第二途 アイシテイル
第二途
~ アイシテイル ~
一、 慙悔
「私ね、今朝猫の手を食べてきたの」
同じ教室内で会話する同級生の話にドキリとし、彼女を見る。
「はあ~?」と言い返し馬鹿にする彼女の友人と、「嘘に決まってんじゃん」といって本題を切りだす彼女。
「なんだ」とその二人を見るのをやめる他のクラスメートたち。
そのどれにも属さなかったのは、クラスの中でただ一人だけだった。
中西由美――。
二か月前、隣のクラスの無二の親友を交通事故で失った高校二年生。
一年以上の片想いの末、一昨日告白して、その僕をフッた女子。
「……」
中西一人が、「猫の手」の方へ注意を向けず、ボロボロになるまで使い込まれた日記帳のようなノートに目を落とし、ページをめくっている。
疲れてくぼんだような目元がユリの花のような白桃色に染まっている。
閉ざした口の端はわずかだけど、湖面に生じた波紋のように形状をそっと変えている。
その泣きだしそうな、あるいは笑いだしそうな不思議な表情を僕は部屋の隅の机に座ってそっと見、すぐに視線を外した。
僕――。
金井智宏。
どこにでも転がっている高校二年生。
特技は、ない。
ゲームセンターに独りで行って、百円だけで乱入アリの格闘系アーケードで何時間粘れるかにこだわるぐらいしか趣味がないヒョロ助。
どこにでも転がっていないのはこの学校。
一応は私立の中高大一貫校。
ある程度の学力か結構な金がないと入ってこられないらしい。
当然僕は後者。
学力なんてからっきし自信がない。
中間、期末、学力到達度テスト、外部模試……どれを何度やっても踏みつけられたエノコログサみたいなみじめな点数しかとれない。
ちなみに運動は……どうでもいいや。
そんな学校に通うそんな僕が、高校二年の夏、中西に恋をした。そして冬、告白をした。
「放っておいてくれない?」
告白をした時、僕は中西の友人が二カ月ほど前に交通事故で死んだ臼井百合香だとは知らなかった。
知っていたら、このタイミングで告白なんてしていない。自粛する。僕だってその辺の空気くらい読める。だけど知らなかった。
だから彼女の心の中の葛藤を予期することはできなかった。
「誰かと付き合っているの?」
「仮にいるとして、その質問に答える義理はないでしょ」
「あっ、うん。ごめん……ねえ、僕ってその、ウザい?」
「知らない。第一そんなことはどうでもいいから」
ツヤのある長い黒髪の下、紙のように白い顔の上の、萱で裂いたような切れ長の目が僕を射抜く。
その視線に耐えきれず、僕は目をそらす。心は水をもらえなくなった観葉植物のように萎れていたと思う。
「ねえ、あなたの命を私にくれない?」
ショッキングな言葉だった。当然驚いた。
「へ?」
「臼井百合花って知らない?隣のクラスの子。髪は短くてまつ毛の長い、甘そうな唇をしてサフラン色の瞳をした百合花は私の友達なの。
だけどこの間乗用車に衝突したトラックが飛ばしてきた板ガラスの破片で両手と眼をなくして、ついでに内臓にガラスをめり込ませて苦しみながら病院で失血死したの。
もう一度言うわ。しなやかな両手と、サフラン色のきれいな眼よ。それでもし彼女を生き返らせるために誰かの命を私が必要としていたとしてあなたは私に自分の命を差し出すことができる?」
赤ワイン醸造のためのブドウみたいな色の瞳は妖しげな光を帯びたまま、そこまで取りつかれたように一気にしゃべった。
僕は最初何を言っているか分からなかった。けれど一分くらいして、彼女の瞳の色が光を失い、
「冗談だから気にしなくていいよ。……ウザいかどうか聞いたよね?『ウザい』の意味が『とりあえず要らない』っていう意味ならば、私にとってあなたはウザい。それじゃ、さようなら」
と言って僕の前から去っていた時、僕は彼女の苦しみを少し知った。同時に自分の無知を恥じた。
それからというもの、彼女をまともに見られなくなった。まともに見れば、自分を追い詰めたくなる。間抜けな自分が死ぬほど恥ずかしい。
学校が、終わる。
放課後、僕はいつも通りまっすぐ家には帰らず、ゲームセンターに行って時間をつぶす。時間をつぶす、というのは正確じゃない。
どちらかというと、画面の中に集中することで自分のことを考えないようにする。
もし叶うのならダンゴムシにでもなってヘクソカズラの生えている土の上でも歩いていたかった。そうして一日中ヘクソカズラに頭をぶつけてその悪臭を浴びていたかった。
それくらいしないと耐えられない気持ちだった。でも、ダンゴ虫にもなれそうにないし、仮になれたとしてもヘクソカズラはこの辺には生えていなかった。
もちろんゲームセンターにも。あるのはゲームセンターの前に立ち並ぶ、ポプラの裸木ぐらいだ。僕とは違って気高い。そして何より美しかった。
「はあ、ゴミだな。僕って」
いつものように日が暮れた頃、とぼとぼと独り店を出て定期で電車に乗り家へ帰ろうとした。
「!」
駅のホームで、中西にあった。
竹のように無理なくすっと背筋を伸ばし、無表情のまま早くも遅くもない速度でさっさっと歩いてくる。
そして僕の横を、まるで赤の他人であるかのように通り過ぎて行った。
「……」
中西を見た瞬間、凍りつき緊張と興奮で一時まわりが見えなくなったが、彼女が甘い香りを残して過ぎ去ってしばらくして、自分が完全に無視されていると思い知り、再びへこんだ。
出会った瞬間思わず地面に張ってしまったひょろひょろの根っこがあっという間に根腐れを起こしたような気分だった。根腐れを起こさせた化学物質はきっと流れずに終わった悔し涙だと思う。
「はあ」
せっかく二次元空間で相手をぶちのめして憂さを晴らしてきたのに、これじゃ何の意味もない。いや、意味なんて考えてもしょうがない。
そもそも僕に意味なんてもうないのかもしれない……。そんなことを考えている自分はいつの間にかベンチに腰をおろし、エノコログサの花穂ように背を曲げてうなだれていた。
「……?」
ハッと気づき、辺りを見回す。
時計を見る。夜十時を回っていた。ゲームセンターを出たのが六時五十分だから、三時間近くベンチで眠ってしまったらしかった。
「うん……ぐ」
立ち上がり、伸びをする。思い切り鼻から息をはき、吐いた分の空気を思い切り鼻で吸い込んだ。冷たい空気はうまくもまずくもなく、ただ冷たいだけだった。
「!」
その時、何かの匂いを、鼻が捉えた。
何の匂いか考えているうちに、中西の顔が浮かんだ。
そうだった。さっき自分の目の前を通り過ぎて行った中西がつけていた香水らしき匂いと同じ匂いだと思いだした。
何の匂いだろう?どんな植物とも違う、嗅いだことのない、不思議な匂いだった。
ホームのアナウンスが流れる。電車がホームへ入ってくる。風が巻き起こり、匂いが一気に拡散していく。
プシューッ!
ホームに入った電車の扉が開く。気のせいだと思っていた匂いは、電車の中の方から強く漂っていた。あまりに気になったから、扉が閉まる前に僕は飛び乗ってしまった。
扉が閉まる。電車が発車する。
僕は匂いの充満する車内を見渡す。嫌悪感を抱かせるような匂いじゃないけど、このむせるような濃さは異常だ。誰もこの匂いに気づいていないんだろうか。
それとも鼻が慣れてしまってすでに関心を失っているんだろうか。誰も手で鼻を押さえたり、ハンカチで覆ったりする人はいなかった。そして電車はいくつもの駅に止まる。
けれど匂いはあまり外へ出ていかない。
「あ」
そう思っていた。けれどある駅で突如、匂いが外へ一気に流れ出していく感じがした。びっくりするほど勢いよく車内から抜けていく。
あまりに不思議で、体は匂いの後を追うように電車から降りる。「あ、降りたんだ」と後で頭がついてくる。
ほとんどが無意識に……ちがう。無意識じゃない。意識はちゃんとある。
たぶん、中西のことが気になって……いや、それもちょっと違う。たぶん中西が気になる自分がこれからどうしていったらいいかわからないから、匂い任せで電車から降りてるんだ。
中西を避けて生きたいのか、それとも中西に近づきたいのか。近づきたいとして、近づくためにはどうしたらいいのか。色々と、分からなくて、考えたくないんだ。
考えたくないから、彼女の亡霊のような匂いを、なんとなく追いかけようとしているんだろう。
「ふう……」
こんな具合に自分を突き放して他人事のように考えなきゃ、今はダメみたいだ。ショックを受けたばかりだからかな。
電車のような密閉空間とは違って、匂いはいくらか薄らいだ。その匂いをたどって、僕は歩けるだけ歩いた。
「ん?」
交差点の信号が変わるのを待っていた時だった。目の前を左右に走りゆく車たちを挟むようにして電柱や標識や電灯が立つ。それらは当然車道ではなく歩道側にある。
「あれ」
僕の左に続く歩道を照らす電灯は、丸く白い光の円をアスファルトに作り出している。今自分から三メートルも離れていないその円の中に、何かが見えた。
ニャ~……。
右の耳元で猫の鳴き声がして、右を向く。けれどあるのは前後を過ぎゆく車とバイク。自分の背後にも当然猫はいない。反対車線から聞こえた?猫の鳴き声が?そんな、聞こえる筈ない。だいたい猫なんていない。
もう一度“何か”が見えた左を見る。
「ニャ~」
電灯が照らす近くの電柱の足元に、目が行く。
スクランブル交差点まで来たとき、電灯の光とともに、視界の右端に何かが映り込む。何だろうと思って右を見たけど何もいない。
「?」
僕からさらに離れた電灯の白い円の中を、
「え、影だけ?」
小さな影が動いていた。
そう、それは影だけだった。
「ニャ~」
「!?」
たしかに、影だけがある方角から、猫の鳴き声が聞こえる。けれどその周囲に、猫らしい姿はない。そうこう思っているうちに、猫が白い円から去っていく。
「……」
猫の鳴き声を発した、影。
一瞬の出来事。そして見間違えじゃないかと思うほど不思議な光景に頭の中が真っ白になる。けれど次の瞬間にはまた鼻腔に、さっきの誘うような匂いが届く。我に返る。
「あれ」
違う匂いが、混ざる。それは排気ガスのニオイでも飲食店のニオイでもゲームセンターのニオイでもパチンコ店のニオイでもなかった。そして電車から飛び出すきっかけになった匂いとも違った。
悪くはない。だけど……良くもない匂い。
良い香りのはずなのに、人を不安にさせるような……嫌な臭い。
「なんで、不安になんてなるんだよ……」
電車からの匂いは居酒屋や雑居ビルが立ち並ぶ通りへと続いている気がした。
“不安な”匂いの続く気がする方を見る。そう言えばこっちはさっき、猫の声と影が消えて行った方角だ。
「……」
影の猫を、追いかけよう。
なぜか?なぜだろう。
怖いもの見たさ、とかそういうわけじゃない。
匂いのせいもあるのかもしれない。あの猫の鳴き声も、思えば不安になる。何かを気にかけるような、あるいは誰かに何かを警告するような、
そんな不吉な鳴き声だった。
スンスンッ。
電車の中のとは違う匂いのせいで、僕の頭の中のホームを歩く中西が薄らいでいく。猫は、中西とは関係ないんだろうか。
「あるわけない……はあ」
やめよう。疲れた。一旦やめだ。今は何も考えないで歩こう。そのうちにはっきりするさ、きっと。
はっきりしないなら、はっきりさせなきゃ、そのうちに色々と。
歩き続けるうちに、風景はだんだん寂しくなる。名も知らぬ川にかかる古びた鉄橋を渡るとあちこちにあったはずのネオンサインは徐々に少なくなり、かわりに錆びついたシャッターを下ろす商店が多くなった。
雑木林みたいになった診療所やスプレーで塀を落書きだらけにされた民家が現れてくる。
変わらないのは電灯の数と匂いの強さと吐く息の白さくらいで、僕は匂いだけを頼りに右に曲がったり左に曲がったり坂を下ったり橋を渡ったりした。
カーッ カーッ カーッ
月明かりがなんとなく強くなる。照明の壊れた電灯が増え、辺りが殺風景になったせいでそう感じるんだろう。
遠くで一羽のカラスが鳴く声が闇に鋭く響く。歩き進むにつれて再び月は暗くなる。
そのかわりに大きくて特徴のない建造物がいくつも現れて周囲を隠していく。
それは集合団地だった。
団地の入り口は鉄の柵で閉ざされ、一つ一つの家のベランダの窓にはベニヤ板で目張りされているのが薄明かりで分かった。
「寒いな……」
靴底から伝わる足の感覚がなくなった。それくらい歩いた。もう、なんだか家に帰れない気がする。
でも、帰れたところで、どうせ何も変わらない。単調な日常、つまらない自分。
それが嫌だから、今こうして暗い前途を黙々と歩いている気がする。
「あれ?そうだったっけ」
そんな理由でそもそも歩き出したんだっけ?あっているようで、なんか違うな。もっと直接的な理由だ。
なんでだっけ?なんで歩き出したんだっけ?
