖にして立ったばかりの臼井はそのまま転倒する。
「おい臼井!」
気を失っていた。何度呼びかけても目を覚ます気配がなかったから、僕は迷った挙句臼井を背負う。
通りにこれ以上いたくなかった僕は鉄パイプを捨て、置いてきぼりになっていた自分の革鞄を手にしてそのまま通りを出た。
駅は当然だけどシャッターが閉まっている。駅の隣の交番は電気がついていたけれど警察官はいなかった。血痕だけがあった。
ひょっとして菌屍になってしまったのかもしれない。僕も臼井という助け舟がなければおそらく……
「考えるのは、後だ。急がないと」
何処に急いでいいのか分からなかったが、とりあえず自分にそう言い聞かせて、僕は臼井を背負ったまましばらく歩き続けることにした。
だいぶ歩いた。やがて公園を見つけた僕はその中の一角にある木のベンチに臼井を寝かせた。
来ていた自分の学ランを脱ぎ、横たわる臼井にかける。
そうしてひと段落したとき、ふと、臼井に奪われた舞踏譜の事を思い出した。
「臼井、ちょっとごめん……うわ、柔らか……って何言ってんだ僕は」
少し悪い気がしたけど、僕は気を失った臼井の体をまさぐり、折りたたまれた舞踏譜の紙片を捜し出した。
ベンチはあえて電灯の光が届かない所にしたから僕の周囲は真っ暗だ。
「ライターも、借りるよ」
だから舞踏譜を読むためにオイルライターの炎を借りることにした。
シュボッ。
「……」
一つのベンチに女子高生が眠り、その隣で男子高生がライターの火を頼りに何かをじっと見つめている。
はたから見たら僕は不審者にしか映らないだろう。
通報されたら何て説明しようか考えながら、僕はフェナカイトさんからもらった舞踏譜という魔法の紙をじっくり見始めた。
やはり、そこに描かれているのは左右対称のステップだった。
そのステップを見ながら、なるほどこれは踊りを踊るための譜面だと今さらながらに思った。
しばらく舞踏譜とにらめっこしたあと、そっと立ち上がり、舞踏譜に描かれた通りにゆっくりとステップを踏んでみた。
踊りに関して初心者の僕には案の定難しかった。
「こうか?違うな……ん?こっちか?」
揺らめくライターの光を頼りに何度も何度も舞踏譜を見直し、その都度足の運びを修正する。
そのうちにふと、自分の今やってるステップが、
さっき菌屍を相手に臼井が戦う直前にメイスを取り出してみせた時の踊りにそっくりなことに気付いた。
「ということはつまり……」
臼井は、舞踏譜を踊っていた?
そうだとすれば、臼井は舞踏譜によってメイスのような火のついた武器を取り出したことになる。
あれが、これによって本当にできるのか?
「う~ん」
ステップの練習をしながら、あの時の臼井のステップと今の自分とで何が足りないのか考えてみた。
臼井と同じように両手も動かして見ようと思ったけれど、体が硬い僕にはまねできそうになかったし、なんとなくそれは恥ずかしかった。
「は~」
踊り疲れてもう一度ベンチに腰掛ける。腕時計を見る。午前四時。
そんなに長いこと僕は踊っていたのかと驚きながら、改めて臼井の舞踏を思い出し、その戦闘を思い出し始めた。
そのうちに頭の中がゴチャゴチャしてきた。色々なことがあったからなぁ。
そんなことを思ううちに意識は次第に遠のき、僕は眠ってしまった。
あったかい。まるでパンに挟まれたハンバーグみたいな気分だ。
あたたかさのあまり目頭がジンとする。泣きたくなるほど気持ちいい。
「ん?」
僕は目を覚ます。見慣れた天井を見つつ、自分の体がハンバーグになったわけじゃないと気付く。
パンではなく、掛布団と毛布と敷布団とシーツに包まれていた。
「……」
どうやら、僕は自分の家にいるらしい。でもどうやって……って、臼井は?
「!?」
驚いて飛び起きる。臼井はベンチに放置したままじゃないのか?
「あ」
「記憶の整理はできたかしら?」
「臼井……」
「私のことは一応覚えているみたいね」
「無事だったのか」
「そうね。まあ何とか持ち直したわ」
僕の部屋の中に臼井はいた。
彼女の言葉は僕に向けて使われているらしかったが、目線は机の前にある窓の外の方を向いて動かなかった。
「僕、眠っちゃったのか」
「ええ。私が目を覚ました時は少なくとも眠っていた。運がよかったわ。
あの時菌屍に襲われていたら私はともかくあなたは二度と目が覚めなかったかもしれない」
窓の外に何か面白いものでもあるのか、臼井はそっちを見たまま淡々と話す。
「そうか……臼井の方が先に目が覚めて、ここまで運んできてくれたのか。どうもありがとう」
「あなたの鞄があってその中に家の住所を書いた紙が入っていたから運んだの。礼なんて言わなくていいわ」
そこまで臼井は言うと、ようやくこっちに顔を向ける。まるでこれから重要な話をするのだと告げるような目をしていた。
「いくつか質問があるんだけれど、いいかしら?」
モデルのような均整のとれた顔立ちの中に収まる小さな唇が動く。やはり勘は当たっているらしかった。
「うん。構わないよ。答えられる限りなら答える」
「フェナカイトという精霊の体で作られた私は、それなりにフェナカイトの残留記憶も継いでいる。
だから菌屍のことも菌屍を生む菌ムシュフシュのことも、それを持ち歩いてばらまく学者のこともある程度までは知っている。
けれど分からないこともある。それについて教えてほしいの」
臼井の唇は一定の速度で動き、そして閉じる。
「……言ってみて」
「あなたは一体なぜ、あの場所にいたの?」
「……そう言えば……」
確かに、自宅からかなり離れたあんな不気味な場所に、しかも夜になんで僕はいたのか。よくよく考えてみれば誰だって不自然に思うだろう。けれど僕にしてみれば不自然なんかじゃない。あれは必然だった。つまり〈匂い〉だ。匂いが僕をあの場所へ導き、僕に選択を迫り、そして僕に覚悟を尋ねた。
「匂い、だと思う」
「ニオイ?」
「知らないか?臼井の友達の中西って、不思議な匂いがしたんだ。いつもそうだったかは覚えていないけれど、とにかく中西は不思議な匂いを持っていた。その匂いと同じ匂いを昨日の夜、追いかけた。そして僕はあそこに着いた。そんな感じだったと思う。シャッターの下りた商店街みたいな場所で僕がたくさんの菌屍に襲われそうになった時もそうだったけれど、廃墟の病院に入ると匂いはそこで滞留していて、で、その中を歩いているうちに、ノートを見つけたんだ。臼井がいなくなった後、ずっと中西が教室で広げて読んでいた日記帳みたいなノートだよ。あれはたぶん」
「日記帳」
「うん。それで、それが病院の中に置いてあって、拾った時かな。中西が襲い掛かってきた」
「そう……」
臼井はゆっくりと目を閉じた。
「でもそれは由美ではないわ。菌屍となった私の親友の残骸」
一言一言を確かめながら自分の心に張り付けるような感じでそう告げた後、再び目を開ける。
「気にしないで。続けて」
「ああ。……中西が襲ってきた時、僕をフェナカイトさんが助けてくれた」
「そう。分かったわ。その辺から先は残留記憶が残っているから話さなくてもいいわ」
体を動かすことで、黒群青のショートヘアがさらりと揺れる。臼井は再び体を窓の方に向けた。何か思案しているように見えた。
「踊りは覚えたの?」
しばしぼ沈黙の後、臼井は遠くを見たまま、僕に尋ねてきた。
「え?」
「意識のない私の体をたっぷりまさぐって取り戻した舞踏譜のことよ。描かれていた踊りはもう覚えた?」
「あ、いやその、完璧じゃぁない、かな……勝手にごめん」
気を失った臼井から舞踏譜を探し出したことを思い出し、僕は謝る。たぶん今鏡を見たら僕の顔は無駄に赤いと思う。
「……」
「あの臼井、さん?」
もしかして怒っている?舞踏譜を奪ったことを?体をまさぐったことを?
「私の体は、フェナカイトというあの精霊で出来ている。けれど私の魂は由美の思念で出来ている。だから当然由美の持っていた情報が多く私の中に残っている」
「?」
「全ては、あの学者が始まりだった。私が事故で死んだあと、悲しみに沈んでいた由美のもとに、あの学者は現れた。学者は由美に言ったわ。『よかったら友人を生き返らせる手立てを教えましょうか』って。由美はその提案に躊躇しなかった。すぐに方法を知りたがり、そして精霊の、フェナカイトの居場所と彼の持つ舞踏譜の存在を学者から聞き出した。フェナカイトは舞踏譜を知っている由美に驚いていたわ。それで、由美はとにかくフェナカイトに舞踏譜を教えてくれるよう迫った。フェナカイトは断ったけど、最終的には舞踏譜を渡した。理由は別に難しいことじゃない。要するに彼は舞踏譜を由美が知った経緯を知りたがっていたから、由美を泳がせれば情報提供者に接触できると思った。結果的にそれは成功した。由美が死んだ後だけど、あの廃墟の病院でフェナカイトは首謀者である学者に出会うことになる」
「……」
フェナカイトさんの話と臼井の話はつながる。
アルト声のロングヘアが、すべての始まり……。
「由美が……あだ花になるまでの話を少し、させて」
ふう、とため息をついて臼井は話を続ける。
「毎日鏡の前で踊っていたわ。人を生き返らせるほどの力を舞踏譜は、人一人からでは供出できない。だから術者が亡き人を甦らせようとした場合、所詮それは術者に幻を見せるにとどまる。だから鏡の前でいつも由美は私を見いだし、そして泣いていた。私はずいぶん美化されて彼女の中に残っていたみたいね」
「……」
「まあ、そんなことはどうだっていいわ。とにかく、私は舞踏譜によって造りだされて、いつも由美を見ていた。由美は次第に衰弱していった。このままだと死ぬっていう限界まであっという間に到達した。そこまではフェナカイトの予告通りだった。だから私もしょうがないと思った。ここまできたらあとは由美と一緒に消えようって。だけど、違った。そこには学者がいた。死にそうになる由美の所へいつも来て、あの液体の入った魔法びんを手渡した」
「液体?」
その言葉で黒い液体を僕は連想した。あるいは黒い液体をこぼすアレを。
「月光に反射したあれは、とてもきれいな色をしていた。薄い黄金色の液体。まるでシャンパンのような、小さく泡立った液体。香しい芳香と芳醇な味がした。由美はいつもそれを口にすると泣いていたわ。そして学者に言っていた。『ありがとう。これでまだ踊れる。もっと、もっと踊っていたいの』と」
「シャンパン……」
菌屍のあの黒い液体とは、違うのか?
