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京都へ

 夕方のラッシュアワー。

 僕らは人の波が右から左からと押し寄せる東京駅構内を歩いていた。

 僕が引く麗ちゃんのキャスターバッグの音も沸き立つ喧噪の中、掻き消され聞こえてこない。

 麗ちゃんは、他人ひとに時折バッグを蹴られ遅れてしまう僕の様子を気にしながら、前を進んでいる。


 人混みを抜け、リニアの券売コーナーに着くと、麗ちゃんはクレジットカードを取り出しチケットを買った。

「自動券売機で良かったわ」

 チケットを僕に渡しながら、独り言のように彼女が呟いた。


「え、どうして?」

 僕は意味がわからずに聞き返すと、彼女は肩先で金色のカードを振りながら答えた。

「だって、九条院のカードに九条院って名前が入っているじゃない」

「ああ……、そうか。そうだね」


 事件のことを駅員が知っているかどうかは定かでないが、詮索されるような目で見られれば、確かに麗ちゃん的にはあまり気分が良くないことかもしれない。

 もらったチケットを見ると、自由席だった。いつもはグリーン車なので、これも事件のせいだろう。

 じっとチケットを見る僕の様子を見て悟ったのか、麗ちゃんは

「グリーン車だと知り合いがいるかもしれないから」と苦笑いした。


 リニアの自由席ホームは長蛇の列が等間隔で続いていた。

 これは赤字のため、ダイヤがかなり間引かれたせいだろうと思う。

 その人の列の最後尾に僕らは並んだ。

「これじゃ立ち席になるかもね」と麗ちゃんは肩をすくめた。


 リニアモーターカーの平坦で白い車両がホームに滑るように入ってきて、静かに停止した。

 車内清掃が終わり、ドアが開くと、人々が一気になだれこんだ。

 車内はごった返しで、麗ちゃんの懸念どおり、席は確保できなかった。

 僕らはドア近くに立ち、京都まで行くことにした。


「ごめんね。郁」と麗ちゃんが僕に謝る。

「いいよ。どうせ、防音壁で景色なんか見えないし、一時間もかからないから」と笑って答えた。


 リニアが走行を始め、品川駅を過ぎた辺りで、麗ちゃんの視線が床に落ちた。

 その様子に僕は車内を見回した。乗客たちが広げる夕刊紙に『九条院』の大きな文字が踊っていた。

 ここの人たちが麗ちゃんを知っているはずもないが、僕は彼女を背で隠した。

 近くの席でサラリーマン風の男が読んでいた夕刊を閉じながら、隣の男に、

「俺さ、メインバンク、九条院なんだよな。早めに預金おろしたほうがいいな」と不満げに言うと、

「俺もだよ。まいったな」と言ってから、舌打ちした。

 麗ちゃんが僕の後ろで身を小さくするのが、なんとなくわかった。


 しばらくすると、彼女も落ち着いたのか、

「絶対に潔白を証明しないと」と小声で呟いた。

「そうだね」と僕はそれに相槌を打ち、その手をそっと握った。

 それから、そういえば麗ちゃんは今朝まで病院にいたんだと気づき、「キャスターバッグに腰掛ければ」と勧めたら、

「いいえ、この人たちのことを考えると、とても座ってられる場合じゃないわ」と答えた。


 その後、彼女は始終無口で僕は心配だったが、特に何事もなくリニアは京都駅に着いた。

 ホームに降り立ち、「皇爵は京都のどこにいるの?」と歩きながら麗ちゃんに訊いた。

「下鴨の別邸よ。でも、お伺いするのは明朝だけどね」

「明日? じゃあ、今日はこれからどうするの?」

 僕は足を止めた。


「泊まるところを探さないとね」

 麗ちゃんは簡単に答えたが、高校に入ったばかりの僕と麗ちゃんだけで宿泊なんかできるんだろうか、と僕は思った。


 ◇◆◇


 駅ビルを出て、京の地に僕と麗ちゃんは降り立った。


 ここは天皇陛下所縁ゆかりの地。

 四十年前、東京を去った天皇陛下は、今は京都御所を居所とし、時を同じくして移転した宮内庁と共に公務にあたっている。

 僕にとっては生まれた時から京都といえば天皇陛下だったので、何の違和感もないのだが、年配の方にとっては天皇上洛は一大イベントだったらしい。


 ライトアップされた京都タワーには『天皇御帰還四十周年』の大きな垂れ幕がはためいている。

 何かイベントがあるのか駅前は大勢の人で賑わっていた。

 僕らはその人ごみをすり抜け交差点までたどり着くと、横断歩道を渡り京都タワービルの下で足を止めた。

 腕時計を見たら、もう午後8時を回っていたが、通りの向こうは大きな人垣、通りにはタクシーの客待ちの列で活気があった。


「麗ちゃん。疲れたでしょ? どこかで夕食でも食べる?」

 僕は昼がココアだけで、とてもお腹が減っていた。そういえば、麗ちゃんは昼食はどうしたのだろう?