あっそうだ。匂いか。この匂いと、変な猫のせいだ。影猫だ。
匂い――。
嗅覚なんて大抵いい加減なもので、最初感じた匂いはすぐ慣れてしまってたちまち匂わなくなる。けれどこの匂いは、そうならない。
いつまでたっても、最初に感じたときと変わらない。心を常にかき乱し続けるような特殊な匂い。
匂い。そして影猫。
そうだ。だいたいあれが声だけで姿が見えないから……そもそもこの匂いと関係あったのか?
たまたま匂いが分かれているところを影猫が走って行っただけじゃないのか?っていうか、影猫って何だっけ?
ああ、えっと……中西……だっけ?もう訳が分からない。そうだ。
そんなこと言って考えるのやめようって思って歩き出して……これじゃ堂々巡りだ。
ビュオッ!
ぼ~っとした頭で歩いていた矢先、刺すような冷たい風が僕を殴り去っていった。
思わず目をつぶる。一陣の風は予想以上に強く、よろけてしまった。
「ふう」
風が過ぎ去ったあと、ふと、駅からの例の匂いが前にも増して濃くなっていることに気付いた。
気づいて目を開ける。徐々に目の前に迫りつつあったのに意識に止まっていなかった建造物にようやく僕は気づく。
「病院か?」
閉鎖された集合団地を過ぎてたどり着いた小高い丘の上には、大きな病院らしき建物があった。
集合団地同様、敷地入り口は鉄の柵で封鎖されている。
そして門には「燕塚病院」と書かれたボロボロの表札とインターホンがかろうじてくっついていた。
敷地内の建物の窓ガラスはベニヤ版で覆われているのもあったけれど、ほとんどはそうじゃなくて、むき出しになっている。
しかもむき出しになった窓ガラスの大部分は叩き割られたかのような無残な姿になっている。
立てられた当時はおそらく白だっただろう外壁は月光の下でもかなり薄汚れて見える。
背丈の低い雑草や放棄された庭木が柵と建物の間に生い茂り、足元を黒く埋めていた。
スンッ グスンッ。
病院に近づきながら、匂いを確認する。
非日常的な光景が四方八方に広がっている。
けれどその中にあるこの匂いだけは、日常的だった駅からここまで確かに続いていて、今も自分の鼻に確かに届いている。
そして匂いは建物の中へと続いている感じがした。
ふとまた脳裏に中西の姿がが浮かんだ。そして直感的に、
「中西が、まさかここにいるのか?」
そう思った。考えずにいようと自分に言い聞かせながら、常に頭の片隅に中西はいた。
だから目の前の病院は不気味でしょうがなかったけれど、中に入って確かめたいという衝動がどうしても抑えきれなかった。
中西がいるかいないかを、確かめたい。
「誰も、見てないですよね」
周りを見渡す。風もなく、虫の声も当然なく、鴉の声もない。車の音も人の声もずっとない。
全ては墓の下みたいに静まり返っている。
「?」
音はないけれど動きがあることに気付く。僕は病院の上の方を見る。
風は確かにないのに四階の割れた窓ガラスの一つから水色の敗れたカーテンがはみ出してひらひらと音もなく揺れている。
そして少し、視線を落とす。一階の割れた窓ガラスの奥では非常灯ランプが意思でも持っているかのように緑の明滅をしている。
最初それは絶対に点いていなかった。
「……」
用がなかったらこんな所、死んだって入らない。けれど今はこの場所に漂うこの、匂いに用がある。だから入る。
「行くか」
鞄を柵の中に投げ入れる。続いて柵に飛びつき、さっさとよじ登る。
心霊映像なら掃いて捨てるほど撮れそうなその気味の悪い廃墟の病院へ、僕は入った。
院内。入り口。
散乱するタイルやガラスといった瓦礫をそっと踏み分け、埃を巻き上げ、眠りに就いて久しい院内を僕は侵し進む。
一寸先は割れ窓から差し込む月光がなければ何も見えないほど暗かった。
けれど差し込む月光があればその光が届く箇所は群青の世界となってそこにあった。まるで海の中を歩いているようだった。
待合室のソファーは列をグチャグチャに乱し、その中身のスポンジとスプリングをところどころ露出させ、
時に脚を壊されて沈黙していた。本棚もいくつかは倒れ、本や雑誌は雨水を吸ってふにゃふにゃになったまま地面に散乱している。
その上を、僕は歩いて進む。
グジュッ。
グジュッ。
グジュッ。
グジュッ。
待合室を過ぎた通路の両脇には待合室と同じ型の細長いソファーが設けられていた。
壊れているものはあまりなかったけれど、そのほとんどは埃や割れたガラス破片をかぶって表面を汚していた。
「?」
一脚だけ、綺麗にそれら塵芥一切を払ってあるソファーがあった。そしてその上には一冊のノートが置いてあった。
僕は近づいていってそれを手に取る。
「これって……」
最近の中西が学校でいつも見ているノートとそっくりだった。だから興味が湧いて開いてみる。
一ページごとに文字がびっしりと書き込まれている。けれどよく見ると字体は偶数ページと奇数ページで少し異なっていた。
書かれている内容もよく見ると前のページの内容を受けてどう自分が感じたかというコメント、
そして今日何があって、明日何があったらいいかという記述がほとんどだった。
何より決め手は百合花という文字と、由美という文字がいくつもあったことだった。
それでこれが中西由美と彼女の親友の臼井百合花の交換日記で……
「誰が読んでいいって言ったの?」
「!!」
ノートに夢中になっていた僕は突然の声にぞっとして顔を上げる。そこには首をやや斜めに傾けた学生服の女が立っていた。
長い黒髪で目元は隠れていたけど、その容姿には見覚えがあった。だから思わず口から名前が出た。
「中……」
ガシッ!!
出たつもりだったけど最後まで言わせてもらえなかった。
首をいきなり両手で締め上げられる。体が宙に浮く。
「ぐうっ!?」
なんでこんなことをするんだ?っていうか中西って、こんなに力があるのか?
「!」
そんなことよりも、髪からのぞいた中西の顔を見て僕は凍り付いた。
目が、なかった。
眼窩から墨汁のような黒い粘度の低い液体がトロトロと流れている。
僕の首を締め上げながらほほ笑む口の端から同じように黒い液体がトロトロとこぼれて落ちる。
死者のように白い肌とのコントラストがその液体の黒さをさらに際立たせて、
僕は戦慄して中西の手を振りおどいて気道を回復するのを忘れてしまった。
「あ……か……あ」
そうこうしているうちに酸欠で意識が遠のく。恐怖すら焦点がぼやけてきた時、僕は思わず手にしていたノートを落としてしまった。
「!」
すると僕の首を絞めていた中西が両手を僕の首から話す。
僕は首の縛りを解放された途端地に足がつき、その途端膝を崩して倒れそうになる。
けれどそのままその場に倒れ込むことは中西が許さなかった。
ブオッ!
ドンッ!!
「っ!?」
僕が落としたノートをしゃがみこんで拾った中西はそのまま僕に蹴りを放った。
腹部に革靴の足裏がめり込む。その蹴撃で体は一気に後方の待合室の方へ吹き飛ばされる。
「かは、あ……か……あ」
たぶん五メートルは吹き飛んだ。
気を失うにはあまりにも痛みが激しすぎた。
蹴りをまともに食らった腹部だけじゃなくて、吹き飛ばされて落下した時に負った背中のダメージも尋常じゃなかった。
散乱したガラス片で首の後ろや頭、手のひらに切り傷も負った。
「百合花に触れるなんて……」
ノートを拾い上げた中西はうなだれるように首を垂れ、背をやや丸め足を引きずるようにして僕の方へ歩いてくる。
「はあ、はあ、はあ」
ようやく呼吸機能が回復して、今さらながらその様子に恐怖が再燃する。
「死んだって許さない」
ぼそりと声が響く。話して分かるとかそういう雰囲気じゃない。だいたい何を話せばいいんだ?