「今思えば、あれが菌ムシュフシュとの接点だったのかもしれない。少なくともそうとしか私には思えない。飲み続けるうちに、由美は由美でいる時間が徐々に短くなっていった。最後はもう、踊る事すらできなくなった。昼は廃人のようで、夜になると街に出ては人間や犬を食うようになっていた。黒い液をまき散らして」
「……」
「食い残しは……まあほとんどが食い残るわけだけど、菌屍となって、由美と同じようなことをし始めた。同じように黒くなって」
「……」
どう言葉をかければいいのか、分からなかった。
「全ては、学者の用意した罠だったのよ。由美を菌屍にすることでフェナカイトはさらに由美への追跡を強化する。加えてフェナカイトは由美と学者が量産する菌屍の退治に追われる。フェナカイトは強いが、無敵ではないわ。徐々に傷ついていった。けれどあの精霊以外、誰も菌屍に太刀打ちできる者がいない。誰もどれが菌屍なのかさえ分からない。菌屍は昼間大人しく隠れているものだから。もっとも、由美の場合は舞踏譜のせいで昼も夜も関係なく活動していたけれど。……こうして学者は菌屍を使いフェナカイトを弱らせつつ、由美を餌にフェナカイトを誘導し昨日、廃墟の病院で彼を討った。目的がフェナカイトに対する復讐だけならまだいい。けれどもしほかに目的があるとすれば阻止しないといけない。おそらくその目的のためにさらに多くの菌屍が産生されるだろうから」
「……」
「聞いていた?」
臼井がこっちを見る。瞳が陽光に反射してキラキラと光っている。泣いているのか。それとも最初からなのか。よく分からないがとにかく綺麗な眼だった。
「ああ。ちゃんと聞いていた」
それだけだけど、やっと言葉が出た。
「どうしてこんな話をしたと思う?」
「へ?」
「残り時間の少ない私が意味もなくあなたの家に滞在し、意味もなくあなたにこんな話をすると思うかと尋ねているの」
「それは……なんか意味があって話していると思う」
「そうよね。最初に結論を言うわ。協力して」
「……一緒に戦うってこと?」
「ええ。少なくともあなたの『鼻』に協力してほしいわ」
「鼻?」
「そう。あなたの鼻がたどれる〈匂い〉に私は用がある」
「匂いって……」
「菌屍がどこにいるか、残念だけど私には遠くからは分からない。しらみ潰しに夜の街を歩けばそれらしいのを見つけられるかもしれないけれど、そんな時間は私に残されていない。だからあなたの、菌屍の匂いを感知できるその鼻に協力してほしい」
「協力するのは全然かまわないけど、僕の鼻がその何とかって菌の匂いをたどれるとは限らないよ。僕の分かる匂いは……」
「菌屍。それでいいのよ。菌屍の中でムシュフシュは増殖する。菌屍の匂いをたどれるならばムシュフシュにもたどりつける」
「ああ、そういう理屈か」
「由美は菌屍だった。舞踏譜の使用者という点において特殊ではあったけど。で、その由美の匂いを、あんな遠くまであなたは探知できた。あるいはあの病院に大量の菌屍が集っていたからあなたはあの病院まで匂いをたどれたのかもしれないけれど、とにかくあなたの向かった先に菌屍はいた」
「中西の匂いが、菌屍の匂い」
〈中西の匂い=菌糸の匂い。故に中西=菌屍〉の方程式が頭の中に浮かぶ。その方程式があまりに残酷で、胸が潰れそうになる。
「廃墟の病院であなたを一人にした後、こっそり後を追った。理由はもしかしてあなたもあの学者の共犯じゃないかと疑ったから」
「僕は違う!」
「ええ。でもそうでなければ、菌屍の居場所をあなたが探り当てられることの説明がつかなかった。さっきの〈匂い〉の話を聞くまでは」
「……」
「勤め人の帰宅が多い夕暮れ時、仮に病院から一番近い駅前の通りをあなたが歩いて菌屍が現れたというならこうは思わなかった。けれどあなたはそうじゃなくて、草木も眠る深夜遅く、別段近くもない無人の商店街まで足を伸ばし、わざわざ菌屍に遭遇した。菌屍は大抵餌を求めて、生き物の密度の高い都会の夜を単独でさ迷う。ゲリラのように現れて獲物にありつくにはそれが一番都合がいいから。逆に餌の無い所にいるのは獲物を狩る力のほとんど残っていない、文字通り死んだも同然の菌屍」
「……」
「だからあの商店街に菌屍が現れることを予期するのは普通じゃ無理。だけど、あなたはあそこで菌屍に出会った。ひょっとしたら菌屍が人の臭いを追ってあの場所に現れたのかと最初は私も思った。けれどあれは違った。覚えているでしょう、「病み犬」を」
「……ああ」
「「犬」の形をした死にかけの菌屍は最初、事態を呑みこめていなかった。だから一旦あなたの前から姿を消した。そしてしばらくして気づいた。餌が自分の気付かない間に飛び込んできたのだと。そして死力を賭けて襲ってきた」
「そう、だったのか」
「でも、こういう風にも私は考えた。「病み犬」とあなたを見た当初に」
「あなたはまるでソコにソレがいるのを知っていて、様子を見に行った、と」
「だから違うって言ってるだろう!」
「ええ。それは今、確かめた。どうやらあなたはシロらしい。だけど、それでもあなたがどうして菌屍と接触しても菌屍にならないのかという疑問はなくならない……まあいいわ。こんなことを今言っても時間の無駄ね」
「……」
「さっきあなたは言ったわね。匂いが滞留していたって。つまり匂ったんでしょ?あの商店街の、静まった通りで。そして立ち止まり、確かめた。匂いは確かにここに在ると。それで菌屍が現れた?」
「ああ」
臼井が手を伸ばす。窓を開ける。冬の乾いた冷たい風が窓から乗り込んでくる。
「今は匂う?」
僕が目を瞑る。鼻から深く息を吸う。どこかで焚き木をしているらしく、木の燃えるような落ち着いた香りがわずかにしただけだった。この匂いは好きだ。悪くない。けれど今は全然関係ない。
「いや、匂いはないよ」
「それは昼間だから、だと思う。似たような話をさっき少ししたけど、奴らは昼間、死んだように活動を停止している。被寄生者はかろうじて悪夢から自我を取り戻せる。もっとも体調は優れず、体を自由に動かすこともままならないでしょうけれど」
「……中西を除いて、か」
「そうね。そうだったわ」
会話がここで一旦途切れる。僕は余計なことを言ったと少しだけ後悔した。
「これからどうするか説明するわ。夜になったら菌屍を捜しに行く。後手に回るのではなくこっちから出向いて速攻で奴らを消滅する。菌屍の数を一気に減らせば学者は私たちを無視せず、消しに現れる。そしたらその時にあの学者も滅ぼす。これが作戦。つまり短期決戦でケリをつける。簡単でしょ?」
「ああ、作戦は簡単だと思う」
言うのは簡単だろうけれど、あの巨大な斧を振り回すロングヘアを前にして、「ケリ」がそう簡単につくのだろうか。
「私みたいな出来そこないと一緒にいるのは退屈で我慢ならないかもしれないけど、これも縁だと思ってあきらめて協力してほしいの。どうかしら?」
「別に臼井と協力するのはいやなんかじゃない。僕で役に立てるなら協力する」
「そう、じゃあ早速だけど、踊りを覚えてもらうわ。手ぶらで夜の街を歩かれたんじゃたまらないから」
とうとう、臼井から舞踏譜の話がでる。僕はベッドの上で姿勢を正す。
「ステップはどのくらい覚えたの?」
「踊り方自体は、だいたい頭に入った。だれど、描かれた通り歩けばその、臼井がやったみたいに武器とかが出るの?」
「描かれた通りに足を運び、かつタイミングを間違えないこと。それがまず一つ。もう一つは、舞踏譜に描かれてある通り、左右対称な踊りを完成させること。つまり二人必要なの」
「え?二人?」
「あの舞踏は本来心を一つにした男女二人が一緒に踊るもの。心技体、一瞬のずれも許されない」
「そんなこと、できるの?っていうか臼井は一人で踊って、魔法みたいなのを使っていたんじゃないのか?」
「……フェナカイトが言っていた。『舞踏譜を二人で踊る――。全てを一にした番いがいたとすればそれは可能かもしれない』と。要するに不可能ってことよ。人の心は所詮有限。ゆえに耐えず移ろう。それが邂逅し重なる瞬間はあっても永劫同じになることはきっとない。だから〈二人で踊る〉は期待できない。故に〈自分と踊る〉。自分のコピーを使う」
「……鏡に映った自分、か」
改装中のブティックのショーウィンドウの前で踊っていた臼井の姿を僕は思い出して言った。
「正解。鏡があるところで踊りを正確に踊る。一人で二役を演じる。そうすればあなたの欲しいものはある程度手に入る」
「なるほど」
「というほど簡単ではない」
「え?」
「鏡の前で正確に踊るというのは必要条件に過ぎない。それで十分ということにはならない。
あくまであなたが何を強く欲しているか、これが肝心ということ」
「……」
「菌屍や学者を打ち倒すのに必要な武力を、戦力を、あなたはどこまで具体的にイメージできる?」
「……まだ何もしていないからはっきりとしたことは言えないけれど、僕は少なくとも、菌屍や女の人の斧や臼井の戦いを見ている」
「そうね、確かにそれならイメージしやすいと思う。「それ」が強さの基準よ。「それ」を超えるのに必要な力を本気で想像すればいいのよ」
「えっとつまり、菌屍から生き残るのに必要だと自分が感じる武器をイメージしながら、踊りを正確に踊ればいいってことだよね?」
「端的に言えばそんな感じね。それと、そうね。細かい話だけど姿を映す鏡は踊る人間の全身と踊り全てが映り込むくらい大きな鏡であった方がベター。あとはあなたの言うとおり」
「……わかった」
「もう行くことはないと思うけれど、あの商店街に行くのは、よした方がいいわね。ネットやテレビを見れば分かるけど、マスコミと野次馬と警察であの場所は今ごった返してる」
それはなんとなく想像つく。昨日の事件のせいであの場所は戦争跡地みたいになってしまった。誰が見ても異常事態だと分かる。だから近づくのは無理だ。で、どこで姿見を探そうか。咄嗟に思いつくのは昨日のブティックくらいだけど……。
「鏡を探しているの?」
「うん」
「学校は、どうかしら」
「学校?学校にそんな大きな鏡なんてあったっけ?」
「あるでしょ。地下に」
「地下っていうと、新体操部の練習場のことか」
「ええ。あそこなら大きな鏡がある」
「ああ、でも昼間の学校だからいくらなんでも」
時計を見る。昼の十二時だ。学校をさぼったことは別に何とも思わないけど、学校に死んだはずの臼井と乗り込んで踊りの練習をするというのは、周囲の反応を想像するに、無理な話だと思った。
「その心配なら不要よ」
「え?」
そこまで話すと臼井は「支度して」といって僕の部屋を出て行った。制服姿のまま寝ていた僕は仕方ないと観念して、動きやすいスポーツウェアとタオルをリュックに入れて部屋を出た。邪魔になりそうな革鞄は置いていくことにした。居間に降りると、臼井は固定電話の前に立ってテレビを見ていた。テレビは「爆弾テロ!?平穏な商店街を襲った衝撃」と銘打って、昨夜起きた商店街のニュースを特番で報じていた。
「なあ、学校で本当に大丈夫か。学生はともかく、先生に会ったら何て説明するんだ?臼井は変装でもしていくつもりか?」
「大丈夫よ。誰とも会わない」
そう言って臼井は電話の留守番ボタンを押す。
「ピーッ 要件の、一、午前、七時、五分、三、十秒、です……」
留守番電話サービスに入った録音が流れ出す。
「もしもし、二年四組担任の安藤です。昨日遅くに、えー、病院の方から未だ詳細は発表されていないのですが、本校の児童及び生徒を含め、地域一帯で何らかの病原菌による集団感染が報告されましたため、まことに緊急の事ですが、本日より一週間ほど学校の方が一時閉鎖されることになりました。原因が究明され安全が確認され次第、開校する所存です。なお、恐れ入りますがこのメッセージをお聞きになりましたら学校の方へメールにてご連絡ください。電話は混線しつながらない可能性が高いのでメールにてご連絡ください。繰り返します……」
混乱しているのか、会話の順序がところどころグチャグチャになっている。それでも担任の安藤のメッセージであることは分かる。彼は原因不明の集団感染によって学校閉鎖が起きたことを告げていた。
集団感染?何のことだ?
