4:久遠の底で
光に包まれた世界の中で、俺の目に映ったのは、かつて俺と同様に、この空間を使用したものたちの、わずかながら残した記録だった。この空間では、俺は死なない。食事も必要としないし、排泄もしない。歳を取ることも無ければ、死んだらそのままなんてことも無い。死んだらすぐに立ち上がる。幾度も、幾度でも立ち上がり、この空間から出て行くまで。外の世界で目的を達成するのに十分と言える力を得るまで、この空間で行き続ける。先駆者たちには、この世界のものも、俺のように召喚された者たちもいた。目的も手段もばらばら。共通点は唯一つ。元の世界に戻って生きること。そして目的を達成すること。英雄になりたいものもいれば、世界を変えたいものもいた。そんな中で俺のやつらへの仕返しという目的は、いかにも軽薄に見えるが、そんなことは知ったことではない。あいつらの行動が気に入らない。だから叩き潰す。目的などそれだけで十分だ。
光のとけた先にあったのは、自然?
「ここが、“時の箱”のなか?普通の自然に見えるが」
確かにここは、普通の空間だった。普通の大地、普通の川、風。しかし、この場所には、幾つか特殊な存在があるようだ。いつの間にか足元に転がっている、あまりにも長い鎖。そして脇差。これが俺に与えられた武器なのだろう。先駆者たちの中には、普通の槍などを与えられたものもいるというのに、なぜ俺にはこんなに使いにくい武器たちなのだろう。脇差はリーチが短いし、鎖にいたっては、どう扱えばいいのか。自由に操れるものでもない。
「魔法は…使えるのか。ますますわからないな」
精霊を使役して行使する魔法も、この閉鎖された空間では使えるようだ。基本的に魔法は、術者の力量によってその規模と効果、ランクが分かれるが、精霊の質といったものは存在しない。どこにいる精霊でも、大規模な魔法の行使にも、小規模な魔法の連続行使にも耐えられる。精霊が普通通りに存在している限り、術者の魔力が枯渇しなければ魔法は使用できる。しかし、いくら個体ごとの差がないとはいえ、精霊も一つの種族だ。生命体が、この閉鎖された空間にいるとは思えない。いるのならそれが現実なのだろうが。神の御業らしいこの空間に、意見したところで何も変わらないだろう。
足元に落ちている鎖と脇差を拾い上げる。鎖は、よくわからないが恐らく数十メートルはくだらないだろう長さだ。どう立ってこんなものを扱えというのだろうか。
とりあえず、長く伸びている鎖を集めていると、体に不思議な振動が響く。
「月華、この振動は何…。おい、うそだろ」
「クゥーン…」
月華が不安そうに鳴いているが、それも当然。ここから数十メートル離れたところの空間が歪み、何か巨大なモノがその中から姿を見せようとしている。
それを見ながら、俺は乾いた笑いをあげていた。
「修行部屋みたいじゃなくて完全にそうじゃねえか。オーケイ、戦い抜いてやるよ。行くぞ月華!」
先駆者たちが、数多くの獣や、魔物と闘っていた。この空間にはそんな存在がいない様だったが、合点がいく。実際にそんな存在はいなくて、別のところから送り込まれてくるのだろう。俺は、十分な力をつけるまで、この空間で戦い続けるだけ。やってやる。死んでも立ち上がれるのなら、恐れるものなど……ない。
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俺がこの空間にやってきて戦い始めてからどれほどの時間が経っただろうか。おそらく百年は優に過ぎているはずだ。そこまではちゃんと数えていた。そこから先は数えるのをあきらめてしまったが。一本の木に一日ごとに線を刻んでいたら、線を刻みこむスペースがなくなってしまったのだ。そこまでで多分百年。それからさらに倍以上の時間を過ごしたはずだ。この空間に取り込まれてから、俺の体は成長も、生理的活動も、そのすべてを停止した。食事も必要としないし、排せつも行わない。体が汚くなることもほとんどない。汚くなるのは、自ら泥にまみれたりとか、血にまみれたりとか。そんな時ぐらいだ。俺がそんな状況でも、それでも月華は成長を続けているものの、その速度もあてにはならない。灰雪翼狼の生態は詳しくは知らないが、百年で赤ん坊から普通の狼ぐらいの狼にしかならないのはさすがにおかしいだろう。そんな月華も今は車並みの大きさになっているが。
ついでに言うと、この間に俺の死んだ回数は、数える気にもならないほどである。死んでもすぐに復活するし、死にすぎて痛覚がマヒしてきたし、死んだ回数とか自慢にもならないし、百回を超えたあたりから死んだ回数は数えてない。それ以上に魔物を狩ってきた気もするが、さすがに百年以上前の日常的な出来事など覚えていはしない。
いつものように鎖を操り、刀を振り続けていると次の獣が来た。次は___________
「まじかよ死鎌蟷螂かよ」