「はあ、はあ、はあ」
殺される。僕はこの場で中西に間違いなく殺される!
「はあ、はあ、はあ」
タッ。
小さな足音と共に後ろから匂いが流れる。匂いはここへ僕を導いた匂いとは全然違う、高貴な香水のような品のある匂いだった。
はっとして振り返ると、男が立っていた。
「……」
銀髪の彼はその足元にいる僕を見ていない。
磨き抜いた宝石のような不思議な光彩を放つ瞳で、僕を殴り飛ばした中西だけを見ている。
フォッ!
それが、消えた。
ドギャッ!
中西のいた方から衝突音がして、僕はそっちを見る。
中西が今度は吹き飛んでいる。
かわりに片足を宙に浮かせた銀髪の男がいる。いつの間に……移動したんだ?
「少年」
僕?
「はい」
「そのままじっとしていろ。決してそこを動かないこと」
「……はい」
逃げたくて動きたくても動けない。ほかになんて言えばいい?
だから絞り出すように「はい」とだけ返事をして、事態を見守るしかなかった。
「うふふふふ……」
倒れた中西は飛び跳ねるようにしてすぐに立ち上がり、昏い“瞳”で銀髪男を捉える。
「あは……ははははっ!」
瞬間、荒々しい笑い声と共にものすごい速さで銀髪男との間合いを詰める。
加速したまま、ノートを手にしていない方の手で殴りかかる。
ブオンッ!!
風を切りうなりを上げる拳を銀髪男は軽くかわす。
かわしざまに中西の首に手でつかみ、彼女をパッと持ち上げ、一気に地面にたたきつける。
中西の後頭部のぶつかった床がクレーターのように砕け、黒い液体が床に飛び散り、スカートが刹那の間たなびく……って、
「何してんだ!?」
思わず僕は叫んでしまった。だってあの、中西が目の前で地面に頭から叩きつけられている。
あんなことをされて中西が平気で済むはずがない。もしかしたら即死……
ギュルンッ! ブオンッ!!
たなびいたスカートが鎮まるのと時を同じくして中西は銀髪男の腕を手ではじき、
腰をひねり、体をありえない向きに回転させて素早く起き上がる。
すぐさま拳を固め直し、銀髪男めがけて放つ。銀髪男が中西の拳の軌道を見切ったように体を移動させる。
けれど中西は腕を伸ばしきる前にビタッと止める。銀髪男が拳をかわそうと動いた場所めがけて中西の革靴のつま先が刃物のように飛ぶ。
ドゴンッ!
フェイクの末に放たれた蹴りを止めたのは廊下の壁だった。中西のつま先を受けた壁のコンクリートが砕ける。
「……」
は?どうして?コンクリートって、そんなに脆いのか?
っていうか、どうなっているんだ?中西の頭は?さっきの衝撃で、何ともないのか?
ガンッ! ドゴドゴドンッ!! ブオンッ! シュシュンッ! パァンッ!!
コンクリートがまたも砕けて埃が月光に舞う中で、銀髪男と中西は少しの間殴り合い、蹴り合った。
が、その攻防は突如終わりを告げた。
「!」
マジシャンが突然鳩やコインやトランプを手元に出して見せるように、
銀髪男の左手にフォールディングナイフみたいな刃物がパッと現れる。
それが中西の手にしていたノートを刺し貫いた。
シュキンッ!
中西が一瞬、時間が止まったかのように静止する。ノートの、せい?
すぐに動いた。けれど、そのアクションは「ナイフの刺さったノートに顔を向ける」で、銀髪男への攻撃じゃなかった。
ドガッ!!
銀髪男はナイフを即手放し両腕を後ろに引き、引き終えると一気に両拳を中西の胸めがけてねじり込むように突き入れた。
中西はその衝撃で今まで以上に遠くに吹き飛び、倒れた。もう立ち上がってこなかった。
「はあ、はあ、はあ」
窓から射す月光柱の中を埃がハラハラと舞う。非現実的な出来事を目の当たりにして呼吸が乱れる僕以外、誰も何も音を立てなかった。
中西はピクリとも動かなかった。まるで世界の終わりのあと一人残されたような感じだった。
けれど、世界の終わりにはもう一人残されていた。
「……」
中西に拳を突き入れた銀髪男が姿勢を戻し、こっちを見る。やがて歩き出す。こっちに向かってくる。
「はあ、はあ、はあ」
何をするんだ?
何をされるんだ?僕も、中西みたいに、やられるのか?
「はあ、はあ、はあ」
汗の粒が額ににじむ僕の前で無表情の銀髪男は立ち止まる。殴り合った直後とは思えないほど静かな表情だった。
「見るがいい」
そう言って、僕の前に立ちはだかるようにして立っていた銀髪男は僕の横にそっと移動する。
コートの裾が芝居の緞帳のように揺れ、微かな風を起こし、僕の正面の視界は再び開ける。
「?」
銀白色に光る塊があった。マネキンが巨大な蜘蛛の巣に絡まって主人である蜘蛛にぐるぐる巻きにされたような塊だった。
でも蜘蛛はいない。塊はどこまでも孤独だった。
その孤独な塊が倒れた傍に、ナイフの突きたったノートが一緒にあった。
それらは全て、今さっき中西が倒れた場所にあった。
「一縷の望みはおろか、その死体まで利用された挙句が、あの姿だ。君の知り合いは今ようやく静かな臨終を迎えることができた。
黙祷を捧げたいが、あいにく放置しておくと感染者が増えるから、今すぐ焼去しないとならない」
「……え?」
あれが……中西だって?いや、そんなこと言ってない。
でも、中西の姿をしていた人間が、いまこの銀髪男に殴り飛ばされて、動かなくなって、それで……銀白色の塊になって……え?え?
「どういう、ことですか?」
「その前に処分しないと……!」
銀髪男が急に黙る。目つきが再び鋭くなる。そして廃墟同然の院内を見渡せるかのように首を左右に振る。
でも人の気配も音も何もしない。
「……あの」
ガシャンッ!!
割れずにあった窓ガラスが突然砕け散る。それと同時に黒い何かが窓から飛び込んでくる。
何か確認する前にそれは腕を伸ばし僕に掴みかかる。
ドンッ!
銀髪男が消えるような速さで動き出し、「何か」の腕を片足で蹴り上げる。
そのまま宙返りをして着地をした直後、銀髪男は拳を固め、僕に掴みかかった「何か」を、破られたばかりの窓の方へ殴り飛ばす。
「何か」は結局友好的とは思えない腕を持っていること以外何なのか分からないまま窓の外へと消えて行った。
「……」
何が何だか分からず、息が詰まりそうになる。言葉が出なかった。
花火を打ち上げた時ピカッと光った後しばらくしてから音が到達するように、驚きだけがまずあって、
他の感情はしばらく僕の心に到達できないでいた。不吉な予感と恐怖が届くまでただ、僕は喉に手を当て呆然と座り込むしかなかった。
「アレも「菌屍」。平たく言えばゾンビだ。動物全般に寄生する。
肉体の崩壊抑制を解除するため馬鹿みたいに力が強い。
そして燃費が悪い。故に他の肉体を貪食する。
食らうついでに菌を相手に植え付ける。
結果として、捕食を免れても免れられなくても傷を負うだけで君の知り合いや今窓から飛び込んできた男のようになる。
まあ君の知り合いは少し事情が違うと思うが……とにかく、菌屍は死ぬと、ああして菌で体を覆い、大気中に胞子を飛ばす準備を始める。
それを吸い込んでもアウト。ゾンビ状態になる。普通の人間は」
説いて聞かせるように僕にそう告げると、銀髪男は銀白色の塊の方へ手を伸ばす。
開いた手に引き寄せられるようにして塊の所にあったノートとフォールディングナイフがふわふわと煙のように宙を舞い、
銀髪男の手に収まり、そこでロウソクの火に息を吹きかけたように一瞬で消えた。
「はあ、はあ、はあ」
「さっきからそうやって過剰なまでにガス交換を続けているのに君はなんともないのか?それとももう、君は菌屍なのか?」
「へ?」
心臓を射抜いてどこかに持って行ってしまうかのような鋭い視線が僕を捉える。
射抜かれてどこかに持って行かれた体の中を戦慄が走る。鳥肌が立つ。脂汗が手のひらを覆う。
「……という話はあとにしてもよさそうだ。どうやら一匹二匹を殺せば済む話じゃなくなっている。
我々はどうやら菌屍の根城に飛び込んでしまったようだ」
銀髪男は僕から視線を外す。途端緊張がほぐれ、頭の中の歯車が少しずつ動き出す。心臓もどこかから戻ってくる。
キンシ?
ゾンビ?セイギョ?
ネンピ?ホショク?ホウシ?
は?何を言ってんだ、この人?
っていうか、中西は、本当に……死んじゃったの?
「!」
暗がりの廊下の先から、何かがぞろぞろ歩いてくる。
「はあ、はあ、はあっ、はあっ!……」
せっかく動き出した頭の中の歯車が急停止する。
恐怖のせいで体は単純なレコーダーになる。ただ目に映るものをそのまま記録するだけの状態になる。
「はあ、はあ、はあ」
誰も彼も背を丸めて、一言も声を発しない。……やばい。絶対にあれはやばい。
「囲まれたか。ここだと少々やりにくい」
「あ」
銀髪男が屈み、スッと僕の腰に手を回す。そのまま僕の体は軽々と持ち上げられてしまった。
銀髪男はそうやって僕を荷物のようにして腕に抱えると窓枠からひょいと外へ飛び出した。
ほんとにひょいっと飛び出しただけなのに、その跳躍はまるで空を飛んでいるように高く長かった。
病院の外に飛び出る。院内に比べれば遥かに明るい月光の下、庭木が格段に増えている。
と思ったらそれらは全部ゾロゾロと動き出してこっちに向かってきた。
みな人の形をしているが、オイルかタールでもかぶったみたいに黒いドロドロとした液体にまみれていた。
それでいてやっぱり、目がなかった。そんな彼らが声ひとつ立てず、
まるでこっちの姿が見えているかのようにそろそろと背を丸めて向かってくるのは不気味以外のなにものでもなかった。
「ここまで増えていたか」
銀髪男は遮蔽物のない開けた場所に僕を連れて移動し、そこで僕を下ろす。
「また一つ頼みがある」
「はあ、はあ、はあ」
「座ったまま、そこを動くな。頭もあまり上げず体勢を低く保つこと。ガス交換もほどほどに。できるな?」
「は……はい」
僕の返事を聞くと銀髪男は腕をだらりと垂らしたまま右手の指を小さく激しく動かす。
子犬のワルツでも思い出して弾いているのかと思えるほど素早く指を動かした直後、右手の指はサッと白く輝く。
光は手をはみ出して二極に伸びて消える。気づけば彼の右手にパイクのような長槍が握られていた。ほんとに、どうなってるんだ?