「こっちからはメールで安否を連絡しろ、か。しかも七時五分とは早い」
「あなたや私と違って普通の学生はきちんと八時十五分の始業チャイムに間に合うために身支度を整えて朝早く家を出るのよ」
「そっか。それでこんなに早くから安否確認の電話か」
「念のためこの家からメールは送っておいた。八時ちょうどに」
「ありがとう」
「面倒を避けるためよ。礼は要らない」
安藤のメッセージでふと気になって、スマホを確認すると、お袋と親父のメッセージが入っていた。「ニュースを見て心配になった。連絡よこせ」という内容だった。本気で心配なら家に戻ればいい。子どもと仕事、どっちが大切なんだか……
「それにしてもニュースって、商店街のことか?そう言えば安藤が集団感染がどうのこうのって」
「ええ、これのことよ」
臼井がチャンネルを変える。それに視線が釘付けになる。「集団感染!学校現場で一体何が?」と銘打って特番が組まれていた。その報道によると、どうやら僕の住む街を含めたいくつかの地域で学校に通う児童・生徒の多数が、下痢や嘔吐を伴う症状を訴えて昨夜から朝方にかけて緊急入院しているらしい。感染症研究機関の人間が記者会見に臨み、搬送された児童・生徒の唾液、汚物などを調べた結果、異常は発見できなかったという。それなのに子どもたちの症状から見て病原性の菌の可能性が高いとカメラの前で答えている。画面がスタジオに戻り、「病院に搬送されたのは十八の地域で計千九百人に上ります」とキャスターの男性が深刻そうな顔つきで告げていた。
「集団感染ってこれか」
「ええ」
「千九百って……やばいだろ、これ」
食中毒の規模を超えている。しかも原因は不明。まるで生物テロだ。
「そんなことより今すぐ両親に安否を伝えなさい。学校へは私が連絡しておいたけれど、そっちはまだよ。直接声で伝えるといいわ。とにかく急ぐこと。戻ってこられると後々動きづらくなる」
「?」
臼井にせかされて、僕はさっさとスマホのアプリを使い「心配ないよ。こっちはいつもどおり元気です」と両親二人にメッセージを送り返す。根掘り葉掘り聞かれると面倒だからこうも続けて機内設定に切り替えた。「体調崩さず、仕事がんばって」。
「捜してる……」
「いや。どうせ二人とも帰るに帰れないから戻ってくる心配はそもそもなかったよ。うちの親はこんなもんさ」
「あなたの親の話をしているんじゃないわ」
「え?」
「今回の事件は学者、あの女の仕業よ。菌ムシュフシュを使って捜してる」
「だ、誰を?」
「あなたか私のどちらか。たぶんあなたよ。昨夜あなたは制服を着て歩いていたから、学者はあなたが学生だと知った。そしてあなたに用があるから、ああやって子どもを中心に手当たり次第菌屍予備軍にして病院に集めてる。本来昼間しか一か所に集まらない子どもたちを自分たちにとって都合のいい夜に、一カ所に集めるとしたら病院以上に理想的な場所はないでしょうから。そこにあなたがいないか捜してるのよ。私、つまりフェナカイトの気配を捜しているだけならこんなことをする必要はない。フェナカイトをはめた時同様、菌屍数体を使って私を挑発し、自分の居城に乗り込んでくるのを待っていればいいだけだから」
「僕を捜してるって……じゃあ何のために」
「分からないわ。あなたにどんな用があるかは分からない。けれど、ムシュフシュの大規模な空中散布によって菌屍予備軍を一晩で増やすなんてことは非効率極まる。学者にとっても相当負担が大きい。そしてそれを知らないはずはないのにあの学者は今になってそれをしている。つまり、あえてそうまでして、あいつはあなたを捜してるってこと」
「……」
「いずれにせよ、このまま学者にムシュフシュをばらまかれ続けるとまずい。空気感染だけで菌屍になるには、子供でも高濃度のムシュフシュを体内に蓄積しないと駄目だけれど、散布状態が長引けば徐々に体内にムシュフシュが蓄積していって、やがてみな菌屍になり果てる。学者がその前にくたばればいいけれど、その保証はない。だから皆が菌屍になる前に何が何でも学者を止めないと」
「ますます急ぐ必要が出てきたってことか」
臼井はうなずき、テレビを消す。
「不謹慎だけど、学者に一つだけ感謝することがあるとすれば、おかげで外を出歩く人間は減る。あんな報道を見ればみな極力外出は控え、出ればマスクぐらいは着用する。マスクもせず夜中ウロチョロしている奴がいたら菌屍と疑っていい。多少は識別しやすくなったわ」
制服姿の臼井は玄関に向かって急に歩き出す。僕も慌ててついていく。
「でもだからと言ってあなたが必要ないなんてことにはならない。あくまで最終判断はあなたの鼻。あなたにしか辿れない例の〈匂い〉がすれば言って。そしてその場で菌屍を斃す」
「うん、わかった」
「それにしても」
「ん?」
「なんでもないわ。学者があなたに用があるとすれば、あなたと一緒にいることは私にとって都合がいいって考えただけよ」
臼井は玄関に来ると靴のしまってある棚を開けて物色し始めた。お袋のランニングシューズを取り出し、それを勝手に履く。
「ちょうど合うサイズがあって助かったわ。
こっちの方が革靴より静かで動きやすい。昨日命を救った貸しはこれで返して。ダメかしら?」
臼井にそんなことを言われたら、僕は何も言い返せない。僕は黙ってうなずく。僕も臼井に習い、革靴はやめてランニングシューズを履く。確かにこっちの方があるいたり走ったりするにはよさそうだった。
「さ、行くわよ」
「学校だよね?」
「そうよ。学者のおかげで人払いができた。たとえ校内に人がいてもみな会議室か職員室でしょ。下着泥棒か盗撮魔でもない限り新体操部の地下練習場には今いないわ」
「言われてみればそうだろうね」
玄関を出る。僕は鍵を閉める。
「それと」
「?」
「ポケットに入れておいたわ。舞踏譜」
「え、ああ。ありがとう」
僕はポケットに舞踏譜が入っていることを確認して、臼井と一緒に学校に向かった。
臼井の言った通りだった。
道を歩いている人でマスクをしていない人の方が数は圧倒的に少なかった。中には花粉症対策の保護眼鏡をつけ、レインコートで全身を覆っている人もいた。さすがにそんな完全装備を見ると、僕も不安になる。
「ねえ」
「何?」
隣を歩く臼井に話しかける。
「マスクとか保護眼鏡を見てて思ったんだけど、僕たちってその、大丈夫なのかな」
重要と言えば重要な質問を僕は臼井にしてみた。
「ムシュフシュのこと?少なくとも私は平気よ。人形と同じで循環器も生殖器も消化器も持っていないから」
「あ……そう」
真顔でそう言われるとなんだか怖い。それに、「少なくとも私は」ってところも、引っかかる。
「やっぱりマスク買いたいんだけど、いい?」
「どうぞ。でも必要ないと思う。カモフラージュしたいのなら話は別だけれど」
「カモフラージュって」
「武器を持たない虫が保護色を纏うように、学者に勘づかれないようマスクをして周囲に溶け込みたいというのなら止めはしない。けれどその必要もたぶんない。学者は集めた子どもの物色と菌屍散布で街の徘徊や監視なんてしている暇はないだろうから。マスクをつけていようといなかろうと、気づかれる心配はないわ。そしてマスクをつけなくても、あなたは多分感染しない」
「どうして?」
「もしあなたにムシュフシュに対する抵抗力が常人程度しかなかったらとっくに菌屍になっている。理由は菌屍と物理的に複数回接触しているから。そのときに相当量のムシュフシュが体内に入ったはず。菌屍になるとしたらとっくになってる。なっていればとっくに私が首を刎ねてる」
そこまで言われて、中西に首を掴まれたことと、臼井に首の吹っ飛ばされた犬に体当たりされたこと、
黒い液体にまみれたことを思い出す。確かに普通じゃないほど、僕は菌屍に接触している。
「どうやら抗体を持っているようね、あなたは」
「抗体?」
抗体ってあの、体に侵入してきた病原体なんかから自分を守る免疫に関わるやつか?
「あなたはその奇跡みたいな抵抗力をどこでどうやって手に入れたの?」
「それって、ムシュフシュとかいう菌に対する抵抗力をどこで手に入れたかって聞いているの?」
「そう」
言った後、臼井はすれ違う人たちに澄んだ寂しい目を向けながら
「どうしてあなたは平気なのかしらね、由美と違って」とつぶやいた。
「そんなの……分からないよ」
分かるわけない。大体ムシュフシュなんて名前だって昨日今日初めて聞いた話だ。ましてやそんな菌に対する抗体をどこでどうして体に備えたかなんて聞かれたって分かるわけがない。
「まあいいわ。とにかく感染する機会は常人をはるかに上回るほどあなたは昨夜から今朝までの間に手にしている。二千人に迫る予備軍と比べて時間的にも濃度的にも遥かに危険な状態をあなたは体験した。にもかかわらず感染の気配が全くない。とすればたぶん菌屍にはならないわ。安心しなさい。あとはもう、何かあるとすれば菌屍に引きちぎられるか食い殺されるかだけよ」
「そりゃ、どうも」
冗談を言っているのか本気なのかよく分からないところがある臼井の話だけれど、とにかくその話で僕は少しだけ安心し、結局マスクは買わずに学校まで行った。
「校門、しまってんだけど」
「じゃあ飛び越えましょう」
学校に着いたのはいいけれど、校門は締まっていた。ひょっとすると校内には人がいないのかもしれない。あるいは裏口だけは空いているのかも知れない。どうしようかと臼井に持ちかけると、
ヒョイッ。
「うわ!?」
臼井は僕の手首を掴んで校門より高く飛んで見せた。しかも校門を飛び越えた瞬間に僕の手を離した。
「うわぁっ!」
やばい!僕の体は重力に任せて自由落下を始める。やばい!足から着地は無理だ。バランスを失っているし、しかも高すぎる!
ボスンッ!
「!?」
「こういうのはふつう逆で、私が抱きかかえられた方が絵になるけれど、仕方ないわね。今のあなたじゃ」
地面に衝突するかに思えた僕の体は臼井にお姫様抱っこされていた。臼井は頬を歪めながらそう言い、僕をさっさと下ろす。
「臼井も笑うんだな」
「そうね。使える筋肉は使う主義だから。顔も例外じゃないわ」
こういう時はにかんでくれれば僕としてはうれしいんだけど、そういうサービスは一切なく、臼井はさっさと女子新体操部の独占する地下練習場へと続く階段を下りていく。
「きっと閉まってると思うんだけど」
「校門がしまっているのに練習場が開いているなんてこと、あるわけないでしょう」
「じゃあどうするの?まさか」
臼井のことだから扉ごとぶち割るんじゃないかと思って心配になった。けれど、
「確かここに」
と言って、臼井は練習場の入り口に立てかけてある女子新体操部の呼び込み看板の裏に手を伸ばした。
しばらくして看板の裏から出した臼井の手には鍵が握られていた。
「それって、練習場の鍵?」
「そうよ。練習が終わって、掃除をやって最後に出る部員がこの扉の鍵を閉めていくの。部長だけは顧問から練習場の合鍵を渡されているんだけど、その部長が練習に最後まで残るのは面倒だからって副部長に鍵を預けた。で、副部長は部員を信頼して合鍵をこの場所に隠した。鍵の隠し場所と、紛失した場合のリスクを告げた後しばらくして、交通事故で帰らぬ人になったはずだった」
「ひょっとして臼井ってさ……」
「スパルタ練習と実績で有名なこの新体操部の副部長だったの。生前の私はね」
「死んでもこんなところに来るなんて取りつかれているんじゃないかしら」と臼井はまた薄笑いを浮かべながら鍵を開ける。どうぞといって僕を招く。二人して中に入ったあと、臼井は鍵を閉めた。
僕らは練習場に向かう。場内は広く、磨かれた木目の床は清潔感が漂っていた。北面の壁に部屋全体が映り込む大きな鏡が取り付けられている。
「電気はつけないで。なんでかは分かるでしょ?」
「もちろん」
つければここに人がいることがすぐばれてしまう。
「さて、今日から約一週間、邪魔が入らないはずだから、昼間はここで二人きりになれるわね」
「あ、ああ」
「どうしたの?気分でも悪いの?」
「いや、別にそんなんじゃない」
時と場合が違えば、少し変な気持になりそうな臼井の言葉に動揺した。けれど、そんなこと想像している場合じゃないと思い直す。
これは遊びじゃないんだ。
「浄水器はそこにある。喉が乾いたら飲めばいい。さて、さっそく本題に入るわ。急がないとたちまち日が暮れる」
「うん」
僕はリュックを下ろす。せっかくだからリュックに入れて持ってきたスポーツウェアに着替える。柔軟体操を済ませる。
「準備はできたかしら?要点はさっき述べた通り、想像力を働かせ、鏡の中の自分を相手に完璧な舞踏を踊る。それで全ては始まる」
「オッケー」
ステップを臼井はゆっくりと見せる。商店街で見た時とは比べ物にならないほどゆっくりと、分かりやすく臼井は動いて見せてくれた。僕もそれを真似る。
一時間ほどマンツーマンのレッスンを受けて、どうにか舞踏譜にある通り正しく足を運べるようになった。明け方に一度練習した甲斐があって思ったほど時間はかからなかった。時計は午後二時三十分を指している。チャイムは切ってあるのか、この間一度も鳴らなかった。
「いよいよここからが本番。踊りつつ、願いなさい」
「うん。わかった」
家を出てから、そのことをずっと考えていた。群れて襲い掛かってくる菌屍や、大斧を振りまわすロングヘアを倒せる能力を備えた者のイメージとは何か。
「……」
僕はゲームが好きだ。特に格闘系のゲームが好きだ。
だから〈強さ〉に関連するイメージとなると、どうしても格闘ゲームのキャラクターが脳裏に浮かんだ。
「イメージが湧いたらそのイメージを絶やさないよう集中して踊りなさい」
「う、うん……」
気づけば僕は、まだ漠然としたイメージしか浮かんでいない段階なのに踊り出してしまっていた。
「……」
踊りながら急いで、どのゲームキャラがいいか考える。別にふざけているわけじゃない。
想像力がそれほど豊かじゃないし、戦闘体験なんてないし、読書だってあまりやってこなかったから、思いつく〈強さ〉がそれくらいしかなかった。
「……」
もし仮に、菌屍やロングヘアの斧女が画面に現れたとして、あれだけ多くの数を、あれだけ早い斧による攻撃を、かわし、かつ有効な攻撃を行えるキャラクターは……。
「……」
菌屍やロングヘアのデータが少なくて、イメージがいまいちわかない。菌屍はただ襲いかかって来ただけだ。戦っているというより本能に従ってとびかかってきていたようにしか見えない。ロングヘアの攻撃も暗くて、しかも早すぎてよく見えなかった。どうしよう、もっと、もっとデータが欲しい。……あっ、臼井だ!
