壱 神か悪魔か!? 地獄にあらわれた最強の男
壱 神か悪魔か!? 地獄にあらわれた最強の男
市立Y中学校の校門に一人の男が車から降り立った。
身長は170センチ程。
だが着痩せすると見えるその身体は、捲った学生服の袖から覗く腕が、針金を寄り合せた様な筋肉を見せている。
「貴様、何だその髪はーっ!?」青いジャージ姿の教師が叫んだ。
男はその言葉が聞こえないかの様に校門の入り口を進む。
「あーん? 貴様、聞こえんのかーっ! 男子生徒の髪は、襟足は首に掛からない長さにするのが此処の校則だーっ!」
教師の手が背中の中程まで掛かる男の後髪を掴もうとした。
その瞬間……。
「チョアッ!」男の口から鋭い怪鳥音。
同時に裏券が教師の手首を払い落とす。
ゴキャッ!
物体が砕ける不吉な音が鳴り響く。
教師の腕は肘と手首の間に、存在し得ない間接があるかのように曲がっていた。
「ギャアーッ! 腕が……俺の腕がーっ!」
教師はブラブラと揺れる腕を抑えながら地面を転げまわる。
「俺の身体に触るな」
男の目は地面を転がる教師を興味無さ気に眺めている。
「警報だっ! 警報を鳴らせーっ!」他の教師達が叫ぶ。
校内に甲高いサイレンの音が鳴り渡った。
「校則違反者を取り押さえるんだっ!」教師達の怒号が響き渡る。
男は黙って周りの様子を眺めていた。
教師達は竹刀とサスマタを手に取り囲む。
他の生徒達は自分達にとばっちりが来ない様に遠巻きに眺めている。
「校則違反、教師への暴行っ! 重営倉十昼夜だーっ!」
男は抵抗する事無く教師達に囲まれた。
だが誰もが男を恐れ、その身体に触れる事の出来るものは居ない。
「重営倉十昼夜だとよ……。あの男生きて出てこられないぜっ……!」生徒の一人が呟いた。
サイレンと怒号が響き渡る中、男が降りた車が静かに発進した。
全長十メートルはある黒塗りのリムジン。そのシートには一人の男が座っていた。
肥満体の身体に最高級のスーツ。その指には巨大な宝石をあしらった指輪が、全ての指に嵌められている。
指輪が彩る指で傾けるグラスには真紅のワインが揺れている。
「フフフッ……。さてどこまでやるかのう……」
グラスのワインを飲み干すと、隣に座るメガネとスーツ姿の、グラマラスな美女がワインを継ぎ足した。その胸の柔肉は男の芋虫の様な太い指に揉みしだかれている……。
車の中に聞こえてくる外の喧騒は、少しずつ遠くなり消えて行った。
弐 悪党ども! 死への秒よみやってみるかい
「委員長、今日ですぜ。奴が戻ってくるのは……!」
委員長と呼ばれた男は、手を持ち上げ指をクイッとカギの様に曲げた。
「何ですかい?」
バキャッ!
顔を近づけた男は教室の床に転がる。
「下らねえ事を言うんじゃねえっ! 誰が来ようと二年B組の委員長は俺だっ!」
「す、すいやせんっ……!」
殴られた男は鼻血で真っ赤に染まった鼻を押さえている。
「とは言え奴が何者なのかは気になる所ですね。何しろ重営倉十昼夜を生き残った男ですからね」
「心配するな光悪。なーに只生き残っただけよ。どうせ精も根も尽き果てて廃人同然だろうよ」
「だといいのですがね……」
「それに誰が来ようと関係ねえ……」
委員長と呼ばれた男は立ち上がった。
身長は2メートルに届こうかという高さ。その頑強で分厚い体から、体重は100キロを優に超えているのが想像出来た。
「この山田猛死を倒せる奴は、このクラスには居ねえっ!」
猛死の拳が目の前の机に振り落とされた!
