2064年のある日
コンコンとノックがして一人の女性が入ってきた。
僕の世話をするために最近雇われた、メイドの千春さんだ。
僕は今日も自分の部屋のベッドで寝ている。
今日はまだひどい頭痛もなく、とても具合がいい。
「お嬢様、もうすぐ桜が咲きますね」
ふわっとしたカーリーヘアの千春さんが、花瓶の花を替えながら、僕に話しかける。
メイドといっても、この家じゃ一人だけなので制服もない。
薄紫色のセーターにジーンズでその上に白いエプロンをしている。
「なんとなく桜の花が咲けば、僕の記憶も戻りそうな気がするよ」
僕の声に千春さんが振り向き、笑う。
「ふふふ、そうだといいですね」
「最近ね、頭痛がひどくて寝てる時に、たまに夢を見るんだ」
「へえ、それはどんな夢ですか?」
「僕がね、喫茶店でウエイトレスをやってる夢」
僕の言葉に、千春さんは親指で顎を軽く叩き、考えこみ、
「じゃあ、お嬢様は以前、そんなバイトをしたことがあるんじゃないですか?」と首を傾けた。
「うん、多分、そうなんじゃないかな、と僕も思うよ」
「けど、九条院家のお嬢様が、喫茶店なんかで働いてたというのも、私はピンと来ませんね。あっ、でも、社会勉強のためというのもあるのかな……」
千春さんはひとりでブツブツあれこれつぶやく。
明るくておしゃべりの千春さんは、僕のお気に入りだ。
「けど、記憶が戻っても、学校にもほとんど行ってないし、留年だなあ」
ベッドから起き上がり、僕は伸びをしながらぼやいた。
「あっ! お嬢様、起きて大丈夫ですか?」
慌てて千春さんが駆け寄ってくるが、僕はそれを手で制止する。
「大丈夫だよ。今日はまだ頭痛も大したことないし」
千春さんが心配そうに僕を見る。
「春から学校に行けるといいですね」
「うん。でも、こうして一日中、千春さんとおしゃべりしてるのも悪くないかも」
「お嬢様ったら、それじゃ家の人が困りますよ」
二人でくすくすと笑った。
「ちょっと、トイレに行ってくるね」
千春さんに断り、部屋を出た。
二階の廊下から下を見回した。僕の部屋の前は吹き抜けになっていて、玄関辺りのロビーが見渡せる。
記憶喪失になった今でも、この家の記憶だけはなんとなく残っている。
それは曖昧だが、ここは見覚えが確かにある家なのだ。
家の中の勝手も、記憶喪失状態でここへ戻った時から自然と体が覚えていた。
僕は廊下を進み、向かいの部屋をのぞいた。
千春さんが掃除をしていたのかドアは開いたままだ。
こっちの部屋は、窓から玄関前のロータリーが一望できる。
窓に近づくと、バサバサと芭蕉の葉が風になびく音が聞こえてきた。
窓を開けた途端、風が部屋に強く吹きこみ、カーテンが大きくたなびいた。
この窓から見下ろす風景は、いつも僕の心を締めつけた。
特に風の強い日、僕は何をするでもなく、ここからぼうっと外を眺めている。
何かを思い出せそうな気がするからだ。
窓を閉め、振り返ると、部屋はガランとしている。
誰も使っていない部屋で、家具などの調度類が何一つないのだ。
父から聞いた話だと、昔からここは納戸代わりに使われており、部屋の主はいなかったそうだ。
僕がこの部屋で見つけた物といえば、誰かが柱に刻んだイタズラ書きくらい。
何かの記念のつもりか、2011・5・1、RKと深く刻まれている。
RKといえば、僕のイニシャルと同じだ。
でも、それをやったのは僕じゃない。
だって、僕が生まれるより、遙か昔の年だし。
今日もじっとその文字を見つめたが、長くなると千春さんが心配するので、トイレで用を足し、部屋に戻った。
夕方になり、電話が鳴った。
執事の大間が電話を取り、僕に報告した。
「お嬢様、社長の退院日が決まったそうです」
「本当に! それって、いつなの?」
「来週の月曜でございます」
恭しく大間は一礼した。
「じゃあ、家も賑やかになるかな?」
「もちろんでございます。お嬢様」
素振りはいつもと変わらず丁寧だが、大間もどこか嬉しそうだ。
僕の母は随分前に死んでいる。
お爺ちゃんも先日他界したばかりで、兄弟がいない僕には肉親は父だけなのだ。
千春さんが来るようになったので、今は大間と併せて三人だが、それまでは大間と二人きりだったので、広い家はがらんとしてひどく寂しかった。
父が戻れば、来客も多くなり、家も活気づくだろう。
「社長も戻られることですし、あとはお嬢様の容態が良くなれば万々歳ですな」
大間が白い歯を見せ微笑む。
大間はちょっと時代がかったしゃべり方をするので、僕との会話は今ひとつ噛み合わないところもある。
なので、多くは話したことがないのだが……。
「ところで、大間さんのお父様もここの執事をやってた、と以前言ってましたけど、まだご健在なんですか?」
「はい、お陰様で、まだ元気ですよ。ちょっとばかり呆けてきた面も多少ありますが」
「へえ、一度お会いしたいですね」
「じゃあ、社長が戻られる時に、お祝いがてら連れて参りましょう。先代より二人してお世話になっておりますし」
僕は慌てて手を振った。
「いえ、大変でしょうから、僕が行きますよ」
「うちのようなむさ苦しい所に、お嬢様をお招きするなんてとんでもありません。車に乗れば、すぐですから、きっとお連れします。では、これから諸々の手配をいたします」
大間は頭を下げ、踵を返し部屋を出た。
一人になり、静けさが部屋を満たす。
真っ白な壁に、一箇所だけ千春さんの挿した花が赤く息づいている。
僕は窓から外を見やった。
青い空に白い雲が流れていく。
それを眺めながら、思う。
父もようやく家に戻ってくる。
春になれば、自分の生活も何かが変わるような予感がした。