「そうね、この辺のレストランで食べましょうか?」

 僕はそれに大賛成して、二人で近辺のビルにあるレストランを巡ったが、どこもいっぱいで、二人は元いた交差点まで戻ってきた。


「うーん、何かあったのかな? 駅前も人が多かったけど」

 無駄足になってしまい、心身ともに疲労困憊しているだろう麗ちゃんが気になった。

「ごめんね。疲れたでしょ。麗ちゃん」

「私は大丈夫。じゃあ、もうホテルに行きましょう。そこで何か……」と急に言葉を濁す麗ちゃん。


「どうしたの?」

 僕は何か思案している彼女の顔をのぞきこんだ。

「カードは使いたくないわ。それに名前も書かないといけないし……」

「えっ! じゃあ、今晩はどうするの? 現金は持ってるの? 僕はほとんどないよ」

「現金は五千円くらいならあるけど、これじゃダメかな?」

「うーん、泊まる所を選ばなきゃ何とかなるとは思うんだけど、そもそも二人とも制服だし、高校生だけで泊めてくれるかな?」


 互いに二人の身なりを確認した。これじゃ、どう見ても修学旅行の学生だ。

「とにかく宿を探しましょ。早くしないと遅くなっちゃうから」

 麗ちゃんが僕の手を引き、どんどん歩いていく。

「麗ちゃん。そっちでいいの?」

 ガラガラとキャスターバッグの音を引き連れながら、僕が訊くと、

「京都だし、観光地なんだから、大丈夫でしょ」と麗ちゃんは気にかけない。


 そうこうしているうちにホテルも旅館もないまま、川辺にたどり着いてしまった。

 二人で橋の上から、いかにも浅そうな川を見下ろした。

「これって鴨川?」

「多分、そうね。四條烏丸のほうに歩いたつもりなんだけど」と麗ちゃんは引きつった笑みを浮かべた。

 橋の向こうを見ると、住宅街の背後に暗い山陰が連なり、ホテルや旅館はありそうに思えなかった。


 その後、僕らは方角もわからぬまま、夜中の京の街を右往左往した。

 麗ちゃんはいつも移動が車のせいか、かなりの方向オンチのようだった。

 その間、僕らは何度もビジネスホテルの前に立ったが、どこも予算オーバーだった。

 石畳の路地裏を曲がり、いかにも京都っぽい風情の一角に踏み込んだ辺りで、麗ちゃんはついに疲れ果てて道端にしゃがみこんでしまった。


「ああ、もうダメだわ。限界かも」

 彼女は組んだ腕に顔を突っ伏して動かない。

「麗ちゃん、大丈夫? 少し休もうか」と僕が彼女の背中をぽんと叩くと、彼女が顔を上げた。

 その視線は道の先の一点を凝視していた。

 僕がそっちを見ると『お宿』の看板。

 麗ちゃんは立ち上がり、ぼんやりと光る看板へと何かに取り憑かれたかのようにふらふらと歩いていく。

 その彼女の足が止まった。


「郁が持ってるの五十三円だったわよね?」

「うん。麗ちゃんは五千百円だっけ?」

 僕が答えた途端、彼女は頭を抱えてまたしゃがみこんだ。