「……」
臼井の戦闘なら、イメージできる。商店街で菌屍と闘っている時は、それまでの中で一番落ち着いて戦闘を見学できた。だから臼井の戦闘データは僕の記憶にはっきりとある。確かに速くて暗かったけれど菌屍やロングヘアよりは比較的鮮明に残っている。仮にあの臼井を倒すとしたら……何言ってんだ。臼井を倒してどうする?あっ、踊りが終わっちゃった。
「ダメみたいね」
「ごめん。よく考えたら、イメージがきちんと固まっていないのに踊り出してた」
踊りの最後に僕は鏡に触れる。けれど鏡はうんともすんとも反応しなかった。
「ならイメージできてから踊りなさい」
至極当たり前のことで臼井に叱られる。
「ごめん」
「どうしても無理なら、自分が無残に殺される姿を思い描くといいわ。そうすればそれを回避したい防衛意思が働いて、身を守る盾くらい幻出してくれる」
「……」
「……私は毎朝目を覚まして、そうやって自分が殺されるのを一通り頭の中で味わってからベッドを出たわ。一日を新鮮に生きるために毎朝……そうしたら本当にそうなったわ。ふふふ、笑えない笑い話よね。引いた?」
鏡に寄りかかりうつむいて頬を歪ませる臼井を見ながら、彼女の薄幸に改めて胸が痛んだ。自分にはまだ真剣さが不足している気がして、自分で自分をひっぱたきたくなる。
「もう一回やってみる」
言って、僕は再び踊り出す。
「ええ。繰り返し踊って繰り返し願いなさい。叶えばその証しに力を授かり、魂を削られる」
舞踏譜のドグマを簡潔に言い表す臼井の悲しそうな顔を途中まで見て、僕は目を瞑る。
臼井と闘う。臼井を相手に、ではなく臼井と一緒に戦う。臼井と一緒に戦いたい。彼女をサポートしながら、全力で戦いたい。
「……」
いる。
二人がかりで戦うキャラ。双子ゆえの特殊キャラクター。あのキャラなら……いけるかもしれない。僕は確固としたイメージを抱え、踊りを踊ることに全神経を集中させる。
「!」
「……面白い獲物ね」
「で、でた」
両手には三日月の形をしたシャムシールがそれぞれある。右手のシャムシールを順手に、左手のシャムシールを逆手に僕の手は握っていた。
「でもその格好、なんか見ていて息苦しいわ」
「え?」
「暑苦しいとも言えそう」
「えっと、冬だからそうでもない、かな」
「そう。それなら良かったわね」
顔以外の僕の全身を、緩く巻きついた二色の包帯が覆う。灰色と水色の包帯にはそれぞれ楔形文字のような記号が小さく描かれていた。
「それで、その格好は何を意味するの?」
「臼井の役に立てるような戦士をイメージした。僕は臼井を守ったり臼井と闘ったりしたい」
「ふ~ん」
イメージしたキャラクターは、ミイラみたいな恰好をした双子という設定だった。
ハドロン&バリオン――。
僕がやり込んできた格ゲー『鬼区』に出てくる。双子の戦士たちは鬼服と呼ばれる包帯型の鎧とシャムシール一本ずつを武器に戦う。
ハドロンの鬼服は水色で、バリオンは灰色。ハドロンはシャムシールを順手で扱うのに対して、バリオンは逆手。二人は同時に使用することができて、特殊コマンドを入力することで戦闘中に交代することも、一緒に攻撃することもできる。個々の攻撃力はパッとしないけど、鬼服による守備の堅さと連携技の強さが定評のバトルキャラクターだった。
「わざわざ私みたいな幻のことまで考えてくれるなんてあなたは優しいのね。でも期待しないでおくわ。この身は時のまにまに漂う夢幻。消えるが定め……」
指をポキポキ鳴らしながら臼井は練習場に隣接するロッカールームに一旦消える。そしてしばらくして出てくる。出てきた時には新体操で使用する銀色の棒を二本手にしていた。
「新体操部に入ってよかったと思う理由は、バトンに出会えたこと。おかげで舞踏譜を踊った時にはまっさきにこの類型が思いついた」
その言葉を聞いて、商店街で見た臼井の燃えるメイスを思い出した。いくらなんでも、それはひどいだろう。バトンは演技のための道具であって殴るための道具じゃないのに……まったく、どこまで冗談を言っているのやら……
「道具の準備はできた?」
臼井が指を素早く動かす。バトンがクルクルと回り始める。
「これから本気であなたは私に挑む。手加減は要らない。戦闘経験を実地で叩きこむのがここでの私の仕事。いいわね?あなたは日の出ている時間内で可能な限り闘いというものを覚えること。質問はなしよ」
「挑むって、こんな危ないもので斬りかかったら……」
僕は僕の両手の先でギラリと輝く刃物を見つつ臼井に言……
ブオッ!
「!!」
一瞬のうちに、五メートルは僕と距離があった臼井が目の前にいる。クロスさせた二本のバトンが僕の首を挟んでいる。
「私語はなし。あなたが気を失うまで私はあなたを殴り続ける。舞踏者の意識が消えると術の効果は一旦消滅する。気を失い、目を覚ましたらあなたはもう一度踊り直し、武具を「調達」する必要がある。その度に魂は代償として削られる。言いようのない疲労感にやがて絶望するかもしれない」
「はあ、はあ、はあ、はあ」
戦ってもいないのに僕の呼吸は乱れ始める。背中に冷たいものが伝う。
「その貧相な包帯に劫撃を浴びなさい。そして振り回せもしない拙い刃で斬りかかってきなさい。できるものならそのまま私を殺して構わないわよ」
バシィッ!
バトンと一緒に臼井が消える。すぐさま僕の足が横からものすごい力で払われる。転倒して起き上がった時には、臼井は僕から離れ、最初の位置に戻っていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
二本いきなりは扱えない。そう体が判断して、僕の左手がシャムシールを手放す。
ガランガランッ!
「かかってきなさい」
「うおおおっ!!」
こうして臼井との訓練はシャムシール一本で幕を開けた。臼井は二本のバトンを器用に使いこなし、僕の足を払って転倒させたり、腕の付け根をバトンの先で押さえつけて動きを封じたりして蹴りを素早く放ってきた。そうかと思うと蹴術がフェイクに変わり、手にした二本のバトンで防御の弱い脇腹や急所を殴ったり突いたりしてくる。
パンッ。
バシンッ。
ババンッ。
スパンッ。
ドスンッ。
どの攻撃も、バトンではなくメイスだったら一撃で致命傷になりかねない容赦ないものだった。
「守ってばかりだと菌屍は減らないわよ」
「はあ、はあ、はあ、はあ……ぐっ!」
意識を飛ばすまで殴ると言ったけど、臼井は僕の意識が飛ぶギリギリのところで常に攻撃の手を緩める。けれどそれが逆に、命がけで闘うことの重さと恐怖を僕の心に刻み込んでいく。僕の心の中の様々な声が徐々に消えていく。
いかにして体を動かすか、いかにして戦うか、いかにして守るか、いかにして生き残るか。心の声は止み、いつしか体はそのことのみに専心していく。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
三日月刀をデタラメに振りまわす。
ブブンッ。
ブオンッ。
ブンッ。
専心することで、何もかもごまかしてばかりいた僕という殻が見えてくる。つまらない体面ばかり気にして生きていた僕という殻が見えてくる。言い訳ばかりして誰かのために生きるという義務を怠ってきたひ弱な殻が見えてくる。なるほど、こんなにたくさんの殻にくるまれているから、何も見えていなかったんだ。ダメだな、ほんとに。
パンッ。
ドンッ。
ゴスッ!
「あぅ!?」
「やみくもに剣を振ったって当たらない。剣は相手を斬るためにある。ならば斬ることを純粋にイメージしなさい。素早く、正確に、完全に命を斬る」
剣理を臼井は告げる。言われて当然のことと思いながら、そんなことを人生で追究する機会があるなんて夢にも思わなかった。まるで昔の武者修行みたいだ。けれど、それを今追究しようとしている。必要だから追究しようとしている。
できなければ僕が死ぬだけだ。
できなければ臼井を死なせるだけだから。だから、本気で追究している。
シュウンッ!
「そう。今のひと振りを忘れないこと。パワー、タイミング、そしてハート」
「はあ、はあ、はあ」
一時間近く臼井にあしらわれ剣を振りまわしているうちに、自分でも満足のいく美しい一閃がシャムシールによってようやく描けた。
「油断しない。攻撃の手を緩めないこと」
バトンが突如宙を舞う。バトンばかりに注意を向けていた僕はとっさに両腕を持ち上げてしまったため、胴ががら空きになる。ヤバイと思って胴を守ろうとするけど、
「覚悟はいい?」
身を沈め右腕を引き脇を閉め、拳を固め、正拳突きを放つ構えをした臼井が瞳を光らせ宣告する。ロングヘアが大斧を手にして迫ってきたかのように、総身に震えが走る。
「一寸先は……全てをのみ込む闇」
臼井の拳が鬼服で守っているはずの僕の腹にねじ込まれる。その一撃で僕の視界は真っ暗になる。呼吸ができないほど重く激しい痛みを腹部に感じたが、すぐにそれは消える。手に握る剣の重みも消え、体を覆う包帯の感覚も消える。体は急に寒くなる。次第にそれすらよく分からなくなる。
どうやら意識が飛ぶらしい。いや、もう飛んだのか?これが、気を失うってやつか。
「じきに日が落ち、声なき降ちの夜になる。……少しだけ休憩よ。休んだらまた出かけましょう。菌屍の根の張る街へ」
透明感のある臼井の声だけが闇に響いていた。
愛詩譚(弐)
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……カタ。
「うっ、く」
開けていられなくなり、目をシバシバさせる。
もうパソコンの画面がよく見えない。だから打鍵を止めディスプレイを閉じる。
ぎゅっと目を瞑り、ゆっくりあけて時計を見る。午前七時を針は指している。
「朝か」
私は席を立ち、バリケードのように積み上がった書物と自筆の実験・資料ノートの障害物を避けてキッチンに向かい、
そこに置いてあるグラスの中にたまったほこりを水で洗い流す。
そして同じくキッチンにあったワイン瓶のコルクを抜き、グラスに赤ワインを注ぐ。
グラスになみなみと注いだら、それをゴクゴクと流し込む。ジュースでも飲むように。
「ふぅ」
カタンとグラスを置き、机の傍の本棚まで移動し植物生理学について書かれた専門書を手に取り、そのままベッドに横たわる。
あおむけになって本の中の英文を読みながら、また研究の分析に使えそうな試料を探す。
そのうちに私を眠気が襲い、私は本を閉じて眠る。どうせ二時間もすれば目が覚める。いつものことだ。
一眠りし、私は目を覚ます。
時計の針は午前八時五十二分を指している。
私はシャワーを浴び、着替えを済ませ、鞄にパソコンを入れ、大学に向かう。
家を出て留学してから、すでに四年がたった。
ようやく何の役にも立たない教養課程みたいなカリキュラムが終了し、
興味のある研究をする教授の研究室で興味のある研究ができるようになった。
ありがたい。私はこの四年間考えた挙句、妹を治癒する可能性を植物に見いだそうと決め、
植物成分を主として研究する研究医の道を選んだ。残りの二年間は少なくとも、
植物を用いた研究で妹の病の治癒に有効な成分の追究をするつもりだった。無論この分野で卒業論文も書くつもりだ。
両親によると妹の病はいまだ原因の究明が済んでいない。
私は妹の精密検査のデータを送ってもらった後、妹の症状に近い症例を抱えた患者のカルテをあの手この手を使って捜し出し、
その原因及び症状回復のために投与された薬さらにはその薬の成分、
ついでに調合方法とその薬を投与した動物実験のデータなどをこの四年を費やして集め調べた。
そして四年生になって研究室で自由に実験できるようになった段階で、小動物による実験を開始した。
端的に言えば妹の症例に近い状態に動物を変え、そこに調べ上げて調合した薬物を投与して経過を見るという実験だ。
けれども思うように進まなかった。
そもそも妹の患う病気が何かもわからないのに、人間でもない小動物を妹と同じような状態にすることからして困難を極めた。
そして仮に「成功」し罹患したとしても、まだ研究医としての経験の浅い私が調合した薬でその病を癒やすことはもっと困難を極めた。
多くの動物が無駄に死んだ。
生き残った動物たちはふたを開けてみると結局妹の病と関係ないというオチがすべてだった。
小動物を人間に近い高等動物に変えてこっそり実験したこともあるが、やっぱり同じような結果しか得られなかった。
「くそ」
実験に失敗はない。失敗と思えるようなそれは一つのデータであり、そうしたデータの積み重ねが成功を生むのだと偉人は言う。
けれど私の場合、それは違った。
失敗は全て時間の無駄。成功は一重に妹の病を治すことにしかない。
小学校中学年にもなって入退院を繰り返す妹の人生を普通の少年と同じようにしてあげること、
それ以外は全て失敗であり、私の敗北だった。
だからいつも焦っていた。焦りが私から睡眠を奪った。
四年もたつうちに、十分な睡眠をとらないことが当たり前になった。そのせいで常に苛立つようになった。
その苛立ちを鎮めるために、自然というべきかどうか、私の酒量は増えた。
不幸にもザルな私は大量の酒をあおり、束の間仮眠をとり、次の日を迎える人間となっていた。
こんな日々を送っていても自我が崩壊しないのはただ、百合花のことが頭の中に常にあったからだ。
そうとしか、もう私は私を考えられない。
大学に着く。構内に入り、自分の所属する研究室のある研究棟に行き、
その中にある温度管理された培養室から研究中の培養細胞を取り出し、すぐ隣の研究室に入る。
「脱イオン水の電気伝導度を……百合ちゃん……いや、それはもう昨日チェックした。脂質膜の相転移温度は……違う。
えっと……細胞培養液の浸透圧のチェックからか……百合ちゃん……」
自分の席に荷物を置き、ロッカーから汚れた白衣を取り出してそれを羽織り、いつも通り研究に没頭する。
「RIAはやはりダメ……となるとELISAで検出するか……百合ちゃん……時間の無駄だった」
時間は矢のように過ぎゆき、いつの間にか午後五時になる。空腹に苛立った私は白衣を脱ぎ、食堂へ向かう。
「お疲れ様。何をブツブツ一人で話しているの?」
「?」
注文した料理をトレーに乗せ、空いている席に座り、イオン強度の計算を頭の中でしながら食事をしていたら、横から声がかかる。
人付き合いが希薄な私に話しかけてくる物好きな人間は研究室の人間を除いてほとんどいない。
でもそれはそれでありがたいと私は考えていた。理由は時間の無駄を極力避けたいからだ。
けれどそんな私の気も知らず、四年近くたった今でもほぼ毎日平気で私に話しかけ、私の貴重な時間を奪おうとする輩がいる。
「こんにちはマナカ」
「……イヴェット」
「顔色悪いわよ?大丈夫」
この日も、やはり彼女だった。今日の彼女のトレーにはタルティーニとミネラルウォーターが乗っている。
夕食時だろうと食べたいものを食べるのが彼女のスタンスだ。
「ええ。いつも通り気分は最悪ね。気にしないで」
パスタをつっつきながら私はありのままを言った。
「相変わらず変な挨拶ね。隣いいかしら?」
「断る必要はないわ。ここにある椅子は私の所有物じゃないから。座りたいところに座るといいわ」
フランス人の娘は私を見るといつもキラキラと笑い、
彼女に対し下心を持つ男に話しかけられた時に見せるようなオドオドと困惑した態度とは違った一面を見せる。
「ねえ、今日は何をしたの?」
「昨日話したのと同じよ。この間チベットの研究所から送ってもらった高山植物の細胞質を調べていたの。