机の合板はまるで飴細工で出来ていたかの様に砕け散り、スチールの引き出しはビニールで出来ていたかの様にひしゃげ千切れた。
「またやってしまいましたか……」
光悪がメガネの奥の酷薄な目を細めた。
教室の中に朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り響いた。
教室の扉が開く。
扉からはメガネで肥満、中年も終わりに差し掛かろうとしている女性教師が入る。
その後から学ラン姿の男が一人。
「編入して今日からみんなの仲間になる生徒を紹介します」
中年の女性教師は感情の込もらない小さな声で言った。
男は黒板の白墨を手に取った。そして巨大な字で書き記す。
“田中一狼”
「たなかいちろう。それが俺の名前だ」
男は教室の中に視線を巡らせた。男を見詰める男子生徒の顔は全て険しい。
「田中君の席は窓際の一番後ろの席よ。連絡事項は特にありません。今日も一日、勉学に励む様に」
女性教師はそそくさと教室を出て行く。一狼は自分の席に向かって足を進めた。
だが、行く手に広がる光景は……。
足!
足!
足!
一狼の席に向かうに先には、通路を塞ぐ男子生徒達の足が待ち構えていた。
一狼が歩を進める。
最初の足が立ち塞がった。
足を伸ばす男子生徒はニヤニヤと笑みを浮かべている。
「チョアッ!」一郎の怪鳥音が響き渡る。
「ギャアーッ!」
男子生徒の身体が吹き飛んだ。
伸ばしていた足は一狼の蹴りをまともに浴び、その威力故に身体ごと一回転して吹き飛んだ。
「手加減をした。だが次からは手加減はしない」
一狼の目が猛死を睨め付ける。
猛死がゆっくりと席から立ち上がる。
「手前ぇ。重営倉十昼夜を生き延びて、この教室の首領にでもなったつもりかぁー?」
「猿山のボス猿争いに興味は無い」
「手前ぇが興味なくても、俺の下に付いてもらうぜ。俺がB組の委員長なんだからよう?」
「勝手にしろ。だが俺に関わるな」
一狼が歩みを進める度に、男子生徒達の脚は潮が引く様に机の下に戻っていく。
「待てよ」猛死が呼び止める。
「手前ぇが俺の下に付いた証を見せてもらうぜ。そうだな、あれにするか……」
猛死がニヤニヤと笑う。
「机の上でマスターベーションでもして貰うか?」
教室の中がどよめく。
机に座っていた男子生徒が『ウ、ウアーッ……!』と叫び机に突っ伏す。
女子生徒が悲痛な表情で耳を塞ぎ顔を背ける。
「やって貰うぜ、手前ぇが毎晩布団の中でやってる事をよお? 時間は授業が始まるまでだ。あと五分も無いぜー? フハーハッハッハッ!」猛死の嘲笑が教室に響き渡る。
「やるのは貴様だ」
一狼が自分の席に腰を下ろす。
「手前ぇ、俺に従うつもりは……」
「その為に汚い一物を出しているのだろう?」
「何? ……ハッ!?」
何と猛死のスボンのファスナーは開いている!
そこからは巨大な一物がダラリと垂れ下がっていた……。
「ファスナーとトランクスのボタンが壊されているっ!?」
「授業まであと三分だ。それ迄に済ますんだな」
「て、手前ぇっ……!」
猛死は必死で一物をズボンの中に押し込みながら自分の席に戻った。
一狼は気にする素振りも見せず腕を組み目を閉じた。
一年F組の闘争が今開幕した!