「また、足りない!」

 料金案内を見ると『一泊六千円から』──。


 うん、確かにまた足りない……。でも、彼女ももう限界だしなんとかしないと……。

「もう、この際、いっそのことカードを……」

 麗ちゃんは制服の内ポケットから財布を取り出そうとしている。


 その時、僕の頭にひらめくものが──!

「麗ちゃん、僕に任せて!」


 ◇◆◇


 僕らは木戸をくぐって、石灯籠風のライトが足下を心許なく照らす中、竹塀が続く路地を進んでいった。

 辺りはとても静かで、聞こえるのは僕らが響かせる靴音ばかりだった。


「こっちでいいのかな?」

 あまりの人気のなさに不安になり、僕は麗ちゃんに訊いた。

「でも、こっちしかないし」と麗ちゃんは周囲の静かさに気が引けたのか、囁き声になっていた。


 家一軒分ほどの距離を歩き角を曲がると、『旅館竹屋』と淡く光る看板の下に硝子戸が見えた。

「あそこだね」硝子戸から漏れる光を見て、僕はほっとした。


「それより、郁。本当に大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ、多分ね……」

「なんか、ちょっと心配ね。教えてくれれば、私が郁の代わりにやるから」と僕の袖を引く麗ちゃん。

「ダメだよ。麗ちゃんはしっかりしてそうだから。ちょっと頼りのない僕のほうがいいんだよ」

 そう言い、硝子戸を遠慮がちに開く僕。


 二人で中に入る。

 玄関先は薄暗く、見回すと旅館というより普通の日本住宅といった感じで、間口も狭いし、受付のようなものも見当たらない。

 誰もいなかったので「ごめんください」と呼ぶと、奥のほうで人の気配がした。

 しばらくして、女将らしき和服の中年女性が出てきて、僕らの身なりを一通り見てから、

「どないしはりました?」と訊いてきた。

「あのー、泊まりたいんですけど……」

「お二人、学生さんでっしゃろ?」

 女将は一歩引いてまた大袈裟に僕らの制服姿を確認した。


「はい、実は観光中に親とはぐれた挙げ句、迷子になってしまって、あいにく携帯電話も持ってないので、途方に暮れてたんです。今日は疲れたので、ここで出来れば泊まりたいのですが……」

「あら、それはお困りでっしゃろな。うちでよろしければ、どうぞ」


 よし! 第一関門突破。だが、問題は次だ。

 僕はおずおずと上目遣いに女将の顔をうかがった。


「で、二人で五千円ちょっとしか持ち合わせがないんですけど……」

 女将の動きがしばし止まる。僕と麗ちゃんは固唾を飲んで、女将の次の言葉を待った。

 女将は再度、僕と麗ちゃんの顔を一瞥してから微笑んだ。

「困った時はお互い様いいますし、まあ、よろしいですわ」


 僕と麗ちゃんは顔を見合わせ、笑った。

 やっと、ゆっくりできる!