興味のあるタンパク質成分があって、それを抽出して……」
「へえ。難しそうね」
「……そうね」
話したところでこの娘の脳みそでは情報を処理しきれまいと思い直し、私は途中で話を切る。ミネラルウォーターを喉に流し込む。
私が医学部なのに対して、イヴェットは人間科学部。
そんな学部があることすら知らなかった私は、大学の食堂で初めて彼女に会って話しかけられ、
そういう学部が存在すること、そして彼女がそこで社会学を勉強していることを知った。
以来、私が食堂で食事をするときはほとんど毎度といっていいほど、私を見つけて傍で食事をする。
私がいつもこの時刻に食事をするのを知っているのだろう。食べるものは違えど、起きる事柄はほとんど毎日変わらなかった。
「それでね、『社会は模倣である』って教授が話し出してさ、
社会を動かす力は人が人の真似をしようとするところにあるとかなんとかってね……」
この日もゼミで習ったばかりの社会心理学者の話をペラペラと私に話して聞かせる。
私なんかを選ぶくらいなら壁に向かって話しかければいいのに、わざわざ私に話して聞かせる。
私は適当にうなずき、相槌をしながら、パスタを機械的に口に運んで咀嚼し、頭の中ではイオン強度の計算を続ける。
それを失礼だとは私はもう思わない。思えない。私は自分の行動原理を単純化しきったから。
百合花のため――。
そのために生きると決めたこと以外は、もうどうでもいいと自分を規定したから。
「でね、その対立の話からこう、何だっけ、ああ、そうそう、今度は社会学者の話に移ってね。
ほんっと、教授の話ってとりとめがなくてさ。輪読も全然進まないのよ?」
イヴェットが私に近づいてきたのは理由があるらしかった。
私に近づいた理由は彼女が私を観察する限りにおいて、私がほとんど一人で行動していて、
そして彼女自身、話のできる友人がいなくて寂しかったからだった。
それは本人の口から聞かされた。さらに私を継続的な「話し相手」に選んだ理由は、似たような境遇を彼女が抱えていたからだ。
例えば箱入り娘で、親の期待に応えるために学問一筋に頑張ってきたこと、歳が離れた双子の妹がいること。
そのことを出会ったその日に彼女は全部初対面の私に語って聞かせた。双子の妹の写真まで私は見せられた。
すると今度は、私が何者なのかと彼女は聞いてきた。思えば強引な娘だった。
仕方なく私も自分についてと病弱な妹のことをかいつまんで話したところ、
境遇が似ている、妹の病気を癒やそうと努力するなんて立派だと、一人彼女は盛り上がって、わざわざ涙して見せた。
以来毎日のようにこの夕方の食堂で顔を合わすようになった。
「それじゃ私は食べ終わったから研究室に戻るわ。あなたはいい加減家に帰りなさい」
裕福な家庭で生まれ育った彼女は、
他の学生のように大学の講義以外の時間の大半をアルバイトに費やすようなみじめなことはしていなかった。
だから授業が終わり次第学校を出れば半日近く好きな場所で好きな勉強をすることができるはずだった。
それなのに授業が終わって五時まで食堂で勉強していると本人は言っていた。
こんな騒がしい場所でよく勉強なんてできると一度私が皮肉を込めてほめたことがあったが、
そのとき彼女は「人の声があると私、安心できるの」と答えた。その瞬間思ったのは、相手は私とは別次元の生物だということだった。
「ねえ、明日の午後は時間ある?」
タルティーニのオープンサンドの最後の一口を咀嚼し終えた後、イヴェットが言う。
「え?」
ここにきていつもとは違う会話がイヴェットとの間に始まり、私は思わず聞き返す。明日は確か、土曜日か。一体何の用だろう。
「明日は開校記念日で学校は開いてないでしょ。だから、暇かなって思ったの」
「暇ではないわね。家でもやること調べることはたくさんあるから」
イヴェットと同じくミネラルウォーターを口にしながら私は答えた。
「あっ、でも、私ね、ちょっと聞いて!」
「ええ。聞いているわ」
イヴェットの両手に握られたグラスから壁時計に視線を移し、私は自分のグラスをトレーに置く。
「新しく本屋を見つけたの。学術書専門の古書店なんだけど」
「古書店?」
時計から私の視線がイヴェットに戻る。
「うん。あなた本が大好きでしょ。私もそこそこ好きなんだけど……。
でね、明日はそこへ行って何か掘り出し物を探そうかなあと思って今誘ったんだけど、迷惑かしら?」
「その古書店っていうのは一体どこにあるの?住所は分かるの?」
行ったことのある書店だったら断るつもりだった。
「えっと、ちょっと待って」
彼女は私が食いついたと思って慌てて自分のバッグの中をあさり始めて、革の手帳のページを繰り始める。
バッグも手帳も、それだけで私の生活費の数か月分が賄える代物だった。
「えっと、確かここに書いておいたんだけれど、あれ?どこだっけ」
彼女のつまらない気遣いや思慮などどうでもいい。ただ古書には興味があった。
私の研究に役立つ資料が、あるいはこの世のどこかの古書店に埋もれているかもしれない。そう思い苛立つ夜が幾日もあった。
だから研究室に配属されるまでの数年は図書館や古書店を見つけると足を踏み入れ徹底的に調べて回った。
興味があれば借りたり、食費を削って購入したりした。
文献の要所を写し書き溜めたノートや、購入した図書のせいでアパート自室の部屋の床が傾いた。
けれど、まだ欲しい情報は手に入っていなかった。
「あった!よかった。えっとね」
自分の体に巻きついていた時限爆弾のタイマーが爆発寸前に止まったような顔をしてイヴェットは私を見る。
爆弾などどうでもいい私はその古書店の住所を彼女の口から聞く。意外にも聞いたことのない住所だった。故に興味が湧いた。
けれど別にこの娘と一緒に行く必要はない。住所さえわかれば国内ならどこへだって行けるだろう。
さて、どうするか?
「……」
一緒に行かない。面倒だ。
いや、待って。
「ごめんなさい、その古書店、つまりここからどの辺にあるか分かるかしら?」
「距離的にはそうね、それほど遠いことはないと思う。だけど駅前のように交通が便利じゃないから、徒歩で行くと大変ね。最寄駅でタクシーを拾えば早いかも」
「そう」
予定変更。確かこのフランス人の娘は車を持っている。誘ってきた以上、車はそっちが出すだろう。それに便乗させてもらった方が金銭的に助かる。私は今一銭だって無駄にしたくない。
タクシーに乗る金があれば書籍につぎ込みたい。
たとえ箱入り娘のたいしたこともない身の上話を車内で延々と聞かされることになったとしても、金が交通費としてむしりとられるよりはマシだ。
「いいわ。明日一緒に行きましょう」
「ほんとに!?よかった。お店は十時から開くんですって」
「十時……そう。分かったわ」
「車があるからここから一時間くらいで着くと思う。九時に大学前で待ち合わせましょう」
「ええ。車まで出してもらって悪いわね」
「いいの。気にしないで」
うれしそうに微笑みながら、イヴェットはトレーを持ち、後片付けに席を立つ。私もトレーを持ち、彼女の後に続く。
明日は望む本に巡り合えるかもしれない。こればかりは運任せだ。
そんなことを考えながらイヴェットの後ろ姿を見ていたせいか、フランス人のこの娘が幸運の女神のように思えた。
もしかしたら彼女のおかげで、巡り合えるかもしれない。
トレーと皿を片付ける。
「それじゃ、明日の九時に迎えに行くわ」
「ええ。ありがとう」
束ねた長い金髪の髪をそっと揺らして彼女は去っていく。一人になって、自分が変に浮かれていることに気付いた。
「幸運の女神だなんて、……ふふっ、馬鹿らしい」
運なんて当てにしない方がいいのかもしれない。幸運の女神なんてものは、考えてみれば女だ。
従わせたければあの金髪を後ろから掴んで、跪かせればいいだけのことかもしれない。運は自ら作るものといえるかもしれない。
「期待しないで明日を迎える。それだけ……」
期待すると、裏切られた時の衝撃が甚だしい。妹が……私からさらに遠ざかる。
「……ふう」
でも、幸運とまではいかなくても、チャンスは転がっているかもしれない。
あの金髪の娘はあるいは、運命の女神になるかもしれない。
私はトイレで用を足した後研究室に戻り、学校が閉まる少し前まで、つまりいつも通り研究を続行した。
翌日、待ち合わせ時刻の五分前に私が行くと、彼女は既にそこにいた。聞けばさらに十五分前にここにいたらしい。
待ち合わせをすると遅刻するのが平気な連中が多い中、イヴェットだけはそれに対して律儀だった。
車の中で彼女が話す話題がなくなり、そわそわしているのが目障りになった時、仕方なく私がそのことを持ち出すと、
「待たせるっていうことは、相手の存在価値を軽んじることになるのよ。私はそんなことしたくないわ」
と言って、彼女が受けてきた厳格な家庭教育の話、ひいては彼女の先祖の話まで聞かされた。
聞かされる立場の人間が奪われる時間に関して、彼女はどこまでも無頓着だった。まあそれはもういい。治りそうにない。
とにかく先祖と育ちの話をする彼女の様子から、自分の「血」に対して非常に誇りを持っているということはよく分かった。
どうでもいいが、私は真逆だった。私は私の血が嫌いだ。血筋など興味もない。むしろ恨んでいる。
この血のせいで、私は妹と結ばれることがなくなった。
好きな人を見つけ出すことは、この星に生きてさえすれば努力次第で可能だ。
けれどどんなに努力しても、血という定めは替えられない。
この血を決めたのが運命の女神なら、そいつに空気入りの注射器を頸動脈に刺して悶死させてやりたい。
私はカーステレオから流れる彼女お気に入りの幻想交響曲と彼女の退屈な話を聞きながら、そんなことに思いを馳せた。
ついでに古書店までの道と風景を窓から見える限りで記憶していった。
「ここね」
古書店の住所に近づいたイヴェットは車を近くの公園の駐車場にとめ、私と一緒に降りた。そこから五分ほど歩いて、私たちは目的の古書店にたどり着いた。
田舎に似つかわしくないほどそれは大きな本屋だった。けれどその古めかしさだけは、やはり田舎らしかった。
ロマネスク様式なのか、切り出された石を積み上げて作ったような造りにそれはなっていた。
ガラス窓がついていたが、枠は白いセメントで固められて、建物ができてだいぶ後になって取り付けられたように見えた。
「古いわね。この町全体がきっと古い時代を大切にしているのよ。いいことね」
「そうね。さっそく入りましょう」
イヴェットの話をさっさと切り、私は建物の中に入った。イヴェットが続く。
本棚に収まり切らないほどの本が、中にはあった。
私の部屋を思わせたが、私の部屋と違うのは、本棚の高さと、本棚そのもの豪華さと、本の量だった。
それぞれの本棚は高さが五メートル近くあり、一番上の本に至っては蜘蛛の巣と埃のせいでタイトルが白く霞んで読めなかった。
それ自体は木製で、足元にローラーがつけられた左右スライド式の梯子がいくつか本棚にかかっている。
その上で栄養失調の五歩手前くらいに痩せ細った学生が本を脇に抱えて別の本を探している。
そうかと思うと、棚の端や側面に置かれた肘かけ椅子に腰かけた白髪の老人が本を開いたまま死んだように眠っていた。
昼だというのに店内は薄暗く、遥か上の天井からぶら下がるいくつかの裸電球が店内を斑に照らしている。
私はパッと店内を見渡した後、昔妹に読んで聞かせた絵本を思い出した。
絵本はドワーフという小人が暮らす洞窟を舞台にした話だった。
その物語が最後どうなるのか、遠い昔の事なので、あるいは私が絵本よりも妹に興味があったせいで覚えていないけれど、
絵本の中に登場したドワーフの洞窟の薄暗さだけはなぜか記憶に残っていた。
この書店の宿命的な暗さはドワーフの洞窟の宿命的な暗さによく似ていた。
「すごい。この書架の壁の絵、全部手彫りよ」
職人技に感心しているイヴェットをよそに、
私はカンテラで手元を明るくして新聞を読んでいるカウンターの店主の所へ行く。
彼のやや後ろには大きな柱時計があり、それがこの特殊な空間にも時間が流れ続けていることを知らせていた。
「お聞きしたいことが」
私は店主に尋ねる。
「なんだね」
コミュニケーションが取れるかどうか不安になるくらいひどいフランス訛だった。
「医学系の書籍はどちらにありますか?」
曲がった鼻の脇を人差し指で軽くこすった後、しわがれた声の店主は膨大な量の本が収まる棚の一つを指さす。
「あれだ」
「ありがとう」
「探している本が見つかることを祈るよ。何せこのありさまだから」
まるで本が勝手にこの店にやってきて好きな場所に居候しているような話しぶりだった。
ジョークのつもりなのだろう。私は顔だけで笑って見せ、教えられた棚の前に移動する。
「さて……」
縦に並んだフランス語、ドイツ語、英語、ラテン語の背表紙を見ながら役立ちそうな本を片っ端から探し始める。
「これは、サラセミア症候群……違う」
チック、
タック、
チック、
タック……
「組織にグリコーゲンの蓄積……全身型糖原病、で……ポンペ病……違うのよ」
チック、
タック、
チック、
タック、
チック……
「幼児の脳へのガングリオシドの蓄積……テイ‐サックス病じゃない……百合ちゃん……お姉ちゃんも急ぐから……待ってて……」
チック、
タック、
チック、
タック、
チック、
タック……
「不随意運動、自傷行為、高尿酸血症、精神遅滞……違う。違う。レッシュ‐ナイハン症候群とも違う。……百合ちゃん……百合ちゃん……」
チック、
タック、
チック、
タック、
チック、
タック、
チック……
「MELAS?ミトコンドリア病?ちょっと待って……やはり症状が異なる……助けて……助けるわ……私の百合ちゃん……」
チック、
タック、
チック、
タック、
チック、
タック、
チック、
タック……
「!」
そのとき、私は驚きのあまり思わず周囲を見渡した。
足元の世界は致命的に薄暗く、ドワーフの洞窟とはっきり区別しがたいが、店主の後ろの柱時計の文字盤はかろうじて見えた。
どうやら私は四時間以上も梯子の上にいたらしかった。
そんなことはどうでもいい。それより、私は今自分の手にしている資料にもう一度目を向ける。
自分の立つ梯子のかかる棚の端にある椅子で、イヴェットが疲れて眠りこけている時、私は一冊の資料に出会った。
どうやって外部に持ち出されたのかは分からないが、とにかくそれはドイツ語で書かれたカルテだった。
しかもそれだけではなかった。個々の病症を記録してあるドイツ語のカルテは無論、
病症それ自体について調べてまとめたフランス語によるレポートが間にところどころ挟まっていた。
誰が書いたのか、作成者名もない。ただ病症録としか表紙には書いてなかった。
その中身を読んでいるうちに、妹とそっくりの病症の記述を私は見つけた。
しかもその患者は治癒したと記してあった。
「ふう、ふう、ふう、ふう……」
興奮してページをめくる余り、梯子から転げ落ちそうになる。
あわてて棚につかまり、呼吸を落ち着けた後、本を手に梯子を降りる。
私は靴を脱いで床に正座し、本のページをめくり直した。
患者は十歳の少年だった。けれど“特効薬”の経口摂取によって病気は完治したとある。
「ウソでしょ……」
ドォクンッ、
ドォクンッ、
ドォクンッ。
カルテに挟まるレポートを読む自分の心臓が警鐘のように鳴り響く。特効薬とは何?どうやって作る?何を材料にしている?
