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九条院家の存亡(旧バージョン)  作者: 天川一三
2011年後編
77/107

タイムマシンの夜

 麗ちゃんの用件はそれだけだった。

 通話が切れたので、受話器を電話に置き、キッチンを出た。

 トイレに入り、鍵を閉める。

 便座に腰掛けたところで、自問自答する。

 どうして僕はトイレなんかにいるんだ?

 麗ちゃんからの電話に動揺して、行きたくもないのにトイレに入ってしまった。

 えーと、今日は5月1日、明日学校に行けば、また残りのゴールデンウィーク。

 まだ半分も休みが残っているのに……。


 覚悟はしていたはずだが、いざその時になると、どうしていいかわからない。

 用を足してもいないのに、手はカラカラとトイレットペーパーを引き出している。

 落ち着けー、落ち着くんだ。

 とにかく、智晶さんと霧原君に連絡しないと。

 二人とも家にいるだろうか?

 それと持っていく物はタイムマシンを呼ぶ装置と、柴久万の忘れたヘルメットと、それから……?

 それから……、凪沙さんと平吉さんにお別れを言わないと。

 あれ? でも、タイムマシンが来なかったら、また戻ってくるんだし……。


 そこまで考えた時、僕は肝心なことを思い出した。

 あっ! 良く考えるとタイムマシンは来ない可能性が高いんだった。

 柴久万はおそらく記憶喪失だしね。

 そう考えると、少し気が楽になった。

 今日はタイムマシンが来なかった後に、麗ちゃんや冴島さんたちと、これからどうするかみんなで意見を出すことになるんだろう。

 夜中のファミレスで僕と麗ちゃん、篤と冴島さんで話し合っている場面が、頭に思い浮かんだ。

 別に慌てることないじゃん。

 僕は立ち上がり、いつものクセで水を流してからトイレを出た。


 キッチンに戻り、時計を見ると、午後8時。

「あと四時間か……」

 そう呟きながら、電話のボタンを押す。

 数回のコール音の後、相手が出た。

「はい」

「あっ、霧原君、前に話した件だけど、今日の午前零時になったんだけど、来れる?」

「うん」

「じゃあ、その時間に高校の校庭で待ってるから」

「うん」

「霧原君、今、本読んでるの?」

「うん。じゃあ」

 通話はそこで切れた。

 霧原君の携帯にここの電話番号は登録されていないはずなのに、相手の確認すらなかった。

 まあ、でも話は通じたみたいだし、次は智晶さんだ。

 僕は続けざまにボタンを押した。


 しかし、智晶さんの携帯は電波が届かないらしく、繋がらなかった。

 仕方ない、後でかけ直そう、と振り向くと平太がそこに立っていた。

「また、九条院さんにかけてるのか?」

 風呂に行くようで、平太は首にタオルを掛けている。

「いや、違うよ。平太に言ったこの間の話、今晩になったんだ」

「この間の話って何だっけ?」

 首を傾げる平太。

 とぼけている様子でもないので、なんのことかわからないようだ。

 僕はリビングにいる凪沙さんたちに聞こえないように、声を潜めて言う。

「タイムマシンを呼んで未来へ戻る話だよ」

 平太は相変わらず要領を得ない顔で、むにゃむにゃと口ごもる。

「タイムマシン……?」

「そう。今日の深夜、高校の校庭に呼ぶんだ」

「ああ、あの話な。で、それに乗ってお前は未来に帰るんだよな」

「まあ、来たらだけどね……」

「そこに俺も立ち会わせてもらえると。うん、なんか光栄だな。この俺がタイムマシンなんか見させてもらえるなんてさ」

 平太を見上げると、僕のほうを見てニヤリと笑った。

 相変わらずというか、最初から信じてもらえてない話なんだけど、それも今夜で白黒がはっきりする。

