0:狭間にて
「何なんだよ、ここは!?」
「おいっ、家に帰せよ!」
「嫌よ、こんな世界!」
呆然として黙ったままの俺の近くで、少年少女が叫んでいる。辺りはすべて白い壁に包まれている。いや、もしかしたら壁などないのかもしれない。ただ、壁や床の区別もつかない空間が、どこまでも広がっている。なぜこうなったのか、この白い空間はどこなのか。そもそもの初まりは、今日の朝にさかのぼる。
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「おはようございます」
「おはよう」
俺は、学校の設備の点検をしている俺のそばを、少年少女たちが通り過ぎていく。今は朝の八時。ちょうど登校してくる生徒の多い時間だ。
「用務員さん、この学校の配電盤ってどこにありますか」
近くで、修理の手伝いをしてくれている要務委員の人に声をかける。俺と同じ年ぐらいの用務員さんは、行動も早く、仕事の手伝いをしてくれる人としてはありがたい。
この学校には、仕事の上司から、
『設備の点検に行ってくれ』
とだけ言われて送り出された。初めの予定では、設備の修理などする予定でもなかったし、点検する設備も一つだったはずだ。それが意図的なのか、過失なのかはわからないが、学校側から修理という話を伝えれられ、しかも複数の設備についてだった。生徒がふざけていて壊してしまったらしい。
あの頑丈な配電盤を破壊するとか、どう考えても、ふざけていたというような話では済まない。外から見ても、何かで殴られたのは歴然だ。それでも、ちゃんと修理しなければならない。それが学校側からの依頼だからだ。学校が依頼しているといっている以上は、それを疑う証拠がないし、会社に抗議してもおそらくはぐらかされるだろう。そして、それに対応しても、どちらからも謝罪などない。それが俺の仕事だ。
大学を卒業してから、就職できる会社が見つからず、地元の人から紹介されて今の会社に入った。しかし、その会社はひどいブラック企業だった。土日の休みをとろうものなら睨まれるし、一日の仕事量も、絶対に勤務時間内では終わらないような量を課される。そしてやらなかったら、減給だ。そんな無茶苦茶な会社に腹が立つし、何よりそんな環境に陥るしかなかった自分に腹がたつ。どうせ世界は理不尽なものだろう、と、ニュースで見る世界の国々と日本を比較して納得していた。それでも、自分に降りかかったら話は別だ。親父は俺が大学在学中に病死してしまった。そこからも大学に通えたのは、ひとえに母のおかげだ。彼女が必死に働いてくれたからこそ、四年間通い続けることができた。
しかし、そこからが大変だった。俺が大学を卒業したころには、母の体はボロボロだった。何せ大学には金がかかる。生活費も含めて、一時は働いていなかった母には、重労働だったのだ。そして、そんな俺たち家族を、どの親戚も助けてはくれなかった。ひどいところは、連絡が取れなくなるようなところもあった。そしてわかった。世界がやさしいのは、優しくする価値のあるものだけだ、と。この日本からはみ出した俺には救いの手などない。アフリカの人々が救われるのは、それを救うことによって救った側が、誰かを救ったという事実を得たいだけだ。要するに自己満足だ。それでも、生きるためには働らかなければならない。この環境から逃げる勇気のない自分が、心底いやになる。
「こっちです」
用務員さんに連れられて、歩き出した時だった。
足元に広がる、紫色の巨大な文様。それが、小説などでよく見たことのある魔方陣に似ている、と感じた時には、視界が光に包まれていた。
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そして現在ここにいるということだ。どうやら、生徒や俺、教師など数十人単位で飛ばされたようだ。いわゆる召喚、というやつなのだろう。どうやら、召喚されたのには時間差があったようで、俺がこの場所に来た時には、複数の生徒が叫んでいた。そんな状況に気づける俺は、かなり落ち着いているようだ。アニメや小説でこのような状況を知っていたからだろう。それでも、俺には気付けていないものもあった。
頭の奥にぽっかりとある、巨大な空白。それは、今はまだ、桃李には、知る由もないことである。
なぜなら、そこで何者かが話し始めたから。
『まぁまぁ落ち着きたまえ』
その声は虚空から響いてきた。いや、頭の中に響いてきた。深みのある男性の声。その声はこう名乗った。
『やっと落ち着いたかな。改めて自己紹介しよう。私は君達が、これから勇者として旅立つ世界の神だ。』
ここで流石に、俺の想像の域を越えた。急に召喚されたら今度は目の前に神がいる?意味が分からない。中途半端に異世界直の知識があるので、この神の性質や、今後何が起きるかなどに、思考が逃げだす。
そんな俺を置いて、早くも衝撃から立ち直った、もしくは八つ当たりのように少年達が叫ぶ。
「だからふざけたこといってんじゃねえよ!」
「勇者ってなんだよ!!!」
「そうだ、家に帰せよ!」
彼らがそう叫んでいるのもよくわかる。
今まで平和な世界にいたのだ。いきなり勇者になれと言われても、わくわくより先に恐怖しか感じない。勇者や英雄の物語は、他人事として見ているからわくわくできるのであって、自分が体験するとなれば、わくわくはあれど、恐怖のほうが大きいだろう。それを納得したくない彼らの心が、叫びという結果になって表れる。
しかし、神と呼ばれたその存在は非情だった。いや、非情ではない神などいないのか。神は人々を救うが、気分だけで国を消す。其れが神だ。この神はどんな神だろうか。
『それはできない。君達を召喚しようとする人々は、確か
な手続きを行った。それに私が答えないわけにはいかない』
手続きというと何かの儀式だろうか。
