キリハラ老人
僕が見るお爺さんの目。
穏やかな光を宿すその瞳には確かな理性が感じられた。
けれど、さっきからタイムマシンという単語が何回か出てきている。
二十一世紀の半ばを過ぎている今だが、タイムマシンが開発されたという話は聞いたことがない。
しかも、お爺さんの話だと僕がそれに乗ったような言い方だ。
しっかりとしているようで、もしかしたら頭はイカレてるのかもしれない……。
「ところでお爺さんのお名前は?」
僕の質問にお爺さんは苦笑いした。
「ああ、そうか。君は記憶喪失なんだったね。では、改めて自己紹介するけど、僕は霧原遼一。君と同級生だったこともある」
キリハラリョウイチ──。
聞いたことがあるような気がしないでもない。
「僕と同級だったんですか? あなたが?」
「そうさ。君にとってはそんなに過去のことじゃないと思うけどね」
ますます話が見えなくなってきた。
僕は記憶がないので、人に断定されると、そうかなあ、とも思えてくる癖がある。
とはいえ、タイムマシンの話やお爺さんと同級だなんていくらなんでも突飛すぎる。
「タイムマシンなんてあるんですか?」
「あるさ。君が僕に見せてくれたんじゃないか」
僕のほうが変なことでも言ったかのように、お爺さんは笑う。
「でも、僕はタイムマシンができたなんて話は聞いたことがありません」
「僕もないよ。君が消えたあの夜から、今の今まで五十年以上経つが、そんなニュースは一度も聞いたことがない。タイムマシンが登場するのは未だに映画やSF小説の中だけだ」
「あなたの思い違いじゃないんですか?」
僕を担ごうとしてるんじゃないか、と言いたかったが、さすがにそこまでは言えなかった。
「思い違いなんかじゃないよ。僕はあの夜のことは一時たりとも忘れたことがない。あんな胸が弾むような出来事は、長い人生でもあの夜、一回きりだ」
「けど、タイムマシンなんて……」
僕が呟くと、お爺さんはお店のほうを見やった。
「元マスターがいてくれたら、君にも信じてもらえたかもしれないのに」
そう語るお爺さんの目は淋しそうだった。
「お友だちなんですか? その方と」
「彼とは長いつきあいになるからね。けど、君もその人とは友だちなんだよ」
僕と友だち?
首を傾げると、お爺さんは手を挙げ、店のほうに手を振った。
すると、先ほどの若い店員がそれに気づき、テラスに出てきた。
「ほら、彼。君は見憶えないかな? そっくりなんだよ、元マスターの若い頃に」
店員の姿が近づく。
彼の顔を見ると、やはりどこかで会ったような気がしてならなかった。
「なんでしょう?」
テーブル脇まで来た店員が、お爺さんに訊く。
「このお嬢さんだよ。なんというかな、君のお爺さんの初恋の人」
お爺さんは嬉々とした顔でそう言ったが、店員は鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。
「はっ? この方が……? ああ、似ているということですね」
「違うけど、そういうことにしておきますか」
「ご用事はそれだけでしょうか?」
「ああ、すまなかったね。もう、いいよ」
若い店員は僕を一瞥して、首をひねりながら、店に戻っていった。
「彼ね、仁科永太君。平太君の孫なんだよ」
「ヘイタ……」
なんだか何度も口にしたような名前のように思えた。
「少しは何か思い出すといいんだがね……」
お爺さんはしばらく黙りこんだ。
風が少し強くなり、街路樹の梢を揺らす。
少し寒くなり、僕はスプリングコートの前を抱くように合わせ、風をしのいだ。
「おっ、そうだ! 当時の写真が僕の家にあるよ。君の顔見知りの写真もあるはずだ。よければ、これからうちに来ないかい?」