 僕が未来に戻るか、嘘つき女のままなのか──。


「とにかく、今日は早く寝ないで、僕につきあってね」

「おう、わかった、わかった。じゃあ、俺はこれから風呂に入るからさ」

 平太は僕の肩をポンと叩いて、浴室へ向かった。

 僕はリビングに入り、凪沙さん、平吉さんとテレビを見た。

 テレビのCMが流れる度に、凪沙さんたちにも話さなきゃと思ったが、今の状況を上手くまとめて理解してもらえる自信がなかった。

 テレビのニュースは2011年に起きた出来事を休む間もなく伝えている。

 平吉さんがいつものおっとり口調で、それにコメントし、凪沙さんがそれに相ずちを打つ。

 そんな家庭的な光景を、僕はソファーに座り、ただ眺めていた。

 結局、凪沙さんたちと最後に交わした言葉は「おやすみなさい」だった。


 リビングを出て、平太の部屋をノックした。

 時間は午後10時。

 平太は宿題でもやっているのか、風呂から出た後、見かけていない。

 二、三度ノックしたが返事がないので、ちょっと強くノックした。

 そうしたら、やっと平太が出てきた。


「悪ぃ、風呂から上がったら、なんだか眠くてちょっと寝ちまった」

 首にはまだタオルをぶら下げてた。

「11時半頃になったら出るからね。寝ちゃダメだよ」

「おう、大丈夫。じゃあ、またその頃呼んでくれ」

 そう言い、部屋に引っこむ平太。

 また寝そうな気がしたが、ドアには鍵も付いてないから、いざという時は押し入って起こせばいい。


 それより──。

 もう一度、智晶さんに電話をしたが、今度も繋がらなかった。

 旅行にでも出かけているのだろうか?

 智晶さんが夜型の人間かどうか知らないが、もしこれっきりだと嫌だな、と思った。


 自分の部屋に戻り、いよいよこれからの準備を始めた。

 忘れてはならないのが、腕時計型の装置。

 これがないとタイムマシンを呼べない。

 手に取って画面をみたが、バッテリー残量も一回分はありそうだ。

 それと……。

 ヘルメットを机の下から転がして出した。

 片方の腕は肩がまだ時々痛むので、持ち辛い。

 反対の手で抱えてみたが、持てないことはないものの、なんとも持ちにくい大きさだった。

 入れるのにちょうど良いバッグはないか探してみたが、自分の持ってるバッグで手頃な大きさのものがない。

 かぶっていけばいいかな?

 かぶってみたが、結構大きくダブダブだ。

 こんな格好で真夜中に歩いていたら、不審者以外の何者でもない。

 警察に見つかったら、連れて行かれてしまう。

 仕方ないので平太に頼むことにした。


 他に持っていく物を考えたが、未来からこっちへ来た時も、何も持たずに来た。

 あの時は覚悟もなかったし、半信半疑だったせいもあるが、旅行じゃないので持ち物は確かに不要だ。

 じゃあ、あとは来ていく服だけか……。

 この間買ったミニスカートはどうかと思ったが、麗ちゃんに叱られそうだ。

 学校の制服でいいか。

 もし、校庭でいる所を見とがめられても、言い訳しやすいし。

 ポンと手を打ち、そう決めた。


 やることもなくなり、部屋を眺める。

 約一年ほどだったけど、この部屋で色んなことを考え、悩んだ。

 それが今晩終わりになるのか、この先もまだ続くのか──?

 床にごろりと寝そべり、見覚えのある天井の染みを、じっと見つめる。

 そうしていると、きっと、僕は平太とこの部屋に戻ってくる、という予感がしてきた。

 そうなったらそうなったで、それは僕の運命なのだ。

 覚悟はもうできている。


 欠伸がひとつ。

 寝ちゃいけない、と思い、髪をいじった。

 肩胛骨の辺りまで伸び、そろそろ切りたいと思ってた髪。

 鬱陶しいからショートヘアにしたら似合うかな?

