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九 悪党ども歌ってみるか! 地獄の数え唄!!

九 悪党ども歌ってみるか! 地獄の数え唄!!

「ドリャアーッ!」猛死が咆哮する。

 給食の載っていた机が猛死に蹴り飛ばされる。給食は辺りに飛び散り、周りの生徒達は悲鳴を上げ逃げ回る。

「ヒ、ヒィーッ!」

「コ、コッペパンだけでも安全な場所に……」

 生徒達は持てるだけの給食を抱えて教室の中を逃げ回る。

「いい腹ごなしだっ! ここで決着を付けてやるぜえっ!」

 両腕を広げ仁王立ちする猛死。その腕は、今にも一狼に向かって振り下ろされ様としている。

「学校生活に於いて、給食の時間を台無しにした罪は重い」一狼が言い放つ。

 だが、一狼は立ったままである……。

 そう一狼はこの凶暴な襲撃者に対して構え一つ取らないのだ!

「ドリャアッ!」

 唸る猛死の豪腕。

 だが一狼の身体、紙一重で触れる事は出来ない。

「ドリャアッ!」

 返しの豪腕が振り下ろされる。

 一狼には当たらない。

「これなら、どうだっ!」

 猛死が回りの椅子を手に取る。その数、六つ……。

 一狼の身体に椅子の雨が降る!

「どうだっ! これなら何処にも避ける場所は無いだろうっ! 例え避ける事が出来たとしても俺がお前を逃がさねえ。お前はその椅子のシャワーを浴びるか、俺にぶちのめされるか二つに一つだっ。どうした、お前に考えている時間は無いぜっ!」

「チョアッ!」

 一狼の飛び後ろ回し蹴りが椅子のシャワーを蹴り散らす。

「馬鹿めっ! 俺はお前が椅子を薙ぎ払うのを待っていたんだっ! お前は攻撃の後で次の体勢が取れまい。これでお前は終わりだっ!」

「ドリャアッ!」響き渡る猛死の咆哮。

 一狼に振り下ろされる豪腕!

 ブンッ!

 だが、振り下ろした先に一狼の姿は無かった。

「な、何ぃっ!?」

「こっちだボス猿」

 後方を振り向く猛死。其処にはいつあの攻撃を避けたのか一狼の姿がある。

「遅すぎて欠伸が出るぜ」

「ば、馬鹿な……。俺は確かに奴に向かって拳を……」

「決着を付けるんじゃなかったのか?」

「グ……グガァーッ!」響き渡る猛死の咆哮。

 恐怖に彩られた表情の猛死は一郎に向かって躍りかかった。その腕が闇雲に一狼に向かって振り落とされる。だがそれは空しい足掻きでしかなかった。一狼の拳が猛死の顔面に叩き込まれる。

「チョアッ!」耳をつんざく一狼の怪鳥音。

「グハァッ!」

 噴き出す猛死の鼻血!

 一狼の攻撃は止まらない。返しの往復ビンタが猛死の両頬を腫らす。

「ヘブッ!」

 続けざまのバックスピンキックが猛死のどてっ腹にめり込む。

「オブゥッ!」

「止めだ」

 いつの間に回りこんだのか、一狼は背後から猛死の耳元に囁く。猛死は恐怖の表情を浮かべ後を振り返ろうとする。

 だがっ……。

 既に一狼の両手は猛死の腰に回されている!

「ヒッ! た、助け……」

「三途の川を渡る橋を架けてやる」

「ヒッ……、ヒィッ!」

 一狼によって抱え上げられた猛死。その身体は一狼が身体を後方に仰け反らせるスピードで、弓なりにしなっている。

 一狼の身体は倒れる事無く弧を描いて加速度を早める……。

 後頭部から地面に叩きつけられる猛死!

 叩きつけた後も一狼の身体は弧を描いている。

 人間橋……。

 一狼の身体はこの世で最も美しいアーチ橋を描いていた!

 そしてその橋は、猛死の巨大な身体を支えていても崩れる事が無い。

「なんて美しいブリッジなんだ……」

「しかも、三秒以上ブリッジを続けたままだぜ……」

「げ、原爆固め(ジャーマンスープレックス)っ……!」

「原爆固めっ!?」

「あぁ、あれは原爆固めだ……。かつて人類が戦いを神に捧げていた時代、偉大なる戦士レスラー達がいた。その中でも伝説と呼ばれる戦士が使っていた決めフィニッシュホールド。それが原爆固めだっ!」

 猛死軍団の残党に恐怖が走り渡った!


 繰り広げられていた戦いが終わった。

「や、やったぜっ……!」

 一人の男子生徒が一狼の前に立つ。その姿は制服は破れ、口や鼻は血が滲んでいる。

「勝ったんだっ……! 猛死軍団はもう居ないっ!」

 自分の席に座り瞑想していた一狼が目を開く。

「頼むっ! 俺達の委員長になってくれっ!」男子生徒が叫ぶ。

「猛死軍団を倒したとしても、これからどんな敵が襲って来るか解らないっ! 俺達には強力なリーダーが必要なんだっ!」

「断る。俺は俺以外の事に関わるつもりは無い」

「頼むっ! もう何かしてくれと頼むつもりは無いっ! 俺達に戦う気持ちを思い出させてくれた、あんたが居るだけでいいんだっ!」

 一狼が再び目を閉じる。

「解った、無理強いして済まなかった……。だが俺達はもう諦めない。それを教えてくれたのはあんただ。感謝するぜっ!」

 男子生徒は歩き去ろうとする。

「待て」

 男子生徒が振り返る。

「俺は授業と給食の挨拶しかしない。このクラスをどうするかはお前達の決める事だ」

「あ、有難う委員長っ……!」

「俺の事は一狼と呼べ」

「有難う一狼。前に一度自己紹介したんだが覚えてないだろう。俺の名前は……」

「礼には及ばない。……ケンタ」

「覚えてて……。それじゃあ一狼っ! さっそく委員長としての初仕事をしてくれっ!」

 一狼が手を合わせる。

「ごちそう様でした」

「ごちそう様でしたっ!」クラスの生徒達の声が響き渡る。

 その姿は男女共に制服は破れ、顔や手は血で汚れている。だが全ての生徒の顔は晴れやかだ。

 今、一狼はB組の委員長となったのだ!


10

 給食を食べ終わるとクラスの男子の半分は教室を出て行く。山田武史とその取り巻き達も出て行く。机の上には給食のトレイと食器が置きっ放しだ。

 誰が片付けるかと言うと、それは勿論、僕と健太だ。

 早く出ないと体育館が占領されるとかいう訳の解らない理屈で、食器の片付けを僕達に押し付けていく訳なのだが、その頭の中の合理性の無い思考と、動き回ってさえいれば楽しいと思える幼児性には呆れるばかりだ。

 担任の中年女性は『困った子達ねっ!』と口では言うがその表情は満足げな笑顔だ。

 僕達が困ってるんだよ!

 とでも言ってやりたい所だが、何故か僕達の方が『君達も外で元気で遊びなさいっ!』と叱られたり『嫌な事は嫌って言ってもいいんだよ……』と憐れみの視線で呟かれるので、この担任には関わらない様にしている。

「一郎、吉田様が……」健太が言う。

 吉田に目をやると、いつもの様にノートに突っ伏す様にして何か書いていた。だがペンを持つ手とは逆の手の指が立てられた。

 三本……。

 二本……。

 最初の三本は校舎の階数。次の二本は階段を登ってからの教室の数。つまり今日の集会ギャザリングは化学実験室で行われるという事だ。

 まぁ、いつもの場所でしかないのだが……。

「了解した」僕は呟いた。

「もうお腹が空いた、ラーメンが食べないなー……」健太が言った。

 吉田がニヤリと笑った。

 健太のセリフが『ラーメンが食べないなー』の場合は了解、『牛丼が食べないなー』の場合は『再考を願う』という返事の意味だった。

「健太君、もうお腹が空いたって言うのっ!?」担任の中年女性が言った。

 まだ教室に残って居たのだ。

「いえそういう訳じゃ……。すいません……」

「健太君。責める訳じゃないけれど健太君は中学生らしさが足らないと思うわ。責める訳じゃないのよ? でも健太君はいつも他の子達に比べて積極性が足りないし、他の皆より自主性が足りないと思うわ。責める訳じゃないのよ? でも健太君は……」

 健太は何故か担任に怒られていた。

 これで健太の昼休みは潰れる筈だ。


「それで設定は完了したのかね?」僕は尋ねた。

「あぁ、我ながら恐ろしい迄の世界を作り上げてしまった……。この作品が発表された時、現実と創作の区別が付かない引き篭もりニートが、また大量生産されると思うと実に心苦しいよ」

 吉田はニヤリと笑った。

 このキジ○シめ……。

「それじゃあプレゼンテーションをお願いしようか」

 吉田が僕と健太の前にノートを差し出した。

 化学実験室の中はいつもの様に黒いカーテンが締め切られていた。その中で僕達が座る机の上の蛍光灯だけが灯されていた。

 ここの実験室は丁度、職員室からも教室からも、部活をやっているグラウンドからも死角となる場所にあった。そして本来なら文科系の部活が活動を行っていてもおかしくは無い。だがあいにく僕の通う中学校では、文科系の部活とは運動部に入らない人間の戸籍でしかなかった。

 僕自身何かの文化部に入っているのだが、今まで活動したのは五本の指でも余るぐらいの回数だった。

 吉田は机に両肘を着き、目の前で両手の指を組み合わせて僕等を眺めていた。メガネは逆光で白く光り、その表情を窺い知る事は出来ない。

 僕はノートの表紙を捲った。

 其処には以前見た時と同じ、やたらと顎の尖った男のイラストで埋め尽くされていた。

「アンガス・マク・オグ・刹那……。この物語の主人公だ」

 僕はゴクリと唾を飲み込んだ……。

「刹那は生まれながらにして呪われた宿命を背負った男だ。生れ落ちるとすぐに父たる王は家来に今すぐ刹那の命を絶てと告げる。それは刹那の両目が右が碧眼、左が紅い目をした赤子だったからだ。王は占いによって告げられていたのだ。蒼と紅の目を持つ男が王の命を奪うと。そしてその両目には、世界を揺るがすある能力が秘められているのだが、その秘密が明かされるのはまだ先の話だ……。話を戻そう。王に王子を殺すように命令された家来だったが、一目王子を見た瞬間殺すのが躊躇われた。それぐらい赤ん坊の刹那は愛らしかったのだ。家来は一計を案じる。王には殺したと言って赤ん坊を自分の家に隠し、自らの赤ん坊を亡くしたばかりの妻に預ければ良いのではないかと。そうして家来は刹那を家に連れ帰ると……」吉田の話は続いた。

 凄まじく長く続いた……。

「……そうして刹那は新宿の裏社会に生きる。一匹狼として日々命を狙われ続けながら」ようやく吉田の話が終わった。

 何と言う事だ……。

 この話は日本が舞台だったのか!

「少し端折ってしまったが大よその概観は解って貰えただろう。次のページを捲ってくれ」

 僕は震える手でページを捲った……。

 そこにも顎の尖った男のイラストが埋め尽くされていた。

「こ、これは……?」

「ディアン・ケヒト・黎明……。この物語のもう一人の主人公だ」吉田は言った。

「黎明は生まれながらにして悲運を定められた男だ。それは幼少期……」

「ま、待ってくれっ!」

「何だね?」

「この黎明とやらの話も日本が舞台なのか……?」

「そうとも言えるが違うとも言える。それは黎明が幼少の頃、時代は日露戦争間近、舞台はロシアのハバロフスク……」吉田の話は続いた。

 永遠と思える時間続いた……。

「……そうして黎明は新宿の裏社会で刹那の命を狙い続けている。血を分けた兄弟だという事も知らずに」ようやく吉田の話が終わった。

 僅か二ページで三時間が過ぎていた……。

「では次のページを……」

「ま、待ってくれっ!」

「何だ?」

「説明は後で聞こう……。最終的に僕達は一体何を手伝えばいいんだ?」

「うむ、では先にそれを言っておこう。君達には僕の漫画の背景を描いて欲しい。僕はキャラを描くのに専念したいのだ」

「背景か……。僕は絵を描けるけど健太は描けないんじゃないのか?」

「何、写真のトレースでも何でもして下書きぐらいはどうにかなるだろう。いやそのブタには私の為に是が非でもやって貰う。なぁ健太君?」

「ヒッ……、ヒィッ!」健太は悲鳴を上げた。

 吉田はニヤニヤと笑みを浮かべていた。

「解った。ではまず何を描けばいいんだ?」

「そうだな……」

 吉田はニヤリと笑う。

「まずはオープニングの見開き2ページ……。空から新宿のコンクリートジャングルのビル郡を俯瞰する絵っ!」吉田が叫ぶ。

「な、何っ!?」

「次は、その視点がズームインし芥子粒の様な雑踏が見えるっ!」吉田が続ける。

「さらにズームインすると、雑踏の人の流れを無視し対峙する刹那と黎明の姿が見えるっ!」

「次は横からのカメラっ! 二人は血だらけで日本刀を手にし荒い息を続ける。背景は乾いた都会を象徴するかの様な都会のビル郡と歩き続ける会社員達。会社員達はまるで二人の姿が目に入らないかの様に虚ろな目で歩き続けるっ!」

「とりあえず君達にはこの背景を描いてもらうっ……!」

 吉田は興奮した為かゼェゼェと荒い息を続けていた。

 く、狂っている、

 だがっ……。

 天才かもしれない!

 この大胆な構図は、恐らく最初の一ページ目で読者の関心を鷲掴みにし、次のズームインでマクロからミクロへの転換を想起し、横からの対峙するシーンで、二人は時間と空間を超越した戦いを繰り広げている事を連想させる事だろう。何という大胆な発想だ。吉田は僕にとって侮れない好敵手ライヴァルになるかもしれない。

 何故ならこの構図は……。

 僕が思い描いていたシーンと全く一緒の構図だったからだ!

「解った……。その原稿書かせて貰おう」

「君ならそう言ってくれると思っていたよ。そうだな締め切りは四日後。今週中に仕上げてくれれば……」

「二日だ」

「何?」

「二日後にはその原稿仕上げさせて貰う」

 僕はニヤリと笑った。吉田もお返しにニヤリと笑った。

 吉田陽子……。

 恐ろしい女だ。その長すぎる前髪とリバイバルの流行を追っている為とはとても思えない大きい黒メガネで、顔の造形は解らないが恐らく醜女と想像するに足る容姿だろう。いや実はメガネを外したら絶世の美少女という可能性がtotoBIGを当てるぐらいの確率で存在するかもしれない。しかしそうであってもこんな狂気の世界に生きている女とは関わりたくは無いものだ。

 だがその才能恐るべし……。

 この女は僕の好敵手ライヴァルになると確信した!

 僕は席から立ち上がった。

 扉を開け廊下を歩き始めた。

 教室から『さっさと教室を片付けるんだブタめっ!』と叫ぶ声が聞こえてた。

 家に帰ってからペンも原稿用紙も持っていない事に気付いた。


11

 ビリィッ!

「な、何をするんだ吉田っ!?」

 僕が魂を込めまさに命を削って描いた玉稿が、吉田の手で真っ二つに切り裂かれてハラリと落ちた。

「ら、乱心したかっ!?」

「君には失望したよ……」

 落ちた原稿を必死で拾おうとしながら仰ぎ見た。メガネの奥から蔑みの光が宿る目で見下ろされている。

「どういう意味だねっ!?」

「言葉通りだよ……。君の腕前を些か買いかぶり過ぎていた様だ。君の原稿は子供の児戯にも劣る悪戯書きだいう事だよ」

 こ、こいつ何という戯言を!

「そ、それは君の審美眼が曇っているせいなんじゃないのかね……。人に見せる事無く一人で作品を作っていると近視眼的な評価しか下せないと言う。どうやら君は視野狭窄に陥っている様だねっ!?」

 吉田の顔の前に、僕は切り裂かれた原稿を突き付けた。

 吉田は健太に顎で何かを命じた。健太が僕の手から原稿を受け取った。

 フフッ、健太なら僕の作品を正しく評価を……。

 ビリィッ!

「な、何をするんだ健太っ!?」

 健太は原稿が二つだったものを、四つに分解して地面にハラハラと落とした。

「作画駄目すぎ」健太は言った。

「そもそもこれビルに見えないよ。何で四角形が伸びてるだけなの? 遠近法って知ってる? これ大きいビルも小さいビルも全部同じに見えるんだけど。そもそもこれビルに見えないよ。なんで窓無いの? それに絵が白っぽいんだけど? そもそもこれビルに見えないよ。 何で定規使わないで線引いてるの? これ線が歪んでるの何かの演出なの? そもそもこれビルに……」

 健太は信じられない妄言と暴言と虚言を吐き続けた。

 こ、この芸術を理解しない無知蒙昧の輩め……。

 それとも悪魔に魂を売ったか!