 それから、僕は女将に宿泊料を前金で支払い、宿帳に名前を書こうとしたが、麗ちゃんが取り上げて、日々之麗、日々之郁と書いた。


 案内された部屋は六畳一間の和室で、リフォームしたのか、旅館というよりビジネスホテルのような造りで、入り口と部屋の間にユニットバスが付いていた。


「良かった。お風呂が付いてるじゃない。こんな旅館じゃ浴室はないかと思ったけど」

 麗ちゃんがユニットバスの中をのぞきながら、弾んだ声で言った。

 僕は部屋の腰高窓を開けてみた。すると、すぐそこは隣の家の軒先だった。

 部屋を見回すと冷蔵庫もなく、テーブルの上にあったポットにはお湯は入ってなかった。


「お腹減ったんじゃない? 麗ちゃん」

「もう動く気力もないし、お風呂に入ったらすぐに寝るわ」

 麗ちゃんは畳にごろんと寝転がり大の字になった。

「僕も寝ようっと。起きてるとお腹減るし」と言いながら、まだ部屋に何かないか探す僕。


「ねえ、郁」

「なーに?」

「一緒にお風呂に入る?」

 寝転がって天井を仰いだままの麗ちゃんが気の抜けた声で訊いた。

 湯飲みを手に取り眺めていた僕は、思わずそれをテーブルに落としてしまい大きな音が部屋に響いた。

「麗ちゃん! な、なに言ってるの!」


 焦る僕に、麗ちゃんはむっくりと上半身を起こし、半眼で僕を睨んだ。

「なにを今さら恥ずかしがってるのよ。昔はよく一緒に入ったじゃない」

「それって、幼稚舎とか小学校に入ったばかりの頃だろ! それにさ!」

「それに何よ?」

「ここユニットバスだし、二人入るには狭すぎるよ」

 それを聞いた麗ちゃんはすくっと立ち上がり、キャスターバッグを開け、

「はいはい。私はどうせ魅力のない女ですよ」と愚痴をこぼしながら、着替えを持ってユニットバスに入っていった。


 しばらくすると、シャワーの音と体を壁のあちこちにぶつける、やかましい音が鳴り響いた。

 いつも広々としたお風呂に入っている麗ちゃんだから、仕方ないのだがとてもうるさかった。

 他にお客さんがいないと良いのだけど……。

 その賑やかな音を聞きながら、押し入れから二組布団を出し、麗ちゃんがすぐに寝られるように用意した。

 旅館の浴衣に着替え、その上に寝転がった途端、疲れと空腹のせいか一気に睡魔が押し寄せてきた。

 でも、自分より大変なはずの麗ちゃんより先に寝るわけにはいかないので、うとうとしながらも何とか耐え忍ぼうとした。

 とはいえ、多くの女性の例に漏れず麗ちゃんの入浴も長かった。ついに僕の意識はまどろみの中に引きずりこまれてしまった。


 ◇◆◇


 どのくらい眠ってしまったのだろう──。


 夜半、突然目が覚めた僕は、辺りの気配を確かめようと身をよじった。

 そういえば、掛け布団の上に寝転がっていたはずだが、ちゃんと布団の中に入っている。

 それにどこからか微かに清涼系のいい香りもする。


 ちょっと腕を動かしてみたところ、手先が何か柔らかい物に触れた。

 びっくりして完全に覚醒した僕が見たのは、間近にある麗ちゃんの顔。

 彼女はこっちを向いて静かに寝息を立てて寝ているようだ。

 また体をよじって反対側を見ると、空っぽの布団。

 どうやら僕は寝たまま布団の上を転がされて、麗ちゃんの布団に入れられたようだ。

 と、僕がガサゴソして、目が覚めたのか彼女の小さな声がする。


「麗ちゃん、起きちゃったの?」

 声をかけるが返事がない。

 耳を澄ますと、

「なんとかしないと。なんとかしないと」と何度も言っている。


 どうやら寝言のようだ。夢の中でも今回の事件で悩んでいるのだろう。

 僕は空っぽになった隣の布団を眺めながら、戻ろうかどうか考えたが、このままにしてまた寝ることにした。


 心で呟く。

 麗ちゃん。お疲れ様。

 布団の中で、そっと彼女の手を握った。


 ◇◆◇


 朝、一日の始まり──、今日もとても爽やか、

 ……という訳でもない。


 というのも、この部屋、陽当たりが悪いというか、ほとんどない。

 布団の中で寝たまま僕は呟く。

「鳥の声はするけど、本当に朝なのかな?」

 横を向くと麗ちゃんが僕の肩に両手をあてて、すうすうと寝息を立てている。

 彼女を起こさないように、ゆっくり体をひねりながら布団脇に置いた腕時計に手を伸ばす。

 まだ眠いし、もう一眠りできればいいな、と思いつつ、バックライトを点けて時計を見ると──。


 10時35分。


 えっ! もう、そんな時間?