「……」
作り方に関する記述は、なかった。ないというよりも、ページの一部が切られて無くなっていた。
切った人間をメチャクチャに切り刻んで便器に押し込んでやりたいほどの強烈な殺意が身の内に噴き上がる。
が、必死に抑えながら、残された記述に神経を集中させる。せめて、せめて材料だけでも!百合ちゃん!!
「あ……あった!」
運命の女神は、私を見捨てなかった。レシピが書かれていたわけではないが、
特効薬をどこで手に入れたかについての記述を、私はとうとう見つけた。
――沼地にて、未知の菌類を発見する。持ちかえり、菌の培養を試みる。この際、菌より分泌される液を確認。
菌と液を分離後、液の成分の詳細を調べる。さらに調製後、薬として使用。
その記述と共に、菌のサンプルを回収した沼地の住所が書かれてあった。古い住所で、今の登録法とは異なっている。
けれどそんなことはたいして問題になどならないだろう。
大学図書館か警察署に足を運べば古い住所がどこを指しているのかくらい簡単に分かる。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
笑いが、押し殺しても止まらない。ようやくその笑い収まった後、私はその本を購入することにした。
けれどよく見たら値段がついていなかった。構わない。いくら出してでも買うつもりだった。
売らないと言われれば店主を説得し、それでも売らないと言われれば盗むか店主を殺すつもりだった。
「これ、おいくらですか」
靴を履き直し、カウンターに向かった私は訛の強い店主と交渉に入る。
「ん?どれどれ」
店主は本を受け取り、しばらく本を見た後、私を見た。私がいくら持っているかで、値段を決めるつもりだろう。
なんだってかまわない。早くしろ。死にたくなければ早くしろ。貴様の運命は私が握っている。
結局その辺に売られているペーパーバックと同じ程度の値段だった。安くみられたものだ。
あるいは学生と思って割り引いてくれたのか。まあいい。人にあれこれ思ってもらうために私はもう生きていない。
「ふふふ……」
とにかく手に入れた。本は手に入った。私は無邪気な顔で眠る連れの金髪娘の元へ戻る。
チュッ。
「……?」
「起きなさい。女神様」
私はイヴェットの額にキスをする。とりあえず髪を引っ張り跪かせる必要はなくなった。
「あ、あれ、私眠っていたの?あらやだっ、もうこんなに時間が経ってる!」
目をシパシパさせながら女神はプラチナの小さな腕時計で時間を確認する。
「そうね。いつだって人の時間は夢のように過ぎていくわ」
「欲しい本は見つかった?」
「ええ。あったわ」
私は女神にそう言って、店をそろそろ出るよう促した。女神はうなずき、自分が抱え込んでいた本を買いに店主の所へ行った。
店を出る。車まで歩いているとイヴェットが話しかけてきた。
「これからどうしようかしら」
「私は家に帰るわ」
「え?せっかく車でこんなところまで来たんだから、その辺のレストランで食べていきましょう。
もしお金を心配しているのなら、私が全部払うわ」
金のことなど少しも心配していなかった。空腹ではあったけれど、そんなことより一刻も早く手に入れた本を読みたかった。
が、私は結局誘いに乗った。
「いいわ。そのかわりお願いがあるの」
「奢ればいいのね?」
「そうじゃなくて、今度の週末に車が必要になりそうだから、貸してほしいの」
「全然構わないわ。なんなら私がそこへ送ってあげるわよ?」
「そこまでしてくれる必要はないわ。それにプライベートな目的だから」
「あら。ひょっとしてボーイフレンドとデート?」
女神は俗っぽい笑いを浮かべる。私はそれを真似るように照れ笑いを作ってみせる。
「まあ、そんなところよ。だからお願い。車を貸してくれるだけでいいから」
「分かったわ」
「足」は手に入った。これで沼地がどこにあっても、大抵は行けるだろう。
「何を食べる?」
「そうね、何でもいいわ。とにかくお腹が減ったわ。おいしいワインも飲みたい」
「あらほんとに?それじゃやっぱり車で大学まで戻りましょう。大学の傍に高いけれどおいしいお店があるの」
「悪いけど、そうなると本当にお金が足りなくなるから遠慮するわ」
「だったら私に出させて。お願い。私あなたとお酒を飲んでみたいとずっと思っていたの」
「私と飲んだって面白いことは何もないわよ」
「そんなことはないわ。それにあなたが無理に話さなくたって、私はあなたに聞いてほしいことがたくさんあるの」
だったらパンでもかじりながら壁に向かって話していればいい。
「くだらない」と、金髪をひっつかんで張り倒したい思いが胸にじわじわ湧いてきたが、手に入れた本がその気持ちを鎮めてくれる。
私は本を握りしめながら再び車に乗り込み、古書店のある町を後にした。
その後、無駄に敷居の高そうな高級料理店に連れ込まれ、酔った女神のつまらない自慢話を延々と聞かされた。
食事代は女神のクレジットカードが払った。
一週間があっという間に過ぎた。
古書店で手に入れた本を私は穴が開くほど繰り返し読み込み、妹の百合花と似たような症例に用いられた特効薬の材料の発見場所が、現在のどこに当たる場所なのかも大学図書館の文献とネットで確認した。
そこは今現在も沼地らしい。
だから泥まみれになっても作業できるよう、私は工務店でツナギ、手袋、マスクそして長靴を買い込み、イヴェットから借りた車にそれらを積んで、いよいよその沼地に試料採取へ向かうことにした。久しぶりにいい気分だった。
深夜に出発し、車で五時間もかかって、私はようやくその目的地である沼地にたどりついた。
そこはカーナビが何の役にも立たないような絶境の地だった。
沼地があるとされる場所から少し離れた所に廃れた工場街があって、そこにはある程度人が集まっていた時代もあったという。
けれど今は工場のラインを動かすのに必要な鉄鋼石も石炭も近辺の地層や鉱山から採掘できなくなったため人はいなくなり、街は墓標のように静まり返っていた。沼地はその歴史の一部始終を見てきたのだろう。
そしてその沼地の中に、私の望みは隠されているらしい。独り、血が騒ぐ。
私は沼地の傍の、舗装されていない砂利道に車を止め、
そこで用意してきた一式とサンプル回収の道具を入れたリュックサックを装備し、沼地へと足を踏み入れた。
腐敗した動植物から出ているのだろう。想像通り沼地は強烈なヘドロ臭が漂い、沼気と霧の混じった白い煙のようなものがあちこちで発生し、視界がほんの少し先までしか効かなかった。
鋼灰色や黒色の重い土が水を含み、グジュッと私の足をつかんでたやすく離さない。
大学を包む高温で乾燥した夏の空気とは縁遠く、周囲は逆に冷たくジメジメした冬の空気で覆われていた。
しかも空は朝から曇っている。つまり今、暗くて寒くてジトジトしている。
用がなければ絶対に訪れたくない重苦しい空間はこうした具合に構成されていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
コンパスを取り出してみる。針はクルクルまわったまま永遠に止まらない。つまりコンパスはこの場では効かない。
だから目印となる木を見つけては工務店で買い込んでおいたカラーワイヤーを括りつけ、その糸を伸ばしながら私はあちこち歩き回っている。沼地がどれくらいの広さなのか、どこの文献も記録していない。
さらに人工衛星が地球を経巡るこの時世でも、沼地の詳細ははっきりしていなかった。加えて磁場は異常なほど狂っている。
ふざけた場所だ。けれどそのふざけた場所に眠る伝説のような話をあてにして、私は息を切らし妹のために歩き続けていた。
どうか、望むものが手に入りますように。そう願うだけだ。
文献によれば、特効薬の原料となったそれは菌だという。ムシュフシュという名が発見者によってつけられていた。
ムシュフシュ――。
神話か何かで聞いたことがあるような名前だったが、詳しいことは思い出せない。もっとも名前などどうでもいい。
問題はその菌ムシュフシュが何かということだ。
分類上、子嚢菌類なのか担子菌類なのか明確な区別を発見者はつけられなかったらしいが、要するにキノコらしく、そんなものがこの沼地のどこかに生えていて、その菌が分泌する液をうまい具合に精製して患者に経口摂取させた所、患者は回復し、見違えるほど健康になったというオチだ。
妹の百合花もそうなるのだろうか。
「そう……なる」
ならないは、私が許さない。そのためにもムシュフシュとかいうキノコは必ず見つけてみせる!
「それにしても、キノコの絵くらい描いておきなさいよ」
女神と行った古書店で手に入れた文献でページが破れていること以外に許せなかった点は、ムシュフシュの絵図がなかったこと。
だから私は担子菌類のサルノコシカケを想像しながら必死に木を探し、そこにキノコがくっついていやしないかと探し回った。
ゴクッ、ゴクッ。
水筒に入れておいた水は飲みほして空っぽになった。時計を見る。ここに来てからもう三時間が経つ。
朝から曇っているせいで昼だというのに周囲は恐ろしく暗い。沼気は相変わらず低くたちこめて遥か先をぼかして隠す。
苛立ちと焦りが私の体を汗と共につたい落ちる。キノコの形が分からない。
あるいは私のイメージするキノコの形状じゃないのかもしれない。いやむしろその可能性の方が高い。
あるいは発見者が、キノコの菌から採取したと勘違いしているだけで、本当はキノコに偶然付着していた泥か何かに含まれる別の菌かもしれない。
だとすればこの泥をいくつかの地点で採取して分析すれば済む話だ。
一体何が真実なのだ。どれが間違いなのだ?誰か、誰か教えて!
