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坂の途中の喫茶店

 もしかしたら記憶がなくなる前に、ここを歩いたことがあるかもしれない。

 そう考えながら、坂道を上がっていく。

 道の両側には商店が軒を連ねている。

 ファーストフード店、ラーメン屋、ケーキ屋、文房具屋ととにかく雑多で、入り乱れる看板の色も華やかだ。

 坂の上から学生がちらほらと歩いてくる。

 どうやら高校生くらいのようだ。坂の上に高校があるのだろうか?

 僕も本当なら学校に通ってなきゃいけないんだよな、と思いつつ、彼らとすれ違う。


 どんどん坂を上がると、ビルのテナントには会計事務所や弁理士の事務所が目立つようになってきた。

 それを横目に坂の頂上が見え始めた頃、一軒の喫茶店が右手に現れた。

 街路樹の向こう、屋外にはテラス席が並んでいる。

 そのテラス席には上品な服を着た白髪頭のお爺さんが一人。

 カップを片手に本を読んでいる。

 まだ桜も咲かない季節なのに、寒くないのだろうか?


 開店して間もないのか、店は新しくとても綺麗だった。

 ロッジ風の一軒家造りだ。

 スプリングコートのポケットに手を突っこんで、財布を取り出す。

 確かめると、コーヒー一杯くらいは飲めそうなので、ここで休憩することにした。

 テラスを横切る時、さっきのお爺さんが僕のほうをじっと見ていた。

        

 店の扉を開くと、カランと音がした。

 店の中はテーブル席が十席ほどとカウンター席が少々。

 真新しい店なのに、どうしてか懐かしい気持ちが込み上げてくる。

 不思議な感覚に立ちつくしていると、若い男性店員が「開いてる席にどこでもどうぞ」と案内してくれた。

 窓際の席につき、メニューを差し出す店員の顔を見て、どきりとした。

 短くまとめられた髪に、意志の強そうな顔。

 どこかで会ったような気がするのだ。


「どうされました?」

 その声に、僕は慌ててメニューを受け取り、おずおずとその店員に訊ねた。

「あのう、僕って以前この店に来てたりしてました?」

 店員は僕を真っ直ぐに見た。それから引きつったような笑みをこぼし、「いえ、お見かけしてないと思います」と答えた。

 やっぱりただの思い違いかと、ブレンドを注文した。


 窓から外を見ると、お爺さんは相変わらず本を読んでいる。

 細い体だが、背筋をピンと伸ばし、とても姿勢が良い。

 淡い春の日射しにお爺さんの白髪がキラキラと輝いている。

 しばらくして、学生が数人、喫茶店に入ってきた。静かだった店内がにわかに活気づく。

 とても楽しそうな彼らを見ていたら、僕も頭痛がしなくなったら学校に行くぞ、という気持ちが強くなった。

 家でひとりきりはつまらない。


 コーヒーを傾けながら、店内や外の景色を眺めたりしていたが、やはりどこか懐かしい気がしてならなかった。

 のんびりとしてしまったが、千春さんが心配しているんじゃないか、と思い出し、席を立った。

 レジで支払いを済ませ、店を出る。

 名残惜しい気がしたが、また来ればいい。

 テラス席を横切ろうとしたら、お爺さんが突然声を上げた。

 良く聞き取れなかったので、振り向いた。

 お爺さんは立ち上がり、僕に近づいてくる。

 誰か僕の後ろに人がいるのかな、と後ろを見たが誰もいない。

 お爺さんは僕の前に来て立ち止まった。

 優しそうな顔で目尻に皺を集め、僕の顔を見ている。


「やあ、やっと思い出しましたよ。間違いない」

 お爺さんの言葉に、僕は混乱した。

 何のことだろう?

 見た感じ、言葉もしっかりしているし、呆けている様子でもない。

「間違いなく、モカ娘だ」

 お爺さんは嬉しそうに僕の肩を叩いた。

「あのー、人違いじゃないでしょうか?」

 困惑した僕は、ちょっと及び腰だ。

「いいえ、人違いじゃないですよ。僕には遙か昔の出来事だけど、君にとっては大した時間じゃないはずだ」

「僕には何のことかわからないんですけど」

 そう言うと、お爺さんは満面の笑みを浮かべた。

「ほら、女の子で『僕』だ。これは絶対間違いないや。君はモカ娘、いや、日比野香さんでしょ?」

「僕が──、ヒビノカオル?」

 また、この名前──。

 僕の鼓動が高鳴る。


「よければ、少しお話しませんか? 君の希有けうな体験を是非聞いてみたい」

 お爺さんは自分の席を手で指し示した。

「すみません、僕は九条院麗なんですが。やはり、人違いじゃないでしょうか?」

「おっと、また懐かしい名前だ。まあ、とにかく間違いなさそうだ」

 お爺さんは僕の腰に手をあてがい、テーブルまで連れていった。

 なりゆきで僕はそのお爺さんの席に腰掛けた。


「もしかしたらタイムマシンのせいで、記憶喪失なのかな?」

 お爺さんは席につくなり、正面に座る僕にこう言った。

 記憶喪失のことまで知っていることに、僕は驚いた。

 すぐにでも逃げだそうと考えていたが、腰を落ち着かせ、しばらく話を聞いてみる気になった。

「どうして、僕が記憶喪失だと知っているのですか?」

 お爺さんは一つうなずき、

「九条院さんから聞いたからね」と答えた。

「九条院さん? 僕も九条院なのですが……」

「ええ、別の九条院さんだよ」

「その人もレイという名前なんですか?」

 お爺さんは無言でうなずいた。

 だとすると、その人があの部屋にイニシャルを刻んだ人かもしれない。

 僕と同じイニシャル、RKを。


「それで、その九条院さんは今は?」

「高校を出てから会ってないな。まあ、あの出来事で知り合いにはなったけど、僕は当時は人付き合いが良いほうじゃなかったのでね」

 お爺さんは眼を細め、何かを思い出しているようだった。

「あの後は通報で来たパトカーで警察署にみんな連行されて、大騒ぎだったよ」とお爺さんは笑う。

「あの後って?」

「君がタイムマシンで2011年からいなくなったことさ」


 タイムマシン

 2011年


 僕の頭にお爺さんの言葉が渦巻く。

 いったい、このお爺さんは誰なんだ?

 僕は優しく微笑む彼の顔を、もう一度見据えた。


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