 布団を放り上げ跳ね起きた。

 麗ちゃんは布団の上で丸まって、まだ起きそうな気配がない。

 僕は彼女のはだけた浴衣をさっと直して、肩を揺すった。


「麗ちゃん! 麗ちゃん! もう10時半を過ぎてるよ! 起きてよ!」

 何度か揺すると、麗ちゃんがむくりと起き上がった。

 布団の上に立ち上がり、眠そうに片手で目をこすっている。

 それから、握り拳で両手を高く挙げ、一つ大あくびをしてから──。


「郁! 急ぐわよ!」と大声を上げた。


 麗ちゃんはその場でぱらりと浴衣を脱いだ。

「麗ちゃん! 着替えなら余所よそでしないと、僕がいるから」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 約束の時間に遅れちゃう! 郁も急いで!」

 下着姿のまま、キャスターバッグを大慌てで開き、服を乱暴に出している。


 僕はそれを見ないように背を向け、速攻で制服に着替えた。

「麗ちゃん、もう着替えた?」と背中越しに訊く僕。

「そんなこと気にしないの! もう出るわよ!」

 早くも紺のワンピースに着替えた麗ちゃんは、片手にブラシを握り髪をときながら、もう片方でキャスターバッグを引き、廊下に向かっていた。


「早いね。麗ちゃん」と僕はそれを追う。

「遅れそうなのに、どこが早いもんですか!」

 料金は前金で支払っているので、僕らはそのまま旅館を飛び出た。


 それから、路地をばたばたと駆け抜け、広めの通りでタクシーを止め、飛び乗った。

「下鴨の桐松院皇爵のお宅まで!」

 麗ちゃんが言うと、タクシーの運転手は「へえ」と即答し走り始めた。

 それだけでわかるんだ、と僕は今さらながら皇爵の有名さに感心した。


「10時50分!」

 麗ちゃんが腕時計を睨む。

「何時の約束なの?」

「11時よ。ヤバいかも……」

 麗ちゃんは前髪をせわしなく触っていたが、運転座席の横を掴み、

「運転手さん。どれくらいかかります?」

「皇爵さんとこなら、ここからなら十七、八分もあれば着きますわ」と暢気そうな運転手の声。

「とにかく、急いでください! お願いします!」

 麗ちゃんの声に切羽詰まったものを感じたのか、

「あんじょう、気張ってみますわ」と運転手はタクシーを加速させた。


 しばらくして、緑の茂った一角が見えてきた。

 神社だろうか? 僕はその緑の林を見上げた。

「もうすぐですわ」と運転手。

 時計を見ると既に11時を少し回っていた。

 マズいと思い、横を見ると、麗ちゃんは俯いて何かを考えているようだ。

 運転手の言葉どおり、一区画ほどタクシーは進み、延々と続く白壁を従えた邸門の前で停車した。

 運転手が料金を告げようとすると、

「また乗りますから、このまま待っていてください」と麗ちゃん。


 そういえば、お金はどうするつもりだろう? と僕は思ったが、今はそれどころじゃない。

 急いでタクシーを飛び降り、武家屋敷の門構えのような邸門に駆け寄り、インターホンを押した。

 インターホンを見つめながら、しばし待つと、

「どちら様でしょうか?」と女性の声。

「九条院の家の者ですが、皇爵様と11時にお会いすることになっていましたが、少し遅れてしまいました。本当に申し訳ありません」と麗ちゃんは一気にまくしたてた。

「ちょっと、旦那様に確認してきます」とインターホンが切れる。


 僕らは一日千秋の思いでインターホンからの返事を待った。

 だが、返事が一向にない。なんとなく嫌な予感が──。

 麗ちゃんはインターホンを睨んだまま直立不動で身じろぎもしない。

 と──、インターホンが鳴った。


「九条院様、旦那様はお会いする予定はないとのことですが」

 その言葉に麗ちゃんがインターホンに飛びつく。

「お約束の時間に遅れたのはお詫びいたします。どうか、皇爵様にお取り次ぎを」

「旦那様は昨晩、そちらの会社の方にお断りのご連絡を差し上げたとのことです。何にしましても、旦那様はこれから御所に出かけなければいけませんので、また日を改めてお願いいたします」