「?」
その光景に一瞬目を奪われた。花が、一輪咲いていた。沼地のど真ん中に、だ。
「……きれい」
土の表面から茎を鉛直上向きにまっすぐ七十センチ程伸ばし、その茎にはバリウムの炎色反応を観察した時のような鮮やかな黄緑色の葉が十字対生でついている。
茎の先には真珠のように滑らかな白色の分厚い花弁が六枚、淡く神々しく輝いていた。
きれいという言葉はこの花のためにあるのではないかと思えるほどその花は美しく、かつ神秘的だった。
私は汚泥に足を取られつつ、その花の元へ行く。できるだけ近くで見たかった。
そしてできれば、その華麗な花弁に触れてみたかった。
「はあ、はあ、はあ」
私の中で、何かが蠢く。
抑えがたい衝動があって、それを抑えられず、箍が外れた瞬間の記憶が、私の中で甦る。
何だったか。ああ、そうだ。私がここに来る発端となった事件だ。私が妹に噛みついたアレだ。そうだった。
あの獣じみた本能、いや、衝動。あの時の衝動は、たぶんこんな感じだった。
「はあ、はあ、はあ」
そう。その衝動に駆られた末、私は運命の分岐点を一つ越えた。
「……」
目の前のこの花に触れることも、ひょっとしたら分岐点なのか?運命の女神はまた私に選択を迫って来るのか?
……。
………。
…………。
選択だとかそんなの……
「そんなことどうだっていいわ」
私は独り言をぶつぶついいながらついに花の前にたどり着いた。花はまるで自分で輝いているかのように明るく光っていた。
不思議に思いながら右手の手袋を外し、その花弁に人差し指で触れる。指先で花の表面をなぞる。
花は私の指の重みでわずかに、頭を揺らす。
「あら?」
私の触れた白い花弁の表面に、赤い斑のようなものが浮かんだ。でもよく見ると、それは斑ではなかった。
もしかしてと思って人差し指を花弁から離し、指の腹を見てみる。
切り傷が一本、指を長く走っていた。まるで包丁の刃を腹に当ててスッと引いたように血がポタポタ出ている。
それなのに少しも痛くなかった。花びらに触れただけなのにどうしてだろう。そんなことを思いながらもう一度花を見る。
「え?」
花は、どこにもなかった。驚いて周囲を見渡す。花どころか、茎も葉も、どこにも見当たらなかった。
「そんな馬鹿なこと……」
私は花に触れている間一歩も動いていない。だから踏みつぶしている可能性はゼロだ。なら自分は今まで幻覚を見ていたのか?
そう思いつつ、もう一度人差し指の腹を見る。血は指をつたい手のひらを赤く染めていた。
私はリュックの中から消毒液と絆創膏を取り出し、傷口を消毒し、絆創膏を張る。
「……」
手袋をはめて歩き出す。が、足が以前にも増して重い。泥というかヘドロの成分が各地点で多少異なるのか。
でも、今さっき歩いてきた場所と、目視した感じではあまり変わらない。
「ふう」
温めたウイスキーを一気に喉に流し込んだように、体がムワリと火照る。どうしたんだ。何か、おかしい。
寒いはずなのに、汗が噴き出してくる。
「はあ、はあ、はあ」
意識が朦朧としてくる。あり得ない映像が浮かぶ。周囲が鬱蒼とした森で、その中を……
「ホタル?」
発光体が森の中を飛び回る。けれどその飛び方はホタルよりもトンボに近く、早い。
それなのにその体から、白とも黄色とも言えない微妙な色彩の光を放って飛んでいる。
光るトンボなどこの世にいたか?いたとして、私はそんなものを知っていたか?知らないとすれば、私が見ているこの幻はなんだろう?
ドックン。
頭を振る。目を瞑る。呼吸を落ち着け、再び目を開く。森は消えた。
けれど幻覚のはずの発光体の一つは地面近くをヒュンヒュンと飛び、私にこっちへ来いと合図している。
合図?
そんなもの出していない。ただ馬鹿みたいにヘドロの上を高速で飛び回っているだけだ。なんだこれは?
どうしてこんなものが見える?こんなところで私は飛蚊症を突然患ったとでもいうのか?落ち着け。
そんなことあり得ない。気のせいだ。おかしい。おかしい。
ドクンッ。
けれど、
ドックン!
呼んでいるような気がした。ダメだ。頭が働かない。酒をあおり過ぎた状態で本を読んでいる時みたいだ。
話の詳細が理解できず、従って展開が予想できない。ただ目の前の事象に目を走らせるだけの状態になってしまっている。
完全なグロッキーだ。まずい。まずいはずなのに、
「ふふ」
なぜか心地いい。なぜだろう……ああ。アレね。
「うふ、ふふ……ふふ」
アレに、似ているもの。
「百合ちゃん……そう……光っていたから気づかなかったけど、これは妖精ね。ということは光の正体は、百合ちゃんだったんだ。
はあ、はあ、良かった。あの時は、ごめんなさい。お姉ちゃん、どうかしていたわ。ね、もう噛みついたりしない。
今度は、今度こそ……お姉ちゃんと一つになりましょう……身も心も」
グジュボッ
グジュボッ
グジュボッ
グジュボッ
グジュボッ
グジュボッ
長靴が泥を踏みしめる音が耳に響く。誰の長靴の音だろう。……私のか。とすると私は今歩いている。
どこへ向かって?そんなの知るものか。ただ目の前ではしゃぐ光を追う。どこへ行くかなんて問題じゃない。
あの光を、百合花を捕まえるのが目的。あの光は、私の胸を無性に焦がす。ならあの光は妖精。即ち百合花。そうに、違いない。
……欲しい。欲しすぎる!!
グジュボッ グジュボッ
グジュボッ グジュボッ
グジュボッ グジュボッ
「待って、百合ちゃん!」
もう少し。もう少し……。
グジュボッ グジュボッ
グジュボッ グジュボッ
グジュボッ グジュボッ
「百合ちゃん!」
もう少しで、手が届く。
グジュボッ グジュボッ
グジュボッ グジュボッ
グジュボッ グジュボッ
ガシッ。
「あっ!」
私は光を握りつぶすようにして捕まえる。瞬間、そんなことしたら百合花がつぶれちゃうと思い直して、慌てて力を緩める。
でも手のひらには、ドロドロとした無色の粘液があるだけだった。光など、どこにもなかった。
「いや、うそ!うそ……」
百合花が、潰れちゃった。鳥肌が立つ。歯がガタガタなる。恐ろしさのあまり私は左手で口を抑える。
あふれる涙を抑えるために目を閉じる。事態を受け入れられず、思わず頭を左右に振ってしまった。
―――ムシュフシュは、ここですよ。
「!」
闇の中に、もう一度さっき見た森の風景が浮かんだ。その中にはたくさんの発光体があった。
その一つが私に何事かを語りかけた。驚いて目を開く。
「……なにこれ」
意識が突如回復する。汚泥の中の私は、朽ちた木にしがみついていた。
その木は表面がドロドロとした無色透明の粘液で覆われていた。
「……」
手についた粘液の正体は、これ、か。
グスッ、グスッ。
「私は……まったく……馬鹿め」
私は何を馬鹿なことを言っているんだ。あんな光が妹のわけ、ない。
それに何を考えていた?妹が欲しいだと?くだらない。馬鹿げている。妹は病気に苦しんでいるというのに。
くだらない。妹を欲しがるなんて私は……そういうダメな私を止めるようとこの地に来たんだ。何を血迷ったことを想像している?
馬鹿な、醜い女め。
「?」
涙を拭いながら自分を罵っているとき、ふと朽ち木に洞があるのに気づく。洞の中はキラキラと光っていた。
私は洞の中をよくよく見てみる。どうやら液体がそこには溜まっていて
それが私のもたらした振動によって波紋を広げ、黒く波打っているらしかった。
スンスンッ。
マスク越しなのに不思議な匂いが鼻に届く。洞の中の液の匂いだろうか。嗅いだことがない匂いなのに、ひどく懐かしく感じられる匂いだった。
「“猿酒”かしら」
サルのような動物によって木の洞や岩の窪みに蓄えられた果実がそのまま忘れ去られ、そこで自然発酵して酒みたいなものになったのではないかと私は想像した。
だとすれば洞の中の液体に独特の匂いがあってもおかしくない。けれど、こんな場所にそもそもサルなんているだろうか?
どう見ても、いそうにない。サルどころか、生きた動物を見つけることすら難しそうだ。とすると、これは何だろう?
気になった私はリュックから容器を数本取り出し、木の洞に溜まっている液体を採取した。
液体は予想以上に粘性が高く、しかも黒く淀んでいた。
「よし」
とりあえず試料を一つ回収した。でもキノコじゃない。
今回収した液体の中にひょっとしたら妹の治療に役立つ菌がいるかもしれないけれど、いないかもしれない。
「どうするか……」
文献に出てきたムシュフシュは妹の治療に役立つ可能性が高い。そしてムシュフシュはおそらくキノコだ。
どのような形状のキノコかははっきりしないが、それでもキノコの形をしているはずだ。
だからキノコを最優先して探さないといけない。まだ見つからないけれど、それらがまだこの沼地のどこかに、あるかもしれない。
あきらめるわけには……
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
糸を命綱にしてまた私は歩き出す。けれど体を動かすたびに全身が軋み出す。
頭蓋骨に錐を突き立てたような鋭く激しい頭痛が頻発して起こり、寒気が徐々に体を侵す。こんな時に私は風邪でも引いたのだろうか?
「はあ、はあ、はあ、はあ……ありえない、ありえない……こんなところで」
倒れそうになる。眩暈がし、吐き気に襲われる。我慢できず立ち止まり吐くけれど、いっこうに気分も調子も回復しない。どうして?
何かまずいものでも食べた?いや、私は加熱処理したもの以外口に入れない。食中毒で煩わされる時間がもったいないから。
食べ物は無論、水だってそうだ。だから何かにあたったということはない。サラダだってビネガーを必ずかける。
じゃあ何だ?疲労?睡眠不足?運動不足?苦労?そんなのいつものことだ。蓄積して、今になって爆発した?
違う。沼気にあたった?こんなマスクじゃ防ぎきれなかった?だとしたらまずい。けれど今まで平気だった。
今になって……それとも時間が経つにつれて人体に悪影響のある気体がここでは発生するの?そんな話、聞いたことがない。
けれど聞いたことがないだけでこの地球上のどこかを探せばひょっとしたらそういうガスみたいなものはあるのかもしれない。
「はあ、はあ、はあ、二酸化炭素、かしら?」
朦朧とする意識の中、リュックからライター取り出し火をつける。二酸化炭素が多ければ火はすぐ消えるはずだ。
けれど火は普通につく。じゃあ違う。分からない。原因は何?分からない。
「はあ、はあ、はあ……くそ」
けれど、体は原因究明どころじゃないと、危険信号を送ってくる。徐々に身体機能は低下していく。
「はあ、はあ、よく考えてみたら……はあ、はあ、キノコが猿酒になって……さっきの……洞に溜まっていたということも……」
くやしい。けれどここは一旦、あきらめよう。
このままだと沼の中で気を失うことになる。それは危険だ。一旦戻ろう。今度はちゃんとした防毒マスクをかぶってくる。
睡眠と栄養を十分取って採取に挑もう。それなら何とかなったはずだ。
「それに……声だって聞こえた。ムシュフシュは……ここだって……はあ、はあ……誰の声かしら、あれは……でも、聞こえた」
私は自分が引っ張ってきた糸を頼りに自分の止めた車まで歩いた。
途中何度も気を失いそうになったが、その都度ライターの火で左手をあぶった。
肉は焼かれることで強烈な痛みを私に伝え、それが薄れつつある意識をかろうじてつなぎ止めてくれた。
「戻って、こられた……」
沼地から出たときには四本の手足で私は砂利道を這っていた。けれどそれでも、私は危機を脱した。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
私は車に乗り込む。キーを差し込み、エンジンを駆けようとしたが、手はしびれてまともに動かなかった。
「くそ」
しびれて動かない手を見た時、指先にあるはずの切り傷がなくなっていることに気づく。
しかも散々炙った左手は煤こそついていたものの火傷一つなかった。
どうなっているんだ、と思っているうちに、私の視界は徐々に黒く染まっていく。
「声……百合ちゃんと違う……でもムシュフシュって……嘘だったら殺……もう一度戻って殺……とりあえず調べて……」
キーを差し込んだものの、私は結局エンジンをかけられず、とうとう意識を失ってしまった。
「ねえ、いつになったら目を覚ますの?」
何か、熱いものが私の手に接触している。なんだろう?
「今日も退屈な一日だったわ。あなたが大学にいないせいよ。
夕食のときあなたの顔を見て、あなたと話しながら時間を過ごすことが私の、ささやかだけど唯一の楽しみなのに」
なるほど、そうか。触れているのは人肌だ。おそらく人間の手だろう。つまり誰かが私の手を握っている。で、誰だ?