参 地獄に咲くか愛の炎
放課後を告げるチャイムが鳴る。生徒達は家路へと向かう。
一狼も教室を出る。だが、玄関には向かわない。
一郎は歩く。向かう先は体育館。
人気の無い体育館を進み用具室のドアを開ける。室内に入る。だが入り口の扉は閉めない。
用具室に忍び寄る人影……。
そろそろと室内を覗き込む。
「何故、俺の後を付ける」
「ヒッ!」不審者が漏らす悲鳴。
一狼の見下ろす先には女が立っていた。
「誰の差し金だ」
「ち、違います一郎様っ! 私です、あなたに救って頂いた者ですっ!」
「お前は……」
その女は猛死の慰み者になっていた女子生徒だった。
一狼を懐柔する為に向けられたが一狼は拒否し、代わりに操の誇りを諭してやったのだった。
「何の用だ」
「一郎様っ! どうか私をあなたのお傍に置いて下さいっ!」女子生徒は叫ぶ。
「私はあなたに救われたのですっ! もうあなた無しでは私は存在しないのですっ!」
「俺は誰とも付き合わん」
「一狼様っ!」
女子生徒はセーラー服とスカートを脱ぐ。その下は純白のブラジャーとパンティーだ。
「付き合って下さいなどと言うつもりはありませんっ! 只、一狼様のお傍に置いて頂きたいだけなのですっ!」
一郎は見向きもせず出口へ向かう。
「一狼様っ……!」
女は泣き崩れる。
「やはり一度穢された女には見向きもしないのですね……。私の様に穢れた身体など触れる気は無いのですね……」
一狼は振り向く。そして女子生徒の腕を掴むと、マットの上に身体を放り投げる。
「キャッ!」
一狼は女の前に仁王立ちする。
「見ろ」一狼が言う。
「俺の龍がエレクチオンしている」
「ヒッ……!」
女子生徒はその雄々しさに驚愕の表情を浮かべる。
「お前は操の誇りを取り戻した。そんな女に俺がエレクチオンしない訳が無い」
一狼の手が女子生徒のブラジャーとパンティーを剥ぎ取る。
「あぁ、一狼様っ!」
「お前の名は?」
「ユ、ユミです……」
「行くぞ、ユミ」
「アーッ!」
体育準備室の中で狂おしい営みが繰り広げられた。
こうして一狼の戦いの叙事詩が開幕したのだ!
4
「一朗。次、体育だよ。行こうよ?」
「え?」
僕は半分眠りながら夢見ていた妄想から醒めた。声を掛けたのは健太だった。
「並んでないとまた殴られるよ」
「あぁ、ちょっと待って……」
僕は立ち上がる事が出来なかった。それは妄想の中でのヒロイン、ユミとの激しいベッドシーンのお陰でエレクチオンがまだ収まってなかったからだ。
「先行ってるよ」
健太は先に歩いて行ってしまった。
僕は頭の中で今迄一番嫌だった事を想像した。
小学校の頃、トイレでウンコをしているのをクラスメイトに見付かった事。
そして、それをクラス中にバラされた事。
しかも、それを聞いた女子(当時、隣の席だった小林由美)が笑い転げていた事。
そこまで思い出すと、ようやく僕のエレクチオンが収まるのを感じた。
僕は急いで席から立ち上がり健太の後を追い掛ける。ちなみに健太が言っていた通り次はすぐ殴ることで有名な体育教師の授業だ。
廊下に出ると、健太の縦には短いが横には大きい身体を見付けて追い掛ける。
「待ってくれって言ったじゃんっ!」
「一郎だって、いつも置いて行くじゃないか」
でも、まぁ置いていくのも解らない訳じゃない。
健太の身体は何を食べたらこんなに太るのかと思うぐらい、丸々とした肥満体だった。よく『家で何食ってんの?』と聞いたが、別に朝から焼肉を食べたりしている訳でもないらしい。それに量だって同じ給食を食べてお替りもしないのに、どうしてこんなに太るのか不思議だった。
けれども一緒に帰るとすぐにコンビニやスーパーで、お徳用のチョコやアイスを買うのを見ると、不思議な怪奇現象という訳ではない気がした。いつでも質量保存の法則というのは正しいのだ。
「じゃあ、先に行ってるよっ!」
「ち、ちょっと待ってよ……」
僕は全力疾走した。後から健太のヨタヨタ走る足音が聞こえていた。
体育教師の『組み分けだーっ!』という号令以下チームの組み分けが始まった。
まず最初の三人がジャンケンをし、その順番で一人ずつメンバーを選んでいく。次々とメンバーが選ばれていって残りの生徒はもう半分も居ない。だが勿論、僕と健太は残ったままだ。僕と健太ともう一人の生徒が残った所で、チームのキャプテンはもう一度ジャンケンする。
歓声が『ウオーッ!』と沸きあがって、ガッツポーズする奴が一人、頭を抱えて悔しがるのが二人。それはそうだろう。何故なら僕と健太を選ぶのは完全な罰ゲーム。運動神経なんて、心臓が動くのとゲームのコントローラーを動かす指だけで十分と思っている僕と、脂肪のウェイトという大リーグ養成ギプスで、試合中も自己鍛錬を欠かさない健太では、どちらも戦力どころか足手纏いでしかなかった。まぁ、心臓が動くのは自律神経だというのは知っているのだが。
体育教師が笛を高らかに鳴らした。
僕と健太はいきなりお互いのチームで対戦する事になった。でも別に熱い火花を散らす訳じゃない。お互いボールが動くのに合わせて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、何となく動いてさえいればいいのだ。あくまでも目立たず人の波を漂う姿は、傍から見たらまるでハナガサクラゲの様に優雅だと思う。だが一つだけ気を付けなければならない事がある。それはサッカーにはオフサイドというルールがあるので、あまり上がり過ぎず下がり過ぎずという動きをしなくてはならない。
ピーッ!