サササササササ……
「お前たちの生血は大地に流れ尽きた。これ以上無残な仕打ちに苦しむ必要はない」
サササササササ……
魔法のような芸よりももっと重大で深刻なことに気づく。まわりはすでにゾンビのような連中に囲まれていた。
この数をまさか、一人で相手するのか、この人は?
「もはや死に就け」
銀髪男は三メートル近くあるパイクを握り直し、静かに構える。研ぎ澄まされた穂先がギラリと月明かりに光る。耳が痛いほど空気が張り詰める。
「!」
僕たちを取り囲んでいる「黒い連中」の一匹が、僕めがけて飛びかかってきた。中西の時と同じで、やっぱり目がない。
それが大きく口を開けて、空に吊り下げられたような格好で宙を舞っていた。
「うわああっ!」
僕は思わず叫んでしまった。頭が本当に真っ白になって何もかもがゆっくり見えた。
グシャッ!
だからソレははっきり見えた。大きな銀閃が素早く空を渡り、跳びかかってきた黒い一匹の首を斬りおとす。
銀閃の正体は銀髪男だった。斬られた黒い胴は着地した直後、僕の目の前で体を銀白色に転じ、そのまま動かなくなる。
そしてその胴体からたった今離れた首が地面に不気味な音を立てて転がり落ちる。
すると、それが合図になったかのように銀白色の胴体は崩れて消えた。首も同じように消えた。
ダッ!
「!」
時が止まったような顔をした生首の周囲の闇の中を、黒い塊が素早く動き続ける。予断は許されない。
間髪を入れずに黒い連中は一匹ずつ襲い掛かってくる。その対象は僕か、それとも僕の傍に立った銀髪男かははっきりと分からない。
けれどこっちに敵意と黒い「視線」を投げかけているのだけは確かだった。それをトレンチコートの銀髪男は確実に仕留めていく。
柄を握る両手を器用に素早く動かして長槍を旋回させ、石突を相手の急所めがけて正確に打ち込み、あるいは穂先で首や胴をばっさりと払う。
そうやって近づいてくる黒い連中を次々に銀白色の塊へと変えていった。
「ふう……人の世という舞台に未練のある連中がこれほどいたとは」
月夜の攻防に目が慣れ、銀髪男の精確かつ圧倒的な強さに安心して心に変な余裕が生じ始めた頃、僕の傍の銀髪男に異変が現れる。
彼は肩で呼吸をしている。かなり疲れているようだった。
「既に登場し、演じるものはともかく演じた。諦めて退場するがよい、と言って受け入れられぬのが人情か……」
銀髪男は目を瞑り笑みを浮かべそうつぶやくと、また目を開く。
この状況で何を言っているんだと不審に思ったけれど、考えてみればこれだけの数の敵を相手に独りで戦えば、
あるいは自分でもよく分からない言葉が口をついて出ることがあるかもしれない。
「「ケハ」」
闇の中に妙な笑い声が短い間あちこちで響き渡る。まるで銀髪男の言った「人生劇」を非難するかのように。また僕の心を恐怖が蚕食する。
もし銀髪男が倒されたら、今度は間違いなく僕の番だ。
肉をむさぼり食らわれる。どこから食われるんだろう?指先?鼻?目?腸?皮膚は剥がれるのか?
そもそも体の中に菌を入れられる感じってどんなだろう?中西も本当にそうなったのか?
どうしてそもそもこんなことに中西は巻き込まれたんだ?誰のせいなんだ?
それすら知らないまま食べられて、菌に体を蝕まれて、終わるのか?
そんなのって、ありか?
ありとかそういうもんじゃない。弱い者が強い者に殺されるってだけのことか。
じゃあ、中西や僕は仕方のない存在だってことか?
どうしよう……どうしよう……どうしたらいい?
「ぐっ!」
「!?」
僕が確認する限りで四十二匹まで仕留めた時、銀髪男の背中に黒い連中の一匹がタックルを決めた。
ここに来て初めて黒い連中は二匹以上で同時に攻撃を仕掛けてきた。ほぼ同時だ。
まるで最初から銀髪男が疲労で集中力が途切れるこの瞬間を待っていたかのように、
銀髪男が羽交い絞めにされた途端、黒い連中が一斉に……間合いを詰めてきた!
「うおおおおおお!」
戦いつつ自分に敵の注意をひきつけ、徐々に僕との距離を開いていた銀髪男が怒ったような顔で叫ぶ。
けれどその顔を見て僕は彼を怖いと思わなかった。それより、彼がその後どうされるのかを思うと怖くてたまらなかった。
銀髪男が殺される!
そしたら僕が殺される!殺される!殺される!
ブンッ! バシュッ! ドスッ!
ブンブンッ! ゴスッ!! ブシャッ!
バシュッ! ゴキッ! ドスッ! ドスドスッ!!
ブンッ! バシュッ! ガスガスンッ!!
けれど銀髪男は僕の予想をはるかに超えて強かった。
それを証明するかのように、黒い液体が雨のように僕と銀髪男と草木に果てしなく降り注ぐ。
僕と銀髪男をクチャクチャにしようと群れて襲い掛かる黒い連中があっという間に槍の前で刻まれ、液をまき散らし息絶えてゆく。
ただ銀髪男はこれまで見せていた余裕を消し、必死に槍を振りまわしている。
今まで以上に加速し威力と急所を突く精密度を増したその槍の前に黒い連中は次々と銀白色の塊と化していく。
月光を反射してそれは淡く輝く。飛び散った血のような液も同じように淡く輝く。
徐々に僕たちを取り巻く一帯は幻のように明るくなっていった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
生まれてから今まで、こんな夜があるなんて……想像したこともなかった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
周囲の明るさは頂点に達していた。
そこは限定的ではあったけれど、まるで銀世界だった。
月光を反射する黒い連中が尽く倒れ、かわりに銀白色の塊となり果て、動く者は銀髪男以外にいなくなった。
背筋に冷たい白い霧が流れ込むような感じがする。
まさか、あれだけの数に襲い掛かられて、生きていられるとは思わなかった。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
恐怖のあまり普段の呼吸の仕方すら忘れかけていた僕の耳に、荒い息遣いが大きく響く。座ったまま見上げれば、
「はあ、はあ、はあ、はあ」
左腕を無くし、胸に大きな穴を開け、槍を杖代わりに立つ銀髪男がいた。
「はあ、はあ、はあ、大丈夫か?」
こっちを見てそう語りかける彼の顔の半分は、削り取られたようになくなっていた。
けれどその傷口は黒い液体をぶっかけられたせいではっきりとは分からなかった。
「……」
気付かなかった。
こんなにけがをしながら戦っていたなんて。生きているのが不思議なのは僕よりもむしろ銀髪男の方だった。
「ふう」
シュンッという音を立ててパイクがかき消える。
疲れ果てたように銀髪男が尻もちをつく。そのまま彼はひっくり返るようにして横になった。
「大丈夫ですか!?」
介抱してあげたいが、どこをどう介抱すればいいのか分からないくらい銀髪男は傷だらけだった。
「黒い呪液には触るな……もういい。体が、重い」
どう見ても体は「軽く」なっているのに、銀髪男はそんなことを言った。
もう体を自由に動かすこともできないほど弱り果てているらしかった。
「?」
腕が千切れ、胴体には大きな穴が開いているのに、よく見れば傷口からは血一滴こぼれ落ちていない。
黒い液体の付着していない傷口は、鉛灰色に光っている。どういうことだ?この人は、何なんだ?
「さっさと君を連れて逃げればこのような目に遭わずに済んだかもしれないが、もはや仕方のないことだ」
うつろな片目で僕を見つつ、銀髪男はさざ波のような微笑を浮かべる。。
「仕方ないって……」
逃げなかったのは僕のせいか?僕のせいで逃げられなかった?それはつまり……僕を守るために?
「申し訳ないが君はおまけに過ぎない。目的は別にあるから仕方がないという意味だ」
「!」
何も言っていないのに、まるで僕の心を読んでかのように銀髪男はそう告げる。
「心が読めるかどうかか……どっちしたところで瑣末なことだ。今となっては」
「……」
銀髪男は横になったままボロボロのコートの懐に右手を入れる。
中から煙草を取り出して一本口にくわえる。くわえたタバコにオイルライターで火をつけるとライターをそのまま銀世界に投げる。
瞬間銀世界がツユクサの花のような紫色の炎を放ち、メラメラと燃え上がる。
それはけれど熱くなかった。大気の一部であるかのようにその炎はひんやりとしていて、どこか哀しい感じがした。
一瞬のうちに銀白色の塊は消え失せ、世界は元通り、廃墟の病院跡に戻った。
「これが目的だった」
銀白色の塊を燃やした後、そう言って男は空を見上げながらゆるゆると煙草の煙を吐く。
煙だけが、時が今も一次元的に流れ続けていることを教えてくれる。
今ここでも現実が続いていることをかろうじて教えてくれる。
「何者かが菌屍を作っている以上、誰かがそれを始末しなければならない。これだけ始末すれば、まもなく現れるだろう」
現れるって、誰が?
「無論創った者だ。菌屍を」
その時、また鼻腔に匂いが届く。時間が別の方向からこっちに向かってきて、僕と銀髪男のいる時間に重なるような一体感がある。
匂いは中西の時と同じ匂いだった。病院の建物からそれはした。そう思って建物の方を見る。
「……!?」
凍りつく。
屋上のフェンスの外側に、……誰かがいる!
なんで!?あんなところに……。
「ふ~」
トレンチコートの銀髪男はそれに気づいているのかいないのか、横になったまま煙草を吸い続けている。
「はあ、はあ、はあっ、はあっ……」
中西に首を絞められた時の恐怖が蘇る。呼吸が乱れる。そうこうするうちに病院の屋上にいた誰かは、浮かんだ。
「こっちに来る!」
そのまま人の形をした何かは浮遊し、こっちに向かってゆっくりと移動してきた。まるで処刑され吊し上げられた死体のように。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
「死体」が移動すると足元の草木が風を受けて倒れて枯れる。そういえばおかしい。
季節は冬なのに、どうしてここはこんな夏みたいに雑草や木の葉が枝にくっついているんだ?
まるであの「死体」が移動してきた軌跡だけ、今が冬であることを思い出しているみたいだ……どうなっているんだ?
ここは、本当にどこなんだ?
