智晶さんと僕
智晶さんの部屋から見下ろす都会の夜。
街の灯は彼方まで続き、遠くに一際高い場所で輝く何かの赤い光が見える。
この無数の煌めきの中に、麗ちゃんはいるのだろうか?
僕は今の智晶さんの言葉を確かめる。
「クロノスクラブ……? 謎の秘密結社なの?」
「そうさ。日本の政界、官界、財界などの一部の有力者しか知らないと言われる謎のクラブさ」
「智晶さんはどこでその話を知ったの?」
「僕がやってる古美術商の政治連盟の会長から聞いたんだ」
「えっ! 智晶さん、古美術商なんてやってるの?」
今になって広いリビングを見渡すと、高そうな金縁の額に入った洋画や、陶器の西洋人形がいっぱい飾られている。
「うん。随分昔に兄がアンティックショップから古美術商に鞍替えしたんだ。僕もそれを手伝ってるんだ」
僕は智晶さんと一緒に行ったあの店を思い出した。
あのお兄さんのことだ。
「お兄さんは知昌さんだったよね?」
「そうそう! 僕の名前より『日』の字が二つ少ないあの兄だよ」
「お兄さんは元気なの?」
「元気、元気。爺さんになっても、本当にうるさいくらいだよ」
良かった! 元気なのは何よりだ。
この時代にいれば、きっとそのうち会えるだろう。
僕は話を戻す。
「で、政治連盟の会長さんはクロノスクラブの事を知ってるんだよね?」
「うん。知ってるけど、会長はメンバーじゃないみたいなんだ。クロノスクラブとの話は、実際は連盟の顧問弁護士に取り次いでもらってるそうだよ」
「その顧問弁護士さんがメンバーなの?」
「みたいだね。その人は弁護士になる前は大蔵省の事務次官だったらしいよ」
へえ、大蔵省のトップから弁護士さんか。
偉い人はどこまでも偉いもんだなあ。
「智晶さん、その顧問弁護士さんの名前ってわかる?」
「ちょっと待って……」
智晶さんが車椅子を転がし、猫足の立派なチェストから名刺入れを取り出した。
それを捲りながら、
「七瀬さんだね」と答えた。
その名前を聞いて、僕の胸がズキリと疼く。
七瀬……、七瀬といえば……。
過去の世界で、僕を殺そうとした九条院グループの秘書だ。
けど、七瀬なんて名前はそう珍しくもなさそうだし……。
「その弁護士さんと連絡取れないかなあ?」
「どうだろう? 会長に訊いてみないとわからないよ。内容が内容だけにね」
ちょっと眉を下げ、智晶さんは困ったような顔をした。
それから、急に顔が変わり、
「あれ? そういえば、智が香のことを九条院のお嬢様って言ってたような気がするけど……?」
僕はどうしようと思った。
本当のことを打ち明けるべきか?
智晶さんの前では香のままでいた方が良いのか?
しばし悩んだが、智晶さんには今の真実を知ってもらいたいという気持ちの方が強かった。
「智晶さん、実はね……。僕の本当の名前は、日比野香じゃなくて、九条院麗って言うんだ」
「えーっ! それじゃ、僕のクラスメイトの九条院令君と全く名前が同じじゃん!」
車椅子から転げ落ちそうになるほど、大袈裟に驚く智晶さんだった。
「日比野香は僕の友達の名前で、記憶喪失で勘違いしてたみたいなんだ」
「はあ? いくら記憶喪失でも自分の名前を間違うかな? でもまあ、香ならそんなこともありかなと……、あは、あははは!」
今度は智晶さんは白髪も振り乱さんばかりに、腹を抱えて大爆笑。
僕は至って真剣、大真面目に打ち明けたのに、これってひどくない?
「ねえ、智晶さん。僕のこと本当に九条院麗だと信じてくれるの?」
智晶さんは笑うのを止め、僕をまっすぐ見つめた。
「うん、信じるよ。信じないとまた過去の二の舞になっちゃうしさ。でも、香……、じゃないレイちゃんだっけ? レイちゃんが連絡先を知りたい九条院君っていったい何なの?」
「今さらだし、香でもいいよ……。いや、智晶さんには香って呼んでもらったほうが嬉しいかな。で、九条院さんはね……、あの、その……、そうそう、僕の親戚だよ」
「親戚か。なるほどね。その親戚に連絡取りたいって言うんだね。……って、親戚なら自分から本人に連絡すればいいじゃん」
「それがさ、色々あってね……。九条院でも連絡取れないんだ」
「九条院って、あの九条院でしょ? 銀行とかやってる」
「そうだよ。九条院グループの九条院だよ」
そう言い、ちょっとだけ胸を張ってみせる。
まあ、僕が偉いんじゃないけどね。
「香は前々から見た目はただ者じゃないぞ、って感じがしたもんなあ。九条院のお嬢様だったんだね。それにしても中身は随分と庶民的だったよね! ぷっ……」
今にもまた大爆笑しそうな智晶さん。
その言葉に不服の意を込めて、僕はほっぺを膨らませた。
「何それ? ひどいなあ、智晶さん!」
どうせ僕なんかベタベタな庶民ですよ。
庶民の何が悪いの!
「ごめん、ごめんよ。じゃあ、会長には僕から一度お願いしてみるよ。それで許してね、香」
「うん、わかった!」
何だか棚ぼたで取引が成立しちゃった。
たまには怒ってみるもんだな。
「じゃあ、もっと話していたいけど、僕はそろそろ家に戻るよ。下に家政婦さんを待たせてるし」
「家政婦さんって、メイドさん? さすが、九条院家のお嬢様だね!」
いやいや、智晶さんの部屋も家政婦さんがいてもおかしくないほどの豪邸ですよ。
実はいるんじゃないの?
今一度、僕はリビングを見回した。
「智晶さん、また来てもいいかな?」
「もちろん、OKだよ。香ならいつだって大歓迎さ!」
「じゃあね……」
部屋を出ようとして、ふと大事なことを思い出す。
「智晶さん、足はどうしたの?」
「ああ、ちょっと会社の倉庫で痛めただけなんだ。じきに治るよ」
「そうなんだ。早く治るといいね。じゃあ、またね」
最後に連絡のために、家の電話番号のメモを智晶さんに渡した。
智晶さんは、車で送ろうと智さんを呼んでくれたが、それを固辞した。
別れ際、智晶さんは、
「僕は近いうちに香が来るって何となく予感がしたんだ。香、今日はありがとう」
また泣きそうになってしまったが、今度はいつでも智晶さんに会える。
グッと堪えて、彼女の手を握ってから、僕らは別れた。
◇◆◇
ロビーに降りた。
千春さんはソファーにどかりと座り、スクリーン型の携帯端末をかぶりつきで見ている。
僕が近づくのにも全く気づかないほどだ。
彼女のふわりとした後ろ髪の間近から画面を覗いたところ、やっぱりあの四人組のジャリタレだった。
千春さんには申し訳ないが、ロビーでこのまま、ぼうっと突っ立ってるのも嫌だし……。
「千春さん!」
声を掛けたら、彼女は飛び上がりそうなくらい驚いた。
「ひゃあっ! お嬢様、いつからそちらに?」
「ちょうど今だよ。お待たせしました。さあ、帰ろうよ」
千春さんは名残惜しそうに端末を切ると、立ち上がり明るく言った。
「さあ、お嬢様、我が家に戻りましょう!」
うん、帰ろう。
僕たちの九条院家に。
二人は通りに出て、タクシーを拾い、智晶さんのマンションを後にした。