体育教師の笛が鳴った。
周りの皆に頭を下げてるのは健太だ。健太はまだ僕程動きのコツを掴んでいないから、すぐにオフサイドに引っ掛かる。健太を見ていると、僕の技術も中々のものだと自画自賛してしまう。
ピーッ!
ようやく試合が終わった。僕のチームは1―0という接戦を制し勝利する事が出来た。僕が点数を入れた訳ではないが、足手纏いにならなかっただけ及第点を付けられる出来だろう。ガゼッタ紙だったら5・5といった採点か?
僕達のチームはこれで一休みに入り、逆に健太のチームは連戦だ。健太以外のチームメイトは連戦出来る事を喜ぶ奴も居るが、健太にとっては過酷な死のロードとなるだろう。だが連戦は上の上位に行く程きつく宿命なのだから、挫けずに頑張って欲しい。戻る最中に体育教師から『一朗、お前動きに覇気がないぞっ!』と怒鳴られた。
「すいません……」
僕は頭を下げた。覇気と言われたって元々活躍する気なんて無いのに。チームの為に頑張るのがサッカーなら、チームの邪魔にならない様にフォアザチームに徹する僕は、この試合のMOMだと思うのだが違うのだろうか?
それに、この体育教師は組み分けする時に絶対あの方法を取る。僕と健太が最後まで残るのを解っていてだ。何だか居た堪れない表情の僕達を見て楽しんでいるのか、それともこういう屈辱を味わうのも教育だと思っているのか、絶対に方法を変えようとしない。
例え教育の為だとしても絶対に許さない……。
絶対にだ!
僕が将来有名になって自伝を書いたら、才能を潰そうとした教師として吊るし上げてやる。
ピーッ!
試合が終わった。次の試合を終われば体育も終わりだろう。フラフラになりながら戻ってくる健太を見ながら僕はグラウンドに戻った。
5
給食を食べ終わって僕と健太は自分の席で雑談をする。話題はいつもと同じゲーム、漫画、アニメの話だ。他の生徒達は、元気が有り余っている奴等は校庭や体育館に行き、それ以外の奴等は大体は教室に残って時間を潰している。
僕には友達と呼べるのは健太しか居ない。健太にも友達と呼べるのは僕しか居ない。他の生徒達は3~5人ぐらいで集まっているが、僕等みたいに二人だけで乏しい人間関係を表している者は居ない。
でも本当に友達が居ない奴は教室には残らない。図書館にでも行っていると思う。其処以外には行く所は無いだろうし、余り足を伸ばしすぎて校舎裏や武道場に行ってしまうと、今度は不良達がタバコを吸っているのに遭遇してしまう。広いと思っていても、僕達生徒には教室以外に行く所なんてそんなには無いのだ。そう考えると僕等は決して底辺では無いという優越感を味わう。
「……新番組見た?」
健太はどうしようもないオタク野郎だ。その趣味の範囲は、ゲーム、漫画、アニメと身体を動かさないものなら多岐に及ぶ。かと言って、読書や音楽等、文化的なものが好きなのかというとそうでもない。読書はイラストの多いライトノベルしか読まないし、音楽はアニメの主題歌ぐらいしか聴かない。しかもライトノベルは図書館で借り、音楽は動画サイトで拾って聞く程度だし、好きなアニメだってDVDとかは絶対買わないで、毎日録画チェックで済ます。だから何の経済効果も及ぼさない。作っている側の人にしてみれば『金は出さないで口を出す』最も消えて欲しいタイプのオタクだろう。
「見てないよ。詰まらないの見たくないから。面白かったら後で焼いてよ?」
「チェッ……!」健太は舌打ちする。