「かつて死は生であった。生はやがて死となろう……ようやくお出ましか」
銀髪男が顔を歪ませながら立ち上がる。
「少年」
「はい」
「今度は逃げろ。街明かりがあるところまで、立ち止まらず全力で逃げろ。そして二度とここへは来るな。理解できたか?」
「……」
何だろう。天使か亡霊みたいに飛んでいる“何か”を見たせいか。胸騒ぎが、ひどい。
口が乾く。怖すぎるせいで僕の頭がおかしくなった?どうしたんだ?息苦しい。胸が。
「聞いているのか?」
「あ、え?」
「今すぐ……」
ナイフのように鋭い匂風がその時体をさらう。今までにないくらい、冷たく濃い風が。
「もう無理だな。仕方ない」
立ち上がった銀髪男は煙草を吐き捨てる。吸殻は地に落ちる前に全て火花に変わり果てて消滅する。
「あまり期待するな」
微かな火花の光が踊る中、右手の指先をまた高速で男は動かす。
何を求めて動いているのかこっちには永遠に分からないまま、鋭い閃光は彼の手元に激しく瞬き走っていた。
「私が壊れ、君だけになった時は潔く観念しろ」
光を染み込ませて沈めたその手には、さっき中西のノートを突き刺したナイフのような刃が硬く握られていた。
「すべては厳粛で陰気な無であったと」
例の“匂い”のする先から、「何か」は空をフラフラと飛んでやってくる。まるで匂いそのもののように。
「……」
やっぱりあれは「何か」じゃなくて「誰か」だ。
タッ。
屋上にいたはずの「誰か」はようやく、地面にふわりと降り立つ。たちまち足元の草が枯れる。
僕と銀髪男から、距離にして十メートルちょっとの地点。
背は高いが華奢で、ナチュラルロングヘアの「誰か」は無表情のまま、こっちを物言わず見ている。
「誰か」はおそらく女性だった。
ドックン。
「やはりお前の仕業か」
口火を切ったのは銀髪の男の方だった。
「こんばんは。こうしてお会いするのは、あの夜以来ですね」
長い黒髪の女は舌を少しだけ出し、自分の上唇の端を小さく舐めながら続けた。
「虚無に捧げられたようなあの夜以来」
アルト声の女のは、中西と同じくらい顔が白かった。
それが未だ空にかかる月明かりに照らされて、陶器のように清澄な輝きを放っている。
こんな状況にあってもなお、それは綺麗なものだと感じた。不気味なほどに。
ドックン。
「どうやって、出てきた?」
不気味な女を刺すように見ながら銀髪男が言う。
当の女は足を動かす気配なんて全くないのに、少しずつ、こっちに近づいている。
「ご存じありませんか?岩盤の崩落が、つい最近のことですが、かの地で発生したんです。
それが間接的な要因となってあなたの戴陸封は崩れ去ったようです。
女はそこで一旦言葉を切り、深呼吸をし、薄笑いを浮かべて言葉を継ぐ。
「おかげでこうしてまた、月や太陽や風とお話しすることができます」
ドックンッ。
ロングヘアの女は僕を見ていない。最初から傷らだけの銀髪男しか見ていない。別にそれ自体はどうでもいい。
そんなことより、近づかれたことで一層強くなったこの匂いと、
ドックンッ。
血が湧きかえるような胸騒ぎが、意味不明の胸の鼓動が、苛立たせる。
なんだ?
ドックンッ。
怖いのか?
そんなのさっきまでだって一緒じゃないか?
むしろさっきに比べたら相手は一人だ。怖がる必要なんてそんなにないはずだ。
確かに宙に浮いているところは普通じゃない。
けれど、あとは喫茶店で時間を潰している女子大生と大差ないじゃないか。
その気になれば銀髪の人を担いで逃げられるかもしれない。
ドックンッ。
それなのに……なんで、どうしてこんなに、血に酸を流し込んだように苦しいんだ。
操られている?
ドックンッ。
僕もゾンビみたいに操られている?
ドックンッ。
ロングヘアの女がきっとゾンビを操っているみたいに?
ドックンッ。
あのゾ可哀そうな“人たち”を操っている何かが、僕にまで影響を及ぼしているのか。どうしてだろう。苦しい。
ドックンッ!
「目的は、俺で間違いないな」
「今はそうですね」
「俺を殺すために、数多の人間を犠牲にした……ということか」
銀髪の澄んだ瞳に、今までにない強い光が宿る。
「実のところ、あなたの消滅は前座に過ぎません。
目的は血祭の開催。……死活を超越した神聖なる祀りを設けること。
そのためにたくさんの美酒を用意してきたのです」
「……そうか。ではまだ、死ねないな」
銀髪男が肩幅ほど足を開く。ナイフを逆手に握り直す。
ドックンッ!
「その体で今まで過酷な運命を歩き続けたのでしょうけれど、この度でそれも終いです。
運命は底知れず複雑ですけれど人生自体は至極単純なものです。要するに生まれて殺される。これでおしまいです」
ロングヘアの女は目を瞑り首を前に倒し、両腕を横に軽く伸ばす。まるで踊りの前の挨拶のようだった。
ドックンッ!!
「お姉ちゃん」
誰かがそう言った。そしてその言葉が初めて、女の視線を僕に向かわせた。
「……」
女は瞑っていた目をこっちに向けて、動かない。
「マナカお姉ちゃん?」
言って、それが自分の口を衝いて出ていることに気付いた。
どうしてそんなこと言っているのか、自分でもわからない。
けれどそう口にした後、女の首を垂れ腕を広げる動作に、自分の中の古い記憶が重なっていることに僕は気づいた。
記憶。
どうしようもなく古くて、その引っ張り出し方も分からない、曖昧でなぜか切ない記憶。
それがいつのことで、自分がどこにいてどんな状態にあって、そして誰と一緒にいるのかもはっきりしない、光の射さない沼底のような記憶。
ただそれは沈殿し分解されつつある動物の骨のように僕の中にあることは確かだった。。
それで僕の口は、僕に確かめもせず姉の名を口にしたらしかった。
「……」
でもそれはありえない話だった。なぜなら姉は、だいぶ前に死んでいたから。
シュンッ!!
マッチを擦るような音を立てて銀髪男が消える。彼の立っていた場所と女を結ぶ直線状に生えている雑草が一斉に倒れる。
ガシュンッ!!
次に銀髪男を見たのは女の後ろだった。その手にナイフは握られていなかった。
ナイフはロングヘアの脇腹に刺さっていた。そしてロングヘアはいつの間にか大きな斧を右手に握っていた。
刃渡りが八十センチ近くありそうな斧の先に、黒いコートの千切れた布片がくっついていた。
ドサッ!
「!」
銀髪男の下半身は立ったまま、上半身だけが地面に音を立てて落ちた。
普通なら視線が釘付けになるはずの光景なのに、ロングヘアの女は銀髪男の方を見てすらいない。
彼女は代わりに自分の腹に刺さったナイフを見ていた。
「野暮ね」
女は腹部に刺さったナイフを無造作に引き抜く。赤い血がしたたり落ちる。
赤い血が流れているのを見て、僕は彼女が人間であることを知った。
逆に言えばそれ以外の情報から彼女を自分と同じ人間だと感じるのは無理だった。
女はそのロングヘア以外、人間の要素を逸脱しすぎていた。
ドス。
引き抜いたナイフをロングヘアは銀髪男の後頭部に投げる。
ナイフは動かない後頭部に当然のように刺さる。まるで最初からそこに刺さっていたかのように正確に。
フッ。
女の姿が音もなく消える。
「ねえ、あなた」
「!」
今までにないほどはっきりと鼻先に例の匂いがした。女の声が背中からかかる。長い髪の毛が数本、僕の汗ばむ頬にくっつく。驚いて振り返ろうとするとブンッと音を立てて斧の刃先が首の真横に当てられた。
鏡のように磨かれた刃先が血の気の失せた僕の顔を鮮明に映していた。
「そのままでいいのよ」
斧を握る女の暗く妖しいアルトの声が背中に重くのしかかる。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
生きたまま地面に埋められつつあるような切迫感が全身を包み、呼吸が乱れる。
「可哀相なあなたの名前は何というの?」
「はあ、はあ……」
そんな息苦しさの中でも、どうにか名前くらいは言えそうだった。
「金井、智宏」
急激な乾燥に晒された喉が鳴る。背中に冷たい汗が流れ落ちる。
これで、もう終わりだ。この斧で銀髪男みたいに刎ねられる。終わりだ。
本当に人生終わりだ。何もしないまま、終わりだ。終わりだ。
「カナイトモヒロ……トモヒロ……トモヒロ…………そう」
刃先が顔の横から消える。巻き起こる風圧で思わず目を瞑る。
それきり痛みも音もなかった。僕は恐る恐る、目を開ける。後ろを振り返る。けれどそこには既に女はいなかった。
「はあ、はあ、はあ……うっ」
一陣の冷たく強い風が吹き、草の葉を大きく鳴らす。充満していた匂いはもうしなかった。
どうやら命拾いしたらしい。そう思い知って、膝の力がカクンと抜けた。
そのまま僕は四つん這いになった。途端に激しい嘔吐感に襲われて、僕は吐いた。
胃の中にあるものを全部吐き終わると、口の中はともかく、気分が楽になった。
「はあ、はあ、はあ」
額に浮いた汗と口元を拭きながら、これからどうしたらいいのか考えた。
モゾ。
「!」
目と鼻の先、草木の風になびく姿とは明らかに違うその様子に一瞬ギョッとする。それは銀髪男の上半身だった。
彼の上半身に残された右腕がゆっくりと動いていた。その右手の中指が後頭部に刺さるフォールディングナイフに触れる。するとナイフが音もなく幻のように消えてなくなる。
そしてナイフが消滅した後、右腕は上半身をうつぶせ状態からあおむけにしようと動き出した。けれど力が入らないらしくてうまくいかないらしく、いっこうにあおむけにはなれなかった。
「大丈夫ですか!?」
僕は走っていって銀髪男の上半身に手を差し伸べ、彼をあおむけにしていた。
「見ての通り……丈夫そのものだ」
冗談が、かえって傷の惨さを際立たせる。
「何言ってんですか!どこが丈夫……とにかく病院まで運びます!」
「少年。鈍いな。この俺が“人間”に見えるか?」
「……」
体を二つに分断され、その上半身は大型拳銃の弾を至近距離で食らったかのように大穴が空いている。
顔面は半分吹き飛ばされたようになくなり、しかも後頭部にはナイフがついさっきまで刺さっていた。
確かにこれで人間というのはおかしい。どう考えても、無理だ。
「かといって不死身というわけでもない」
「?」
「ついこの間まではそうだった。けれども事情が変わった。そしてここまで破壊されると、どうにもならない。そういうことだ」
銀髪の男は曖昧な微笑を浮かべながらそう言って、残された方の目で僕を見た。
「金井智宏、だったな」
「僕、ですか?」
銀髪男に言った覚えはない。あっ、さっきアルト声の女に言ったのを聞いていたのか。
「そうだ。それで君は……どうやってここにたどり着いた?」
その質問で、僕は匂いと、その匂いを纏っていた中西の事を思い出した。
空転していた頭のギアがわずかずつ噛み始める。
「あの……不思議な匂いがしてそれを辿ったら、ここへ着きました」
どう考えても説明不足だろう。
「……」
匂いでこんな場所まで辿ってくるなんて犬でもなきゃ無理だ。でも、他に何て言ったらいいんだろう。匂いと、あとは強いて言うなら影みたいな猫。でも、それだって怪しすぎる。第一途中から見失っている。
やっぱり、“匂い”しかない。
「僕の同級生と同じ匂いがして、それは多分香水とは違うと思うんですけれど、それを辿ってきたら、ここに来て」
「それで、同じ年端の娘に殺されそうになった」
「それが……同級生です。たぶん」
「名は?」
「……中西由美」
頭の中で、嫌な結末が浮かぶ。あの廃墟の病院の中で襲ってきたゾンビみたいな奴と、中西。それがまさか、一致したりは……
「君を殺そうとしたのは間違いなく君の“同級生”だ」
「ど、どうして!?」
「もともとあの娘は死ぬ運命にあった。ちなみにそのように自らを規定したのは他ならぬ本人だ」
「え?」
「中西由美がその命を代償に、“夢”を見たいと俺に申し出てきた。だから俺は夢の見方を教えた。よって本来ならすでに死んでいるはずだった。が、なぜか死なず、街を徘徊していた」
銀髪男の残された目の光を見ながら、また空転しだしそうな頭のギアを必死につなぎとめる。
「どうやらここを拠点にして活動していたらしい。そこまで突き止めて俺が殺した。その現場に君がいた。事の顛末は以上だ」
「ちょっと待ってください。えっと、え?」
「菌屍のことか?さっき簡単に説明したと思うが」
死んでいた?突き止めて殺した?え?え?