「仕方が無い……。背景を描いてからと思っていたが、まず私が人物を書いてから背景を書き入れて貰う事にしよう。それまで少しは見られる絵を描ける様になって貰わないと困るよ?」

 吉田はフフッ……と鼻で笑うと科学準備室を出て行った。

「まだまだだね」健太はそう言った。

 そして部屋のカーテンを開き掃除を開始した。こいつはすっかり調教されてしまった様だ。

 吉田陽子……。

 それではお前の実力見せて貰おう!


12

 吉田は僕に原稿を差し出した。

 その中身は……。

「どうだね我が血肉を与えし叙事詩のタペストリーは?」

 相変わらず下手だった!

「今こうして黎明と刹那が、宿命の糸に手繰り寄せられたかの様に対峙しているっ!」

 どっちがどっちか解らない!

「黎明が持つ天之尾羽張アメノオハバリが振り下ろされ、刹那の持つ天羽々アマノハバキリが受け止めるっ!」

 何を持っているだって!?

「その刃は幾百人の魂を吸い込んで来た為に妖しく光るっ!」

 これは刀だったのか!

「どうだね……? それが本当の決闘デュエルというものだ」

 僕は言葉を失った……。

 原稿に描かれたイラストは相変わらず顎の尖った男が二人、何故か上半身裸で手に持ったハリセンで叩き合っている姿だった。その顔はどちらがどちらか判別は不可能であった。そもそも左右に向かい合って立っているというのに、右の男も左の男も顔の向きが同じ方向で立っているという骨格からしておかしかった。僕は吉田の話す叙事詩につい感銘を受けてしまったものの、こいつのイラストを初めて見た時のショックを忘れていた事に今気付いた。

「感想を聞こう……。忌憚の無い意見を聞こうじゃないか」

 吉田は自信に満ちた笑みを浮かべた。

「う、うむ……。そうだな、まずは健太の意見を聞いてみよう」

 健太は恐怖に染まった表情を浮かべた。次第にその表情は、苦痛と苦悩と苦悶に満ちた色に染められて行った。

 健太の顔や首筋に大量の体液が噴出する……。

「す……、素晴らしい玉稿賜りまして、見に余る光栄に身を打ち震わさんばかりです……」

 健太は深々と頭を垂れた。

「そうかそうか……。何、あくまでもやるべき事をやったまでだ。そこまでしゃっちょこばる必要は無い。頭を上げよ」

 健太は頭を上げると、ハンカチで溢れ出る体液を拭っていた……。

 な、何という日和見主義!

 とは言え僕も弱みを握られている以上、機嫌を損ねるような事は言えない。

「例えば……。あくまでも例えばの話だが……」僕は言った。

「もしこの作品を見て下手だという感想をもたらされた場合はどうするね……?」

 その瞬間、吉田の目がカッと見開かれた!

 長い前髪で普段は見えない瞳が爛爛と光を放つのが見えた。その瞳の奥で燃え盛る黒い炎はあらゆるものを焼き尽くす勢いを見せ、その炎の熱に浮かされた様に身体を瘧に罹ったかの様にブルブルと震わせていた。

「ヒ……、ヒィッ!」健太が悲鳴を上げた。

 机の上の一つだけ灯された蛍光灯がジジッ……と一瞬明滅した気がした。

「き、君は僕の原稿を侮辱するのかっ……!?」

「ま、待ってくれ給えっ! それは誤解だっ!」

「誤解だと……?」

 吉田は口からフシューフシュー……という不気味な呼吸音を出している。

「そ、その通りだっ! この原稿は下手なのではないっ! この原稿は……」

 僕は一瞬、吉田の絵に目を向けた。

「上手過ぎるのだっ!」

「上手過ぎる……だと……?」

 吉田は怪訝な表情を浮かべた。

「そうだ……。この原稿はまるでカラバッジョの如き写実性と光と陰の鮮やかさ、クリムトの如き官能と色彩感覚を髣髴とさせる。白黒であるにも関わらずにだっ!」

「ならば一体何の問題が……」

「それでは駄目なのだっ! 現代の読者にとって絵とは絵画では無いのだっ! 現代の読者にとって絵とはイラストなのだ。漫画なのだ。カラバッジョやクリムトの絵は求められていない。凡人の読者が求めているのは……」僕は言った。

「どこかで見た事の有りそうなハンコ絵なのだっ!」

「……何……だと……!」吉田が息を呑んだ。

 教室の中に静寂の帳が降り、吉田がうな垂れた。

「悔しい……。悔しいよ自分の才能が。僕は余りにも高みに上り過ぎていて、後を付いて来る者は既に居なくなっていたのか……」

「ようやく解ってくれたようだね? 残念だが今回は見送る事に……」

「待て」

 吉田が頭を持ち上げた。

「確かに僕の絵は余りにも高尚過ぎて、漫画の絵からかけ離れていたかもしれない。だがっ!」吉田は叫んだ。

「イラストとしては最高レベルのものになるだろう……」

 吉田はフシューフシュー……と怪しい息を吐いていた。

「ど、どういう意味だね……」

「漫画はやめだ」

「え?」

「漫画という媒体でこの叙事詩を書き綴ろうと思っていたがやめにする……。僕の絵に大衆が付いて来るにはまだ時間が掛かりそうだ。その代わりに媒体を変える。この叙事詩が語られるのは小説という媒体でだ。そして僕の絵はその挿絵として使われる」

 こ、この悪魔はまだ懲りないのか……。

「そもそも叙事詩とは、ホメロスのオデュッセイアの時代から文章で記されるのが仕来りだ。僕もその仕来りに従おうじゃないか」

「し、しかしっ……!」

「君達もその黎明と刹那の背景を描くのを続けてくれ給え。僕もあと五カット程仕上げてくる事にしよう。くれぐれも僕を失望させないでくれたまえよ。では今日の集会は……」

「ま、待ってくれっ!」

 僕は席から立ち上がり右手で言葉を止めた。

「何だね、もう議題は残っていない筈だが?」

「その叙事詩の作成、絵だけではなく記述にも僕に手伝わせて欲しいっ!」

 吉田の眉がピクリと上がるのが見えた。

「知っての通り僕も一編の叙事詩サーガを書き連ねている。既に大よその骨格は完成し後は世に出すばかりだ。だがそれは孤独な道程だった……」僕は続けた。

「あのクラスでこのような文化的、創造的な活動をしているのは僕一人だと思っていた。皆その日の快楽……、サッカーをしたり、テレビタレントの写真を切り抜いたり、まだ結成してもいない自分達のバンド名を決めたりする事しか考えていない人間と思っていた。それはまるで享楽に耽る古代ローマ帝国の市民のように。だがっ……!」

「ここに僕以外のもう一人のホメロスが居たのだっ! それは衝撃だったっ! その世界の成り立ち、いや宇宙の成り立ちすら想起させる叙事詩。僕はその才能に恐れ嫉妬したよ……」

「気を落とすな……。天才とは努力では近づけないからこそ天才なのだ」

 吉田がメガネを直す。

「だが僕は僕自身の叙事詩を完成させたいっ! 例え比べられ評価が低かろうとしてもだ。どうだろう、その叙事詩の記述に僕も参加させてくれないかっ!? 君程の才能は無いかもしれない。だがきっと僕の感性は君の創作に良い刺激となる筈だっ!」

 吉田は顔の前で指を組み合わせたままだった。

 メガネが逆光で白く光りその奥の目は窺い知れない……。

「お願いだっ!」僕は叫ぶ。

 吉田はゆっくりと指を解き放った。

「いいだろう……」

「本当かっ! ありが……」

「だがっ!」

 吉田のメガネの奥の眼光が光った。

「創作とは修羅の道だ……。もしかすると僕の才能という炎に焼かれて君は死ぬ事になるかもしれないぞ? そう届く筈の無い太陽に向かって飛び立ったイカロスの様に」

「覚悟の上さ……」

 僕は右手を差し出した。

 吉田はニヤリと笑った。だが僕の差し出した手を握り返す事は無かった。

「おいブタッ! 今度はお前一人がイラストの背景担当だ。その玉稿の価値を落とす様な背景を描く事は罷り成らん。心して掛かれっ!」

「はいっ! 吉田様っ!」

 健太はすっかり下僕となっていた……。

 吉田は席を立つと出口へ向かった。

 掛かったな……。

 僕はこう見えても、漫画やイラストより文章を書く方が得意なんだ。言っておくがそこいらの書店に転がっている三文文士と一緒にして貰っては困る。僕の作品のプロットは精緻を極め、尚且つ文章は羽毛の様に心地良い。エロスとバイオレンスを前面に押し出しながら、人間の内面まで描くテーマの深さは読む者を驚愕させる事だろう。

 その作品性故に……。

 後世の人間は僕を、アニメ専門店のドストエフスキーと呼ぶ事だろう!

 僕という才能の炎に焼かれて墜落するのは貴様の方だ吉田!

「さて今後は僕の叙事詩の文章化を手伝って貰う訳だが。プロット設定集は随分と読み込んでくれた様だから物語の説明は必要ないな?」

「待ってくれ給えっ! この間メインキャラ二人の説明を聞いただけだからまだハッキリとは……」

「おいおい今更しらばっくれるつもりかね? 僕のノートをあれだけ盗み見したというのに?」

「いや、あれは一度だけの心の迷いで……」

「馬鹿を言うな。僕は何度も君達に覗かれた為にあの日に張り込んで……」

「ま、待ってくれっ! 何度もとはっ!?」

 教室の出口で吉田が振り向いた。僕と吉田の視線が言葉を交わした。

 そしてどちらからともなくニヤリと笑い合った。

 健太は命ぜられる事も無く教室の片付けをしていた……。


13

 放課後の薄暗い教室は珍しく人影が無い。遠くから野球部やサッカー部の叫び声が聞こえる。

 吉田の机の引き出しからノートの端が覗く。

 入り口に人の影が見えた。

 ゆっくりと吉田の机に近付き、右手が引き出しのノートに伸びる。その手は微かに震えている。

 手がノートを掴み引き出す。人影は立ったまま胸元でページを捲る。

 ガタッ!

 物音に飛び上がる人影。だが振り向いた先には何も見えない。

 安堵の吐息を漏らして顔を戻す。

 その顔が恐怖の表情を映し出す!

「どうやらネズミが引っ掛かった様だ」

 教卓の下から人影が現れる……

 それは吉田の姿だった!

「全くだ。とんでもないピーピングトムが居たものだ」

 僕は隠れていた掃除用具用のロッカーから外に出た。

「おいブタッ! 照明を点け犯罪者を白日の下に晒すのだっ!」

 隣の教室に待機していた健太が、足音を響かせると教室に光が満ち溢れた。

 ノートを盗み見る悪漢は女生徒だった!

 悪漢はノートを抱えたまま顔を隠す様に俯いていたが、その長い黒髪は隠す事が出来なかった。

「顔を上げて貰おうか……。おっと逃げようなどと考えない方がいいぞ。僕の部下達は常に女に飢えた陰獣だ。一度手綱を放したら僕でも御する事は難しいぞ?」

 吉田はクククッ……と笑った。

 悪漢は身体をブルッと震わせた。

 健太もブロンソン映画に出て来る悪役の様な酷い言われようだが、女性に縁の無い生活をしているのは事実だから否定はし辛いだろう。

「もっとも顔を隠しても誰なのかはもう解っているのだがなっ!」

 悪漢がおずおずと顔を上げた。

 その人物は……。

 白鳥水鳥しらとりすわんさんだった!

 白鳥さんは身体を震わせながら涙で瞳を潤ませていた。

「な、何故あなたがこの様な事をっ……!?」僕は驚きの声を発した。

「おやおやクラスでも優等生として名高い白鳥さんが、まさかこんな真似をするとは驚きだなあ? まさか人のノートを勝手に盗み見てるなんて。しかも執拗に、何度も、懲りる事無く盗み見るとはなあっ!?」

 白鳥さんは聞きたくないとでも言う様に両手で耳を塞いだ。

 吉田はニヤニヤと笑みを浮かべている……。

「何だねその態度は? まるで僕が君を責めている様な素振りじゃないか? 勘違いしないでくれたまえよ。僕はあくまでも君が、白鳥水鳥が、僕の机から僕のノートを勝手に覗いていた事を質問しているのだよっ!」

「いやっ……!」

 白鳥さんがしゃがみ込んだ。

「いやとはどういう事だね? それは僕のセリフだよ。君は僕の非常にプライベートでデリケートなノートを盗み見したのだ。言うなれば僕は辱めを受けたのだよ。それも嫌がる僕の意思を無視し、何度も何度も繰り返し辱め続けたのだっ! ハッキリ言おう、白鳥水鳥……」吉田は言った。

「君は僕を陵辱したのだっ!」

「イ、イヤアーッ!」

 白鳥さんは耳を塞いだまま嫌々する様に顔を振った。

「まだまだあるぞっ! 君は……」

「も、もうそれぐらいでいいだろう……?」僕は吉田を遮った。

 吉田の目は充血しサディスティックな光を湛えて光っていた。言うなればそれは狂気の光だった……。

「もう一度聞きましょう。白鳥さん何故あなたの様な人がこの様な事を……?」

「ご、ごめんなさい……。私、以前から吉田さんが休み時間、何を書いているのか興味があったんです」

 白鳥さんは潤んだ瞳で僕を見上げた。

 美しい……。

 白鳥さんの涙で濡れた長い睫毛の大きな瞳は、少し火照った頬の朱に映えていつにも増して美しかった。そしてその長い黒髪と雪の様に白い肌はまさに白鳥であった。いやクラスの女子を思い返せば、掃き溜めに鶴といった所か。

「だから私、何度も吉田さんに話しかけてみたんですけど、いつも答えてくれなかったんです。そんなある日、クラスの用事で遅くなった放課後に、吉田さんの机にノートが忘れられているのを見て……」白鳥さんは言った。

「ごめんなさい勝手に覗いてっ! 謝ろうといつも思っていたけれど二人きりになる時が無かったんですっ!」

「そうだったのですか白鳥さん。君、どうだろう大目に見たら……?」

 吉田の顔が微かに震えていた。

 次にクククッ……という微かな笑い声が漏れた。

「よ、吉田様っ……?」健太が言った

「クククククッ……」

「ど、どうしたんだねっ……?」僕が言った。

「フハーハッハッハッハッ!」

「吉田さんっ……?」白鳥さんが言った。

 吉田は暫く笑い声を上げ続けていた。僕と健太と白鳥さんは、その様子を呆然としながら眺め続けていた。

「きみはじつにばかだな」

「ど、どういう意味だねっ!?」僕は叫んだ。

「言葉通りの意味だよ……。何故その女がスパイだという可能性を考えない?」

「な、何だってっ!?」

「僕は知っているぞ、白鳥。君が休み時間一人で居る時は、自分のノートに己の創作した人物のクロッキーを書き記している事を」

「え?」僕は驚きの声を上げた。

 顔を向けると白鳥さんは顔を紅くして俯いていた。

「つまりだ。その女は僕の書き記す叙事詩の内容を盗み見し、それを己の作品として発表しようとしていたと考えられるのだよ。そう、盗作をしようとしていた可能性があるのだっ!」

「そ、そんな事してないですっ!」白鳥さんが叫んだ。

 それはそうだろう……。

 あの吉田のプロット設定資料集から、物語を読み取るのは至難の技だからだ!