この空間に来て、一番最初に出会った、無駄に硬くて、無駄に早くて、死神すらビビッて逃げ出しそうなきれいな鎌を持つ蟷螂。あのとき歪んだ空間から出てきたのがこいつだ。あのときは確か、こいつを殺すまでに、八十回くらい死んだかな?死んでは逃げ、死んでは逃げと、情けない逃走劇を繰り返しつつ、死鎌蟷螂の急所を探して、不意打ちでそこをつき殺した。ちなみに、急所は腹の下とかなりシビアな位置に。腹の下で死んだふりをして、蘇生してすぐに刺した。さすがに幼い月華を戦わせる気にはなれないほどの強さなので、月華には待機させて一人で頑張ったのだ。
けど今は____________
「月華、一瞬囮頼む」
「ガウッ」
頼もしい声を聴きながら、刀を引き抜く。俺がここで持った武器は、決して砕けず、決して傷つかない。名刀のような切れ味はないし、羽のような軽さもないが、ただ愚直に、俺についてきてくれるようだ。
「ほっ、と」
死鎌蟷螂の目線がふっ、と月華のほうにずれた瞬間に動き始め、それを無視した死鎌蟷螂が振り向くのに合わせて、側面に回り込む。そして、素人が、何度も、死にながら振り続けた刀を、ただ愚直に、何度も死にながら寝ずに休まずに振り続けた刀を、その一刀を蟷螂の側面に。その固い外殻に真っ直ぐに垂直に振り下ろす。それだけで、あの時に切れなかった外殻は、いともたやすく斬れた。
人間に限界なんかないと。確かにそうだろう。あるのは寿命だけだ。寿命も関係なく、幾度も同じ行動を続けた生命は、ひとつの種が長い時間をかけてたどり着くはずの進化という結果にたどり着くのだ。俺もまた、人の姿をしているが、体の中は、ただの人間とは比べ物にならないぐらい強固になっているだろう。筋繊維はより複雑に絡み合い、密度をまし、骨格は一つ一つが金属以上の強度を持つ。それがこの空間で俺が手に入れたものの一つだ。
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俺もこの空間に取り込まれた日のことなんか覚えていない。ただ、ひたすらに密度の濃い生活を送ってきたということだけはわかる時の中で、その日はやってきた。
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『業“時の箱”の保有者が、退出の権利を満たしたことを確認。最終試練を行います』
虚空から、この世界に取り込まれたときにも聞こえた声が、頭の中に響き渡る。何年もたち、けれど、何故か覚えているその声に、月華も、興奮したように唸り声を上げる。月華は、長い年月の中で、かつてのランガには劣るが、それでもすでにオオカミの域は越えた大きさまで成長した。それでも、幼い日のあの出来事は覚えてるのだろう。
『試練者三十体の撃破と共に、この空間からの退出が実行されます』
その声と共に、空中から染み出るように、金属の体を持つ獣が現れる。狼、鷲、そして人間の形をした、懐かしきあの世界では、ロボットと呼ばれていたあの道具の姿に、俺は思わず苦笑を漏らす。
「そんなのがあるんなら、人間に貸してやれよ」
そうすれば、勇者を呼ぶ必要性も生まれないのに、と。そう呟いてから、気持ちを切り替えるように首を振る。おかげで俺は、あの世界から離れることが出来たのだ。文句などあろうはずがない。
「月華、潰すぞ」
「ガウッ」
相棒の頼もしい声を聴きながら、駆け出す。先頭の、人間型のロボットにたどり着き、異常な速度で振るわれるその拳を、振り上げられる前にかわす。回避されたロボットが体勢を崩した瞬間に、刀が、その駆動部、最もやわらかいと思われるところに突き刺さる。それでも駆動を止めず、足を振り上げるロボットの足が、今度は、最も固いところで切り飛ばされる。
伊達にこの何千何万年間、剣を振り続けたわけではない。いつまでも愚直に振り続けたのだ。筋繊維や骨格が進化しただけでなく、戦闘というものに対する勘も経験も、戦いに関するすべてが進化したのだ。もはや、体からの命令を伝達する神経も進化したのだろう。俺は、この戦いだけの空間に合わせて進化した。戦うための体、神経。
「遅えんだよ、機械ごときが!進化した俺の体なめんな!」
走るのは早くない。そんなことは鍛えていないから。けれど、刀を振るう速度は、それに合わせた足さばきは、体がそれに合わせて進化したから、速くなった。
「これでラストっと」
三十体いたらしいロボットは、俺に攻撃を命中させれず、その全てが、破壊された。最善の攻撃を狙ってくるだけのこいつらは、怖くない。俺も自分で、どこか一番危ないかわかっている。だからよけれる。この程度の獲物では、全力を使うまでもない。
最後のその獣を切り裂いた瞬間に、空間そのものが崩れ始める。何とも気の早いシステムだ。外に出る前に、感傷に浸る時間ぐらいほしいものだ。けれど、
「やっと、戻れるのか」
「ワオーン!」
万感の念を込めてつぶやいた俺の言葉に、応えるように月華の叫び声が、崩れゆく空間への鎮魂歌となった。