快気祝いの宵
週が明け、父が家に帰ってくる日がやって来た。
病院を出たとの一報を受け、家に到着する頃合いに、僕たち──、つまり僕と千春さんは玄関ポーチに立ち、大間さんの運転する車を待った。
「大会社の社長さんなのに、たった二人でお出迎えなんて寂しいですね」
千春さんは起立した姿勢で、後ろに手を組み、両足の踵をテンポ良く上げ下げしている。
「病気に負けた人間がおめおめと戻って来るだけだから、別にめでたくもないって、父が言ってました」
「けど、それにしても二人じゃあんまりですよ」と言った千春さんの視線が門のほうに向いた。
見ると、花束を抱えた紺スーツの男がこっちへ歩いてくる。
男は僕と視線が合うと、ぺこりと小さく会釈をした。
「誰だろう、あの人?」
千春さんに小声で訊くが、「さあ」と彼女は首をひねった。
男は僕らに近づくと「どうも」と頭を下げた。
年齢は三十代半ばくらいだろうか?
全く見覚えがない。とはいえ、僕は記憶喪失だから何とも言えないが。
男は僕と千春さんの心中を察したのか、自ら紹介してきた。
「日本エコノミストの大倉と申します。今日は広報の伊月さんから許可をもらってますから」
「日本エコノミスト?」
「はい、経済誌の。九条院のお嬢様でしたらご存じかと思ったのですが。残念だなあ」
大倉は頭を叩いて笑った。目が細く表情が酌み取りにくいが、笑うと目尻に皺が寄る。
良く見たところ、肩からカメラをぶら提げていた。
「それで、お嬢様、その後、何か思い出されました?」
「は?」
脈絡なく唐突に訊かれたので、驚いた。
大倉は僕が記憶喪失なのを知っているようだ。
というか、最初から僕をお嬢様と呼んでるし、僕のことを知っているようだ。
「お嬢様はまだ具合が芳しくありませんので、そういう質問はご遠慮願います」
千春さんが横から僕と大倉の間に割って入る。
「ちぇっ、社長が戻る前に例の失踪事件のこと、取材できると思ったのにな」
大倉は残念そうに独りごちてから、千春さんを見た。
「ところで、君は?」
「私は九条院家の家政婦です」
でんと胸を張る千春さん。
僕はメイドと思ってたけど、確かに家政婦のほうがしっくりくる。
「じゃあ、九条院のお嬢様、もし記憶が戻ったら僕に連絡くれないかな?」
大倉はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、僕に渡そうとしたが、千春さんに横取りされた。
「そういうことは今後、私を通してください」
「今後も何も初対面だよ、君とは」
「だから最初からです」
フンと大きな鼻息を漏らしそうな勢いの千春さんだった。
二人が睨みあっていると──、というか、恐い顔なのは千春さんだけで、大倉は目を細めて笑っているようにしか見えないんだけど。
そうしているうちに、大きなボックスカーが入ってきて、ロータリーをぐるりと周り、玄関ポーチの前に停まった。
「あっ、旦那様が!」
千春さんの顔はあっという間に平常モードに戻り、そそくさと自分の身なりを確かめている。
前のドアが開き、先ず大間さんが降りてきた。それから社長秘書の三柴さんと広報の伊月さんが続き、後部ドアを開け、車椅子を降ろした。
三柴さんが車椅子を押し、ボックスカーに横付けし、ドアを開けると──。
父の姿が現れた。
前に見舞いに行った時より、顔色は随分と良くなっている。
「お父さん、お帰りなさい」
「おう、ただいま」
嬉しさを噛み潰すような中途半端な笑顔を見せ、父は僕に手を挙げた。
父は三柴さんと大間さん、それに千春さんと三人がかりの補助で車椅子に座った。
「社長、今日は僕もお呼ばれしちゃったので来ちゃいました」
大倉は近所のおばさんにでも話すような口調で、持っていた花束を、妙に恭しく父に手渡した。
父はどこか胡散臭そうな顔で、花束の上っ面を眺めてから、
「こんな所に来ても記事にも何もならんだろうに」と車椅子から大倉を見上げる。
「社長には散々お世話になりましたから」と大倉は目尻の皺を深めた。
とにかくめでたく父も帰ってきた。
久しぶりに賑やかになる家のことを考えると、心が弾んだ。
幸い、今日はひどい頭痛もなく、かなりいい感じだ。
宵の口になり、客人が揃ったところで父の快気祝いが始まった。
千春さんに呼ばれ、食堂に出向くと、テーブルは人で埋まっていた。
主賓席には当然父が座り、その両隣には秘書の三柴さんと宝谷副社長。
その他、客として僕の隣にさっきの大倉、向かい側には大間さんのお父さん、そしてテレビで良く見る桐松院グループの桐松院静流会長もみえてたのでびっくりした。
広報の伊月さんはテーブルの後ろでビデオを回し、大間さんと千春さんは給仕役なので、キッチンと食堂を行ったり来たりしている。
内輪のこぢんまりとしたお祝いだと思っていたが、桐松院会長がいるせいか、場がピリリと引き締まった感がする。
会長はかなりの高齢で細い体だが、未だ精気あふれる感じで声にも張りがある。
半病人のように寝てテレビばかり見ている僕なんかこの場に居合わせていいのかな、と思った。
料理が出揃い、みんなのグラスにビールが注ぎ終わり、桐松院会長が父に向けて言葉を贈った。
「今日は私の親友である巌夫君が晴れて退院し、めでたい限りである。時代が明治ならきっと華族だったろう九条院家は、今日の日からさらに繁栄の一途を進むことであろう。とにもかくにも巌夫君には今後も健康に留意していただき、また旨い酒を共に飲みたいものである。では、みなさん、九条院巌夫君の退院を祝って乾杯!」
高らかに挙げられたグラスがぶつかる音が食堂に響く。
動脈瘤の手術で入院していた父はもちろんノンアルコールだが、既に酒に酔ったかのような朱色の顔をしている。
喜色満面とはこのことだろう。
みんなの会話が弾む中、僕はひとり、黙々と料理を食べていた。
会社の話とか、経済の話は僕には良くわからないし。
そんな中、僕は正面に座る人物の視線を感じ、フォークを握る手を止めた。
大間老人が僕をじっと見ている。
僕が顔を見ると、大間老人はまばらに生え残った白髪をさすりながら、こう言った。
「わしはこのお嬢さんを知っとるよ!」
素っ頓狂な甲高い声に、みんなの注目が大間老人に集まった。
その視線を感じてか、そうでないのか、大間老人は同じ言葉を繰り返す。
「わしはこのお嬢さんを知っとるよ!」
あまりの大きな声に、大間さんが駆け寄ってきて、彼の横でささやくのが聞こえた。
「そりゃ、九条院のお嬢様だったら、お父さん、子どもの頃から会ったことあるでしょ」
「いや、違うな、あのお嬢さんと違う」
「すみません。この間も言いましたけど、うちの父、ちょっと呆けが入ってますから」
大間さんが僕を見て、頭を掻いた。
「いや、わしは呆けとらんよ。わしは随分と昔にこのお嬢さんに確かに会うた」
大間老人の顔がくしゃっと縦に縮み、口が引き結ばれる。
僕はその顔をじっと見つめた。
大間老人の目はしっかりと僕を見据え、その目に曇りはなかった。