「それはどうかな、白鳥? 君はタペストリーの柄は紡げるが叙事詩サーガの糸を紡ぐのは苦手なんじゃないのかね?」

 白鳥さんはポカンとした表情を浮かべていた。

 素早く健太が走り寄り、小声で『イラストは描けてもストーリーを作るのは苦手なんじゃないかと仰られている……』と囁いた。

「た、確かに私は絵しか描けないけれど、人の作品を盗作なんてしませんっ……!」

 白鳥さんの目からは涙が零れ落ちそうになっていた。

「どうだかな。口では何とでも言える。その言葉をどうやって証明するのかね?」

 白鳥さんが唇を噛み締めた。

「異端審問はこれで閉廷する。尚この遣り取りは録音されている。今後このような事態が発生した場合は……」

「だったら……」白鳥さんが遮った。

「だったら私が盗作なんかしないという証明をさせて下さいっ!」

「証明だと?」

「はいっ! 私に吉田さんの作品作りを手伝わせて下さいっ!」

「い、いやそれは……」吉田が言い淀んだ。

「吉田さんっ! 私、皆と頑張って一緒に良い作品を作りたいですっ!」

 白鳥さんの目は、吉田の目に劣らず爛爛と輝いていた。


14

 僕と健太と吉田は、何故か一緒に帰っていた。

 白鳥さんはあの後『それじゃあ続きの打ち合わせをしましょうっ! 私の家に招待しますっ!』と張り切っていたが、僕達は『今日は遅いからとりあえず明日で……』と断った。

 白鳥さんは『そうですか……』とシュンとしていたが、僕達は白鳥さんを置いて一緒に教室を出た。

「君は奴が僕等の中に入り込む事にどう思うね?」吉田が尋ねた。

「正直やっかいな状況だな……」

 僕と吉田は一様に頷いた。

「僕はいいと思うけど? 好きな漫画とか流行りを押さえてるみたいだし。でもちょっと特定の作家に傾き過ぎているのが見えるね。もうちょっと広い視野を持ってないと物語作りの引き出しが……」健太が言った。

「ブタに選挙権は与えておらんわっ!」

「ヒ……、ヒィッ!」

 吉田の眼光に健太は震え上がった。

「第一に僕はまだあの女を信用していない……。いくら嫌疑を晴らす為とはいえこれも奴の罠の一つなのかもしれん。そうモーツァルトの才能に嫉妬したサリエリの様にっ!」

 吉田、お前の才能に嫉妬する事は万に一つも無いだろう……。

 だが僕の才能に触れた白鳥さんが、嫉妬の螺旋に巻き込まれる事は十分に考えられた。

「でも白鳥さんってどんな人なのか良く解らないんだよなー」健太が言った。

 僕は考え込んだ。吉田もそんな素振りを見せていた。

 そうなのだ。白鳥さんはいまいちどんな人間なのか解らない人だった。吉田が女王の領土の中で、人気の無い祠に隠れ住む魔女だとすれば、白鳥さんは郊外の岸壁に建った修道院に住む、敬虔な聖職者といった人だった。

 どんな人なのかと尋ねられると、クラスの皆がいい人と答えるだろう性格の良さで、誰からも好かれている様に見えた。

 吉田は除くが……。

 王族と言えど法王は無視できない様に、白鳥さんの交友関係はクラスの農民、平民、少数部族を問わず、女王とも対等の謁見を許されている稀有な人だった。

 だがその反面、誰にも好かれる割には特定の人間と一緒に居る様には見えず、休み時間にグループの中で慈愛の笑顔を浮かべている時もあれば、教室に居なかったり、机に一人で座っていたりする時もある人だった。

 その清浄な人格は向かい合う人間の心の醜さを映し出すのか、要するに困難の時期には縋り付きたくなっても、平和な時期には余り深く関わりたくない、そんな孤高の聖人の様な人が白鳥さんだった。

「まぁ、でも仕様がないではないかね? それに白鳥さんだったら僕達の事を、他の人間に漏らす事も無いだろうし?」

「どうだかな……。あんなシラトリという名字にスワンなどと言う、漫画と現実の区別もつかないDQNネームの付いた人間とは関わりあいたくないものだね。せめて水鳥ならミドリと読ませるだろうが?」吉田は言った。

「おっとっ! DQNネームではなくキラキラネームと言わないと、法務省の人権擁護委員がやって来てしまう……」

 吉田はニヤリと笑った。

 本人にはどうしようもない名前を、名字を含めて非難するとは恐ろしい奴……。

「まぁ、明日もう一度話し合ってみようじゃないか」

「そうしよう。奴の腕前が僕のレベルに達しているかについても見当の余地がある」

 僕と吉田は頷き合った。

「どうでもいいがもっと離れて歩いてくれたまえ。君達と一緒に帰る仲だと思われたら僕のクラスでの評判に傷が付く」

 吉田は手でシッシッと追い払う仕草を見せた。

 言わせておけばこの女……。

 それは僕が先に言おうとしていたセリフだったのに!

 それにしても吉田にさえ、自分より身分の低い人間だと思われていたのがショックだった。

 健太はどこからか手に入れて来たアイスを食べていた……。


15

 翌日の休み時間、白鳥さんが吉田の席に向かうのが見えた。

 手には大学ノートを持っている。

「吉田さん、私もイラスト書いて来ましたっ! 一緒に見て下さいっ!」

 いつもの様にノートに何か書いている最中の吉田に、白鳥さんはノートを差し出した。

 周りのクラスメイトの視線が注目している……。

 吉田は一瞬ピクッと反応したものの、すぐに作業を再開した。

「吉田さん、私もイラスト書いて来ましたっ! 一緒に見て下さいっ!」

 白鳥さんはもう一度ノートを差し出した。

 もう一度周りのクラスメイトの視線が注目していた。

「吉田さん、私もイラスト……」

 同じセリフを三度繰り返した瞬間、吉田はノートとペンを掴むと教室の外に飛び出して行った。白鳥さんはキョトンとした表情を浮かべていた。

 そして僕と健太が座っている席にやって来た。

「一郎君、健太君、私もイラスト書いて来ましたっ! 一緒に見て下さいっ!」

 僕と健太にノートを差し出した。

 周りのクラスメイトの視線が注目していた!

「えっ? あっ……、うっ!」

 僕と健太は衆目に晒されるプレッシャーに押し潰されながら、言葉を口から出す事が出来なかった。

「一郎君、健太君、私もイラスト来ましたっ! 一緒に見て下さいっ!」

 それにも関わらず白鳥さんはもう一度ノートを差し出した。

「えっ? あっ……」

 僕がどもっている間に健太が、その巨体に似合わぬスピードで教室を飛び出した。白鳥さんはキョトンとした表情を浮かべていた。

「一郎君、私もイラスト……」

 三度目のセリフが飛び出した瞬間、僕も慌てて教室を飛び出した。


「この馬鹿者がっ!」吉田の叫び声が響いた。

「す、すみませんでしたっ……!」

 白鳥さんがシュンとして俯いた。

 放課後の化学実験室。締め切ったカーテンの中で一つだけ灯された蛍光灯の下、白鳥さんは尋問中の捕虜の様に恐怖で縮こまっていた。

「我々の叙事詩創作過程に関する伝達は、全てエニグマコードによって取り扱われるべき超機密事項だぞっ! それをあの様な衆人環視の中で軽々しく口にするとはっ……!」

 吉田は苛ただし気に、白鳥さんの座る机の前を往復した。

「すみませんでした、知らなかったんです……」

「駄目だっ! やはり貴様の様な人間を置いておく訳にはいかんっ!」

「もうしませんから許して下さいっ!」

 白鳥さんの表情は必死だ。

「まぁ、反省している様だしどうだろう。もう一度チャンスを与えてみては?」

「君、本気で言っているのかね? 真に恐れるべきは有能な敵ではなく 無能な味方である。かのナポレオン・ボナパルトの言葉だぞ?」

「待ちたまえ、彼女に無能のレッテルを貼るのは時期尚早だろう。信玄公も人は石垣と言っているではないか?」

「チッ……! 甘いな君は」

 吉田は目を瞑った。そして開いた。

「一度だけだ……。同じ失敗を繰り返したら、貴様は死を持って罪を贖う事になるだろう」

「ありがとう、吉田さんっ!」

 白鳥さんは光り輝かんばかりの笑顔を見せた。

 美しい……。

 僕は白鳥さんの愛らしい笑顔を眺めていた。

 だが……。

 なるべく白鳥さんとは関わり合いたくない!

 白鳥さんが何となく皆から距離を置かれるのは、その美しすぎる人格と容姿の為だけではなかった。それは何となく皆の見られたくない、触れられたくないという部分に、何の躊躇いも無く入り込んで来る性質の為だった。

 勿論、聖女の様な白鳥さんだから、他人が傷付く様な事や知られたくない秘密を暴こうとする気は無い。そうではなくて例えば……。

『進路の事考えてる?』生徒A。

『考えてない』生徒B。

『めんどくさいよね。不景気ばっかりで将来に夢なんか無いよ……』

『そうそう。将来に夢なんか持ったこと無いよね……』

 そこに白鳥さんが現れる。

『そんな事無いですっ! 夢を諦めないで下さいっ!』

『いや、そんなに深い話じゃ……』

『私、Aさんが小学校の頃アイドルになりたいって言ってたのを覚えていますっ!』

『お、覚えてないからあんまり大きな声で……』生徒A。

『Bさんだって小学校の頃、将来は漫画家になりたいって言ってたんですっ!』

『こ、子供の頃の事だからあんまり大きな声で……』生徒B。

『私、Aさんがお誕生日会で歌ってくれた音源まだ持ってるんですっ! ほらっ! MP3化していつも持ち歩いています。Aさんの歌を皆にも聞いて貰いたいですっ!』

 教室のラジカセに色々なハーネスを使用して、オーディオプレイヤーを接続する白鳥さん。

『ヒッ……、ヒィッ! や、止めてお願いだからっ……!』

『私、Bさんが休み時間に描いてくれた漫画まだ持ってるんですっ! ほらっ! PDF化していつも持ち歩いています。プリントアウトするのでBさんの漫画を皆に読んで貰いたいですっ!』

 バッグの中からUSBメモリを取り出す白鳥さん。

『ヒッ……、ヒィッ! や、止めてお願いだからっ……!』

『私、二人に夢を諦めて欲しくないんですっ!』

 二人の声を聞く事無く、白鳥さんは既に教室を飛び出して行った後だった……。

 こういう事を100%の善意で行う為に、白鳥さんは皆に恐れられているのだった。僕も白鳥さんの事をつい庇ってしまったが、とんでもない時限爆弾を抱え込んでしまったのではないかという気はしないでも無かった。

「それで休み時間に言っていたのはどれの事だ?」

「そうです。イラストを描いてきたって仰られていましたが?」

「はいっ、頑張って描いて来ましたっ!」

 白鳥さんが大学ノートを差し出した。

 吉田がノートを受け取ると、机の上で表紙をゆっくりと捲った。僕と健太は横から覗き込んでいる。

「如何でしょうか……?」

 白鳥さんがおずおずと僕等を上目使いで見上げる。

 その仕草は非常に愛らしい……。

 そして絵は普通に上手だった。素人っぽさがあり、些か丸々し過ぎて目が大き過ぎる気はした。だが吉田の絵の様な顎の尖りすぎた人物では無く、普通に可愛らしい絵だった。

「白鳥さん絵上手だね。でもちょっと特定の絵師に影響を受けているのが見て取れるね。それとキャラの書き分けがまだ出来てない気がするよ。男も女も同じ顔してる気がするし……」健太が批評を始めた。

 確かに上手い、だが……。

「駄目だなこれでは……」吉田が呟いた。

「あぁ、白鳥さんには申し訳ないけれど僕も同意見と言わざるを得ない……」

 見詰める白鳥さんの表情からは、ショックを受けたのがありありと見て取れた。

「そうかなぁ、この中じゃ一番上手だと……ハッ! も、申し訳ありません吉田様っ!」

 吉田の眼光に気付いた健太は慌てて頭を下げた。

「お前はやはりブタよ……。何も解ってはおらぬ。君はどう思うね?」

「あぁ、確かに健太の言う通り上手だと思う。イラストだけのレベルなら僕と吉田に遜色ないレベルだ……」

 白鳥さんはパッと表情を輝かせた。

「だがっ!」僕は言った。

「このイラストには毒が無いっ!」

 吉田は重々しく頷いた……。

「毒が無いって……。どういう意味なんですか?」白鳥さんが食い下がった。

「それは……」

「僕が話そう……」吉田が割って入った。

「白鳥、君は人間を本当に愛したり憎んだりした事があるかね?」

「ありますっ! 私、パパやママや妹の事が大事だし愛してますっ! 他にも親戚の叔父さんや叔母さんも、近所の人も、勿論クラスのお友達もみんな大事ですっ!」

「では憎い人間は居ないのかね?」

「嫌な気持ちになる時はありますけれど……、憎いと迄は……」

「それだよ白鳥、君の絵が駄目な理由は」吉田は言った。

「人を愛する事を民衆に訴えたいのであれば、歌手にでもなって空っぽな愛だの恋だのを歌っていればいい。愛を描きたいのであれば少女漫画でも書いて、男と女がくっ付いたり離れたりするのを描けばいい。だがっ!」

 吉田は白鳥さんの顔に人差し指を突き付けた。

「我々が描く叙事詩は、人を憎んで憎んで憎み切ってからこそ描けるものなのだよっ!」

 僕も一様に頷いた。

 白鳥さんは驚愕の表情を浮かべている……。

「創作には二通りの種類がある……。家族や友人にも恵まれ生きている事に幸福を感じる人間が居る。そういう人間は世の中の幸せを描けば良いだろう。だが我々が描いているのは叙事詩だ。叙事詩とは恨み、妬み、嫉みの結晶とも言うべきものなのだよっ!」

「私、悲劇を否定なんかしていませんっ! シェイクスピアも尊敬していますっ!」

「違う、お前は何も解っていないっ!」吉田が叫んだ。

「暗黒の叙事詩というのは……。休み時間に誰とも話す事無く、机に向かいノートを広げているからこそ紡がれる物語なのだ……。寝る前に今日の嫌な事を忘れない様に、恨み帳に毎日書き付け、復讐するリストのランキング編成を行ってこそ心に浮かび上がる物語なのだ。白鳥、君は自分だけの恨み帳を持っているのかねっ!?」

「そ、それは……」

「此処に居る人間は皆、自分だけの恨み帳を持っている筈だ……。僕は既に小学校から始まり十巻目に入っている。我が僕達もそれ位の刊行はしているだろう」

 僕はまだ七巻目だった……。

「白鳥、やはり君はこの叙事詩を紡ぐには不適当だ……。僕のプロット設定資料集を覗いた事は不問にしてやろう。だが二度と僕達には関わる事は罷りならん」

「白鳥さんは僕達みたいな暗黒の世界に足を踏み入れてはいけない……」

 白鳥さんは呆然とした表情を浮かべていた……。

 僕と吉田は実験室の出口へ向かった。健太は実験室の片付けを始めた。

「……ます」白鳥さんが呟いた。

 僕と吉田は振り向いた。

「そんなのは間違っていますっ!」

 白鳥さんが勢いよく立ち上がった。

「人を憎む事で創作意欲が湧き出て来るなんて間違っていますっ! 私、皆に教えて上げたいです。愛を描く芸術だってある事をっ!」

「白鳥、僕達の存在理由レーゾンデートルが変わる事は無い……」

「私、頑張りますっ! きっと二人に愛情の素晴らしさを教えて上げたいですっ! そうだっ、クラスの皆で一緒にこの議題を考えてみましょうっ!」

「「え?」」僕と吉田は声を上げた。

 白鳥さんは自分のノートを掴むと、実験室の出口を飛び出して行った。

「なっ、ちょっ、待てっ……!」

 僕と吉田が出口を飛び出した。

 白鳥さんの背中は廊下を曲がる寸前だった。そのコーナリングテクニックは、全盛期のシューマッハに匹敵する鮮やかさだった。


16

 結局、押し切られる形で白鳥さんは一緒に吉田の手伝いをする事になった。ある意味、ブレーキの壊れたダンプカーを放置するぐらいなら、自分が運転席に座っていた方がまだ安全そうだという判断だった。

 携帯電話の時刻を見た。待ち合わせの時間にはまだ十五分あった。

 僕は待ち合わせをしているのだった……。

 しかも女子との待ち合わせを!

 電車を使って少し離れた街だから、学校の人間の目を気にする事も無い。地元だったら人の目が気になって、とてもこんなに堂々とはして居られない所だ。

 近くで人影が足を止めるのが見えた!

 僕は出来得る最高の笑顔を見せて振り返った。

「一郎早いね?」

 健太だった……。

「あぁ、待たせたら悪いからね……」

 チッ、一秒でも遅れてきたら置いて行くつもりだったのに……。

 僕と健太は並んで待ち続けた。

 二人が待っている人物は白鳥さんだった。結局、白鳥さんが吉田の手伝いに加わるという話が決定した後、白鳥さんの方から次の休日に付き合って欲しいと言ったのだ。

 それは別に僕に対してではなく、全員に掛けられた言葉だったが吉田は一蹴に付した。僕も休日は次の学校生活までの充電期間に充てる為、あまり乗り気ではなかったのだが、健太の奴が別に構わないなどと言うから一緒に行く事になったのだ。

 健太如きに抜け駆けは許さない……。

「今日何処に行くんだっけ?」健太が言った。

「さぁ、何か画材を買うとか言ってたけど……」

 健太に目をやるといつの間にか取り出したアイスを食べていた。

 待つ事十五分。時刻午前九時。

 時刻通りに白鳥さんはやって来た。

「お待たせしましたっ! 待ちました……?」

 白鳥さんは心配そうな表情を浮かべた。

「いえいえ、僕も今来たばかりです」僕が言った。

「僕は十五分ぐらい前に来たよ」健太が言った。

「ゴメンなさい健太君っ! 支度に時間が掛かっちゃってっ!」

 何故、健太に……。

 僕なんて一時間前から待っていたというのに!

「それじゃあ行きましょう」

 白鳥さんが通りに向かって向き直るとスカートが大きく翻った。

 美しい……。

 その愛らしさはそこいらを歩いている女子とは比べ物にならない。まるで漫画やアニメの世界から飛び出して来た様だ。そうまるで漫画の様な……。

 白鳥さん……。

 そんな服一体何処で売っているんですか!

