1:遭難
「なんだ?こんなとこに人が?」
毛皮でできた服をまとった男が言う。その男に、倒れたまま動けない俺はなんとか動く首を動かして頷く。確かに、復讐するという覚悟は持っていた。それでも、人間が覚悟などでは決してかなわない相手、そう、自然という名の怪物に異世界に行って一時間と立たず行動不能にされた俺は、今はただ、目の前の男の善意を信じ、彼に救ってもらえることを祈るしかないのだ。
俺の祈りが届いたようで、男は渋い顔で振り向く。
「ちっ、仕方ねえ」
そうぼやきながらその男が口笛を吹くと、“吹雪”の向こうから巨大な狼があらわれた。それを見た俺は、そのあまりのでかさに衝撃を感じる。そこで俺の意識は途切れた。
※※※※※※
「こ、こは………」
目を開けると天井が目に入る。建築物ではない、自然の洞窟の天井だ。吹雪の次は自然の天井か。できればエアコンの入った部屋のほうが、今の体にはありがたいだろうが、吹雪の中で冷たくなるよりはましだろう。
「起きたか」
目を開けてぼうっとしていると、隣からそう声がしたのでそちらを向く。低く響く声は、その声の持ち主がかなりの高齢であろうことを容易に想像させる。
彼に見覚えのなかった俺は、素の口調で、間抜けに聞き返した。
「えっと、どちらさまで?」
それに男は不機嫌そうに答える。
「てめえが倒れてたから助けたんだよ」
そちらを向いた俺はその言葉を発した男を見た。そう不機嫌そうに言うのは70代には達した男だ。やけに引き締まった体付きをしている。雪山で着ていたあの服暖かそうだったよな。そう思いだしてから、すべてを思い出した。召喚された理由。生きる理由。神との邂逅。自然の猛威。
そしてなぜ雪山にいたのかも。
あの空間から放り出された後、気が付けば俺はこの雪山に立っていたのだ。召喚された影響で身体能力に補正がかかったのか、その寒さにも少しは耐えられた。寒さというよりは、薄着の俺にとってはもはや痛みすら伴っていたが。そんな寒さの中をどちらへ行けばいいかわからず、ただ当てもなく、歩き回っていた。動かなければ死を待つだけだ、と、とりあえず動いていた。そうこうするうちにやがて吹雪いてきた。その吹雪にも強化された体で耐えれると思ったが、吹雪に対する知識がある訳でもなく、すぐに動けなくなり、そこをこの男に助けられた。純粋な用意不足。あの状況で、用意ができたかは知らないが、俺の力不足が原因だ。もし何らかの力があれば、どうにかできたかも知れない。いや、神にでも、死が待ち受ける場所には飛ばしてくれるなとでも言っておけばよかっただろうか。あの自称神が聞いてくれたかどうかは別として。
「思い出したか?」
そう聞く男に、いくらか落ち着いた頭で答える。
「ああ」
俺がそう答えると、こちらから目をそらす。その傍らには、いくつかの薪の上に、温かそうな火がともっている。それがこの部屋が暖かい理由だろう。天然の壁の先には、まだ空間が広がっているようで、入口のようなものは見えない。俺が、部屋の状況を見ていると老人が、火にかけられていた鍋から、温かそうに湯気を立てる何かを、お椀についでこちらに渡してきた。
「まぁ食え。話はそれからだ」
そう言う老人の言葉に素直にうなずき、そのお椀を受け取りながら、予想以上に体が動くことに驚く。あの極寒の吹雪の中で倒れたのだ。吹雪の中で動けなくなった時の、あの体に力が入らない感覚は、まだ覚えている。力を入れても、動かないのだ。心は、頭は動けと命令しているのに、体が従わない感覚。そんな目にあった体がなぜ動くのか。そんな疑問を感じながら、大人しくお椀の中のスープを食べる。ほのかに甘く、温かいその味に心が安らぐ。
食べ終えると老人が話しかけてきた。
「お前はあんなとこで何をしていた?」
それは、当然の質問だろう。おそらく男からしてみれば、自分しか居ないと思っていたこの秘境の地に(多分秘境だろう。こんな所に人が住める訳がない)軽装の男が一人倒れていたのだ。その姿から、猟師とも思えないだろうし、装備がない時点で、冒険者に相当する職業ではないことがわかる。それに、そんな装備でこんな所までたどり着いた方法も疑問だ。この世界に、召喚魔法と言った類のものが存在するなら、もちろん魔物も存在するだろう。大した武器もなく、外傷は凍傷ぐらいなものだ。
________それ以前に。
軽装で雪山に入るだけの、ただの馬鹿が、こんなとこまで来れるわけがない。お前はいったい何者だ?そういう質問だろう。
だが、いくら当然の質問でも、素直に答えられない。自分だけ情報を晒すなど、お人好しのすることだ。今この場所では、俺に武器と呼べるものは一切ないが、だからこそ、相手に情報を教える対価として、身の安全を得なければならない。そうしなければ、命が危ない。
「あんたの、名は?」
男の質問に、質問で返す。相手が、失礼だと憤るかもしれないが、この男ならないだろう。そう思えた。
案の定、俺の質問に男は躊躇うことなく答える。
「そうか、まだ名乗ってなかったな。ローガン・バリオウだ」
「ローガン、助けてくれてありがとう」
名前を名乗ってくれた誠意に、俺も誠意を返そう。もちろん、俺を救ってくれたことに対する感謝は、あって当然だ。奴らの悪意に、悪意でもって対応するように。彼の善意に、善意でもって対応する。それが、なんだかんだ言って、揺らぎやすい俺が、貫けるただ一つのことだ。命を救ってもらうという計り知れないその善意に、俺も確かに、この男を信用しようという気持ちが生まれる。どちらかというと、意志よりは願望だろうか。伝手もつながりもないこの世界で、初めてあった男ぐらい信じたいという願望だ。
「気にすんな、久しぶりの人間が懐かしかっただけだ。それで、なにがあった?」
雪山で見せた厳しい顔とは打って変わった、柔和な顔を見せるローガンに、俺の心は、確実に緩んでいた。そして俺はすべてを話した。前世についての事から召喚されるまでの事を。不用意かもしれない。だが、自分を助けてくれたこの老人は、自分に、一度も悪意を見せていない。悪意を見せるまでは、正直でいいだろう。それに、この状況で人を疑うには、俺の心は疲れすぎていた。
そして、すべてを語った俺に、ローガンはただ一言。
「大変だったな」と。笑いながら声をかけた。気付かないうちに、俺の目から、透明な滴があふれていた。