 昔の麗ちゃんの顔を思い出したが、どうやら僕は麗ちゃんのショートヘアを見たことがないようだ。

 おそらく麗ちゃんの好みじゃないのだろう。

 もし、ショートヘアにしたら麗ちゃんは僕に何て文句を言うかなと考え、ひとりでニヤニヤした。

 あれこれぼうっと考えている間にも時は流れ、いよいよ仁科家を出る時間になった。

 制服に着替え、装置をポケットに入れる。

 僕は平太を呼びに、部屋を出た。


 ◇◆◇


 深夜の仁科家、しんと静まりかえった廊下。

 足音を立てぬよう平太の部屋まで歩き、ドアを軽くノックした。

 あまりに静かなので、寝てるんじゃないかと心配になったが、平太はすぐにドアから眠そうな顔をのぞかせた。


「行くよ。平太」

「んー、……今、何時だ?」

「11時半だよ」

 平太は目をこすってから首を回し、自分の身なりを確かめた。

 上下ともに灰色のジャージだった。

「これにジャケットでも引っかけりゃいいか」

 一度ドアが閉まり、ジャージにジャケットの平太が出てくる。

「じゃあ、行くか」

「平太に持ってもらいたいものがあるから、ちょっと待ってて」

 自分の部屋に戻り、ヘルメットを持ちかけた時、ある事をふと思い出した。

「そういえば、霧原君から本を借りてた……」

 机からその文庫本を出し、表紙を眺める。

「結局、まだ読んでないや。けど、貸し借りはきちんとしとかないと」

 制服のポケットに文庫本を突っこみ、重いヘルメットを抱えて、廊下に戻った。


「香、お前なんだそりゃ?」

 暗くて表情がよく見えない。平太もヘルメットがなんだかわからないのだろう。

「これ、ヘルメット。とにかく一旦外に出よう。おばさんたちが起きるといけないし」

「おう、そうだな」

 二人でそっと靴を履き、ゆっくりとドアを開けて外に出た。

 外は少し肌寒かった。五月になったばかりなので、まだ夜は寒い。

 平太はマンション通路の灯りの下、僕の持っているヘルメットをじろじろと見ている。

「お前、いつからそんな物持ってるんだ?」

「うーんと、いつだったかな?」

「それもタイムマシンを呼ぶのに要るのか?」

「うん」

「ふーん、まあいいや。じゃあ貸せよ。持ってやるから」

 興味なさげに返事をする平太にヘルメットを渡し、エレベータに乗り一階へ下りた。


「こんな深夜にお前と出歩くの、初めてだな」

「そうだね」

「なんか、ちょっとドキドキしねえ?」

 マンションを出て道を歩く平太は心なしか楽しそうだ。

 僕は何か忘れ物をしたような気がして、心にひっかかりがあった。

 平太と並んで夜道を歩いているうちに、それを思い出した。

「あっ! 智晶さんに電話し忘れた!」

 僕が立ち止まったので、先を行く平太が振り返る。

「智晶さんってあのひょろっとした先輩? もういいんじゃね、こんな夜中だし」

「けど……」

 万が一タイムマシンが来てしまった場合は、もう二度と会えないし……。

「それに、あまり他人は呼ばないほうがいいぜ。タイムマシンが来なかったら、恥を広めちゃうことになるしさ」

 僕をさとすような平太の言葉。

 平太は今でも僕のことを信じていない。まあ、その事は割り切っているからいいのだけど。


「平太さ、学校までに公衆電話はあったかな?」

「どうだったかな……、使ったことないからな。あったような気もするし……」

 今から戻って仁科家でバタバタするのも気が引ける。

「じゃあ、とにかく学校へ行こう。途中で電話があったら、使うからね」

 急ぎ足で学校に向かったが、結局公衆電話はなかった。

 こうなったら最後の手段は携帯電話を誰かに借りるしかない。


「おい、香。正門閉まってるけど、どうする?」

 見ると、確かに鉄柵の門がしっかりと行く手をふさいでいる。結構高さもある。

「開かないかな」

 僕が軽く門を押し始めたら、平太が加勢してくれた。しかし、門はびくともしなかった。

「ダメだな」と平太が門を掌で叩く。静かな夜にコンと甲高く音が響いた。

「じゃあ、もうちょっと先の塀を乗り越えるしかないかな?」

 以前、僕でも乗り越えたことがあるので、男の平太なら楽勝だろう。

「いや、ちょっと待ってろ」

 平太がヘルメットとジャケットを道に置き、門のてっぺんに飛びついた。

 高い鉄棒にぶら下がるような感じになり、そこから柵の縦棒を蹴り懸垂の要領で門の上まで登った。とても僕にはできそうにない。

 平太は門から飛び降りると、僕を呼んだ。

「こっちからなら、おそらく開くぜ」

 平太が門の端にある柱の辺りでゴソゴソと体を動かし、「よし、開いた」とつぶやいた。

 ガラガラとかんに触る音を立てて開く門。

 大きな音に思わず僕は周囲を見回した。

 幸い、通行人は誰もいなかった。


「よし、入れよ」

 平太がパンパンと手の汚れをはたく。

 ヘルメットと平太のジャケットを抱え、僕は校内へ入った。

 昇降口へと続く歩道から折れ、校庭に足を踏みこむと、校庭の真ん中辺りに人がいた。

 真っ暗な中、一人でぽつんと立っている。

 あのシルエットは──?