 白鳥さんの服装は、赤を基調にした複雑なチェックのスカートと、フリルで溢れた真っ白なブラウスで、明らかに過剰な色彩と模様と装飾に彩られていた。ふんわりと広がったスカートはまるで重力に反するかの様に萎む事は無く、歩く度にふわふわと裾をたなびかせている。そして頭にはどう考えても機能的に問題があり過ぎると思える極少の帽子が乗っており、手にはチャタレイ婦人を髣髴とさせるフリルだらけの白い日傘を持っていた。

「白鳥さん、そのお洋服随分とユニークですね……?」

 一地方都市の繁華街でしかないこの街では、些か僕等を眺める周りの視線が気になった。

「ちょっと派手だったかな……。なるべく普段着に近いのを着て来たんですけど……」

 白鳥さんの表情が不安気に曇った。

「い、いえそんな事はっ! とてもよくお似合いですよっ!」

「その服、レディー・ザ・スターズ・シャイン・ブライトでしょ?」健太が言った。

「健太君知ってるのっ!?」

「当然知ってるよ。アニメとかサブカル好きならそれぐらい抑えていないとね。おっとっ! かと言って僕が甘ロリを着たりはしないよ?」

「やだ健太君ったらっ!」

 白鳥さんと健太は笑い声を上げた。

 健太の野郎……。

 しゃしゃり出やがって!

「し、白鳥さんもアニメとかサブカルっぽいの好きなのですか?」僕が割って入った。

「はいっ! あんまりクラスじゃ話す事無いですけれどそういうの好きなんですっ! 部屋の本棚も漫画とかで一杯なんですっ!」

「ほほう、ではどの様な作品がお好みで?」

「少女漫画でも少年漫画でも何でも好きだけど……。一郎君はどんなの好きなの?」

「そうですね、僕が漫画に一番求めるのは……」

 フフッ……、漫画ならば僕の独壇場!

「エロスとバイオレンスですねっ!」

「エ……」

 白鳥さんは僕の言葉に言葉を詰まらせた。

 してやったり……。

「そうです。僕が漫画で重要視するのはエロスとバイオレンスです。何故ならその二つこそが男が求める最高の娯楽だからです。例えば昔ある伝説的な野球漫画がありました。野球ボールの痣を持つ運命に導かれた選手達が打倒プロ野球を目指す漫画です。通常ならこの少年漫画は友情、努力、勝利というキーワードで描かれたでしょう……。だが違うんですっ! この野球漫画は暴力、暴力、暴力のキーワードで描かれているのです。その暴力の描写は野球の試合をしているにも拘らず野球のルールを超え……」

「い、一郎君。私あんまりそう言うの……」微かに白鳥さんの声が聞こえた。

「白鳥さん先に行こうよ。一郎は語り出すと止まらないんだよ」

「主人公は魔球を生み出す為に、旋盤のドリルを己の手で握る事によって掌に溝を刻み付けっ……」

 どうですか白鳥さん……。

 僕の漫画に掛ける情熱はっ!

 気が付くと遥か先を二人が歩いている光景が目に入った。


 結局、白鳥さんに付き合って色々なデパート等の文房具売り場を回る事になった。シャープペンシルとボールペンだけしか使わない僕と吉田とは違い、白鳥さんは結構本格的に色々なカラーのマジックペンみたいなのを使っているみたいだった。

 正直、僕と健太はすぐに飽きてしまい、只ダラダラと白鳥さんの後に付いて歩き、よく解らない商品に一喜一憂する白鳥さんを眺めていた。

 白鳥さんはどの売り場に行っても華やかだった。それは老若男女問わず、誰でも驚愕の表情を目を向けてしまうぐらいに……。

 ようやく買い物が一段落すると僕達はファーストフード店に入った。

「白鳥さん、本気で吉田の妄想絵巻に付き合うつもりなのですか?」

 僕はレバニラ定食を食べていた。

「はいっ! 私、皆で集まって作品作りするのをやってみたかったんですっ!」

 白鳥さんはラーメンを数本ずつ啜っていた。

 健太は僕達を無視して、大盛りタンメンギョーザセットを食べ続けていた。

 まるで親の敵を目の前にしたかの様に!

 僕と健太にとってファーストフード店とは、ラーメンチェーン店に他ならなかったのだ。こっちの方が行列を並ぶより早く来て値段分食べた気になれる。

「何も吉田と一緒にしなくても。もう吉田もノートを盗み見したのを気にしないと言っていましたし……」

 白鳥さんの顔が悲しげに曇った。

 余計な事を言ってしまった……。

「い、いや覗き見なんて誰でもする事ですっ! 僕自身、隙有らば他人の秘密を覗く事を信条としています。白鳥さんも気に病む必要は……」

「私、悪い事してるって自覚が無かったんです……」

「え? どの様な意味ですか?」

 どう言う事だ……。

 もしかして白鳥さんはこんなに愛らしい顔をしていると言うのに、善悪の区別がつかないシリアルキラーだとでも言うのだろうか?

「私、吉田さんと交換日記してるつもりになっていたんです……」

「交換日記?」

「はい。以前に私のイラストノートを机に忘れた事があったんです。人に見られたら恥ずかしいから取りに戻ったら……」白鳥さんが言った。

「吉田さんが私のノートに素敵なイラストを書いてくれていたんですっ!」

「吉田が?」

「はいっ! 私が教室に入ったら驚かせちゃったみたいで、吉田さんすぐに出て行ってしまったんですっ! けれども私のイラストノートに素敵な絵が描かれていたんです。ほらこれですっ!」

 白鳥さんがバッグから大学ノートを取り出した。

「こ、これはっ……!」

「素敵ですよねっ!?」

 イラストノートの中は白鳥さんらしい、愛らしく丸っこいキャラが所狭しと描かれていた。白鳥さんのキャラの隣には、吉田が書いたものと一目で解る顎の尖ったキャラが描かれていた。

 そして白鳥さんのキャラ達は……。

 一人残らず吉田のキャラの手にする刀に切り付けられていた!

 血飛沫と吹出しによる『ギャーッ!』という断末魔も書き加えられている……。

「し、白鳥さん……?」

「私嬉しかったんですっ! 私以外にもイラストが好きな人が居てっ! だから素敵なイラストのお返しに、吉田さんのノートにも私のイラストを書いて上げようと思っていたんですけれど……」

「そ、その絵はどう見ても悪意が……」

「勘違いだったとしても私酷い事をしてしまいましたっ! だから頑張りますっ! 頑張って吉田さんの作品を仕上げるお手伝いをしたいんですっ!」

「白鳥さんが罪悪感を抱く必要は……。そもそも吉田が先に盗み見を……」

「反省は病を治す薬だが……」健太が言った。

 いつの間にか大盛りタンメンギョーザセットは完食されていた……。

「大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる」

「健太君……?」

「昔の偉人の名言さ……。白鳥さんは一歩踏み出したのさ。僕と一緒に吉田様の叙事詩の完成に助力しようじゃないか」

 健太は右手を差し出した。その右手は汗とタンメンの汁とギョーザの油でギトギトだった。

「ありがとう健太君っ……!」

 だが白鳥さんはその右手を握り返した……

 その瞳にはうっすらと涙まで浮かんでいる!

「し、白鳥さん、勿論僕も頑張るつもり……」

「それじゃあそろそろ出ようか。おっとっ! ここの支払いは僕に出させておくれよ?」

「え? でも悪いから……」

「おいおい、レディーに財布を出させる方が一人前の男には恥ずかしい事だよ? 君は先に店を出ているんだ」

「そ、それじゃあ外で待ってるねっ……!」

 白鳥さんは慌てて店の外に走り出てしまった。

「あっ一郎。少しお金貸してくれない? 大盛りにしたの忘れてて……」

「それは出来ない相談だな……」

 貴様に貸すぐらいならEU諸国のソブリンに投資する。

 僕はカウンターに自分の分の代金を置いて立ち上がった。

「ま、待って一郎っ! 本当にお金が……」

「金が無いのなら何とかして工面するんだな……。命でさえも金で売り買いされる。それが資本主義社会、この乾いたコンクリートジャングルの掟だ」

 僕は店の出口を出た。

「白鳥さん、健太はトイレに行くそうだから先に行ってて欲しいそうです」

「はいっ! それじゃあ次の店はですねー……」

 歩きながら遠くなっていく店の窓から、健太の悲痛な顔が見えた気がした。


「それじゃあ今日は有難いましたっ! また明日から頑張りましょうっ!」

 白鳥さんは手を振りながら走り去って行った。

「「さよならー」」

 駅の入り口で僕と健太は並んで手を振った。

 白鳥さんとは逆の方向にある家路へ向かおうとする。それにしても休日にクラスの女子と会うなんて、僕もなかなかのプレイボーイじゃないか。それも白鳥さんの様な眉目麗しい乙女となんて。

 これで健太の様な邪魔者が居なければ……。

 健太に目を向けると誰かに話し掛けていた。相手の姿は自販機に隠れて見えない。

「はい、首尾は上場で御座います……」

 健太の声は暗く重々しい。

「き、貴様っ! 誰と話をしているっ!?」

「フフッ……。今日の白鳥さんとの親睦は我が主の想定済み。我が主はこれで白鳥さんは暗黒面に足を踏み入れたと仰っておられる」

「な、何っ!? 貴様、何を企んでいるっ!?」僕は叫んだ。

「その主とはまさか……」

「聞き捨て悪いセリフだな?」

 自販機の陰から何者かの姿が現れる……。

 吉田だった!

「な、何故、貴様が此処に……」

「確かめていたのだよ、白鳥が本当に我等の仲間に相応しい人物なのかをな?」

「ど、どういう事だ……。そして暗黒面とはっ!?」

「クククッ……。僕は確信したよ。あの昼間は貞淑な妻の様な外見の内側には、夜になると時には娼婦の様に淫らになる暗黒面が存在している事をっ!」

「バ、バカを言うなっ! あの天使の様な白鳥さんがそんな訳は……」

「見ているがいい……。薄皮を一枚ずつ剥ぎ取る様に白鳥の良識も剥ぎ取ってやろう。そうして最後には恐るべき堕天使が舞い降りるであろうっ!」吉田は言った。

「さらばだっ! フハーハッハッハッ!」

 吉田は背中を向けると歩き去って行った。

「吉田、お前の好きな様にはさせん……。僕が白鳥さんの純潔を守るっ!」

 これから恐ろしい戦いが始まる予感がした……。

 そう、それはまさに神と悪魔の最終戦争ハルマゲドンだ!

「一郎、ゲーセン寄って行く?」

「いや、ゲーム屋でタダゲーにするべきだろう……」

 僕らも駅から離れ始めた。

 吉田の姿は上下灰色のスウェットで、手にはコンビニのビニール袋を手にした姿だった。寝起きそのままを思わせるボサボサ髪のその姿は、ある意味白鳥さんの服装に並ぶ位の衝撃だった。

 だがっ……。

 それにも関わらず平然と駅前に立っているとは!

 僕は吉田を改めて侮れない強敵ライヴァルと確信した。


17

 翌日の放課後、僕達は科学準備室に集合していた。

 吉田は一冊の本を白鳥さんの目の前に差し出した。

 薄い本だった……。

「何ですかこの本は?」

「我が叙事詩を彩る挿絵はその本の絵を参考にして欲しい」

「見せて貰っていいですか?」

 白鳥さんが薄い本に手を伸ばした。

「いけない、白鳥さんっ!」僕は叫んだ。

 慌てて薄い本をひったくった。

「ど、どうしたんですか一郎君っ!?」

 白鳥さんは目を白黒させている。

 良かった、まだ気が付いていない!

「白鳥さん、この本に触れてはいけない。この本は呪われた魔道書ネクロノミコンとでも言うべきもの……」

「何故邪魔をする?」吉田が言った。

「白鳥さんを暗黒面に足を踏み入れさせはしない……」僕は言った。

「白鳥さんも聞いて下さいっ! 此処に居る人間は僕以外、白鳥さんを暗黒面に堕落させようとしている闇の住人なのですっ!」

 室内がシンッ……と静まり返った。

 白鳥さんも驚きの表情を隠せない。それもそうだろう。文芸創作の一環の会合だと思っていたものが、実は己を陥れる黒ミサ(サバト)だったのだから。

「クククッ……」吉田が笑い声を漏らした。

「な、何がおかしいのだっ!」

「では聞こう白鳥……。この会合が黒ミサだったとして、白鳥は此処から立ち去るつもりなのかね?」

「そんなものは当然の話だっ! そうですよね白鳥さ……ハッ!?」

 白鳥さんは吉田の言葉を聞いても尚、椅子に座ったままだった。

 その表情は何かに耐え得るかの様だった……

「君には聞いてはおらんよ。僕は白鳥に聞いているのだ。どうだね白鳥?」

「わ、私は……」

「白鳥、君は修羅道に落ちてまでも芸術を極める覚悟はあるのかね? 地獄変の良秀の様に、芸術の為に最愛の娘を焼き殺す覚悟はあるのかね?」

「わ、私……」白鳥さんは呟いた。

「私、やりますっ!」

「し、白鳥さんっ……!」僕は呻いた。

 何故、真実はこうも伝わり難い……。

「さぁ君、早くその薄い本を白鳥に渡してくれ給え」

 僕は苦渋の決断で本を白鳥さんに差し出した。白鳥さんは震える手で受け取った。

「白鳥、その魔道書の表紙を見て何を感じる?」

「綺麗な男の人が二人居ます……」

「クククッ……、それでは見たままではないか? まぁいいページを捲るのだ」

 震える指で拍子を捲った。

「ヒッ!」

 白鳥さんが誌面から目を背けた。

 それはそうだろう。その薄い本は僕が看破した通りの内容……。

 やたらと線の細くて顎の尖った二人の男性が、台所で何故か上半身裸で熱いベーゼを交わしているシーンだったのだから。

 間違いない……。

 この本は見た女性の魂を腐らせると言う呪いの魔道書だ!

「目を背けるんじゃないっ!」

「そ、そんな……」

「白鳥、その魔道書の紙面を見て何を感じる?」

「綺麗な男の人が二人、唇を……」

「それでは見たままではないか? 僕は感じた事を言えと言っているのだ」

「だ、男性同士なんておかしいですっ!」

「白鳥、君は性別が男同士だからと言って愛情を否定するのか? 君はそんなレイシストなのか?」

「そ、そんな事ありませんっ!」

「何、僕も差別反対などという偽善を言う気は無い……。只、この絵を見てどう思うか知りたいのだ」

「な、何とも思いませんっ! それに学生が見るべき本ではありませんっ!」

「嘘だな」

 白鳥さんの顔はサッと青褪めた。

「君はこのページを見た瞬間……。自分にある種の感情が湧いた事に気が付いた筈だ。そうそれは熱く煮え滾った背徳的な黒い欲情とでも言うべきもの」

「き、気付いてませんっ!」

 白鳥さんは両手で顔を覆った。

「いい加減にするんだっ! 白鳥さんはその様な破廉恥な人ではないっ!」僕は叫んだ。

「君には黙っていて貰おうっ! 白鳥、君はこの薄い本を否定するのか? それとも受け入れ我等の仲間になるのかどちらなのだ。受け入れられないのならもう僕等に金輪際関わる事は禁ずる……」

 吉田のメガネの奥の目は、メガネが逆光で白く光り窺い知る事が出来ない。

「わ、私……」白鳥さんは言った。

「こ、こういうのもアリかなって思いましたっ……!」

 白鳥さんは真っ赤に染まった顔を背けた。

 吉田はニヤリと笑った。

「クククッ……。フハーハッハッハッ!」吉田は高らかに笑い声を上げた。

 何て事だ……。

 僕は白鳥さんを救う事が出来なかった!

「白鳥よ、よくぞ言ったっ! 僕はあくまで受け入れるかどうかを聞いただけだ。それにも関わらず君はアリだと言った。君は自ら男同士の濡れ場に欲情したと告白したのだっ!」

「そ、そんな……」白鳥さんは呻いた。

「い、いやあああーっ……!」

 そして机に突っ伏した。

「白鳥よ、契約の言葉を発した今より、貴様の血は黒く淀んだものに変わって行くだろうっ! その血は腐敗を続け、もうこの薄い魔道書から逃れる事は出来ないのだっ!」

 白鳥さんは耳を塞いで震えている……。

「何て恐ろしい仕打ちを……」僕は言った。

「恐ろしい? 君は後悔しているのかね。君は平穏な生活を賛美するだけの叙事詩を綴りたいのかね?」

「そうではない。だがこの様な無垢な女性を呪いに掛ける必要は……」

「笑止っ!」

 吉田の目がカッと見開かれるのが見えた。その目はメガネの奥でさえ禍々しい光を帯びて爛爛と光っていた。

「叙事詩を紡ぐ三原則を覚えているかね?」

「な、何……?」

「叙事詩を紡ぐ人間ならば、教えられずとも心の底に浮かび上がってくる感情が三つある」吉田は言った。

「一つ……」

「ひ、人を恨む事……」僕は答えた。

 そうだ……。

 僕自身も暗黒の世界に身を置く人間だったのだ!