健太を馬鹿にしたが、このクラスにもそういうオタク系の趣味を持った生徒は沢山居る。クラスを見渡せば、漫画を読んでいる生徒は男女問わずに居るし、話題にアニメの話が上がるのを聞く事がある。
でも彼等にはあくまでも娯楽の中の一つ。僕等みたいに娯楽に依存してしまう事は無い。別に無くても困らないし、無くても生きていけるし、あったら邪魔な時すらある。でもそんなものに生活を依存してしまうから、僕等はオタク野郎なんだろうと思う。
男子の中のオタク野郎が僕等だとすれば、女子の中にだってオタク女は居る。今も一人で机に突っ伏す様に、ノートに何か書いている女子が居る。
吉田陽子だ……。
その前にこのクラスの構成の事を話そう。どこのクラスでもカースト制度は強力だ。僕と健太はまず間違いなく男子の最下層に居ると思われる。でも僕等は単なる邪魔者扱いしかされないから、余り苛められた記憶は無い。たまに意外と平和なクラスだよなと思っていると、誰かが学校に来なくなったりするから、意外とホントのダメ人間はイジメの対象になりにくいのかもしれない。
これが女子になると一種異様な世界となる。一人の女王の周りに円卓の女騎士が集まり、その下に農民が集まる。女王はどんな強力な魔法の剣を持っているのか知らないが、騎士達は女王に忠誠を誓い農民達は恐れ敬う。この絶対君主制は、女王がどんな悪政を行おうとも転覆させるのは困難を極める。
それぐらい女王の力は強大で、立ち上がろうとした人間なんて僕は一度も見た事が無い。漫画みたいに一人の勇者が立ち上がるなんて事は無いのだ。それにたとえ立ち上がっても誰も付いて来る者は居ないだろう。革命を望んでも皆犠牲になるのは怖いのだ。まぁ革命の後に起こるのはいつも虐殺なのだが。
でもそんな女王の王国に入る事が出来ない生徒が居る。王国の中で農民以下のカーストに居る存在。友達が居るのか居ないのか、休み時間はいつも一人でノートに絵を書いている。
それが吉田陽子だ。
吉田陽子は今もノートにペンで何かを書き記していた。腕と身体でノートを覆い隠す様にしながら一心不乱にペンを動かす。だがノートに何を書いているのかを見た物は居ない。それは吉田が一人も友達と呼べる人間が居ないからだ。
このクラスには吉田以外にもオタク女は存在する。そいつ等は王国の領土の端に小さな集落を作り、細々と生活している少数部族だ。王女や騎士はおろか農民達とも交流する事は殆ど無い。だが彼女等が持つ禍々しい書物を主たる産物として、たまに農民達と交易する事もある。
でも吉田はそういった事は一切しない。
吉田はいつも王国の人間の誰も足を踏み入れない祠に隠れ住み、少数部族とも交流をせず、カエルの目玉やトカゲのペニスなどの、ゲテモノの入った大鍋を掻き回している魔女の様な存在だ。
そして吉田は今もその大鍋を掻き回し続けている。
「焼いてやるから何かゲーム貸してよ?」健太が言った。
「いいけど前に貸したのもうクリアーしたの?」僕は答えた。
「まだ。同時に進めるから貸してよ」
「チェッ……!」
今度は僕が舌打ちした。
チャイムが鳴って昼休みの終了を告げた。
あともう少しで今日の学校も終わりだ。僕は早く授業が進む様に、午後も半分寝ながら時間が過ぎるのを待った。
6
帰りのホームルールが終了すると僕と健太はすぐに教室を出る。放課後の時間が本当の僕達の時間だ。部活なんかはしている暇無い。
「健太の家行っていい?」
「いいよ。でもゲーム返さないよ?」
僕達は玄関へと向かう。
「あっ、待って。ジャージ持って帰るの忘れた」
健太が立ち止まる。