その言葉に、少年たちの間に絶望が満ちる。もとの世界に戻ることはかなわないのだと。戦わなければならないのだと。
だからこそ、
『心配しないでくれ。君達には“神の加護”が与えられる』
神の慰めるようなその言葉に少し安堵したような空気が漂う。神の言う加護。それは、確実にチートやそう言ったものの類だろう。俺には、そんな予想が容易にできた。しかし、
『そうそう、一つ忘れていた。召喚者達の術に少し矛盾があってね。世界から導かれるのが、彼らのもとに召喚される人数より一人多いんだよ。だからね、君達の中から一人選べ。違うところに飛ばしてあげるから』
続く神の言葉にまた周りが騒がしくなる。ここにいる人々の中から、一人を選んで見捨てろ、と。それぞれが、自分はそうなりたくないと思っているようだが、、コレって俺が一番詰んだんじゃないか?なんせ学校の直接的な関係者ではない。生徒か教師から一人を選んで見捨てるぐらいなら、全く関係ない俺を選ぶだろう。いくら教師といえど、我が身がかわいいだろうし、生徒を見捨てれないだろう。自分が見捨てられそうな状況にも、納得ができる。
________それが人だから。
俺だって、一人だけ関係ないような奴が混ざっていたらそうする。
己に関係ない人なら平気で見捨て、たとえ関係があったとしても、己の保身の為になら見捨てることが出来る。本当の窮地で、友に救ってもらえるような奴は、相当信頼されている奴ぐらいだ。強敵との戦いの最中に駆けつけてくれるような仲間が。『先に行け』と。死亡フラグでもって見送ってくれるような仲間が。そんなものは、全員が主人公になるために生まれた世界で、唯一の主人公として輝けるような奴しか持っていない。決して、俺を含めどこの世界でもその他大勢になるような奴には一生かかっても作れるようなものではない。
俺はこの時すでに諦めていた。自分を守れるのは自分しかいないのだ。この場に知り合いがいない俺からすれば、文字道理の意味だ。だが、例え俺を選ぶなと、そう主張しても無駄だろう。最も合理的な決め方として、多数決というものがあり、この場には俺の仲間はいないのだから。
俺は見捨てられることにもなれている。いじめの対象になれば仲間が消え、いじめから逃げ出せば、だれも手を貸さなくなる。自分の思い通りに生きようとすれば周囲から文句を言われ、まわりに従って生きようとすれば、いざという時に駒にされる。そんな生きづらい世界から逃げられた。それだけで御の字としよう。次の世界が、あの世界と違うという確証はないが。もうすでに、あの世界と呼べるほど、あの世界は、俺にとっては大切なものではなかった。唯一の心懸かりは、置いてきてしまった母だが、病院にいる限り、放り出されはしないだろう。そんな母より、これからの自分を大切に思ってしまう俺も、どうしようもなく醜く、それこそが人間だと思う。それが俺だ。自分が大好きで、自分の心に忠実で、どこまでも楽しみたいと願う。そんな人間が何人も集まれば社会が成り立たないだろうが、そんな社会は必要ないと思う。
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『ふむ、残ったのは君か』
結局、俺以外の満場一致で俺が選ばれ、残りは神の生み出した門を潜って、異世界へと、英雄への道を踏み出しって行った。数人の生徒は俺に、申し訳なさそうな顔を向けながら出て行った。それでも、全員が、俺を、生贄に選んだ。知り合いや、友達と比べれば、見知らぬ他人など、その程度のものだ。少し意外だったのは、教師が誰も申し訳なさそうな目をしなかったことだろうか。生徒のほうがよほど人間ができている。
「ああ、仕方ない。アイツラはもともと知り合いだったし、外部の俺が選ばれそうだって初めからで気づいた」
そう、絶対に選ばれるとわかって、それでも、何もできなかった。ただ己の、無力ゆえに。
『存外落ち着いてる』
興味深そうに神が言う。
「こういう見捨てられた状況は慣れてるさ。それより俺には神の加護ってのはないのか?」
そう言うと、神の声が明るくなる。俺のしゃべり方が気に入らないわけではなさそうだが…。
『ハハ、面白いことを言うね。それじゃあ一個だけ聞きたい。君は、何がしたい?』
『何がしたい?』その言葉は、確かに見えないはずの神の表情を想像させるには十分なくらい、期待に満ち溢れていた。何への期待だ?何がこの神をそんなに喜ばせている?
何を、か。生きること。俺であること。いや違うな。俺がいつでも願っていたのは、そんなありきたりなことじゃない。その生きた上に何を見るのか。それをこそ願うのだ。
だから、もうアイツラに関わらず、一人、もしくはあっちで出来る仲間と静かに暮らせればそれで良い。
__________そんなことを思うわけがない。
頑張る事に疲れた?生憎と、楽しいことで疲れてもそれをやめる気はない。
一人で生きるのは難しい?難しいから生きるのをやめるのか?それならあんな世界生きていない。
どうせ、一人になるのならちょうどいい。全員で俺を見限ってくれたのも好都合だ。ならば、
「奴らに復讐をしたい」
ただ一言、思いを込めてそれを呟く。
『ほう。面白そうだ。だけどね、あんまり強い力は上げれないよ。だって、英雄が、すぐに死んでしまったら面白くないだろう?だから、君が、全力でやれば、英雄たちに勝てるような、対勇者専用の、力も上げよう』
ほんとに楽しそうに言う神に、俺も口角が吊り上がる。
「も、ってことは、別にもくれるんだな」
『当然だ。君の本来の力、特別ではない力を、あげるよ』
その神の言葉をきっかけに、空間が歪み、俺はただ一人、生も死もわからない、けれど、果てしなく美しいであろう、俺の生きていく、楽しんでいく世界に放り出される。何が待っているのか、何を超えるのか。それはわからない。けれど、確かに、生きていくそれは、あっちよりも楽しいだろう。