「二つ……」

「人を妬む事……」健太が声を発した。

「三つ……」

 そして白鳥さんに目をやった。

「答えるのだ白鳥」

「人を……」白鳥さんは声を震わせた。

「嫉む事っ……!」

 吉田はもう一度ニヤリと笑った。

 僕は白鳥さんが暗黒面に陥った事実に打ち震えた。

 両の目から涙が零れ落ちるのを止める事が出来なかった……。

「よくぞ言った白鳥。これで君も……」

「そんなのは間違っていますっ!」白鳥さんは叫んだ。

「私、そんな感情で男性同士の愛情を描くのは間違っていると思うんですっ! きっと愛情に溢れた、美しい男性同士の愛情が世界に溢れていると思うんですっ!」

「ま、待て白鳥っ……! 別に男性同士の愛情を描くのが主題では……」

「私、頑張りますっ! きっと皆に男性同士の愛情の素晴らしさを教えて上げたいですっ! そうだっ、クラスの皆で一緒にこの議題を考えてみましょうっ!」

「「え?」」僕と吉田は声を上げた。

 白鳥さんは薄い本を手に取ると、実験室の出口を飛び出して行った。

「ま、待て白鳥っ……!」

 僕と吉田が出口を出た。

 白鳥さんの背中は廊下を曲がる寸前だった。そのコーナリングテクニックは、全盛期のバレンティーノ・ロッシに匹敵する鮮やかさだった。


18

「今日は、私の家で作業をしませんか?」白鳥さんが言った。

 いつもの様に放課後バラバラに科学準備室へ僕等は集まった。そして打ち合わせをそろそろ始めようとした矢先だった。

 僕等は誰も白鳥さんに答えなかった。

「さて今日は我が叙事詩の大筋の物語の解説をしよう……」吉田が言った。

「今日は、私の家で作業をしませんか?」白鳥さんが言った。

 僕等は誰も白鳥さんに答えなかった。

「そうだな……。まず全体の物語を掴み、その内の何歌を作品として抽出するかを……」

「今日は、私の家で作業をしませんか?」白鳥さんが言った。

 僕等は誰も白鳥さんに答えなかった。

「うむ、我が叙事詩の全ての歌を作品化するのは難しい。そこで何篇かの歌を……」

「たまにはいいかもね、人の家でやるのも?」健太が言った。

「そうですよねっ! だから今日は私の家で会合をしませんか?」

「どうする一朗……ヒッ! お、お許しを吉田様っ! 出過ぎた真似をしてしまいました……」

 健太がようやく吉田の眼光に気が付いて机に額を擦りつけた。

 出過ぎた豚め……。

「それでは議題を進めよう。そもそもこの叙事詩は……」

「私の話を聞いて下さいっ!」白鳥さんが叫んだ。

 その表情は少し拗ねている様だった。

 怒っている白鳥さんも愛らしい……。

「白鳥、君はどうして僕達を家に招待しようと言うのかね?」吉田がようやく答えた。

「土曜日で学校も午前で終わりですし、たまには気分を変えるのもいいと思ったんですっ!」

 白鳥さんは可憐な笑顔を浮かべた。

 何という愛らしい笑顔なんだ……。

 だが白鳥さんは僕等のギルドを理解していない!

「何だね友達ごっこでもするつもりなのかね?」

 吉田は鼻で笑った。

「友達ごっこじゃありませんっ! 私達もうお友達じゃないですかっ!」

「おいおい我々は友達なんだそうだ? どうだね君達はっ!?」

 吉田は僕達の顔を眺め回した。

 僕は思わず嘆息を漏らし、健太は慌てて目を伏せていた。

「残念だが我々は友達などではない……。我々は呪われた契約によって結ばれた生贄同士。言うなれば蠱毒の壷の中の毒虫。此処以外で顔を合わせて、周りに同じ毒虫の同類と思われるのは御免被る」

 流石、吉田だ、言い得て妙と言わざるを得ない……。

 だがそれはこっちのセリフだ!

「コドク?」

「器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをする……。それが蠱毒だ。我々は叙事詩という呪いを作り上げる為の材料でしかないのだ」

「それじゃあ親睦を深める為に……」

「ホームパーティーがしたいならアメリカにでも住むのだな」吉田は言った。

「まぁ、あれだけ家庭を大事にしている筈なのに、離婚とDVが社会問題の様だがなっ! フハーハッハッハッ!」吉田は嘲笑の笑い声を上げた。

「まぁまぁ、二人とも落ち着き給え。白鳥さん、我々の叙事詩の作成は秘密事項。いつ他の敵対勢力から妨害に遭うか解りません。家族の安否を考えると安易に自宅で行う様なものではないのですよ」

 その家族こそが敵対勢力になって秘密を暴く事が多いのだが……。

「そうですか……」

 白鳥さんはシュンとうな垂れた。

「まぁ、またの機会に……」

「今日ママにお友達を招待するからって、お茶の準備お願いしちゃったんです……」白鳥さんは言った。

「ママったら私が友達連れて来るのが珍しいからって、大きなケーキを作ってくれたんです……」

「し、白鳥……?」吉田が言った。

「それに小学生の妹が張り切って、紙テープの鎖とか作って部屋の飾り付けを手伝ってくれたんです……」

「し、白鳥さん……?」僕が言った。

「でもしょうがないですっ! 私も手書きの招待状を作って持って来たんですけれど、またの機会に招待したいですっ!」

 白鳥さんは寂しげな笑顔を浮かべた。

 そしてポケットから、可愛いらしいイラスト付きの封筒を取り出すとゴミ箱へ向かった。

「ま、待て白鳥っ! 気が変わった。是非その招待を受けようじゃないかっ!」

「ぼ、僕も白鳥さんの家に是非お呼ばれされたいのですっ!」

 僕と吉田は慌ててその手紙に手を伸ばした。

「でも……。皆こういうの好きじゃないんじゃ……」

「こ、今回だけだっ……! 今回だけは貴様の一家総出の供物と歓待に身を委ねようっ!」

「本当ですかっ! それじゃあ今から皆で行くってメールしますねっ!」

 白鳥さんは携帯電話を取り出してメールを打ち込み始めた。

 吉田を見ると荒い息遣いを繰り返しメガネが曇っていた。僕も首筋の汗を拭った。

 どうやら吉田も、僕達が行かなかった会場の光景を思い浮かべていた様だった。

 あの著名な野球選手が、張り切ってクリスマスパーティーを企画したにも関わらず、招待した客は誰も来ず、三角帽子を被りながら涙を流し、窓から特大クリスマスケーキを投げ捨てた、あの惨劇の光景を……。

 白鳥さん、あなたは野球ロボットじゃないんだ!

 健太はメールを打ち終えた白鳥さんに、ケーキにはアッサムをストレートティーで合わせる様に注文していた。


19

 僕達は他の生徒の目に付かぬ様に離れて歩いていた。

 吉田は道の右側を歩き、僕と健太は左側を十メートルぐらい離れて歩いている。

 白鳥さんは吉田の隣を歩き、吉田に追い払われる度に僕等の所にやって来た。僕等も白鳥さんの問い掛けに曖昧な返事を繰り返して、白鳥さんがあっちに戻るのを耐え忍んでいた。

 白鳥さんが知り合いの生徒に声を掛けられる度に、僕等はさり気なく距離を取った。

 僕等の様な闇の世界の人間は、学校の外でも他の生徒による監視に気を配っているのだ。僕達を白鳥さんの知り合いが、不思議な表情で白鳥さんと見比べているのが手に取る様に感じる……。

 ようやく学校の通学路から離れて郊外の住宅地に入った。マンション暮らしの僕と健太には、近くにあってもあまり足を踏み入れる事の無い地域だった。

 吉田も今は不機嫌な顔で白鳥さんと並んで歩いている。

「もうすぐ私の家ですっ!」白鳥さんが僕等に向かって叫んだ。

 僕等は目を逸らして俯いた。

 もう少しだけ歩いた。

「此処が私の家ですっ!」

 僕は顔を上げた……。

 でかかった!

 二階建てぐらいにしか見えなかったが、やたらと長い洋風の建物に、沢山の窓が並んでいるのが見えた。

「裏門から入るのでもう少しですっ!」

 白鳥さんの後を付いて歩きながら塀の奥の雑木林を眺めていた。林の隙間からしか家の様子は窺えなかったが、門から玄関までの距離に芝生に覆われた大きな庭があるのが見えた。

 裏門まで歩くと、白鳥さんはインターホンを鳴らして二言三言会話した。

「こっちですっ!」

 白鳥さんは裏門を潜り抜けた。続いて吉田が入り、僕達も続くと玄関が見えた。

「ママーッ、ただいまーっ! お友達連れて来たよーっ!」白鳥さんが叫んだ。

「まぁまぁ、この子はっ!。お友達を連れて来たのなら、ちゃんと正面から入って来なさいっ!」年配の女性の声が聞こえた。

 勝手口に女性が現れた。

 どうやら白鳥さんの御母上の様だった。

 白鳥さんの御母上は、白鳥さんがこのまま二十年ぐらい歳を取ったらこうなるだろうといった感じの人で、僕の母親の様に、歳と共に年々肥大化していく呪いは掛かっていない様だった。ほっそりした綺麗な人で、住む世界が違えば住む人間も違う事を思い起こさせてくれた。

「いいからっ! それよりママ、お友達連れて来たよっ!」

 白鳥さんが僕達を手で指し示した。

 僕と健太は身体が硬直した……。

 闇の世界の人間は、初対面の人間に強い警戒心を抱くのだ!

「わ、わわわわわ私……! し、ししししし白鳥さんと御学友を……、さ、さささささせて頂いております……!」

 僕は必死で回らない舌を必死で動かした。健太は顔面蒼白のまま声も出ない様子だった。

 こいつはいつも本当に使えない男だ……。

 吉田に目をやった。

「初めまして。私、白鳥さんのクラスメイトの吉田陽子と申します」

 吉田は涼しい顔で頭を垂れていた。

 こ、こいつ……。

 何故この様な変人が礼儀作法を行えるのだ!

「まぁまぁ御丁寧にっ! 挨拶は後にして上がって頂戴。美味しいお茶とケーキを用意しているのよっ!」

「さぁ、上がって下さいっ!」白鳥さんが言った。

 僕達は裏門の玄関に上がった。吉田が上がる瞬間ちらりと目が合った。その目は明らかに格下の人間を見る時の、侮蔑を含んだ慈愛の目だった……。

 まだだ、まだ終わらんよ!

 どちらが上流のカーストの人間か思い知らせる時が来た様だった。


 正面玄関に向かうと吹き抜けのホールがあり、玄関から続く階段があった。

 上を見上げるとシャンデリアがあった……。

「こっちの部屋にお茶を用意してありますっ!」

 白鳥さんの後に付いて廊下を歩いた。そして廊下に並ぶ何個目かの扉が開かれた。

「どうぞ座って下さいっ!」

 僕等は部屋の椅子に腰を下ろした。

 部屋の中は非常に落ち着かない造りだった……。

 何かマフィアものの洋画に出てくる様な巨大なテーブルの席に、一つずつ僕達の名前が書かれたネームプレートが置かれていた。だが四人しか居ないお陰で席を半分も埋めてはおらず、部屋の広さも相成って非常に寒々しい印象だった。

 そして壁の一面に、いかにも手作りな紙テープで作られたチェーンの飾り付けと共に『いらっしゃいませ!』という手作りの看板が掲げられていた。

「し、白鳥さん……。今日って何かの祝日だったのでしょうか……?」僕は言った。

「いいえっ! 昨日、お友達を招待するって言ったら、ママと妹が張り切っちゃって家族総出で飾り付けたんですっ!」

「も、もし僕達が来なかったら……?」

「はいっ! 残念ながら家族総出で片付けましたっ!」

 白鳥さんは輝くような笑顔を浮かべた。

 良かった、来る事にして……。

 白鳥さんは『ちょっと待ってて下さいっ!』と言って出て行ってしまった。僕達はやたらと背凭れの高い椅子に座り、暫く落ち着かなく座っていた。

 すると扉が開いた。

「いらっしゃいませ」幼い女の子の声がした。

 そこには白鳥さんをそのまま五、六歳小さくした様な女の子が居た。手にはケーキとティーカップの載ったお盆を大儀そうに持っており、そのすぐ後には陶器で出来たティーポットを持った白鳥さんが立って居た。

「お手伝いしましょうっ!」

 僕は颯爽と椅子を立ち上がった。そして女の子の近くへと寄った。

「おっと、そこの小さなマドモアゼル? 僕がそのお盆を持って上げましょう」

 どうだ吉田……。

 僕は自分の母親と年寄りと子供に対してはいつも強気なんだ!

「結構です」

 断られた……。

 女の子は差し出した僕の手を避ける様にしてテーブルに向かった。

 吉田の蔑む視線をまた感じた気がする!

 椅子に座り直すと白鳥さんと女の子が机にケーキとお茶を給仕した。

「さぁ、お茶が冷めないうちに頂きましょうっ!」

「その前に、そこの小さなマドモアゼルは……?」

 女の子は配膳が終わった後も扉の近くで立ったままだった。

「はいっ! 私の妹ですっ! 自己紹介出来る?」

 白鳥さんの妹君は胸に片手を当てて頭を下げた。

「水鳥お嬢様にお仕えしております、白鳥湖しらとりみずうみです。小学三年生です」

「もーこの子はっ! ゴメンなさいっ! 今好きな漫画に感化されててメイドさんに成り切るのが流行っているんですっ!」白鳥さんは慌てて説明した。

「いえいえ、小さい頃はメイドさんに一度は憧れるものですよ。湖ちゃんと言ったかね? なかなのメイドさんじゃあないかっ!」

 僕は妹君にとっておきの笑顔を向けた。

 尤も僕は現在進行形でメイドさんに憧れていますがね!

「違います。執事です」

 否定された……。

 そう言えば下ろせば長そうな髪をアップに纏めていて、ジャケツの下にワイシャツとベストと、スラックスっぽいズボン姿だった。だが所詮は小学生か、その姿は七五三で張り切っている子供の様で威厳は感じられなかった。

 この姉妹、一体何処でこんな服を入手しているんだ……。

「もーこの子はっ! 用があったら呼ぶから下がってなさいっ!」

「御用があったら何なりと」

 妹君は一礼すると部屋を出て行った。

「ゴメンなさいっ! 生意気盛りな年頃なんです。お気を悪くしないで下さいねっ!」

「気にするな……。僕にも覚えのある行いだ」吉田が言った。

 あの子は早く修正してあげないと道を踏み外す予感がする……。

「さぁ、お茶が冷めないうちに頂きましょうっ!」

 僕達はようやくお茶に手を付けた。


 ズズズ……。

 お茶を啜る音が部屋に響いた。

 時折ケーキの皿とフォークがぶつかる音が混じる。天井が高いせいか音がよく響く。

 落ち着かない……。

 周りに目をやると、白鳥さんと健太は涼しい顔で午後のティータイムを楽しんでいる様だった。吉田の表情は長い前髪で窺い知る事が出来ない。

「やっぱり生クリームのケーキには、アッサムのストレートティーが良く合うね?」健太が言った。

「私もそう思いますっ! でもケーキは手作りなんですけどお口に合うでしょうか……?」

「素晴らしい出来栄えだよ。上品な甘さだ……。てっきりイギリスのスウィーツの様な、噛んだら歯が痛くなる様なものを想像していたからね?」

 健太と白鳥さんはアハハ、ウフフと笑い合っている。

 野郎、調子に乗りやがって……。

 早く挽回せねば!

「と、ところで白鳥さんっ! お茶も済んだ所だし、そろそろ作業に入ろうとしようじゃないですかっ!?」

「あっ、そうでしたねっ! それじゃあさっそく作業に入りましょうか?」

 白鳥さんはバッグの中から色々なノートやペンを取り出し始めた。僕達も創作ノートを取り出した。

「まずはどのシーンから始めましょうかっ!」

 白鳥さんは目をキラキラと輝かせている。

 だがっ!

 明るい中でいざ創作ノートを広げるのは非常に恥ずかしい……。

「白鳥……」吉田が言った。

「はいっ! 何ですかっ!?」

「場所を変えようか」

「此処じゃ気に入りませんか?」

「いや何……」吉田が言った。

「どうも監視の目が光っている様なのでなっ!」

 カタッ!

 扉が何かぶつかった音と共にゆっくりと開いた。

 そこに居たのは……。

「コ、コラーッ、湖っ! そんな所で何をやっているのっ!?」

 白鳥さんの妹君だった!