 霧原君?

 腕時計を見ると11時55分。約束より五分早い。

 とにかく駆け寄ってみる。

 傍まで近づくと、やはり霧原君だった。

 けど、いつもとは違う。

 今晩は本を持っていない。

 霧原君でも、さすがにこの暗さじゃ本は読まないのだ。


「霧原君、早いね」

「うん、タイムマシンが見れると思うと気がはやってね」

 思わず彼の顔を見た。

 えっー! 霧原君は本気で信じてるの?

「けど、どうしてこんな校庭の真ん中に?」

「だって、校庭としか聞いてないし。ここだと間違いない」

「そりゃ、そうだけどさ」

「で、モカ娘。タイムマシンは今日来るのかな?」

「僕にもわからないけど……。もし、来なかったらご免ね」

 暗闇の中、霧原君が笑ったような気がした。

「いいよ。その時は君にモカをご馳走してもらうから」

 そんなもので良かったら何杯でも、と思う。


 それより──。

「ねえ、霧原君、携帯を持ってたら貸してくれない?」

「ああ、いいよ」

 ゴソゴソと上着のポケットを探り、僕に携帯を差し出す。

「ありがとう」

 智晶さんに早速電話してみる。

 繋がれ! 繋がれ! と念じたら、声がした。


「ふわーい、……米良めらです」

 すごく眠そうな声だったが、智晶さんの声だ。

「智晶さん! 僕、僕だよ。日々之です」

「……ああ、香ちゃんかあ。……こんな夜分に何の用?」

「この間、話したタイムマシンを呼ぶ件だけど、今からになったんだ。智晶さん、来れる?」

「……タイムマシン? ……ああ、そんなこと学校の屋上で言ってたっけかな?」

 眠っていたのか智晶さんのレスポンスはとても悪い。

「とにかく、来れるんだったら、学校の校庭で待ってますから」

「……でも、これからねぇ。……電車あるかなあ」

「もしかしたら、智晶さんと会えるのは最後になるかもしれないんです。だから、だから……」

「うん、わかった。急いで行く。学校の校庭ね」

 通話が切れた。どうにかこうにか、智晶さんにも連絡がついた。

 後は麗ちゃんたちか──。

 そう思い、正門のほうを見ると、一台車が入ってきた。


「あっ、車だ! 先生じゃないだろうな!」

 横にいた平太が声を上げた。

 先生でも校庭の真ん中じゃ逃げようがない。

 僕はじっと車のライトを見つめた。

 車はしばらく進んで、停車した。

 その車は見覚えのある白い軽自動車だった。

 ドアが開く音がして、人が出てくる。

 遠目に数えたところ三人いる。

 おそらく麗ちゃん、篤、冴島さんだろう。

 一際背の高い人が走ってくる。

 やっと顔がわかる距離になり、僕はその人を見上げる。

 やっぱり麗ちゃんだった。


「郁、遅れちゃったかな?」

「いや、ちょうどだよ。相変わらず几帳面だね、麗ちゃんは。で、あれは冴島さんと篤?」

 僕が指さすほうを振り返り、麗ちゃんがうなずく。

「うん、そうよ」

 一人は松葉杖をついているので、冴島さんに間違いないが、篤は久しぶりだ。

「で、郁。あなたに話さなければいけないことがあるの」

 麗ちゃんが僕の顔をのぞきこむように見つめる。

 何だろうと僕は首を傾げた。


「ちょっと来てくれる?」

 麗ちゃんが僕の腕を引き、校庭の隅に向かって歩き始める。

 その途中、星空が僕の目に映った。

 初めて見上げる高台の夜空はとても美しかった。


 ◇◆◇


 朝礼台の脇まで麗ちゃんと来た。

 校庭の中央を見ると、平太と霧原君、冴島さん、それと篤の濃い人影が動いている。

 知らない人たちが突然やって来て、霧原君は戸惑っていないだろうか?

