錯乱した僕
闇の中──、
未来の日本はあなたが導きなさい。カオル。
誰かにこう呼びかけられ、目を開いた。
「誰? 僕を呼んだのは」
上半身を起こし、周りを見回す。
すぐに目に付いたのは、脇に座る千春さんだった。
僕と目が合うと、千春さんの表情がにわかに明るくなった。
「お嬢様、気がつかれたんですね。具合はいかがですか?」
そう言われて自分の身なりを見るとパジャマを着ていた。それにベッドの上にいる。
いつ寝たんだろう?
思い出そうとしたが、記憶はプツリとどこかで途切れている。
「僕どうしたんだっけ?」
「お嬢様は、霧原さんのお宅で意識を失ったんですよ」
「霧原さん? そうだっけ? それからどうなったの?」
「私が霧原さんの家までお嬢様を引き取りにうかがったんです」
「ふーん。なんだか良く憶えてないや」
確かに今いるのは自分の部屋のようだ。
カーテンは閉まっているが、外は暗そうだ。夜なのだろう。
「お嬢様、勝手に一人で出歩かれては困りますよ。今後は気をつけてくださいね」
千春さんが立ち上がり、僕に紙切れを差し出す。
「霧原さんから、お嬢様の具合が良くなったら連絡して欲しい、と伝言を預かっています。それから写真も」
「写真?」
渡された紙切れは電話番号が書かれたメモと一枚の写真だった。
その写真の中の少女に自然と目がいった。
「……智晶さん?」
無意識につぶやく。
「えっ? 私は千春ですよ。お嬢様」
「千春さん、違うよ。この女の人の名前だよ。この人を僕、多分知ってるんだ」
千春さんが顔を寄せ、写真をのぞきこむ。千春さんのふわっとした髪が、僕の頬をくすぐる。
「この人をお嬢様が? でもこの写真、かなり古そうですよ。茶けてますし」
「どんな人か知らないけど、この人が智晶さんってことはわかるんだ。どうしてかな?」
千春さんは僕から離れると、にこりと笑った。
「もしかしたら記憶が戻りかけてるのかもしれませんね。今回倒れたのもショック療法みたいに効いているのかもしれませんよ」
「そうかなあ? そうだと嬉しいけど」
「お嬢様、頭痛は?」
「うん、しない。平気だよ」
千春さんはまた写真をのぞきこむ。
「じゃあ、他の人の名前もわかりますか?」
僕は写真に視線を戻し、一人ずつゆっくりと顔を見ていく。
「うーん、みんなはわからないかな。あっ、これ僕だよ」
僕は一人の少年を指さした。おっとりした顔だが、つまらなそうにしている。
「はあ? お嬢様、何を言ってるんですか? それ男の子ですよ」
「あれ? 僕、男じゃなかったっけ?」
僕の言葉に千春さんが噴き出した。
「何をつまらない冗談を言ってるんですか。もう、お嬢様ったら」
「ていうか、僕誰だっけ?」
千春さんが怖い目で、僕を真っ直ぐに見た。
「お嬢様、もう止めてくださいね。さっきは『麗ちゃん、麗ちゃん』って自分の名前をうわごとで喋ってましたし、お嬢様に何かあったら、私旦那様になんて言ったらいいか」
「僕は麗ちゃんなの?」
自分の顔を指さす。
「えっ! 本当にわからないんですか?」
「いや、そう言われれば、そんな気もするんだけど。僕は麗ちゃんなのかなあ……」
心なしか千春さんの顔が引きつってきたような。
「嫌だ、お嬢様。倒れた時に頭でも打ったのかしら? ちょっと旦那様に伝えてきますから、お嬢様は横になっていてください」
千春さんが僕の肩を押さえ、僕を強引に寝かせつけた。
「なんか僕はカオルって名前の気がするんだよなあ……」
千春さんが部屋を出て行くのをベッドから見送りながら、ひとりつぶやく。
さっきも誰かにそう呼ばれたような気もするし。
寝転がったまま、茶けた写真を眺めた。
「これが平太で、これは冴島さん、この嫌な顔が篤だよね。麗ちゃんは写ってないよ……」
じっと見ていたら、どうしてか涙がこぼれてきた。
懐かしいような、悔しいような気持ち。
どうして僕だけここにいる?
涙をぬぐっていたら、ドタドタと足音が近づいてきた。
部屋のドアが開き、男の人が飛びこんでくる。
「おい、麗。大丈夫か?」
見覚えのあるおじさんだった。
僕は慌てて体を起こし、
「こんにちは、おじさん」と頭を下げた。
おじさんの顔はみるみる険しくなり、ついてきた千春さんを睨んだ。
「千春。どういうことだ、これは?」
千春さんは困ったような顔で、首を傾げるだけだ。
おじさんは僕のほうを向き、
「麗、私のことがわからないのか?」と今度は悲しそうな顔をした。
「九条院のおじさんでしょ?」
僕が答えるのと同時に、おじさんは手で頭を掻きむしる。
「千春、これから麗を病院に連れていくぞ」
「えっ、でもこの時間では病院は……」
おじさんは天井を仰いで、しばらくして千春さんに告げた。
「じゃあ、明日朝一で麗を病院に連れていく。わかったな」
「はい、旦那様」
千春さんがきびきびと頭を下げる。
どうやら、僕は明日病院送りのようだ──。