 妹君はコップに耳を当て、部屋の声を盗み聞きしていた姿勢のままだった。そして慌てる事もなく立ち上がり胸に手を当てた。

「申し訳ありません、お嬢様。万が一の警護の事を考えて部屋の様子を窺っていました」

「もーこの子はっ! お行儀悪いでしょっ! ゴメンなさい、私の部屋に行きましょう。湖はここで少し反省してなさいっ!」

「ですがお嬢様。周りに警護のものが居ないのは……」

「今日、ママに叱って貰うからねっ!」

 その瞬間、妹君の表情が青褪めた気がした。

「行きましょうっ!」

 僕達は白鳥さんの後を付いて部屋を出た。

 だが一瞬、吉田と妹君の視線が交差した気がした。


 白鳥さんの部屋は玄関の巨大な階段を登ってから、廊下を突き当りまで行った先にある部屋だった。

 白鳥さんの部屋が近付くにつれて僕の心臓が高鳴った。

 じ、女子の部屋だ、しかも白鳥さんの……。

 僕は唾をゴクリと飲み込んだ。

 白鳥さんは『ちょっと片付けるので……』と言って、僕等を廊下に置いたままにして部屋に入った。暫くゴトゴト音を立てていたがようやく扉が開いた。

「さぁ、狭い部屋ですがどうぞっ!」

 僕等は白鳥さんの部屋の中に入った。

 白鳥さんの様な可憐な乙女の部屋に入るなんて!

 きっとメルヘンな秘密の花園になっている事だろう!

 部屋の中は工房だった……。

 全体的に雑然とした雰囲気の部屋は、前に言っていた通り大きな本棚の中は、沢山の漫画とプラモの箱で一杯だった。プラモはロボットから戦艦、姫路城まで千差万別で、ベッド以外に目立つ家具は無く大きな机が二つ置かれていた。

 一つは勉強机らしく、ノートや教科書、辞書で一杯だった。

 もう一つの机は……。

 机の上にはベニヤ板が敷かれ、はんだゴテやエアスプレー、金鑢やサンドペーパーが散乱していた。焼け焦げのあるベニヤ板の上には、やたらリアルな顔の人形の生首や、バラバラになった身体の各部位が散乱していた。

 転がっている青い眼球と目が合った気がした……。

「私、ドールも好きなんですっ! 今カスタムしている最中なんですっ!」

「中々、素敵なご趣味ですね……」

「お迎えしてまだそんなに経っていないんですけど、可愛くして上げたくなるんですっ! 外見も内面もっ!」

 確かに人形は身体の中の隅々まで手を入れられていた……。

「それじゃあ、ちょっと着替えて来ますねっ!」

 白鳥さんは部屋を出て行った。どうやら衣裳部屋が別にある様だった。

「流石、白鳥さん……。心の奥底の襞を読み取れないお方だ……ハッ! おいっ、何をやっているのだっ!?」

 吉田が机の引き出しを開けようとしていた。

「知れた事……。白鳥の心の闇を暴こうとしているまで」

「止めろっ! 女性のプライバシーを暴く事は許さんっ!」

「偽善は止めて貰おうか……。それに他人の部屋に入ったら秘密を暴く。それは教育現場的には、思春期に於ける健全な少年少女の無邪気な行動ではないのかね?」

「し、しかし……」

「そうは言っても僕は、君等の様に下着漁りをするつもりは無い……。只、見付けなければならないものがある。契約されし呪いの品をな」

「契約されし呪いの品……」

「そう……。白鳥の身体は既に呪いに犯されている。その呪われた身体は既に腐り始め、身体の奥底からある種の渇きを覚えて来ている頃合だ。つまり呪いの品に対してな……」

「ま、まさかその品とはっ!?」

「そうだ……。白鳥は持っている筈だ。大手委託販売店と契約されし巨大即売会で取引されしもの。呪われた薄い魔道書ネクロノミコンをな……」

 ま、まさか白鳥さんの呪いがそこまで進行している筈は……。

「クククッ……。感じる、感じるぞっ! この引き出しの奥にある呪いの品が放つ負の波動をっ!」

 カタッ!

「誰だっ!?」

 吉田が音の方に振り返った。

 扉がゆっくりと開いた……。

 そこに居たのはコップを耳に当てたままの妹君だった!

「貴様、何をしているっ!」

「それはこちらのセリフ。お嬢様の部屋での乱暴狼藉、いくらお客人と言えども許される所業ではありますまい」

「マ、マドモアゼルッ……! 何処から話を聞いておられたのですかっ!?」

「全てを」

 その目は僕達を糾弾する様に鋭い光を放っている……。

 この妹君、侮り難し!

 妹君はゆっくりと立ち上がった。

 だがチビだった……。

「これは失礼。人の気配がしたもので大きな声を出してしまいました。よく考えたら白鳥さんのお屋敷だ。不審な人物など居る筈が無いのでしたなっ! ハハハハハッ!」吉田は大きな笑い声を上げた。

 僕と健太も御追従する様に、乾いた笑い声を上げた。

 フフフフフ……。ハハハハハ……。

 暫く笑い声が続いてからようやく収まり、部屋に静けさが戻った。

「お芝居はそれぐらいでいいでしょう」妹君が口を開いた。

「あなた方が人を疑う事を知らないお嬢様を誑かし、悪の道へ引き摺り込もうとしているのは既に知れた事。僕はあなた方を一目見た瞬間から警戒しておりました」

 な、何という事だ……。

 此処にもう一人の僕っ子が出現とは!

「はて何の事か……。恐らく聞き違えたのでしょう。扉の奥からでは話し声は良く聞こえますまい?」

「まだシラを切るおつもりか?」

「これ以上の言い掛かりは無礼と言うもの……。そもそも何の証拠があって我々を非難致されます? 尤も貴方はまだお若い。多少の無礼は元気があって良いとでも言うべきでしょうか。 只、少々おイタが過ぎる様ですがなっ!」

 吉田はニヤリと笑った。

「クッ……!」

 妹君は奥歯を噛み締めていた。

「随分賑やかですねっ! 何か面白い事が……湖っ! もーこの子は。またこの子が何かしたんですかっ!?」

 白鳥さんの姿は、休日に見た時よりは大人しめだったが、ピンク色を基調とした何処かの国の民族衣装かと見紛う、細かい装飾のされたワンピース姿だった。

「何、気にするな白鳥……。暇を持て余していた我々を、この小さな執事君がもてなしてくれていただけだ」

「そうですか……。ほらっ湖。もう下がっていなさい。もう邪魔しちゃ駄目だよ」

「で、ですがお嬢様っ……!」

「湖っ!」白鳥さんが一喝した。

「うっ……。お姉ちゃん……」

 妹君は一瞬泣き出しそうな顔をした。そして一礼すると部屋から去って行った。

「また会おう小さな執事君。クククッ……。フハーハッハッハッ!」吉田はまた笑い声を上げた。

 妹君の後姿は寂しげだった。

 だがその目は決して死んではいなかった!

 僕達は新たな敵に遭遇し、そして自ら鍛え上げてしまったのかもしれない……。

 しかしやっぱりチビだった……。


 白鳥さんの部屋での会合は吉田の独壇場だった。

 自身のプロット資料を手にして、よく解らない二人の主人公の設定と裏設定と真相を語り続けていた。時折、身振りを入れて説明する物語は、その狂気を孕んだ声と共にファナティックな様相を呈していた。

 だが話が佳境に入る度『まだ明らかにされていない……』で締められてしまい、二時間以上の時間を費やして解った事は、とりあえず二人は戦いを繰り広げているという事だけだった。

 やはり吉田の才能と言うべき部分は、作品に対する異常な執念と、その第三帝国総統を髣髴とさせる熱狂的な演説のみしかない様だった。

 やはりそろそろ僕の作品を披露するべきだな……。

 僕は心の中でニヤリと笑った。

 只、白鳥さんが目をキラキラさせながら聞き入っているのは気になったが……。

「さて、物語の概要も説明したところだし、そろそろお暇させて頂こうか……」

「ママに夕御飯も準備して貰おうと思っていたんですけれど?」

「それは長居が過ぎるというもの……。それよりも白鳥、君には我が叙事詩を彩る重要なタペストリーを紡いでもらう。心して掛かれ」

「はいっ! 私、吉田さんのお話を聞いて感動してしまいましたっ! 精一杯イラストを描かせて頂きますっ!」

「そうかそうか……。貴様の事を少し見くびっていた様だ。僕の叙事詩の内容を理解出来るとは中々に文化的な素養が有る様だ」

「有難うございますっ! 特に刹那と黎明が、兄弟同士なのに戦わなければいけない宿命が悲しくて……」

「フフッ……。その悲劇故に二人の戦いは残酷で且つ美しい」

「それに兄弟同士で、男性同士でありながら愛し合っているのに、二人が愛を打ち明けられないのがもどかしくって……」

「い、いや白鳥……。そういう設定は無かった筈だが……?」

 白鳥さんの呪いが進行していそうなのが怖かった……。

 僕達はそんな事を喋りながら階段を降りた。

 玄関を出ようとすると、白鳥さんのお母さんがやって来て夕飯を勧めたが、ここも吉田が丁重に断った。妹君は姿を見せなかった。

 入ってきた時とは別の、正面玄関を抜けて木立が並ぶ中を歩いて正門まで来た。

「それではお気をつけてお帰り下さいっ!」

「うむ、中々の歓待ご苦労だった」

「またきて下さいねっ! ママも妹も喜びますっ!」

 妹君は喜ばないと思うが……。

「そういえば湖ったら何処に行ったんだろう……。あっ、ちょっと待って下さいっ! ケーキの残りをお土産で持って返って下さいっ!」

 白鳥さんは僕等の返事を聞く事も無く駆け出していた。

「本当に白鳥さんを闇の世界に導くつもりなのか……?」僕は言った。

「これも運命……。それにもう引き返す事は出来ない。既に白鳥の呪いは進行し、その血流は黒く濁り腐臭を放ち始めているのだ」

「今更、僕が何か言う事は出来ない……。だがもっと別の方法があったのではないのか?」

「僕は芸術の為なら全てを投げ出す覚悟だ」

 メガネの奥の瞳が妖しく光った気がした。

 それはまさに悪魔に魂を売るファウスト博士の目だった……。

「そうはさせません」

「「誰だっ!?」」僕と吉田が叫んだ。

 木の陰から出てきたのは……。

 白鳥さんの妹君だった!

「やはりあなた方は、怪しげな術を用いてお嬢様を陥れようとする輩だった様ですね」

「マ、マドモアゼルッ! 今の会話は決してそのような意味合いでは……」

「良いではないか君?」吉田の声が遮った。

「し、しかしっ!?」

「いかにも我々は呪われし叙事詩を完成させる為、黒き星に導かれし闇の世界の住人……」

「魔物め、とうとう白状したか」

「だがっ!」

 メガネの奥の瞳がカッと見開かれた。

「君の姉上も同じく黒き星を戴く闇の住人だという事をご存知か?」

「馬鹿な事を……」

「しかも彼女は、自ら望んで闇の世界に身を委ねた……。自ら黒き欲望の炎に身を焼かれる事を選択したのだ」

「嘘だッ!!!」

 妹君の顔がサッと青褪めた。

「嘘ではない……。その証拠に彼女の薄い魔道書ネクロノミコンに対する渇望は日を追う毎に増している。恐らく部屋の中には魔道書を祭る忌まわしき祭壇が密かに建造されているだろう。この呪いに罹ると、自身の内に潜む黒き欲望の為に魔道書が一冊ずつ増えていくのだ」

「そ、そんな話は信じない……」

「信じなくても結構……。だがもうすぐ何が真実なのかが白日の下に晒される……。ワルプルギスの夜は近いっ! その日この世の全ての悪魔が集いし狂乱の宴が開かれる。そしてあらゆる魔道書と呪われし祭具が取引されるだろうっ!」

 妹君は声を失っている……。

「お待たせしましたーっ!」木立の奥から白鳥さんの声が聞こえる。

 玄関から足音が近付いて来た。

「あなた方を我が主の屋敷に入れたのは痛恨の極みでした……」妹君は言った。

「僕は一目貴方達を見た瞬間気付いていたのです。この者達は普通の人間ではない。呪われし闇の住人だとっ!」

「だが既に手遅れだ」

 吉田はニヤリと笑った。妹君は悔しげな表情だ。

「僕は諦めない。必ずお嬢様を冥府魔道より救い出して見せる……」

 妹君は木立の中に姿を消した。

「お待たせしましたっ! どうぞケーキをお持ち帰り下さいっ!」

 白鳥さんは息を弾ませながら走って来た。そして小さな紙の入れ物を、僕達に一つずつ渡した。

「何を喋っていたんですかっ?」

「何、ちょっとした作品論を闘わせていただけだ。気にするな」

 吉田の唇は歪んだ笑みを湛えたままだった。

「それではさようならっ! お気を付けてっ!」

 白鳥さんは玄関の前で、僕達が通りの角を曲がるまで見送ってくれていた。あんな善良な白鳥さんを、闇の世界に陥れてしまったと思うと胸が張り裂けそうだった。

 それにしても……。

 妹君は一目見て僕達が普通の人間ではないと思ったと言っていたが?

 僕は一度も吉田の様な不埒な発言はしていない筈なのだが?

 健太はさっそくお土産のケーキを食べていた……。


20

「どうだろう、この僕の叙事詩のエピソードを加えてみてはっ!?」

 化学実験室の中、皆は押し黙っている。

 フフッ、僕の叙事詩の展開に言葉を忘れている様だ……。

 白鳥さんの家に行ってからも数回の会合を行ったが、段々と会合が煮詰まって来ているのを感じていた。それは吉田の設定に於ける『実は……』の部分から先が全く決まらず、未だストーリーらしきものが出来ていないせいであった。

 そんな中でも白鳥さんは、毎回新作のイラストを描いて来て吉田にアドバイスを受けていた。吉田の難癖に挫ける事も無く描き続け、今では吉田の希望通りのイラストを仕上げている様だった。

 白鳥さんの描く人物が、段々顎が尖り始めている気がして気になったが……。

 会合はとうとう煮詰まりを極め、白鳥さんのイラストももう描くシーンが無くなった。そこで僕は満を持して創作ノートを皆にプレゼンをしたのだ。

 ここから僕の逆襲が始まる。吉田、お前の叙事詩は僕の叙事詩と換骨奪胎されるのだ。

 待っていて下さい白鳥さん……。

 もうそんないかがわしい絵は描かなくてもよいのです!

「どうだね皆っ! 感想を頂こうじゃじゃないかっ!」

「一郎君、私お話の事はよく解らないけれど、あんまり暴力的なのは……」

 何だか白鳥さんが気を使っているのを感じる……。

 だが白鳥さんが暴力的なものに拒否反応を示すのは想定通り。

 これは僕と吉田の対決デュエルなのだ!

「おいブタ、発言を許そう……」吉田が言った。

「はい、吉田様……」健太が言った。

「そもそもこのストーリーってギャグなのシリアスなの? どっちだとしても中途半端で笑えないし話に引き込まれないよ。そもそもこのストーリーってオリジナルなのパロディなの? どっちだとしても中途半端で独自性が無いし知ってる作品と被り方が微妙。そもそもこのストーリーってキャラに魅力が無いんだけど? 主人公ってもしかして一郎本人の事なの? だとしたら願望の自己投影が酷過ぎるんだけど。そもそもこのストーリーって……」

 批判するだけの消費者め……。

 貴様の批評など聞く耳持たんわ!

 顔の前で手を組み合わせた吉田の目は、メガネが逆光で白く光って見えない。

 さぁ、どうする吉田……。

 同じ吟遊詩人として、貴様には僕の作品を無視する事は出来ない筈だ。何故なら芸術家の才能とは、同じ芸術家の才能と引かれ合うものなのだから……。

「この作品……」吉田が言った。

「駄作だな」

 一刀両断された!