「それとも命を代償とする夢の見方が何か知りたいのか?」
「……」
空転というより、破損かもしれない。
ギアの歯がことごとく溶けて無くなったような感じだった。何が、どうなってる!?
「何が起きているか、知りたいか?」
男は僕から視線を外し、闇夜に目を泳がせつつ尋ねてきた。
「……はい」
落ち着け。まずは、まずはそこから知ろう。それからまた考えよう。
「知りたい。知りたいです。中西はあなたから何をもらって、何をしたんですか?」
「命という代償をもとに願いをかなえる魔の法具を俺は提供した。中西はそれを利用し亡き友との思い出に浸った。普通通りにいけば、少女は道具に命を吸われ夢に溺死するはずだった。これは比喩じゃない。身も心も衰弱し、生は窮まり死ぬはずだった」
淡々と銀髪男は僕に“事実”を告げた。死ぬような道具を平然と渡したっていうのか。それはまるで薬物を売りさばく売人、じゃないのか。そしてその瞳には中毒者への軽蔑も憐れみもなく、感情の抑揚を失った光しか宿っていない。
「そうだ。俺はそういう人種と大差ない。感情の抑揚などどこにもない」
心をまた、読まれる。僕の心の炎は彼に、どう映っているか。
「断っておくが俺は、俺から道具の使用を勧めたりはしない。確かに、かつての俺はそれをしていたが今はしていない。……が、そんなことはどうでもいい。とにかく中西は道具によって死ぬはずのところ、そうはならなかった。なぜそうならないか」
一旦そこで男は切る。風が吹き、銀色の髪が風でなびき、顔を隠す。
「俺は原因を調べるうちに、菌屍の存在に気付いた」
菌屍。キンシ。
「闇を徘徊し、血肉を食らい、もしくは肉を媒介とし仲間を増やすあの死体群だ。あれの出没を確認後、もしかすると中西も菌屍になっているかもしれないと考え、後をつけてとうとうここに来た」
風がさらに拭く。“ここ”という語句に瞬間、恐怖を感じ、もう一度周囲を見る。もしかしてまたさっきのがいたらと思うと、鳥肌が立った。
「仕留めたら娘は案の定、変異は見られたが、菌屍だった。君も見た銀白色の塊が動かぬ証拠だ。あれは菌屍が種を残すためにとる最後の手段。すなわち空中散布」
「……中西が」
話の全てをすぐ信用しろと言われたら、たぶん無理だ。何もかも非現実的すぎる。
手から槍が出たりナイフが出たり斧が出たり宙を飛んだりするのだって、よく考えたら見間違えかも知れない。
あるいはただの手品かなんかで、トリックがあるのかもしれない。
「……」
けれど、今目の前の銀髪男は確かにこうやってぐちゃぐちゃにされてしまっている。
こんな状態になってまでわざわざ嘘をつく奴なんてこの世にいるのか?
もしかしたら銀髪男の話していることは全部本当の話で、この世の中には僕の知らない魔法のような別世界があるのかもしれない。そしてその中から銀髪男は出てきて、逆にその中に中西は引きずり込まれて、出られなくなってしまったのかもしれない。
「フェナカイト」
「え」
「その魔法のような別世界で生きる俺には、そういう名前がある」
自分の口から出る長く白い吐息を見ながら、僕はこの吐息のある世界とは違う世界に棲むらしい魔法使いの名前を頭の中で何度も反芻させた。どういう意味?
「……定めを、裏切る者」
風が違う方向から吹き、顔を隠す銀色の髪を元に戻す。残された目がビー玉のように月明かりを反射する。
「フェナカイト、さん」
「何だ?」
「あなたの話が本当だとして中西は、つまりあなたのせいで死んだってことですか」
病院で殴り殺した理由を僕は尋ねたわけじゃない。それ以前の問題として、使ったら死ぬような危険な魔法なんかを、中西にフェナカイトさんはどうして渡したりしたのか、やっぱりそれが気になって尋ねた。
「確かに俺のせいで娘は死んだ。が、俺は殺していない。菌屍になった娘を破壊したが、その時点で娘は死んでいたから、厳密には俺は殺していない。「死ぬような道具」を渡したというがあの娘は自ら俺の元へ来た」
「渡すのが悪いと言われるすじはない」とも、フェナカイトさんは付け加えた。
「どうやって」
中西はフェナカイトさんの所へ?
「分からない。昔とは違って俺は自分から誰かを招くような真似はしない。…俺は俺の気配を殺してずっと生きてきた。それなのに中西由美は突如現れた。来るなりよこせと言った。魔法の道具をよこせと」
言葉を聴きながら、僕の脳裏に鋭い目つきを向ける中西が浮かんだ。冬の夜の寒さが改めて体をこわばらせる。
「原則ではないが、経験上この道具は人間を堕落させることしかできない。だから帰れと止めたが彼女は聞かなかった」
「……」
「中西由美は言った。自分は生きたまま煤になってもトラックで轢き殺されても構わない。魂も命もいつだって捨てられる、と」
中西なら、あの中西なら、きっと言った気がする。
「言って娘は道具を、魔法を望んだ。故に与えた。そして死んだ」
「!」
「繰り返すが道具を与えたことを恨みたいのなら恨め。俺としてはあの娘の命がどうこうというよりも、彼女がどういう経緯で俺を知り、俺の秘密を知り得たのか、興味があった」
嘘偽りのない、合理的過ぎる理由の説明。だから風のように冷たく、心に吹き込む。
「ようやく辿れたと思った時はあの通り、人間をやめていた。事ここに至っては壊すしかなかった。……これもまた、恨むか?」
「……」
「壊さなければ君は首の骨をへし折られていた」
僕は首に手を当てる。気道が張れたせいか、少し痛い。やっぱり院内で襲ってきたアレは、中西由美なのか。
「言うだけ野暮だが……静かに死なせてやれればよかった」
「……中西を?」
「夢に溺死するだけなら、あそこまで惨い最後を迎えることはなかった。衰弱死で済んだものを」
「……」
この人を恨むことは、今の僕にはできない。やっちゃいけない。
「ふぅ……」
中西が死んでもいいから願いを叶えたいと思った理由は、なんとなくわかる。
たぶん、事故で死んだ親友を生き返らせようとしたんだろう。もしくは、同じ所に行くことを望んだんだろう。
それを止める勇気を持ったことも努力をしたことことも僕はない。
だから、フェナカイトさんが悪いだなんて、今の僕が思う資格なんてない。
今は、いけない。でも、だからと言ってこのままで終わっていいはずなんてない。
せめて、せめて中西を誰があんなふうに……。
「気になるか?誰が中西由美を菌屍にしたのか」
「……はい」
気にならないはずがない。
「見たはずだ。その張本人を今の今」
大きすぎる斧を手にした、空を舞うアルト声の女。僕の古い記憶にある姉によく似たロングヘア。
「あれが黒幕。菌屍を作った学者だ。菌屍という個体を生む菌をかつてその手にし、菌屍を欧州にあふれさせ数多の人間を恐怖の底に陥れた」
「ヨーロッパ、ですか」
学校で歴史の時間に習った死の舞踏を思い出す。ペスト菌が蔓延し、ヨーロッパで多くの人が亡くなったという。善も悪も老いも若きも。
「しかし俺は一度、廃坑に奴を封じた……が、その封印はどうやら破れたらしい。学者の話が真実なら人為で封は破れた。いずれにせよ封を抜けたのち、学者はここまでわざわざやってきた。封じた俺を殺すためだろう」
「フェナカイトさんを、恨んでいるんですか」
僕は一つ一つ事実関係を確認したくて、ゆっくりと念を押すかのようにして聞いた。
「封じられた恨みは骨髄に徹している。その恨みを晴らすためにわざわざここで菌をつかって人を含む動物を次々に菌屍に変えている。菌屍を産生すれば目立つのは承知の上で、だ。そしてそこに、偶然か必然か、中西由美は巻き込まれた」
「……」
「学者が兵隊を作る目的が俺を弱らせるためなら、俺が死ねば全ては終わるかもしれない」
ここでフェナカイトさんは眉をくもらせた。
「あるいは……ほかに目的があるのかもしれない」
けれどすぐに眉を元に戻す。ため息をつく。
「いずれにせよ、こうなってしまった俺には関係のないことだ。少年、君の体がどういう仕組みになっているか知らないが、今の段階で君は菌屍になっていない。あれだけの殺人胞子が舞う場にいて……ふふ、せっかくの強運だ。この国を捨て束の間でも遠くで生き延びるといい。そして今ここで聞いた話は忘れろ。君の「同級生」のことも含めてすべて。それが私の最期の忠告だ」
「……」
中西が中西じゃなくなったのは、中西に魔法を教えたフェナカイトさんのせいだけじゃない。フェナカイトさんの話だと、中西がああなったのは、ロングヘアの女のもつ「菌」のせいらしい。