お爺さんは今にもステップを踏み出しそうなくらい、ご機嫌な顔を僕に近づける。
「これから……?」
僕は答えあぐねた。
腕時計を見ると、もうそろそろ夕方だ。
千春さんが心配しているだろう。
それに、このキリハラと名乗るお爺さんに対する不信感も少しだけあった。
「どうだい? すぐそこなんだよ。時間はかからない。君の記憶が戻る手助けにももしかしたらなるかもしれない」
僕の心は揺れた。
記憶が戻れば、普通の生活に戻れる。何より、僕はその普通の生活すら思い出せないのが歯痒かった。
お爺さんが立ち上がり、もう一度「どうします?」と僕に訊いた。
僕は迷いを振り切り、腰を上げ、答えた。
「じゃあ、行きます」
僕の声にお爺さんの声も弾む。
「では、参りましょう。日比野……、失礼、九条院さん」
◇◆◇
お爺さんの言ったとおり、彼の家は喫茶店から徒歩五分の辺りにあった。
高台の高級住宅が並ぶ一角。
その中に隠れるように、外壁が蔦に覆われた古い洋館があった。
お爺さんは蔓が絡みついた小さな鉄門を開け、綺麗な足取りで飛び石の上を歩いていく。
僕は家の観察を止め、お爺さんに続いた。
「苔で滑りやすいので、足下に気をつけて」
お爺さんが言った途端、石の上でずるりと靴が滑り冷や汗をかいたが、なんとかバランスを保った。
お爺さんに追いつき、年季の入ったドアを開け、家に入った。
淡い光が天窓から射しこみ、木の床に窓の形の日溜まりを作っている。
玄関から入ったすぐの場所が、ラウンジのようでソファーやローテーブルが置かれてあった。
そして、その周りは壁というより、全てが本棚だった。
おそらく本棚を取り除くと部屋は一回りは広くなるだろう。
僕は天井まで届く本棚を見上げた。
「さあ、お嬢さん。その辺に座って待っててください。写真を持ってきますから」
「あのー、ここはお爺さん一人で住んでるんですか?」
ラウンジ脇の螺旋階段を上りかけたお爺さんに声をかける。
「ええ、そうですよ。この家も親から引き継いだので、あちこちガタが来てますけどね」
奥さんはどうしたのだろうと思ったが、訊くのは止めとくことにした。
お爺さんの言葉を証明するように、彼が階段を上り始めると、ギシギシと音が響いた。
彼が二階に上がっている間、僕は部屋を見回した。
灯りは天窓からの自然光のみ。
仄かな光に照らされるのは、本の背表紙ばかり。
百科事典のような大きな本から文庫本まで、様々な本にぐるりと取り囲まれている。
それを眺めながら、そういえば今日は知らない人に連れられてばかりだな、と思う。
もっと気をつけなきゃとも思ったが、ずっと家の中ばかりだったので、外の世界は刺激があって面白い。
ソファーは座り心地が良く、なんだか少し眠くなってきた。
ふわあと大欠伸をしたところ、お爺さんが下りて来たので、慌てて口を閉じた。
お爺さんはローテーブルの上にアルバム数冊を置き、
「ああ、電気を点けないとね」と壁のスイッチを押した。
「君がいた高校の卒業アルバムもそこにあるよ。僕は台所で紅茶でも淹れてくるから、勝手に見てていいよ」とお爺さんはドアの向こうに消えた。
お言葉に甘えて、僕は手を伸ばし、一番上のアルバムを手に取った。
僕がいた高校なんて言うけど、アルバムには2013年3月って書いてる。
それは普通にあり得ない話だけれど、とりあえずお爺さんの若い頃の姿を見てみたい。
アルバムは五十年も昔の物なので、黒い表紙はカビで少し白っぽくなったりしている。
少しカビ臭いアルバムを開き、最初のクラスから一人ずつ顔を確認し始めた。
案の定、見覚えのない顔がずらずらと続く。
しばらくすると、見たことあるようなないような女子生徒が一人いた。