「ど、どういう意味だねっ!?」

「まだその域に達していないという意味だよ」

「な、何を適当な事をっ! 駄作だというのならどう駄作なのか説明を求めるっ!」

「不味い料理をどう不味いか説明するのは困難なもの……。只、口に入れて不味かったと言うのみ」

「詭弁だっ! それは僕の作品に対する不当な言い掛かりだっ!」

「これは僕だけの意見ではない筈だ」

 僕は周りを見渡した。健太は無表情を貫き、白鳥さんは目を逸らした。

 クッ、これは数による暴力だ……。

「だったら僕も言わせて貰う……。君の作品も駄作だっ!」

「逆上しての暴言は見苦しいぞ」

「君の作品は浪漫主義、理想主義の装飾で人間の本質を隠した俗物に過ぎないっ!」

「き、君……。口の利き方に気を付け給え……」

 吉田の唇がピクリと動いた。

「いいや言わせて貰うっ!」僕は叫んだ。

「前から僕は君の作品に疑問を呈していたのだっ! 人間の本質とは醜悪な面にこそある。 経験的事実と自己告白に裏打ちされる客観性の無い作品など、作者の自己満足に過ぎないのだよっ!」

「笑止……。それこそ自然主義の盲点なのだよ。社会性や科学性に欠ける狭量な視野などそれこそ自己満足に過ぎないっ! 自然主義が見失った美と個性の発見にこそ、人間存在の追求が可能なのだっ!」

「語るに落ちたな……。君の言う美とは自然主義に対するアンチテーゼに過ぎない。それは美を最高のものとし、思想よりも感覚と情緒を重視した耽美派にしか過ぎないっ! それは君の否定する自然主義の合わせ鏡でしかないのだっ!」

「君こそ語るに落ちたな……。美を否定しながら美を追求する。それは二律背反だとは思わんのかねっ!?」

「ふ、二人とも落ち着いて下さいっ……!」白鳥さんが口を挿む。

 白鳥さんがオロオロしながら、僕と吉田の交互に目を向けている。

 僕と吉田の間に沈黙が降りた。周りの空気が帯電したかの様にピリピリしている。僕は机の上の自分のノートを掴むと背中を向けた。

 そして出口へ歩いて行く。

「い、一郎君っ……!」白鳥さんが言う。

「どうやら別の道を歩く時が来た様だ……」僕は言った。

「止めはしない……。これもお互いの信じる道」吉田が言った。

「も、もっと話し合いましょう……? せっかく今迄、皆仲良くやって来たのに……」

 白鳥さんが僕に走り寄って来る。

 美しい……。

 悲しげな表情の白鳥さんはいつも以上に愛らしい……。

「許して下さい白鳥さん……。お互いの主義は曲げられないのが芸術家マエストロというもの……」

「で、でもっ……!」

「君に一つだけ忠告しておく……」吉田が呟いた。

「何だね」

「君の作品、実在の人物を登場させると問題があるシーンがある。特に僕の前の席に座る小林由美を手篭めにするシーン等……」

 ハッ、そう言えばそうだった!

 そこに気付くとはやはり侮れない奴、だが負ける訳にはいかない……。

「僕も君への忠告だ……」僕は言った。

「何だね……」

「男が上半身裸で戦うシーン。何故、乳首が立つ……?」

 吉田のメガネの奥の瞳が見開かれた!

 僕は扉を開けた。

「そして男性同士の美しい愛情……。それは幻想だ……」

 扉を閉め廊下を歩き始めた。これであの仲間達ともう語り合う事は無いと覚悟した。

「一郎君、待って下さいっ!」白鳥さんが叫んだ。

「だ、男性同士の美しい愛情は存在するんですっ……!」。

 扉の奥から聞こえる声は悲痛な叫び声だった。


21

 その日から僕は吉田達と行動を共にする事は無くなった。

 健太も最初の頃は、僕抜きにして科学準備室の会合に出向いていた様だが、すぐに行かなくなってしまった。どうやら会合自体が無くなってしまったとの事だった。

 僕と健太はまた学校が終わるとお互いの家に遊びに行って、ゲームをするか漫画を読む毎日に戻った。

 あれ程熱くなっていた創作活動も、自分の秘密プロット設定集資料集は開かれる事が無くなってしまった。

 吉田は相変わらず休み時間は一人でノートに何か書いていた。だが僕と目が合ってももう挨拶する事も無くなっていた。

 まぁ、もともと挨拶なんかしていなかったが……。

 白鳥さんは今でも吉田に話し掛けていた。でも吉田がノートから顔を上げて言葉を返す事は無くなった。僕達にもよく話し掛けて来たが、曖昧な返事を繰り返す僕等と会話が弾む事も無かった。

「健太の家行っていい?」

「いいよ。でもゲーム返さないよ?」

 僕達は玄関に向かっていた。

「一郎君っ! 健太君っ!」

 振り返ると手にノートを持った白鳥さんが居た。

「な、何か用……?」

 僕は周りの視線に身を潜めた。

「私、自分のイラスト沢山描いたんですっ! 一緒に見て貰いたいんですっ!」

「え? まだイラスト描いてたの? 吉田とまだやってるの?」

「吉田さんは一人でやるって言って、もう集まってはいないんです……」

「まぁ、吉田には一人がお似合いだからね……。白鳥さんも一人で?」

「はい……。でもっ! 沢山完成したのでまた皆で集まりたいですっ!」

 白鳥さんの瞳がキラキラと輝いている。

「もういいよ……」

「え?」

 白鳥さんがキョトンとした表情を見せた。

「もともと吉田の悪ふざけに付き合ってやってた様なものだし、吉田だってまた一人でやるのに戻ったんでしょ? 僕だって一人でこっそりやってたの皆の前に出されるの嫌だったし……。白鳥さんも今迄一人でイラスト描いてたんでしょ?」

「そう……ですか……」

「それに吉田とはもともと気が合わなかったのですよっ! あの視野狭窄なものの見方は自己批判の対象になるべきものですっ! それに作品論の違いは如何ともし難く……白鳥さん?」

 白鳥さんは瞳の輝きを失って俯いていた。

「白鳥さん?」僕はもう一度尋ねた。

「お引き留めして……すいませんでした……」

 白鳥さんは見るからにションボリして歩いて行った。

「どうしたんだろ?」

「お腹が空いたんじゃない?」

 健太は給食の残りのバナナを食べていた。


 翌日、学校に着いて下駄箱を開けると封筒に入った手紙が入っていた。封筒はシンプルなピンク色で、可愛らしいネコのシールで封がされていた。

 僕は心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じながら辺りを見渡した。

 誰も見ていない様だ……。

 僕はそっとポケットに封筒をしまった。急いでトイレに駆け込む。

 誰も居ない……。

 大便用の個室に入る。

 僕はポケットから封筒を取り出す。鼻に近づけて大きく息を吸い込むと、ほのかに甘い匂いがした様な気がした。

 トイレの中だったが……。

 震える手で封を開け、中の手紙を取り出す。

 手紙を開いた……。

 “ほウかごじッけんシつにこイ”

 怪文書だった!

 手紙はドラマで見る様な如何にもな怪文書で、チラシの切抜きの文字を組んで文章が綴られていた。手紙の中はその一文だけだった。

 僕は手紙を握り締めたまま滂沱の涙を流した……。

 何で僕だけこんな仕打ちが!

 そしてメラメラと怒りの炎が燃え上がった。

 こんな事をする奴は一人だけ……。

 僕は手紙をグシャグシャに纏めるとポケットにしまった。証拠になるからまだ捨てる訳にはいかない。そして大便用の個室を出た。ウンコをしていたと思われない様に、辺りに人気が無いのを確認しながら……。


22

 放課後に久し振りの化学実験室にやって来た。僕は少しだけ隙間を空けて中を覗いた。

 実験室の中は真っ暗だった。

 扉を開けて部屋の中に入った。扉から入って来る光のお陰で室内の様子がボンヤリと見える。

 まだ誰も来ていない様だった。

 扉を閉めると暗闇の中で椅子に腰を下ろした。そして考えを巡らせる。このような真似をすると考えられるのは……。

 僕の脳裏には悪魔的な笑みを浮かべる一人の人物が浮かんだ。

 ガラッ!

 扉が開いた。

「だ、誰か居るの……?」

 逆光の中に人影が見える。

「だ、誰か……」

「健太じゃないかっ!?」僕は声を掛けた。

「い、一郎っ!? 何で居るの? も、もしかして一朗がっ……!?」

 健太の顔が恐怖に歪む。

「もしかして? ……ってもしかして健太も此処に呼び出されたのかっ!?」

「そ、そうだよ……。下駄箱の中に手紙が入ってて……」

 健太は手に持っていた手紙を差し出した。

 入り口から入って来る光を頼りに手紙を読んだ。僕が貰った手紙と同じ文章が、チラシの切抜きで組まれていた。

「い、一朗が出したんじゃないの……?」

「僕じゃないよっ! でも僕達にこんな真似をする人間がいるとすれば……」

 僕と健太は顔を見合わせた。

「とりあえず待とうか……?」

 僕達は暗闇の中で椅子に腰を下ろして待っていた。

 五分……。

 十分……。

 呼び出した人物は中々姿を現さなかった。

「もう帰ろうか……?」健太が言った。

「そうする……?」僕は答えた。

 ガラッ!

 科学実験室の扉が開いた。僕等は身を固くする。逆光の中で立っている人物が見えた。

「やはり君だったかっ……!」僕は呻いた。

 吉田陽子だった!

 吉田は扉を閉めると、僕達が座っている机の上だけ照明を点けた。

「やはり君達の仕業だったか……」吉田が言った。

「どう言う事か説明して貰おうっ!」

 吉田は机にバンッと掌を叩き付けた。

「ヒッ……、ヒィッ!」健太が悲鳴を上げる。

 吉田が手を戻した後には手紙が一枚置かれていた……。

 それは僕と健太が送り付けられた怪文書と同じものだった。

「ど、どう言う事か説明しろとはどういう事だねっ! この怪文書は君の手によるものではないのかねっ!?」

 僕も怪文書を机の上に叩き付けた。吉田が手紙に目を向ける。

 沈黙が訪れる……。

「君の言葉を信じるならば、僕達の誰もが犯人でない事になる。するとこれは僕達ギルドの人間以外による犯行……」吉田が言った。

「この学校に僕達に敵対する勢力があると言うのか? 僕達、闇の勢力に対抗する光の勢力が……」僕は答えた。

「光の勢力とは限らん……。同じ暗黒の神を崇拝しながらも、別の宗派を信仰する人間かもしれない」

 ……何……だと……!

 僕達以外に暗黒の神を戴く勢力が存在すると言うのか……。

 この学校はそんな、ねらわれた学園だったのか!

『クククッ……』

 暗闇に笑い声が響き渡る。

「「だ、誰だっ!?」」僕と吉田が叫ぶ。

『クククッ……。名乗る程の者ではない……』

「貴様が我々をこの部屋に呼び寄せたのかっ!?」吉田が叫ぶ。

『そうだ。我が命令に従って貰うためにな……』

「僕は貴様の命令になど従わんぞっ!」

 吉田が声の主を探して辺りを見回す。だが声の主は姿を現さない。

 声は何か特殊加工をしたもので、くぐもっていて男女の区別をつける事も出来ない。そして声の方に振り向いてもその姿を見つける事は出来なかった。

『いいや従って貰う。従わなければ……』

「従わなければ?」僕は尋ねた。

『あの事をばらしてしまうぞっ!』

 あの事だと……。

 ま、まさかっ!?

 もしかしてこの卑劣な犯人は僕のあの秘密を知っていると言うのか……。教室に誰も居ない事に気付いたある日、僕がおもむろに……をした事を! それともたまたま指を怪我をして保健室に行くと誰も居らず、僕がおもむろに……をした事を! それともたまたま川の土手で宝探しをしている最中、ある角度から僕の姿が土手からは見えない事を発見し、僕がおもむろに……をした事をっ!

「お、お前はあの秘密を知っているというのかっ……!」僕は声を絞り出した。

 隣に立つ吉田が目に入った。

 異常な汗をかきながらゼェゼェ……と荒い呼吸を続けている……。

『え? そ、そうだ全部知っているぞ……。ばらされるのが嫌ならば我の言う事を聞くのだ』

 何という悪逆な卑劣漢……。

 この様な卑劣漢の言う事に誰が従うものか!

「わ、解った取引しようっ……!」吉田が呻いた。

「な、何故だっ! 闇の住人といえど我々は高位の存在。その誇りを捨ててしまったのかっ!?」

「せ、背に腹は変えられんっ……!」

 吉田の秘密は相当のものらしかった……。

「それでは命令とは何だ」

『め、命令は……』謎の声は言った。

『また四人で作品作りを再開するのだっ!』

「「え?」」僕と吉田は声を上げた。

『ま、また放課後に四人集まって作品作りをするのだっ! 吉田と一郎と健太と白鳥で集まって、作品作りを再開するのだっ!』

 この犯人は何故そんな要求を……。

 吉田が唇に人差し指を当て声の方に歩を進めた。そして辺りを見渡すと、机の下を覗き込み身体を潜り込ませた。

 身体を再び表すと手にはラジカセが握られていた。

「おい、それ以外の要求は無いのかっ!?」吉田が叫んだ。

『そ、それ以外は無い……。命令を聞くのかっ!?』

 声は吉田の持つラジカセから聞こえて来た。

「お前はどうして僕達の叙事詩の創作の事を知っているのだっ!?」

『そ、それは……』

 吉田が手を当てて耳を澄ましている。

『そ、そんな事なんかはどうでもいいっ!』

 吉田が指である方向を指し示した。それは化学実験室から続く準備室のドアだった。

「お前はどうして四人で叙事詩を捜索する事を望むのだっ!?」

 吉田がドアに耳を当ててノブに手を掛けている。

 僕と健太も吉田の傍に寄った……。

『そ、それは……』

 吉田が勢い良く準備室のドアを開けた!

「是非とも聞かせて貰いたいものだな、その理由を?」吉田が言った。

 室内に人の気配を感じた。

「ま、まさかっ……。何故っ!?」

 僕は犯人の正体を見て息を呑んだ……。

 準備室に居た卑劣な犯人は、思いも寄らない人物だった!


23

「まさか貴様が犯人だったとはな……」吉田は言った。

 犯人は手にマイクを握り締めていた。どうやらそのマイクによって声を変調させラジカセから出力していたらしい。恐るべき科学技術力である……。

「な、何故あなたが……」

 犯人はゆっくりとこちらを振り向いた……。

「説明して貰おうか白鳥水鳥っ! あの怪文書の真意を……」吉田が言った。

 白鳥さんは悲痛な表情を浮かべている……。

「わ、私……」白鳥さんは言った。

「皆とまた一緒に創作活動がしたかったんですっ……!」

「一緒にだと?」

「はい……。吉田さんと一郎君がケンカしてから、私達みんなバラバラになってしまいました。吉田さんはまた一人で作業する様になったし、一郎君と健太君はもう私と話す事も無くなってしまいました。私も一人でイラストを描いていたけれどやっぱり違うんです。皆と作業していた時の方が楽しいんですっ……!」

「それで我々を怪文書で呼び集め、また一緒に作業を行う様に脅迫したと言うのか?」

 白鳥さんは頷いた。

「真実とはいつも、明らかになると詰まらないものだな……」

 吉田は背中を向けた。そして準備室のドアに歩き始めた。

「ま、待って下さいっ!」

 吉田は歩みを止めなかった。

「騙したのは申し訳ありませんでしたっ! でも皆とまた一緒に作品を作りたい気持ちは本当なんです。また皆と一緒に頑張りたいですっ!」

「無駄だ。我々はもう交わる事は無い……」

「そんな事言わないで仲直りして下さいっ!」

「我々の亀裂は元に戻る事はもう無い……。それは一神教における宗派間対立よりも深い溝なのだ。白鳥、君を巻き込んだのは申し訳なかったと思う。だがこれを機に日の当たる世界に戻るのだ。所詮我々は闇の世界の住人だが君は……」

 ヒックッ……。

 しゃっくりする様な音が聞こえた。

 僕は目の前で白鳥さんの身に起こっている事態に愕然としていた……。

 ヒックッ……。

 また聞こえた。

「し、しししし白鳥さ、ささささんっ……!」僕はようやく声を振り絞った。

「君は元々は日の当たる世界の住人だ……。まだその魂は呪いに完全には犯されておらん。今の内に……何だ?」

 僕の声を聞いて吉田が振り返った。

「し、しししし白鳥っ!? ど、どどどどうしたのだっ!?」吉田が僕と同じ様な声を出した。

 白鳥さんは泣いていた!