 それを最後に、インターホンは沈黙した。

 麗ちゃんがインターホンを何度か押したが、もう返答はなかった。


「どうする? 麗ちゃん」

 心配になった僕が訊くと、

「待つに決まってるでしょ。これから出かけるみたいだし」と拳を握りしめて門の正面に立った。

「でもさ、ここから出てくるのかな? 屋敷は広そうだし、他にも出入りするところがあるんじゃない?」

 僕は左右に続く白壁の向こうをうかがうように首を伸ばした。


「相手は皇爵よ! 裏口から出入りしたりするもんですか。正面のここから出てくるに決まってるわ!」

 僕は本当にそうかな? と思ったが黙っていた。


 正午も近くなり何の変化もなく、やっぱり、と僕が思いかけた頃、邸門がゆっくりと開き黒塗りの大型車が出てきた。

 車は真正面に立つ麗ちゃんの間際で停車した。彼女はすぐさま車の横側に回りこんだ。

「皇爵様、皇爵様」と呼びながら窓を掌で叩く麗ちゃん。

 車はそれを無視して発車したが、その勢いに巻きこまれ麗ちゃんが転んでしまった。

「麗ちゃん! 大丈夫?」と僕は急いで駆け寄ったが、片膝を立て、すぐに彼女は起き上がった。

 その膝には血がうっすらと滲んでいる。

 麗ちゃんの視線の先、車は停車し、後方ドアの窓が開いた。

 皇爵の驚いたような顔がそこからのぞいた。

「九条院のお嬢さんじゃないか。なんて危ないことを。大丈夫かね?」


 麗ちゃんが走る。

「皇爵様! この度は私どもの不祥事をお詫び申し上げたくて参りました。どうかお話を!」

 皇爵の顔から表情が消えた。

「自ら潔白を証明するのが先決じゃないかね。それに私は昨晩、そちらへはお断りの連絡を差し上げたはずだが」

「それは、うちの誰に?」

 皇爵は体を傾け、横に座る男に話しかけた後、

「社長秘書の方にだが」と答えた。


 麗ちゃんはただ立ちつくしている。

「何にしても、これから御所に行くので遅れるわけにはいかない。悪いが失礼するよ」

 窓が静かに閉じ、車が走り去る。

 その様子を呆然と見送りながら、麗ちゃんが呟く。

七瀬ななせが……、どうして連絡をくれなかったの……」

「七瀬さんはどうして電話してくれなかったのかな?」

 社長秘書を知っている僕は彼女の独り言とほとんど同じことを訊いてみたが、返事をしてくれない。

 彼女はその場に突っ立ち、何か思案している様だった。


 僕は黙ってその背中を見ていた。

 しばらくしてから、彼女が振り向いた。

「郁。少しだけ今回のからくりがわかってきたわ」

 彼女の顔にこれまで見たことがないような笑みが浮かんでいた。それは、どこか五稜篤ごりょうあつしの笑みに似ていた。


「今回の事件の真相がわかりそうなの?」

「まだ、ほんの糸口だけどね。さあ、東京へ戻りましょう。話はリニアでするわ」


 麗ちゃんは律儀にずっと待っていてくれたタクシーへと進んでいく。僕もそれに続く。

 僕の前には彼女の小さな肩。

 僕の想像もつかないほど大きな物がのしかかった、その肩はどこか淋しげに見えた。


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