本当に記憶喪失なんです
ヒビノカオル──。
その名に、またちりちりと頭の中で何かがくすぶったが、やがてそれも消えた。
一ノ瀬は顔をしかめる僕をのぞきこむように、首を傾ける。
「どうされました? お嬢さん」
軽い静電気にも似た感覚がなくなり、僕はかぶりを振った。
「いえ、なんでもないです。ちょっと頭痛がしただけです」
「それはいけませんね。ちょっと寒いですし、こんな玄関先で話すのもなんですから……」
「じゃあ、中へどうぞ」
僕が一ノ瀬を家へ迎え入れようとすると、彼はたたらを踏んだ。
「九条院邸に入れていただけるのは光栄なんですが、できれば外で。喫茶店なんかどうです?」
家には僕だけのようだし、空けてもいいものだろうか?
けど、失踪事件のことも知りたい。
しばし逡巡したが、行くことにした。
「わかりました。行きます」
僕が玄関を出ようとすると、一ノ瀬はうろたえるように手を前に出し僕を制止した。
「ちょ、ちょっと、お嬢さん。いくらなんでも、その格好じゃ」
言われて自分の格好を見ると、パジャマの上にガウンを着ただけだった。
「着替えてきます!」と赤面しつつ、大慌てで部屋に戻った。
大きな声だったので、一ノ瀬は他の人間が来ないか、きょろきょろと辺りの様子を気にしていた。
「お待たせしました」
私服に着替えて、玄関に出た。
ちょっと寒そうなのでスプリングコートを羽織った。
一ノ瀬はそんな僕をしげしげと眺め、
「おっ、なかなかいいですね」と見え透いたお世辞を言った。
仕事柄だろうか、かなりお調子者のように見受けられる。
玄関の鍵を閉め、一ノ瀬について家を出た。
門の外には丸っこい小さな赤い車が停まっていた。
「ちょっと狭いですけど、どうぞ」
可愛い車だな、と思いながら乗りこんだ。
車内はひどく煙草臭く、僕は思わず咳きこんだ。
「臭いますか? なんでしたら、窓を開けてください」
そう言う彼の口には既に煙草がくわえられていた。
車が走り出し、交差点を曲がると、両手に大きなレジ袋をぶら下げた女性がこっちへ歩いてきた。
千春さんだった。
部屋に書き置きをしてきたけど、声をかけようかどうか迷ったが、止めた。
千春さんは車中の僕に気づかず、横を通り過ぎていった。
「この辺りは喫茶店はなさそうですね。じゃあ、駅まで出ますか」
一ノ瀬が車のスピードを上げる。
後部窓から見える千春さんの姿がみるみる小さくなった。
結局、二人で入ったのは駅前のファミレスだった。
「ここは僕が出すから、ご遠慮なく。あっ、でも、九条院のお嬢様じゃファミレスごときじゃ遠慮も何もないか」
笑いながら一ノ瀬はメニューを僕に差し出す。
やけにお腹が空いているので、何時だろうと時計を見たら、午後2時だった。
早朝に倒れたきりなので、お腹も空くはずだ。
僕はロースカツカレーとクリームソーダを遠慮なくオーダーした。
オーダーを聞いた途端、一ノ瀬は怪訝そうな顔で僕を見た。
何か変だったのだろうか?