「別にいいじゃん」
「駄目。汗が匂うから」
健太はすぐに後を振り返って、もと来た廊下を歩き出す。
「面倒臭いなー……」
僕も健太の後を追って廊下を戻り始める。面倒臭いとは言ったものの、ケンタがジャージを持って帰って洗濯しないといけないのはしょうが無い事だ。汗っかきの健太は基本的にいつもシットリと濡れている。その体液は運動をする事で分泌量を大幅に増加させ、今日の体育の様な激しいものになると、ジャージがその体液で黒く変色する程だ。
だから健太はいつも体育の後はジャージを家に持ち帰るし、体育の日は着替えのシャツとパンツまで持ってくる。『面倒臭くない?』と聞いた事があるが清潔を心掛けているとの事だった。テレビで清潔にしているホームレスの方が、食べ物を貰えるというのを見て決心したそうだ。
教室には誰も居なかった。
いつもはダラダラと学校に残る生徒が残っているものだが、今日は人っ子一人居なかった。
「早くしろよ」
「ちょっと待って」
健太はロッカーからジャージの入った袋を取り出してバッグに押し込んでいる。
僕の視界に何かが見えた。
机の引き出しの部分。青い色のシンプルな大学ノートの表紙が見えた。
その席は吉田陽子の席だった。
「お待たせ。……どうしたの?」
「見てみなよっ……!」
僕は顎で指し示した。
「何?」
「吉田の席だよ。あのノートあれだよっ……!」
僕の言葉に健太も何を言っているのか気付いた様子だった。
「だ、だから、どうしたんだよっ……!」
「見たくない?」
健太は息を呑んだ。
その誰も中を覗いた事の無い吉田のノートが目の前にある。いつもは机の中身を全て持ち帰るくせに、今日に限って机の中に置いて帰っている。しかもそれは絶対に人に見られたくないだろう、そして一度たりとも見せた事の無い、あの秘密のノートだった。どうせ大したものは書かれていないと解ってはいたものの、見る事が出来ないとなると、どうしても見たくなるのが人情というものだった。
「ぼ、僕は見たくないよ……」
「おい、正直になれよ坊や」
僕の中にセリノワールな主人公が憑依した。
「覗いている所をみつかったらどうするんだよ……」
「おや? どうやら見たいって気持ちはあるみたいだな?」
「そ、それはっ……!」
「オーケイ。よく考えてみるんだ。もしかしたらあのノートは吉田のノートじゃないかもしれないんだぜ?」
「ど、どうして……?」
「あの吉田が机に置いていったりすると思っているのか? あいつはそんなタマじゃないさ。しかもあのノートは誰にも見せた事が無いノートだ」
「つ、つまりどういう事……?」
「あのノートは誰か他の人間のノートかもしれないのさ。もしかしたら落ちているノートを誰かが拾って吉田の机に入れたのかもしれない。似ていると思ってさ」
「じゃあ、放っておこうよ……」
「馬鹿を言うなよっ! 実は本当の持ち主がノートが無くて困っているかも知れないんだぜ? 善良な市民だったら本当の持ち主を探すべきだろう?」
「で、でも……」
「何、本当に吉田のノートだったらそのまま机に仕舞うだけさ。別に考える事は無いだろう?」
「だったら先生に……」
「おいおいガッツを見せろよっ! こんな事で先生を呼ぶなんて小僧っ子のやる仕事だぜ?」
健太が唾を飲み込む音がした。
「さぁ坊や、その引き出しからノートを取り出すんだ……」
僕の言葉に操られるかの様に健太が手を伸ばす。
良かった健太が間抜けで……。
これで見付かっても健太がやった事だ!