「一緒に住みましょう、なんて言ったらあなたは私をどう思うかしら。きっと疑うわよね。変な気を起こしているんじゃないかって。
でも……そういう気持ちがあるのかもしれない。私は男の人が怖い。どうしても好きになれない。
だからなのかもしれないけれど、私はあなたのことを好きなのかもしれない」
声の質からしてイヴェット……あの“女神”か。独り言を発している。
「古書店で私の額にキスしてくれた時、私は寝ぼけていたけれど、でも後になってそのことを思い出すと胸が高鳴った。
それで、どうしてうれしいのかしらと考えていたら、何だか寝ても覚めてもあなたのことが頭から離れなくなって……まあ!!」
途中から私は、目を開いて女神の独り言を聞いていた。
白い壁、白い窓枠、白い掛け布団、花瓶に挿してある黄色の花、直視することのできないほど眩しい太陽、
そして、口を両手で押さえこっちを見つめる女神。少しやせたようだ。涙を浮かべた目元にはクマができている。
「病院かしら?ここは」
「ああっ!目が覚めたのね」
イヴェットは私の疑問に答えず私を抱きしめる。
抱擁され耳元で泣き言を聞かされながら、私はこの場所を病院と仮定して、一体何が起きてどうして自分がここにいるのか考えていた。
一番最近の記憶を探る。
「よかった!本当に良かったわ!もう一生話せないのかと思ったわ!」
一番最近の記憶……木の洞?木の洞で私は……サンプルを手に入れて……それで、どうした?あれ、車まで、戻った?
「あなたが一日経っても自宅に戻っていないと知って私、とても心配したの。
それで車に取り付けてあったGPSであなたの所在を確かめたの。
ボーイフレンドとか何とか言ってあんな、この世の果てのような不気味な場所に一人で行って!
車の中で意識を失っているあなたを見つけた時、私がどれだけ驚いたか分かる!?ほんとに……うっ、うっ」
嗚咽が止まらない。そのせいで、化学では分析できないシミが勝手に着せられたシルクのパジャマの肩と襟にできる。
それをうっとうしく感じながら、私は状況の整理を一通り終えた。イヴェットの話も含めて要するにあの後、私は車の中で意識を失っていた。
それはなんとなく想像がつく。あれほど疲弊していたんだから多分仕方がない。
けれどその意識不明の状態は次の日以降も続いて、結局女神は車についている発信機を使って私の居場所を特定した。
金持ちの車は盗めないようにできているらしい。
そしてイヴェットは私のいた沼地にやってきて、意識不明の私を拾い、車か何かで私を病院に届けた。そんなところだろう。
「ねえ」
「うっ、うっ……なあに?」
「私はどれくらいここで眠っていたの?」
「六日よ。私は六日間ずっとここにいたけれど、あなたはその間一度も目を覚まさなかった。だからとても不安だった。
このまま一生目を覚まさないんじゃないかって思っちゃって」
少なくとも一週間は意識を失っていたということか。寝過ぎだ。
「……」
「どうしたの?」
「いえ、ただ少し、くたびれたわ」
「うふ、眠っていただけなのに?」
泣きはらしたイヴェットの目は兎のように赤くなっている。
けれどそのせいで彼女の瞳は雨の後の大気のように穏やかに澄んでいた。その瞳が、私に妹を思い出させた。
「そうね、眠っていただけなのにとても疲れた。ところで、私の荷物はどこにあるか分かる?」
「あなたの荷物なら、あなたのアパートに届けておいたわ。ふだん着ている服はそこにある。何もいじってないわ」
「ありがとう。色々と迷惑をかけたみたいね」
「そんなことないわ、気にしないで。あなたのためならこれくらい平気よ」
顔を赤らめながらイヴェットはそう言ってトイレに立った。私は顔の筋肉に命令して簡単な微笑みを作り、それを見送った。
バタンッ。
「……くだらない」
女神の恋心なんて私にはどうでもいい。たとえその恋の対象が私であったとしても、知ったことじゃない。
他人の心の物語に付き合う暇を私は自分の人生にもはや設けていない。この身は全て、百合花のために捧げる。
だからそれ以外の事象などどうでもいいし、関わりたくない。それはいい。そんなこと今さら確認するまでもない。それより、
「変な夢……」
今まで不思議な夢を見ていたことを突如、私は思い出した。
自分が見知った世界とは大きくかけ離れた、おとぎ話のように単純で残酷で幻想的な夢だった。
森、妖精、踊り、湖、楽師、王女、兵隊、狼、そして最後は火災。森にすむ妖精たちは兵隊の放った火のせいで焼尽した。
森を焼き払ったことが遠因となって人々は争い、血を流し、ついでに一帯は人が住めない場所になった。
湖は湖沼となり、さらに浅くなって沼になった。
ん?沼?
「沼……まさか」
ムシュフシュを捜しにいったあの沼地とまさか、一致する?私が見たのはあの場所の過去?
「そう断言できる根拠もないというのに、阿呆らしい」
くだらない。第一そんなこと、どうでもいい。女神の恋と同レベルだ。恋もおとぎ話も戦争も虐殺も私にとって問題にならない。
問題になるのは唯一百合花の生死であり、百合花の健康だ。
「サンプルを、早く分析しないと」
時間が経っている。生物の取り扱いはタイミングが命だ。時間が経っても性質が変わらない保証はない。
すでに一週間近く放置している。まずい。かなりまずい。
「あら、どうしたの。着替えたりして」
トイレから戻ってきた女神の化粧は直っていた。そして私は着替えを済ませた。
「すぐここを出るわ。パジャマありがとう。洗って返すわ」
「パジャマなんてどうでもいいわ。それより目を覚ましていきなり退院何て無理よ!」
「無理かどうかは私が決める」
「そんな勝手な」
「ええ。その勝手に付き合ってもらってありがとう。心から感謝するわ」
「え、そんな、そんなこと言われると、私……」
「そうやってはにかむ笑顔が素敵よ。本当に私にとってあなたは女神みたいな存在だわ」
「め、女神?」
「ええ。ありがとう、私の女神様」
「……うふ。私はマナカの女神なのね?……うふふ。とてもうれしいわ」
イヴェットを適当に言いくるめて私はその日のうちに退院手続きを済ませた。
ままならぬ社会事情のおかげで病院は入院待ちの患者であふれていたから病院側は別に私を引きとめもせず即退院させてくれた。
後は機嫌のいい女神の車で私は自宅まで送ってもらった。
女神と別れた後、私は家の中でとうとう、荷物入りのリュックサックと再会する。
その中から古書店で手に入れた書物とサンプルを取り出し、すぐに大学研究室に向かう。
イヴェットの車で送ってもらってもよかったが、ラジオのように延々としゃべり続ける彼女はどうしても耳障りだったから、
大学までは一人で歩いていくことにした。
「沼は逃げない。だからとりあえず、回収した液体を調べよう。
中に菌が含まれているかどうか。それがムシュフシュかどうか。もし違えば、また沼に出向く……それしかない」
独り言を言いつつ歩く。
「何度でも……」
歩きながら、標的成分の抽出方法はどうするか、どの分析手法を用いるか、菌の培地はどの論文を参考にしたらいいか考え、
思いついたことは古書店で手に入れた書物に挟み込んだレポート用紙にボールペンで片っ端からメモをとった。
その日から私は大学の研究室に泊まり込むようになった。
理由は一秒でも早く結果を出したいということもあったが、
何よりサンプルとして回収した液体の中に見知らぬ興味深い菌を見いだしたからだった。
回収したサンプルは液状で、傘をかぶったキノコの形は無論していないが、
液中に含まれる菌はおそらくムシュフシュだろうと私は推測した。
ハサミムシ、クモ、ミミズ、ダニ、ダンゴムシといった小動物に、持ち返った液体をつけてみたところ、
いずれの動物も体が二倍近くに巨大化し、しかも体を五分割にしても二日間も生きていた。
九十度の熱水につけてもマイナス二十度の低温に置いておいても平均して三日間は普通に活動をしていた。
さらにX線照射によって癌を患わせたマウスの体に、サンプル液を
マイクロピペットで極微量注入すると、一日足らずで癌が消滅した。
しかも一緒に檻で飼っていた他のマウス全てを食い殺してしまった。
けれどそのマウスはその後二日でドロドロの黒い液体と化してしまった。
そしてこれら突然変異個体の遺体に残されるのは、見たことも聞いたこともないが、常に同じ菌だった。
故に私はこの回収したサンプル液に含まれる菌こそムシュフシュだと思った。
「すごい……この代謝の超活性化を調整できれば」
ムシュフシュと思しき菌を見いだして以来、私はそれを研究することに夢中になってしまって、家に帰ることなどどうでもよくなってしまった。
「くくく」
木の洞から採取した薄黒い液体の中には私が探し求めた奇跡があった。
「ムシュフシュ……素晴らしいわ」
そのムシュフシュが動物に感染すると、動物は洞に溜まっていたのと同じような液体を生みだす。
その液体には奇跡のような効力が宿り、しかも液は新たなムシュフシュの揺りかごになっていることが日に日に明らかになってきた。
体を切り落とし首だけにしたマウスに、ムシュフシュの産み出す液を浸み込ませたスポンジ質のビーズを移植するだけで、
数分後にはマウスの体が再生する。しかも生前にも増して生命力にあふれ、食事の量も増加した。
ただ、難点があることも分かった。
要するにムシュフシュが作り出す液体は代謝を超活性化状態にするらしいが、その結果細胞の老化・崩壊を恐ろしく早める。
つまり切り刻んだマウスは首以外を再生し、運動能力・身体能力は飛躍的に向上したが、
三日ほどで、湖沼で見たような黒いヘドロ質の形状になって死んでしまう。けれどこの結果を受けて私は悲観的になどならない。
毒と薬は紙一重だ。その違いは用い方に過ぎない。
こんなことは医学を勉強していれば誰だって知っていることだ。無論私も知っている。
だからムシュフシュの作り出す液体の成分が一体何なのか調べ続けた。
これが予想通りというべきか、難航した。けれど死ぬほど楽しかった。
時間が経つのを忘れるのは当たり前で、いつまでも没頭できた。酒も飲まなくて済むようになった。
この研究で妹の未来を変えるかもしれないという希望が私の心にとって至高の美酒だった。
スクリーニングを始めて三か月経った。
ほとんど眠らず食わずの状態だったけれど、私は体調を崩すこともなかった。
そして三か月の研究の結果、菌ムシュフシュの作り出す液体成分の分析がとうとう終了した。
無論その間、液体成分の解析とは別に動物実験を繰り返し、ムシュフシュそのものを動物に投与する実験も大量に行った。
ムシュフシュが産生する液体とムシュフシュを分離せず、そのまま動物に投与すると、動物は異常な代謝活性を見せ、
狂暴化・貪食化し、その死後ヘドロ状になるが、そのヘドロを別の動物に付着させたり、または体内に投与すると、
その動物も代謝が超活性化状態になり、狂暴化・貪食化し、死後はヘドロと化した。
この〈狂暴化・貪食化〉というのがグロテスクだった。
眼球が溶け、体中からヘドロに近い黒い液体を染み出し、それを撒き散らしながら手当たり次第ものを壊し、肉と知れば食らう。
一方で液体とムシュフシュを分けて液体のみを投与した動物はただ単に代謝が活性化し、その死後何も残らなかった。
また一方でムシュフシュのみを動物に投与した場合、狂暴化・貪食化しヘドロとなり、そのヘドロからまた同じような感染が見られた。
要するにヘドロの中にはムシュフシュがいる。そしてそのムシュフシュは代謝を高める不思議な液体を作り出す。
その液体自体はあくまで代謝を高める力しかない。
そして高濃度の液は細胞の代謝を極限まで活性化し、すぐに燃焼し切ってしまう。
一方でムシュフシュは寄生虫のように宿主を狂わせ、そしてその体内で自分の分身を作る。
代謝を高める液体を作るのはおそらく宿主を守るためだろう。私は解析結果と動物実験を繰り返す中でこのような考察を得た。
「どう……扱うかが問題ということね……」
ムシュフシュそのものを妹に投与することはありえない。こうなると用があるのはムシュフシュが生み出す液体だ。
ただしそのまま妹に投与すれば妹がどうなるかわかったものじゃない。投与には濃度の調整が必須条件だ。
けれどそれだけじゃない。
妹の病気のすべてを治せるのかどうか、まだよく分からない。そもそも妹の病気が何なのかも未だよく分かっていない。
「落ち着け……いっぺんに何もかも解決しようとするな……落ち着け……」
次はひたすら、ムシュフシュの生み出す液体の中から私が必要とする成分の抽出と、
抽出溶液を動物に投与する際の濃度と代謝活性の関係を詳細に調べる実験に着手した。
「それが終わったら……妹の血液……違うな、髄液サンプルを何とかして手に入れられないかしら……それを使って調べられれば……」
全ては妹のため。
百合花のことを常に念頭に置きながら私は、多くの小動物に濃度を変え、あるいは投与成分を変えた液体を投与し続けた。
彼らは自分たちの運命を決める私を呪うかのように、あるいは私に命乞いをするかのように鳴きながら、
その小さな命を爆発させ、最後は私のデータの一部となった。