 顔を両手で覆ってしゃくり上げながら泣いていた。冗談の泣いた振りなのではないかと思ったが、手の隙間から零れて来る涙で本当に泣いているのが解った。

「ど、どどどどうしたのだっ……!?」

 吉田がオロオロしていた。吉田のそんな光景を見るのは、初めて見る珍しい光景だった。

「は、腹でも痛いのかっ!? それとも頭かっ!? い、今すぐ保健室に……」

「ご、ごめんなさい……」白鳥さんは言った。

「本当にごめんなさい……」

「い、いいいいから、ほほほほ保健室に……」

「何でもないんです……。只、ちょっと寂しくなっただけなんです。そうしたら勝手に涙が出てきてっ……!」

 白鳥さんは顔を覆ったままだった。

「さ、寂しい?」

「はい……。もう皆で集まって作業する事も無いって思ったら、急に寂しくなって……」

「そんな事……。泣く程の事ではないだろう?」

 吉田はようやく落ち着いた様だった。そして呆れた表情を浮かべた。

「はい……。只、今迄もこういう事何回もあったなって……。一緒におままごとをしていたお友達がもうしないって言って。一緒にお絵描きしていたお友達がもうしないって言って。一緒に鬼ごっこしていたお友達も、一緒にアイドルごっこしていたお友達も、皆もうしないって言いました……」

「それは仕方がないだろう……。皆、大人になるのだから?」

「はい……。皆、大人になって卒業するのは解ります……。でも皆、大人になるのがいつも私より早いなって思って……」

「それで僕達も卒業するのが寂しくなって泣いたのか?」

 白鳥さんは頷いた。

「また私置いて行かれるのかなって思ったら寂しくなって……。それに本当は皆まだ卒業していない。それでもバラバラになるのはこれまでと違うと思ったんです。今までは大きくなってから懐かしい思い出を一緒に話す事も出来たけれど、今回はそれも無いんだって思って……」

 室内に沈黙が降りた。

 白鳥さんは両手で急いで涙を拭うと、僕達に向かって笑顔を向けた。

「へ、変な手紙を出して本当にすみませんでしたっ! 私もこれからも一人で頑張るので皆さんも頑張って下さいねっ!」

 白鳥さんの顔は火照った顔に、涙の跡が沢山付いていた……。

「し、白鳥さん……」僕は言った。

「僕また一緒にやるよ……」

 白鳥さんが少し驚いた表情を見せた気がした。健太もそんな表情を見せた。でも吉田の表情だけは窺えなかった。

「僕も言い過ぎた気がするから水に流すよ……。それでもう一度皆と一緒にやるよ。皆もそれでいいだ……」

「だが断る」吉田が僕の言葉を遮った。

 吉田の表情は、いつもの何を考えているか解らない表情に戻っていた。

「お、お前っ……! せっかく僕が纏めてるのに……」

「君にとって創作とはその程度のものなのか?」

 吉田の目が僕を睨み付けた。長過ぎる前髪とメガネのせいではっきりとは見えなかったが、その目が本気なのは感じた。

「その程度ってどういう意味だよ……?」

「君は皆と仲良くやれれば、自分の作品を曲げてしまう程度の覚悟で創作をしているのか?」

「そういう訳じゃ……」

「僕はそんなのはゴメンだ……。僕の作品は僕だけのものだ。その楽しさも苦しさも全て僕自身が背負う。いや僕以外の他人に僅かでも分け与えるつもりは無い。君にとっての創作とは、所詮仲良しごっこをする為のレクリエーションでしかなかったのかね?」

「そ、それは……」僕は呻いた。

「だ、だったらどうしてお前は僕達に手伝ってくれなんて言ったんだっ!」

「それは人手が足りなかったからに過ぎん」

「自分の作品は誰にも触らせたくなかったんじゃないのかっ!?」

「そ、それは……」吉田が言い淀んだ。

 僕と吉田は睨み合いを続けた……。

「ご、ごめんなさいっ!」白鳥さんが叫んだ。

「私が変な手紙を出してしまったからいけなかったんですっ! 私が変な事をして皆を騙したからいけないんです。だからケンカは止めて下さいっ!」

 白鳥さんは僕と吉田の間に割って入った。

「帰らせて貰う……」

 吉田は背中を向けた。

「待てっ!」

「君とはもう何も話し合う事は無い」

「誰が話し合うと言ったね……」僕は言った。

「僕達、芸術家マエストロの勝負に言葉は要らないっ! 芸術家ならば作品で勝負しろっ!」

 吉田が振り向いた。

「僕達はお互いがお互いの作品に関して、正当な評価を受けていないと感じているっ! それならば再度万全を期して、作品をコンペティションしようじゃないか。それで勝った方が好きな様にすればいい。負けた方を奴隷にしようが放逐しようが構わん。この勝負、君に受ける勇気はあるのかねっ!?」僕は言った。

「本気なのか?」

「無論本気だとも……」

 吉田の目が凶暴な光を放った気がした。

 準備室の棚から軍手を取り出す……。

 そして勢い良く僕の顔に投げ付けた!

「グハッ!」

 軍手は僕の顔に当たり足元に落ちた。

「ならばこちらから決闘の申し込みをしてやろうじゃあないか……」吉田が言った。

 かつて欧州の貴族社会に於ける決闘の作法では、顔を白手袋ではたくことによって申し込みを行い、相手が手袋を拾い上げれば受諾となる。

 吉田の目は本気だ。これは人死にが出る事態になるかもしれない……。

 そしてこの手袋を拾い上げたらもう後戻りは出来ない!

「その決闘の申し込み受けて立とうっ……!」

 僕は軍手を拾い上げた!

 とうとう最終戦争ラグナロクの雌雄が決するのだ!


24

 僕は自分の作品を目の前にして思い悩んでいた。

 果たして僕の作品に本当に足りない部分があるのだろうか……。

 僕の作品は完璧だった。エロスとバイオレンスを前面に押し出した作風は、一般大衆の興味を引き付け、それでいて読んでみると奥深く人間を問い直すテーマが隠されている。この作品は漫画化をしても小説化をしても、傑作と呼ばれるのは間違いないだろう。僕が選定した絵師に作画を依頼する予定なので初版四百万部は堅く、恐らくアニメショップでは平積みの巨大なタワーが作成される筈だ。

 それ故に……。

 僕の事を後世の人間は、アニメショップのドストエフスキーと呼ぶのだ!

 吉田が僕の作品を評価出来ない理由は、僕の才能に対しての妬み健太の場合はアニオタだから、どんな名作を見ても文句しか言えない事に間違いは無い。

 白鳥さんの場合は……。

 白鳥さんだからとしか言えない!

 以上の考察から僕の作品が名作に間違いないのは証明された。僕はプロット設定資料集を広げる。

 だがっ……。

 あんな路傍の石ころよりも顧みる必要の無い奴等の意見だとしても、ほんの少しでも聞くべき価値の意見があったとしたら?

 文豪の名作の中でも評価がより高い名作というものがある。だとしたら僕の作品をより名作として磨き上げる為に、あの様な取るに足らない輩の意見でも、大衆の意見として参考にしてみる必要があるのではないだろうか?

 僕はプロット設定資料集を捲ってみた……。

 完璧だ、見紛う事の無い名作だ!

 だが吉田の意見をあえて考える部分があるのだとしたら? いやそんなものはある筈が無いと僕の心の声が言う。そしてもう一人の心の声が考えるべきだと反論する。僕の頭の中ではアウフヘーベン的な否定の否定の議論が続いて行く。

 僕の頭の中に何かが閃いた……。

 そうか、吉田が言っていたのはこの事だったのか!

 僕は猛烈な勢いでプロット設定資料集に手直しを始めた。


 僕達は再度、化学実験室に集まった。

 いつもの様に暗闇の中、机の上の照明が一つだけ点いている。

「待たせたね……」

「挨拶はいい。決闘デュエルの時間だ……」

 健太と白鳥さんが固唾を飲んで僕達の様子を眺めている。

「決闘の方法はどうする……」

「知れた事。芸術家殺すには刃物はいらぬ、あくび三つですぐに死ぬ……」

 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

 その通りだ。僕達、芸術家マエストロを殺すには暴力は必要は無い。芸術家にとって己の作品を理解して貰えない事こそが最大の苦痛なのだ……。

 この勝負、まさに命の遣り取りとなる!

 僕は自分のプロット設定資料集を吉田に渡した。吉田もノートを僕に渡した。

 僕はそっと吉田のノートを開いた……。

 こ、これは!

 僕は吉田のノートを掴む手が、思わず震えるのを止める事が出来なかった。

 す、凄い……。

 大幅に魅力的な作品に変わっている!

「どうだね僕の作品は? これまで提出してもらった挿絵を白鳥に修正してもらったのだが? 僕自身も気に入らない部分があったので、少しブラッシュアップしてみたのだよ」

 吉田がニヤニヤと笑みを浮かべている。

 完璧だ……。

 僕が吉田の作品に足りないと思っていたものを的確に補完している!

 吉田の作品は今迄の作品と大幅に違う部分は無かった。二人の男性が刀を振り回して戦い続けているのも変わりは無かった。

 だがっ!

 僕が吉田の作品に物足りなさを感じていた部分『バイオレンス』の物足りなさが十二分に改善されていた。吉田の作品に物足りなかったのはその部分だったのだ。美しさに拘る余り戦いの恐ろしさを表現し切れていない。その部分に僕は物足りなさを感じていたのだ。

 吉田はそこに気付いたというのか……。

「どうだね。是非とも君の感想を聞きたいものだが?」

 吉田のニヤニヤ笑いは止まらない。

「か、感想は君が僕の作品を見る迄控えさせてもらうよ……」

 自分の声に力が無いのが解った。

 吉田の作品……。

 それはそれ迄の美しさに加えバイオレンスも加わった魅力的な作品だった。それ迄上半身裸だった登場人物の姿は、肩パッドの付いたレザージャケットに変更されていた。尚且つそれ迄乗り物の描写は無かったものが、フレーム剥き出しの四輪バギーが登場しており、時折そのバギーからボウガンをザコキャラに打ち込んでいた。

 そう、何より秀逸だったのが、それ迄存在しなかったザコの存在であった。そのステロイドを多用したような剛健な筋肉とモヒカン姿は、世紀末的退廃の匂いをさせるに余りあるものだった。

 ここまでの作品を仕上げるとは……。

 奴はやはり漆黒の天才ジーニアスなのかもしれない!

「それでは君の作品を見せて貰おう……」

 だが、負ける訳にはいかない。

 吉田は僕のプロット設定資料集を手に取った。そしてページを捲った。

「むっ!?」

 吉田の眉がピクリと動いた。

 どうだ、僕の作品だってこれまでとは違うのだ……。

 吉田はページを捲り続けている。その目が動揺の色に染まっているのが見て取れた。

 僕の作品は大幅に改善されている。それ迄のエロスとバイオレンスを前面に押し出した作品に変わりは無かったが、あるテーマを内包させてみたのだ。

 そのテーマとは美しさだった……。

 人間の本質を描く為に人間の醜悪さのみを追及する事を改めてみたのだ。いや追求する事に筆を緩める事は一切無かったが、人間の美しさを認める寛容さを、少しばかり取り入れてみたと言った方が正しいかもしれない。具体的な例を挙げてみよう……。

『や、やめてくれ一狼っ……!』

 だが一狼はケンタの手を離さなかった。

『いい加減にしろっ……! これ以上やったら……ウッ……ンッ……!』

 ケンタはそれ以上言葉を発する事が出来なかった。それは一狼の唇がケンタの唇を塞いでいた為だった。

 ケンタの身体から力が抜け落ちる。

『ン……プハッ……。い、一狼、何でこんな事……』

『ケンタ、お前の瞳が俺を惑わす』

 一狼はケンタを乱暴にベッドに押し倒す。

『い、一狼……。乱暴は止めて……』

 そう思っていると突然一狼はケンタの見ている前でツナギのホックをはずしはじめたのだ……!

 ジジー。

『やらないか』

『アーッ!』

 描いている最中は吐き気を催す熾烈な創作過程だった……。

 だがこれこそが僕の作品に足りなかった部分なのかもしれない!

 美を語る際に観阿弥、世阿弥親子と三代将軍義満との関係を外す事は出来ないだろう。父親である観阿弥と将軍がアーッ!な関係にありながら、息子である世阿弥は将軍のアーッ!な寵愛を受ける。退廃的でありながらそれ故に美を追求する凄まじい求道者。

『秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず』

 桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。花は一年中咲いておらず、咲くべき時を知って咲いている。

 この瞬間の刹那的な美を愛でる感性。僕はその感性を作品に取り入れた……。

 そうBLという形で!

「どうだろうか僕の作品は?」

 吉田は言葉を失っている……。

「す、素晴らしいですっ!」白鳥さんが叫んだ。

 その目は吉田の手にあるノートを凝視したままだ。

「た、確かにこれまでの作品とは一線を画したと言えるが……」吉田が呻いた。

「わ、私凄くいいと思いますっ! 私、一郎君の作品を今まで誤解していましたっ!」

 僕を見詰める白鳥さんの顔は紅く火照っている……。

「お互いの作品を見た。ではどちらの作品が上か決めようじゃないか?」僕は言った。

 吉田のメガネがキラリと光を放った。

「解った……。お互い芸術家同士だ、下らん民主主義的な多数決などは採らん。芸術家は作品を見た瞬間解る。己の作品が他人の作品より上かどうかを」

「勿論だ。それでは同時に告白する事にしよう。どちらの作品が上だったかを……」

 僕達は口を閉じた……。

 そして口を開いた!

「「僕の作品の方が上だっ!」」僕と吉田は同時に叫んだ。

「き、君っ! この期に及んで自分の心を偽るのかねっ!?」吉田が叫んだ。

「そ、それは僕のセリフだっ! どうして自分が負けた事を認めないっ!?」僕が叫んだ。

 そうだった、僕ら闇の芸術家は他人の作品に優劣を付けるのは得意だ……。

 だが作品への評価は常に己が一番なのだった!

「き、君はあくまでも自分の心を偽り、自分の作品の方が上だと主張するのかね……?」

「あぁ、芸術家は自分の心に嘘を吐く訳にはいかない。君は芸術家としての誇りを失った様だがね……?」

 僕達は睨み合いを続けた。またあの時のように空気が帯電している。

「じゃあ引き分けでいいんじゃない?」

 僕と吉田は声の方を振り向いた。声の主は健太だった。

「まぁ、どっちもアマチュアなんだし優劣付け様が無いよ。はっきり言ってどっちもオリジナリティ無いし。読んでいると既存の作品を想像しちゃうんだよね。それにはっきり言ってどっちも設定しかまだ決まってないし。設定だったら素人でも面白いの描けるんだよ。それを作品に出来るのがプロだし。それにはっきり言って両方面白くな……ハッ! も、申し訳ありません吉田様っ!」

 吉田の視線に気付いた健太が頭を机に擦り付けた。

「ブタは放牧するとすぐに躾を忘れる様だ……。躾は逐次行わねばならん様だな?」

 健太は机に平伏してガタガタと震えている……。

「わ、私も引き分けがいいと思いますっ!」白鳥さんが叫んだ。

「引き分けだと……?」吉田が不満気な声を漏らした。

「はいっ! 私、二人の作品を見せて頂きましたけれど、どちらも素晴らしい作品でしたっ! だから引き分けでまた一緒に作品を作ればいいと思います。そうすればお互いの作品が完成した時また勝負が出来ると思ったんですっ!」

「うむ……」

 吉田が顔の前で両手を組み合わせた。

「そうしましょうっ! それがいいと思いますっ!」

 白鳥さんの表情は必死だ。

「まぁ、僕はどちらでもいい……。君はどうだね?」吉田は言った。

「僕もどちらでもいいが……」

 何故なら自分の作品の方が上なのを知っているから……。

「じゃあ引き分けですねっ! また一緒に作業をするんですねっ!」

 白鳥さんは万歳三唱でもする勢いだった。吉田は不機嫌そうな表情のままだった。

「良かったっ……! 良かったっ……!」

 白鳥さんは満面の笑みを浮かべて笑っていた。

 美しい……。

 笑顔の白鳥さんはいつも以上に愛らしい……。

 いや……。

 本当に可愛かった。

 上辺だけのキャラクターでお茶を濁すのがいつもの癖になっている僕等が、上辺だけの関係で集まっていつか離散していく。そんな事をあんなに悲しがってくれる。もう一度、僕達が性懲りも無く集まって下らない事をする。そんな事をこんなに喜んでくれる。

 そんな白鳥さんが何を考えているのか、僕には不思議で理解が出来なかった。

 白鳥さんが僕達と同じ様な底辺カーストの人間と、少し似ている変な部分があるのは前から感じていた。けれども僕達以上に変わっている部分があるとすれば、それは僕達と話す時やそれ以外のカーストの住人と話す時でも、いつもあっさりと素の自分を晒して、笑ったり泣いたり出来てしまう部分の様な気がした。

 白鳥さんは目の前で子供の様に屈託無く喜んでいた。

 でもそんな変人の白鳥さんはもの凄く可愛かった……。

「どうしたんですか?」白鳥さんは言った。

「え?」

 僕は我に返った。

「ぼーっとしてましたけど?」

「い、いや何でもないけどっ……!」僕は慌てて言った。

「なーに、今後の作品の展開でも考えていたのだろう……」

 吉田がニヤリと笑った。

「それじゃあ、これから一緒に頑張りましょうっ! 絶対っ、絶対ですよっ!」

「言わずもがな……。ワルプルギスの夜は近い。世界中の魔女が集まる集会ギャザリングに於いて我が魔道書ネクロノミコンも供出するのだ。その為にも諸君等には我が魔道書の製作に尽力して貰う。その時、魔界の勢力図も塗り替えられるのだ……」吉田は言った。

「それは我が勢力の版図としてなっ! クククッ……。フハーハッハッハッ!」

 吉田の禍々しい笑い声は続いている。

 馬鹿め、吉田。お前はこの僕の掌の上で踊っているがいい。魔界の版図が塗り替えられる時に染め上げし色……。

 それは僕の色だ!

 お前は出来上がった魔道書を広げたその瞬間、絶望の淵に叩き落されるだろう。自分の魔道書と思って作っていたものが、実は僕の作品に変わっていた事実に。お前の作品を僕の色で染め上げてやる。そしてお前はその時初めて知るのだ。自分が仲間と信じていた人間に裏切られた事を……。

 そう古代ローマ帝国のカエサルの様に!

 我々の最終戦争ジャッジメントデイが再開されたのだ!


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