健太がノートを取り出した。そのノートはいつも吉田が何か書いている、青い大学ノートに見えた。
「開いてみてくれ……」
健太がゆっくりとノートの表紙を捲った。一ページずつゆっくりと捲っていく。
段々と捲るスピードが速くなっていく。
「なーんだ」僕は言った。
ノートの中身は下手糞なイラストが書かれているだけだった。やたら顎が尖っている気がする男が沢山書かれていた。それはお世辞にも上手とは言えず、ハッキリ言って下手糞なイラストと細かい字の注釈でページは満載だった。
「下手だなー……」健太が言う。
健太の手が適当にページを捲っていく。
「パースが狂ってるし顔の左側からしか書いてない。作画悪過ぎだよ。アマチュアの悪い部分が出ているね」
いつもの上から目線の批評が始まる。でも健太は絵を描けないのだが。
まぁ、そこに引け目を持つ事無く、肯定は抑制し批判は声高に叫ぶのが健太の良い所だ。
「吉田ってオタクだとは思ってたけど、こんなのずっと描いてたのかー……」僕は言った。
「まぁ、描くのはいいけど自己満足に陥っちゃ駄目だね。同じ構図でキャラも全部同じだよ。もっと上達したいんだったら上手い人のを真似て……」
カタッ!
僕等の後で物音がした。
僕等は身体が凍り付く。
背中からフシューフシュー……と荒い息が聞こえる。
僕と健太はゆっくりと振り向く。
そこに居たのは……
「見い―たあーなあーっ……!」
吉田陽子!
ブルブルと身体を震わせながら、その長すぎる前髪から見える市役所の職員が掛けていそうな黒縁のメガネの奥から、充血させた目を爛爛と輝かせて僕達を睨んでいる。その手には何処から持って来たのかソフトボール用の錆びた金属バットが握られていた。
「見い―たあーなあーっ……!」吉田がもう一度言った。
「「ヒッ……、ヒィッ!」」僕と健太の口から悲鳴が漏れた。
次の瞬間、健太はノートを放り出して教室の出口めがけて走り出した。
僕も追い掛けて駆け出す。
僕と健太は廊下を走る。
すぐに健太の背中に追い付いた。追い抜く瞬間、健太の絶望の表情が見える。
後方からは僕等を追いかけてくる足音が聞こえる。
振り返る……。
そこには金属バットを握った吉田陽子の姿があった!
その光景はまるで、黄泉比良坂でイザナギを追い掛けて来る黄泉の醜女の様だった。吉田はあんなに足が速かったのか、それとも僕等の足が恐怖で竦んでいる為なのか、距離がどんどん縮まっていく……。
「一郎……待ってっ……!」
健太の喉からヒューヒューと笛の様な呼吸が漏れている。
勿論、僕は待つ事はない。
「一郎……待っ……アァーッ!」
背中で健太が倒れる音がした。
ベシャッという音とゴロゴロと転がる音が聞こえる。
「ま、待ってっ……。置いて行かないでえーっ!」健太の絶叫が響き渡る。
追い掛けて来た吉田の足音が止まった。
健太に追いついたのだ。
「た、助けてっ……!」
僕は健太の声を聞かない様に更にスピードを加速させる。
玄関で上履きに履き変え、校門を出た所でようやく呼吸を落ち着かせた。
耳の奥に健太の助けを求める声が残っていた……。
でも仕方が無かったのだ!
誰かが犠牲にならなければ二人とも共倒れだった。カルネアデスの板は一枚しか無かったのだ。僕は自分を納得させると家路へと歩き出した。
それにいくら吉田陽子でも殺したりはすまい。多少あの金属バットで殴られる事があるかもしれないが、健太のあの脂肪が衝撃を吸収してくれるだろう……。
健太は生まれて初めて肥満体だった事を感謝する事筈だ!
歩きながら少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
でも一つだけ忘れられない光景があった。
それは振り返った僕に向かって呟いた……。
『許さない……絶対にだっ……!』
あの光景だった。
7
翌日、学校に行くと健太の姿があった。
健太は特に怪我した様子も無く机にボーッと座っていた。
「おはよう。昨日あれからどうなったの?」
健太は僕の顔から目を逸らした。
「昨日の事怒ってるのかよ? 僕が悪かったよ。でも健太だって最初僕を置いて逃げたじゃないか?」
今度は逆の方向に目を逸らした。
その後も何回か話し掛けたが健太は応答する事が無かった。
「チェッ……!」
僕は自分の席に戻った。せっかく僕があの金属バットで殴られでもしたのかと心配してあげているのにこの態度だ。
健太の奴、何て人間の小さい奴なんだ……。
もうあっちが反省しない限りこっちから絶交だ!