「菌」を女がばらまくから、中西がああなった。そうやって女は「菌」を使って人間をゾンビに変えている。菌屍という名のゾンビに。おそらくはフェナカイトさんを殺すために。そしてそれはこれで終わりかもしれないし、これで終わらないかもしれないという。
「……」
「何を思う?」
「心、読めるんじゃないんですか」
「まさかと思っている。だから本人の口から確認したい」
「……」
「……」
「魔法、教えてください」
「何のために?」
「それは」
「君はさっき中西由美が何を願ったか考えていたが、残念ながら死人は生き返らせられない。それほどの魔法を、俺は知らない。ただし、誰かを殺す力なら俺は用意できる」
ゾク。
殺す力――。
強い突風が吹き、目にゴミが入る。思わず目をつむり、“誰かを殺す力”というワードが脳裏を瞬時、埋め尽くす。それは目の前の暗闇のように寒くて冷たい真っ暗な何かとしてしか、まだ僕には捉えられない。
「正確に言えば、君そのものを強くすることはできないが、君が強くなる機会を用意する事なら、俺にはできる」
「強く……」
イメージのようやく湧く、言葉。
「こちらから今度は質問したい。君は、あの学者を殺す覚悟があるか?」
それで「はい」と答え、「魔法を習いたい」と言えばそれは、ロングヘアの女を殺すために、魔法を覚えるということになる。「殺したい奴がいるから武器が欲しいです」ということになる。「好きだった人を殺されその人を生き返らせるわけにもいかないから、代わりに好きだった人を殺した奴を刺し殺す刃を下さい」と同じことになる。
「……」
社会の、倫理の授業でヒューマニズムとかいう言葉を習った。確かその意味は、「いかなる場合でも人間を犠牲にしないこと」だった気がする。
教わったその当時、僕がその言葉に対して抱いたのは「そんなの無理の嘘っぱちに決まってる。できもしない理想なんて口にするだけ無駄だ」みたいな反感だった。誰もが、誰かを救うために結局誰かをどこかで犠牲にしている。あるいはその「誰か」がヒトではない「何か」かもしれないが、結局犠牲にしていることに変わりはない。
だから所詮そんな言葉は「かけがえのない命」のような言葉と同じくらい鼻持ちならない綺麗事で、多くの正義と同様に絵空事に過ぎない。空虚な迷妄に過ぎない。そう思っていた。
世の中はもっと物理的で、合理的で、理論的で、無機質で、人間の感情なんてひょっとしたら挟み込む余地なんてないんじゃないかって。
「……」
けれど、今はそう思わない。思えない。
いかなる場合でも人間を犠牲にしないこと――。
考えてみればこれは……「願い」だ。こうありたいっていう希望だ。人間を目的じゃなく手段として使ってしまった惨い世界史の叫びなんだろう。だとしたらその言葉は願いとして、きっとありなんだろう。
「……」
ロングヘアを倒そうとするのは、一人の人間を犠牲にしようとすることだ。これは事実だ。
けれどロングヘアをこのまま放置しておけば、中西みたいな可哀そうな人間が増えることもまた事実だ。
「本当に、殺すしかないんですか?」
フェナカイトさんは目を細める。何かを思い出すような表情になった。
「ないと思うが」
「……」
「なぜか、説明して欲しいのならしてやろう」
心の準備をするための、猶予が欲しい。だから説明して欲しかった。
「学者と言っても若人だったから不憫に思い、殺さずに一度は封じた。しかしその封印は崩れた。誰が崩したか。あの小娘自身の力、ではない。繰り返すが崩したのは人間だそうだ。資源の開発と搾取に没頭する弱い人間だ。人間が相も変わらず自然を拷問にかけようとして封は破れ、学者は外へ出た。今またどこかへ封じたとしても、それは問題の根本的な解決にはならない。問題の先送りに過ぎない。根本的に解決したいならば利便さだけを追究し続ける君たちの人間性を変えるしかないが、それは無理な相談だ。ならば人類を滅ぼすかあの学者を滅ぼすかどちらかしかない。これが「先送りにしない」ということだ」
人類を滅ぼすなんて選択肢は、選びようがない。その先に希望があるとは思えないから。
「……」
あのロングヘアの命を止めることで一人でも多くの命が救えるのなら……
「僕は……」
何があっても人間を犠牲にしないこと。願いつつも、僕はそれを破ろうとしている。
多くを救うという名目のために、一つの命を犠牲にする。
必要悪。やむを得ず必要な、死。
「僕は……」
代償として、その死の責任を背負う。一生。背負わないといけない。
「僕は……」
誰かにこの荷を背負わせて知らないふりなんて、しない。背負う。僕が。
生易しくなんて絶対にないだろうけれど、やる。「願い」があるから。命の続く限り、願い、背負い、償う。
「殺します。僕が」
誰かが、ここまで考え、思い、決断し、行動しなくちゃいけないんだ。
「それで、いいのだな?」
なら、それなら……
「はい。いいです」
僕がっ!
「……わかった」
フェナカイトさんが凍てつく月下に頬を歪ませる。そして右腕を宙に浮かせると指揮棒を振るようにして指を滑らかに動かす。やがて手のひらを空に向けて指を動かすのをやめる。たちまち手のひらに青く暗く輝く光の球が現れ、それがパッと花火のようにはじける。次の瞬間、フェナカイトさんの手のひらには古びて黄ばんだ色の紙が握られていた。
「これが、その魔法だ」
受け取れと黄ばんだ紙を僕の方に差し出す。恐る恐る僕はそれを手にする。第一印象として、縄の結び方を描いた図面かと思った。端が虫食いにあったようにボロボロの、羊皮紙のような色をした紙面には絵が描かれている。
学校の生物の授業で習った〈ヒトの血管系〉を流れる血液の経路によく似た路の上に、足跡みたいな記号がA4程度の大きさの紙の中に様々な間隔と向きで描かれている。体内を巡った静脈血が心臓に入って、肺に流れ、酸素を含んだ動脈血になって心臓に戻り、全身へ送り出され、経巡り、再び心臓にもどる。そんな流れを感じさせる絵だった。
ただ人の血管系と微妙に違うのはそれが完全に左右対称に描かれていることだった。紙を縦に正確に半分に折ったときにできる折り目を軸に、経路上の足跡は左右対称に描かれていた。そして足跡の傍の余白には数字やら文字やらが血にまみれて小さく記されていた。
「舞踏譜という。これ自体は舞踏のための足の運び方を描いた紙片に過ぎない。が、ここに描かれた通りに足を運べば、心に願うものを現出させる。ただし魂という代償を支払うことになるが」
「これで、殺すんですか?」
呪い殺すってこと?
「違う。先にも言ったが、これを使い君が願うべきは、菌屍やあの学者に打ち勝てる自分だ。幸いと言うべきか、君は菌屍の攻撃をその体で直に受けているし、学者の手の内も一部見た。あの連中に打ち勝つ自身をイメージし、それをこの舞踏譜によって具現する」
「それはつまり、踊りを踊れば強い自分が僕とは別に現れたりするってことですか?」
「違う。そもそも呪い殺すにも、自分をもう一人用意するにも君一つの魂では足りない。つまり無理だ。君が舞踏譜を使って形に出来るのは君を補強する道具。それだけだ」
「……」
「不安か?……慰める要素があるとすれば、君の想い描くイメージが具体的で確固としたものあればあるほど、それは信頼に足る道具となるということ。あとは……実際に強くなれ。そうでなければ殺され、奪われるだけだ」
要するに、魔法の中身は「踊れば武器が手に入る」ということになるらしい。けれどいくら強い武器をその魔法によって手に入れようと、武器の扱い方を熟知していなければ意味がない。そして戦いを知らなければ生き残ることはかなわない。当然と言えば当然の理屈だった。
つまり僕は、これから「実戦」で強くなるしかない。怠慢や過失があればあるいは死ぬ。
それで終わり。だから覚悟を決めてとりかかれ……ってやつか。
「ふふっ、実戦のみのたたき上げというのも悪くない。が、生憎と俺は君にそこまでの才能と運があることを期待していない。予言しよう。蔓延しつつあるこの慈悲なき地獄を君が独りで生き残ることは不可能だ」
「だから」と言い、フェナカイトさんの挙げていた腕がバタリと草の上に落ちる。
「用意しよう。君の護り、鍛える者を」
護り、鍛える者?
「この事件に関わった犠牲者の一人に……本人は望まぬかもしれないがあの娘に登場願おう。舞踏譜の詳しい踊り方にせよ君の片想いの相手にせよ、話してくれるようなら彼女から聞くといい」
誰?誰のことを言ってる?