名前は天瀬青華。
これだけ人がいれば、僕の眠っている記憶の中の知り合いと数人くらい似ていても不思議じゃない。
そう考え、僕は先に進んだ。
すると、また僕の目に止まる生徒がいた。今度の顔は先の女子生徒より強烈な印象だった。
写真の中、意志の強そうな眼差しが僕のほうに向いている。
名前は仁科平太。
なるほど、お爺さんの言うとおり、さっきの店員にそっくりだ。
この生徒が元マスターなんだ。
アルバムを持ち上げ、じっくりと眺める。
やっぱり、この顔、どこかで見た気がしてならない……。
カチャリと言う音がして、気がつくと僕の後ろにお爺さんが立っていた。
「ほう、もう見つけましたね。平太君を。やっぱり、君は日比野さんだ」
首を回し、お爺さんを見上げ、
「どうして僕をその日比野さんだと思うのですか?」と訊ねた。
お爺さんは人差し指を胸の前でピンと立て、
「だって、どう見ても、どう聞いても、日比野さんそのものですから」と答えた。
それから、お爺さんは本棚のほうに歩きながら語る。
「君とその平太君は一緒に暮らして、そして、あの喫茶店で一緒に働いていたんですよ」
「えっ! 僕が?」
お爺さんは返事の代わりに、本棚から一冊の本を取り出した。
茶色く汚れた表紙の本だった。
タイトルは──、マイナス・ゼロ。
「これが何か?」
僕の前に差し出される本。これに何の意味があるのだろう?
「本当に記憶がないようですね。この本をこんなに汚しちゃったのは、君なんですよ」
「これを僕が?」
僕は本を手に取り、眺めたが、何も思い出せない。
タイムマシンの話はとてもじゃないがあり得ないので、記憶喪失になる前に、お爺さんのこの本を僕があの喫茶店で偶然汚しちゃったのかもしれない。
あの若い店員も、その時見たに違いない。
お爺さんは呆けちゃって、時間の間隔が昔と今で混同しちゃってるんだろう。
うん、これなら納得いくかも。
僕はお爺さんに本を返した。
「君もこの本を持ってるかもしれないよ。僕が文庫版のほうを君にあげたからね」
そう言われたが、部屋で見かけた記憶はない。
まあ、お爺さんの思い違いだし、と僕は曖昧な顔で笑った。
お爺さんは僕の横に座り、他のアルバムから一枚の写真を引き抜いた。
それを見て何度かうなずいた後、僕に差し出す。
「この写真を見てごらんなさい」
単行本くらいの大きさの写真だった。
五人の若者と一人の大人が写っていた。
思わず、その写真に引きこまれた。
先ほどの平太という少年が中央でつまらそうな顔で座っている。
そして、その隣はボーイッシュな女子、その後ろには三人の男子、少し離れて目つきの鋭い大人が立っている。
僕の頭にキリキリと刺すような痛みが走った。
いけない、またいつもの頭痛が始まりそうだ……。
けど、僕はこの人たちを──。
……確かに知っている。
「君が未来に帰った翌朝、警察署の前で撮った写真です。あの夜は警察が家に帰してくれなくて、一晩泊まることになっちゃいましたからね。僕にとっては興味深い体験でしたけど」
お爺さんの話は続いているが、僕は目眩がしてそれどころじゃなかった。
「日比野さん、君と九条院さん、そして五両君が過去に来たことによって、君の未来は分岐したのです。そして、その分岐した世界の未来に君はタイムマシンで旅立ったのです」
お爺さんは、そこまで語ると、やっと僕の異変に気づいてくれた。
「日比野、いや、九条院さん、大丈夫ですか? どうしました?」
気が遠のきそうになりながらも、僕はコートから携帯をつかみ取り、それに向けて叫んだ。
「千春さんに!」
僕の声に反応して携帯が発信を開始した。
コール音をいくつか聞いたところで、僕はそのまま気を失った。