朝のホームルームを告げる授業が鳴った。
一時限目の授業が終わると僕は健太の席に向かう。
「健太、昨日の新番組見た?」
だが、健太は僕に目を合わせようとしなかった。
「ネットの先行上映の評判良かったからオンタイムで見ちゃったよ」
それでも健太は僕に目を合わせない。
「チェッ……!」
僕は自分の席に向かった。
二時限目の授業が終わると僕は健太の席に向かう。
「健太、昨日の新番組見た?」
だが健太は僕に目を合わせようとしなかった。
三時限目の授業が終わると僕は健太の席に向かう。
「健太、昨日の新番組見た?」
だが健太は僕に目を合わせようとしなかった。
昼休みになると僕は健太の席に向かう。
「健太、昨日の新番組見た?」
だが健太は僕に目を合わせようとしなかった。
「ちょっと、いい加減にしろよっ!」僕は珍しく声を荒げた。
健太は何も言わず席を立ち上がり教室を出て行った。
放課後になった。僕は健太とずっと口を利かなかった。もういい加減に頭に来て、こっちも健太が話しかけて来ても口を利かないつもりだ。
健太はさっさと教室を出て行く。暫くしてから僕も席を立つ。
そう言えば……。
吉田の席に目をやった。健太の事で気を取られていたが、吉田が何も言って来なかったのが不思議だった。吉田は普通に学校にやって来て、いつもの通り休み時間はあの青い大学ノートに下手糞なイラストを書き続け、放課後になったら姿を消していた。てっきり担任に言い付けられるか嫌味の一つも言われるか、下手をしたら昨日の金属バットの延長で、ナイフで刺されたりするのではないかとまで心配していたのだが、全てが杞憂に終わった。
僕は教室を出た。其処である光景が目に飛び込んで来た。それは廊下を健太と女子生徒が並んで歩いている姿だった。
その女子は……。
吉田陽子だった!
健太と吉田は連れ立って歩きながら、玄関とは違う方向の廊下を曲がって行った。
僕は呆然としていた……。
ようやく身体が動く様になると、ノロノロと玄関で上履きを履き変えた。
校門を出ると急に悔しくなった。
いつの間にか視界が涙でボヤけていた。
健太が僕と口を利かないのが悔しかった訳じゃない……。
僕と一緒に帰るのを止めて吉田と何処か行ったのが悔しい訳じゃない。今迄、ゲーム、漫画、アニメが彩って来た健太との友情が壊れたのを実感したから悔しい訳じゃない。僕が悔しいのは……。
健太が女子と並んで歩いていたという事実だ!
これは由々しき事態だった。僕と健太は今まで男子のカーストの、ワースト一位と二位を常に争ってきたライバルだった。その争いは常に熾烈を極め、だがどちらが一位を取ってもライバルの活躍に賞賛の拍手を送ってきた仲だった。ある時は同じ日直の筈なのに当番の女子と全く話す事無く一日を終えたり、転がって来た消しゴムを拾って上げようとすると『触んなっ!』と恫喝されたり、バレンタインに可哀想だからという理由で、クラスの人権派の女子からチロルチョコを貰ったりしてきた仲だった。
だが女子と並んで歩いていたという事実は、決定的な差となってしまう!
吉田と並んで歩く事には何の羨ましさも感じない。だが女子と並んで歩くという事実には重大な意味を持つ事になる。クラスの人間は『健太と吉田ならお似合いだなっ!』という冷やかしの言葉を掛ける事が出来るかもしれないが、僕には掛ける事が出来ないのだ。
もし掛けたとしたら……。
『まぁ、僕なんかには吉田で十分だよ』
健太はきっとこう言うだろう。
そしてニヤニヤと蔑みの笑顔を浮かべながら『あんまり高望みするなよ、釣り合いの取れた相手を探そうぜ』と言葉を続けるに違いないのだ。
悔しい……。
健太ごときの人間にこんな事を言われるなんて!
僕は家に帰ってからも気が沈んだままだった。御飯を食べてテレビを見て、買ってきた漫画を読んで、やたらと難しいゲームを進めてからベッドに潜り込んだ。
目を閉じるとまた悔しさで涙が滲むのを感じた。