「死と生の境界域に佇む者。名は臼井百合花」
臼井百合花。どこかで聞いた。どこで……あっ
「中西由美が命を酷使してまで現出させようとした思い出の花だ。俺は俺を俺たらしめる最後の力を使い、中西由美が現出させようとした花を束の間、この世界に仮定しよう」
臼井百合花。
中西の親友にして、交通事故でこの世を去った高校二年生。
その彼女をフェナカイトさんは、何をするって?世界に仮定?それって生き返らせるってこと?って、そんなことできないんじゃないのか?それとも、何か例外があるのか?いや、この人ならあるいはできるとか……
「再誕させるのではない。あくまで中西由美の思い出をこの拙い人形に封入して稼働させるだけのことだ。……もって七日。君はその間に舞踏譜と臼井百合花という「思い出人」の協力で、学者を始末しろ。それができなければ世界はやがて奈落と化す。菌屍の奈落だ」
そこまで語り終わった後、フェナカイトさんは右腕を月に向かって再び伸ばした。まるで月を掴もうとでもしているかのように。
「貴様との付き合いは永劫のものと心得ていたが……どうやら今宵でその腐れ縁も終いのようだ……」
僕ではなく、月に向かって語りかけるような口調でそう言い、伸ばした腕の先の指で、何かをまた描き始める。動くにつれアメジストのような紫の輝きに指先が染まり、それが手のひらを侵し始めるとフェナカイトさんは腕を胸元に降ろした。
光が収まるころ、胸元に一冊のノートが現れる。
ボロボロになるまで使い込まれた日記帳のようなノートにはナイフを突き立ててできたような創があった。
「臼井百合花を選んだ理由はその存在の不確かさへの期待によるところが大きい。……が、あるいは懺悔かもしれない。君と、君の「同級生」の」
フェナカイトさんは月から目線を外し、こっちを見て言った。
再び月を向く。胸元に現れたノートの上で、また指を動かす。指を動かし終えると、ノートからガーネットのような深紅の炎が上がる。それはノートを光で焦がし、フェナカイトさんの指を焦がし、上半身を焦がしてゆく。
「フェナカイトさん!」
炎のヴェールに包まれたフェナカイトさんに僕は叫ぶ。
「そう。俺の名はフェナカイト……運命に背を向けし者。が、それもようやく終わる……月の精よ。最後の願いだ。俺の輪郭を消し去り、代わりに……恢復されるべき不在の者の幻魂を一時の間、この世に止めよ。俺の呪いはこれで、終わりだ」
ガーネットの炎は一切音を立てなかった。だからフェナカイトさんの声は月夜に良く響いた。
「これより先はただ、死と向き合おう」
月の精――。
良くわからないけどフェナカイトさんはそういう不思議な存在と深い縁があったのかもしれない。さっきまで散々見せつけられた魔法みたいなことを思えばたぶんそれは間違っていない。けれどそれについてはたぶんもうこれから先ずっと、知ることはできないだろう。燃え上がるフェナカイトさんを見ながらそう思った。
あるいはこの人は、たとえ機会があったとしても、自分が何であるかを誰にも明かさず、その秘密を墓場まで持っていくような人にも、僕には思えた。
でもそれでも、どうしても自分が何であったかを一言だけ残しておきたくて、「運命に背を向けた者」と告げた。
月を見ながら音なき炎に巻かれるフェナカイトさんはそんな感じだった。
「……」
運命に背を向けた者――。
どういう意味なんだろう。
人生が道みたいなものだとして、その道にはいくつもの分岐点があるとしたら、運命っていうのはその分岐点で誰かが「お前はそっちの道を行きなさい」「君はこっちに来てはいけない」って強制的に道を選ばせられることか?だとしたら運命に背を向けるっていうのは、「こうしなさい」「ああしなさい」っていう声をはねのけて、自分の意思で道を選びとることか?
「……」
運命に背を向けること。それはつまり、運命に身を委ねるのを、自分の消える最後まで拒否すること。
自分で考えて、自分の責任で人生を生き切ること。
「……フェナカイトさん。あなたがどんな過去を背負ってきたかは知りません。けれどあなたと同じく、僕も「運命に背を向ける者」になります」
ロングヘアを殺すことは正しくはないかもしれないけれど、それが最善であると今の僕は考えるから、殺します。
そしてその責任から僕は絶対に逃げません。生ある限り。
シュ~……。
フェナカイトさんの全身を炎が包んでしばらくして、炎がやむ。
燃えている間は全く音がしなかったのに、鎮火した時には熱した金属を水に入れて急冷したときのような鋭い蒸気音がたった。
「臼井」
フェナカイトさんが倒れていた草の上に、僕の通う学校指定の制服を着た少女があおむけに倒れている。
中西よりはいくらか肌に血の気がある。背は大きくも小さくもなく髪は群青色に近い黒。まぎれもなく臼井百合花だった。
スー、ハー……
目を閉じた臼井が鼻で夜気を吸い、口からゆっくりと息を吐くのが見える。胸のふくらみが上下する。
「動きだした時計の音で目覚めてみれば、飛び散らう喪草の上。頭上には不快な凶気。
……こんな所に鏡の牢獄の囚人を引きずり出すなんて、魔法ってつくづく怖いわ」
倒れていた臼井は深呼吸を終えた後ゆっくり目を開け、詩人のようにそう言った。
意味が分からなかったから僕はとりあえず膝をついて臼井に声をもう一度かけた。
「だ、大丈夫?」
「どうかしら。人形だから丈夫かも知れないけれど、あまり期待しないで」
臼井って、こんな感じで喋るやつなのか。まるでフェナカイトさんを女にしたみたいだ。
スッ。
臼井が体を起こす。僕は彼女の背中にくっついていた草の葉をはらった。
「ありがとう」
目を開けてこっちを見る。曇りのない綺麗な瞳が僕をしっかりと捉える。
「確認するけど、君は臼井、さんだよね」
「……そうね。私は臼井百合花。さっき呼んだように臼井で構わないわ」
自分の名前を、自分に言い聞かせるようにして臼井は僕に告げる。
「立てる?」
「やってみる」
臼井は立ち上がる。けれど立ち上がった瞬間、よろける。僕は舞踏譜を手にしたまま慌てて彼女を支える。
臼井はしばらく僕の方に体重をかけていたけれど、やがて自分の二本の足で立てるようになる。
「それで、あなたも“鏡の牢獄”に用があるの?」
「へ?」
「舞踏譜のことよ。それは姿見を牢獄に変ずる呪物。そんなものを手にして、何を望むの?」
二本の足で立った臼井は僕の手にある舞踏譜の方へ視線を落として、こちらの真意を確かめようと言葉を発する。
「君の親友の中西を殺した人を、止める力が欲しい。だから、フェナカイトさんから舞踏譜を受け取った」
「そう。あの気取った精霊はフェナカイトというの。まあ名前なんて何だっていいわ。でも忠告しておく。
あなたは役に立たない。役に立たないどころかあの学者の奴隷に変えられる。
それにたとえ舞踏譜を手にしたところで、学者に打ち勝つ力は身につかない。あれはそんなに生易しい存在ではないわ」
臼井のまなざしが急に鋭くなる。瞳が射抜くようにこっちを見る。
「フェナカイトが私をどういうつもりで契約のテーブルにつかせたのかは知らない。
もしあなたのために私が束の間甦ったのだとしたら、悪いけれどそんな冗談に付き合っている暇なんてないわ。
私は私が動ける間にあの女を見つけ出して破壊する。
なぜなら私にとって一番重要なことは、友の運命を弄ぶ者へ復讐することだから。
そういうわけで私はあなたに構っている余裕はない。あなたは遠くへ逃げなさい。そして短い間でも充実した生を送りなさい。
せめて何のために生まれたかを悟れるほど充実した生を」
最後はフェナカイトさんと同じようなことを臼井は言った。
「それと」
パシッ。
「!」
臼井は一方的にしゃべり、かつ僕の手から舞踏譜を取り上げた。
「これは、そもそも人が手にしていい代物じゃない。由美もそうだった。
ここが寸善尺魔の世であっても、楽園に生きる一瞬のために人生を放下するなんて絶対に間違っている。舞踏譜の事は、忘れなさい」
「何すんだ、返せ」と言おうとしたそのとき、
ピッ。
臼井の左手が僕の顔面に向けてまっすぐ伸ばされた。人差し指と中指の先が僕の眼球に接触する寸前で止まっている。
「弱者は強者に逆らってはいけない。理由は意思を貫けるほど強くないから」
二本の指がひっ込む。中指と薬指、そして子指が緩む。逆に残り二本が輪を作ったまま。
バチンッ!
「う!?」
人差し指が撃鉄のように弾ける。僕の眉間を強烈なデコピンが襲う。
たかがデコピンなのに目から火花が出るような強く激しい衝撃を受ける。
「あう!……いって、何すんだよ……」
ようやく視力が回復して周りを見渡すと、さっきのロングヘアのときと同じように、すでに臼井の姿はなかった。
「あいつ、勝手なことばかりいいやがって」
眉間を指の腹でさすりながら、これからどうしようかと涙目の僕は考えた。
肌をさらうような冷たい風が間断なく吹く。凍てつく風にさらされた耳が痛い。たぶん最初から耳は風にさらされて痛かったはずだ。
だけどそれに気づかないほどいろいろなことが一辺におこりすぎて、しばらく気づかなかった。
「臼井のやつ……ふざけんな」
悔しさ、恐怖、不安、焦り、苛立ち、寂しさ。様々な感情が入り混じって、デコピンを食らった時以上に涙が流れる。
「ちくしょう」
自分の肩を手でさすりながら、そんな言葉が自然と洩れた。
弱者は強者に逆らってはいけない。理由は意思を貫けないほど弱いから――。
「弱い」という言葉が、こんなに悔しいとは思わなかった。デコピンひとつで目から火花を出す自分がたまらなく恥ずかしかった。
「せめて何のために生まれたのか悟れるほど充実した生を」と言われた時、すぐに言い返せない自分が悔しかった。
今さっきその覚悟を決めたばかりなのに……。
「ちくしょう」
悔しい。そして逃げ出したくなるほど、恥ずかしい。
「ちくしょう」
でも、逃げない。既に戦うと決めたから。
「ふう、ふう、ふう……」
頭で考えるだけでは答えを出したことにならない。答えを出すということは、行動で示すこと。結局のところ行動するしかない。
「臼井、待ってろよ」
フェナカイトさんは臼井を「僕を護り、鍛える者」として、つまり僕の保護者兼訓練者として生み出した。だったらその臼井に何を言われようと思われようとされようと、協力してもらう。それが叶わないなら何としても、舞踏譜だけは奪い返す。
「よし」
次に打つ手を決め歩き出そうとした。そのとき雑草の中に、月光を照り返して鋭く光るものがあった。何だろうと思って近づいてみるとそれはオイルライターだった。
フェナカイトさんが銀白色の塊を燃やすのに使ったライターは焦げもせず蓋をあけたままの状態でそこに落ちていた。
「ん?」
オイルライターを拾い上げると、その側面に何か破片のようなものがくっついていた。「何だろう」と手に取り捨てようと思った時、それもわずかにキラリと光る。気になって、オイルライターを開き、明かりとして付ける。
「SDカード?」
ライターの炎に照らしだされたそれは、プラスチックの破片ではなく記憶媒体だった。
「あれ……このサイズ」
非日常的なことが続いていてすっかり忘れていたことを思いだし、僕はポケットからスマホを取り出す。
「たぶん、一緒だ」
非日常空間で拾い上げた日常品をもう一度しげしげと眺め、そしてライターの表面の模様を見る。ローマ字で文字が掘られている。
「ペ?シュメール?……ペシュメルガ??」
風が吹く。炎が揺れる。周囲の雑木がざわつく。
「……」
自分とは関係ない、知らない誰かの、何の意味もない拾い物……とはどうしても思えなかった。
「フェナカイトさん……」
カチャン!
僕はライターの蓋を閉じて火を消し、ポケットにしまう。SDカードを自分のスマホのカードと取り換えて挿入する。
今度こそ、廃墟の病院を後にした。
(続)
frater et soror