通りを見ると、バッグを手にしたスーツ姿の人たちが行き交っている。
今日は平日、学校にも通っていない僕は何なのだろう、と思う。
「ねえ、九条院のお嬢さん。名前は何て言うの?」
一ノ瀬は小さく揉み手をした。
「麗ですけど」
「レイか。いい名前だね。どんな字?」
時々、この手の質問をされるが、いつも答え辛い。
「華麗なるの──、麗です」
「うわ、家柄にぴったりじゃん」
一ノ瀬は手帳を取り出し、嬉しそうに僕の名前をメモした。
麗しいでも自惚れっぽいし、高麗のライだとわからない人いるし、どうしたものかといつも思う。
一ノ瀬はテーブルに少し身を乗り出し、小声でささやいた。
「でさ、いきなり本論なんだけど、日々之郁君たちはどこへ消えたのか、君知らない?」
「あのー、僕、実は記憶喪失で、その時のこと全く憶えてないんです」
「僕……?」
一ノ瀬は眉根を寄せた。
「あっ、すみません。僕、そういうしゃべり方なんです」
「ふーん、そうなんだ。面白いね、君」
なんだか、徐々に一ノ瀬の話し方が馴れ馴れしくなってるが、気にしないことにしよう。
「で、記憶喪失で何も憶えていない。うーん、本当かなあ?」
「本当ですよ。記憶障害の上に、ひどい頭痛がよくするので学校へも行ってないんです」
「じゃあ、九条院総研での出来事は何一つ憶えてないの?」
「はい、その辺のことは全く記憶にないです」
刑事のような目つきで一ノ瀬が僕を見るので、居心地が悪かった。
コップを手に取り、水を喉に流しこむ。
「参ったなあ。それじゃ、仕方ないな。君、本当に記憶ないの?」
「はい、ありません」
一ノ瀬は椅子の背に思いきり、のけ反った。
それから、憤まんをぶつけるように煙草を無造作に出し、火を点けた。
「一ノ瀬さん」
「何?」と無愛想な一ノ瀬の返事。
「できれば、僕のほうがその時の状況を聞きたいんですけど。みんな、気を遣ってるのか、僕には教えてくれないんです」
一ノ瀬はファミレスの天井をしばし仰いで、何か考えていたが、
「マジで憶えてないんだね。君は」とつぶやき、ちょっと優しい表情に戻った。
僕がうなずくと、一ノ瀬は煙草を片手に話し始める。
「昨年の五月、君と日々之君と五稜君は三人で九条院総研を訪問したんだ。そこで何かの研究をやっていたらしく、それを見に行ったらしい。ところが、その研究所で事故が発生し、大きな爆発があった。そして、その爆発の後、現場に残っていたのは君だけということだ。日々之君と五稜君の二人は遺体も遺品も見つからず、行方は未だにわかっていない」
「そんなことがあったんですか……」
要は爆発事故があり、僕だけ助かったってことだ。
その時の衝撃で、僕は記憶をなくしてしまったのだろう。
「当人に聞けば絶対にその時のことがわかると思ったんだがな。君さ、本当の本当に記憶がないの?」
「本当の本当です」
僕は神妙な顔でうなずいた。
「じゃあ、日々之君って憶えてるよね。どんな子だった?」
ヒビノカオルの名にまた頭が疼く。
「それも憶えてないんです。名前すら忘れてます」
「はあ? 日々之君と五稜財閥の篤君は仲の良い友だちだったそうじゃないか。それも忘れちゃったの?」
「本当に忘れてるんだから、仕方ないです」
しつこいので、僕は唇を尖らせた。
「あちゃー、今日は飯代出るだけで、成果なしかよ。部長になんて言おう」
タイミング悪く、調度その時、オーダーした料理が運ばれてきた。
一ノ瀬はホットコーヒーのみ。
彼は僕のロースカツカレーに恨めしそうな視線を投げた。
「お嬢様でもカツカレー食うんだね」
なんでも遠慮なく、って言ったじゃん。
心の中で反論した。
コーヒーを一杯傾けてから、一ノ瀬は思い立ったように腰を上げた。
「じゃあ、麗ちゃん。些細なことでも思い出したら、僕に連絡してくれない。携帯番号もさっきの名刺に書いてるから」
一ノ瀬は手刀を切ると、伝票をむしり取りレジに向かった。
使い物にならないとわかった途端の豹変ぶりに僕は呆れた。
ひとり取り残された僕は、ロースカツカレーを黙々と食べた。
それから、クリームソーダを手にした時、ここまで車で来たことを思い出した。
「帰りは歩きか……」と独りごちる。
ファミレスを出て、歩いて駅前の本屋の角まで来た。
と、たまたま振り返った先に、坂道が見えた。
駅からまっすぐ上へと続いている。
そういえば、この先へは行ったことがないな。
久しぶりに一人で外へ出たついでだ。
ちょっと散歩でもしてみようかな。
そう思い、僕はその坂道へと足を向けた。