 本も今は持っていないし。

 彼は本さえ読んでいれば、大地震が来たって気にしないで、読んでいそうだけど。

 深夜の校庭の真ん中で、男四人が互いに自己紹介しあっている絵面もなかなか奇妙だ。

 校庭の端に目をやると、軽自動車の中、車内灯に照らされ人が動いている。

 あっちは新橋興信所の冴島さんだろう。


 麗ちゃんを見上げる。

 暗さに目が慣れてはきたが、電灯の一つもない屋外だ。

 麗ちゃんの表情はよくわからない。

 その麗ちゃんが、ジャケットのポケットから何かを取り出し、僕に差し出した。

「これを返しておくわ」

「何それ?」

 長い指につままれた物を受け取り眺めると、それは口紅だった。

「預かってたけど、私にはもう必要ないからね。郁、あなたが持ってて」

 小さな円筒型のスティック。中は僕がよく知ってるフロスティピンクの口紅だ。

「僕も使うことないんだけどね」

 まあ、男になった麗ちゃんより僕が持ってたほうが確かに自然だろうと、口紅を制服のポケットに入れた。


「ところで話って何さ?」

「そのことだけど……。実は郁に頼みがあるの」

 麗ちゃんは僕の顔をじっと見ている。

「頼みって?」

 突然、麗ちゃんが僕の手を握った。ごつい篤の掌の感触に、僕は一瞬たじろいだ。

 麗ちゃんはその手に力を込め、話し始める。

「郁、あなたに未来の九条院家を託したいの」

「僕に未来の九条院家を託す? それってどういうこと?」

「言葉通りの意味だけど」

 言葉通りの意味って……。

 少し考え、思いついたことを口にした。


「ああ、僕が麗ちゃんの姿だから、未来に戻ったら九条院家で暮らせってこと? あっちに戻ったらどうするか、そういえば、僕たち良く考えてなかったね」

「ううん、違うの」と麗ちゃんが手を離し、首を振る。

「じゃあ、どういうこと?」

「実はね……、私たちはこの時代に残ることにしたの」

 一瞬、何のことかわからなかった。

 私たちは、この時代に、残ることにしたの。

 つまりは──。

 タイムマシンが来ても、未来へは戻らない、ってこと?

 それで、僕には未来の九条院家を託すって……。

 頭が鈍い僕だが、麗ちゃんの言いたいことがわかった。


「それって、僕だけ未来へ戻れってことなの!」

 麗ちゃんに一歩踏み寄る。

 僕が見上げた麗ちゃんのシルエットは横を向いていた。

 その横顔が語る。

「そのとおりよ。こんな事をお願いできるのは郁しかいないもの」

「なんだよ! 突然、相談もなしにそんなこと言われても、僕、困るよ!」

 麗ちゃんは僕のほうにまた向き直り、僕の両肩にそっと手を置いた。

「ごめんね、郁。私もどうしようか迷ったの。けど、私の決意はおそらく変わらないから」

「その麗ちゃんの決意って何さ? 僕だって相談されれば、この時代に残るに決まってるじゃん!」

 麗ちゃんの手が僕の肩から遠ざかる。


「私の決意──。それは私が日本の歴史を変えること。そして、日本を明るい未来に導くこと」

 麗ちゃんの声のトーンが変わった。

 静かだが、重く、誠実な、その声。

 僕は黙ってただ麗ちゃんのシルエットを見つめる。

「私がこの時代の日本を担う。だから──!」

 麗ちゃんの腕がすっと僕に伸びる。

「だから、未来の日本はあなたが導きなさい。郁」

「僕が……、未来の日本を導く……」

 とんでもない話だ。

 僕が未来の日本を担うなんて、あまりにも茶番すぎる。

「私がこの時代に来たのは九条院家の窮地を救うことだったけど、この時代で暮らす中で、私は気づいたの。私なら、日本の向かう先を修正することができることを。そして、それが可能なのは、この私しかいない」

 麗ちゃんが一度言い出せば引くことはまれだ。

 日本の未来を憂える麗ちゃんの気持ちも、これまで行動を共にしてきた僕には痛いほどわかる。

 けれど……。


「麗ちゃんは僕と一緒にいたくないの──?」

「……」

「僕はできれば、この先もこれまでと同じようにずっと麗ちゃんの側にいたいよ」

 麗ちゃんは黙ってしまった。

 僕はその麗ちゃんの腕を引く。

「だから、一緒にいようよ。僕もこの時代に残って、麗ちゃんのことを手伝うからさ」

 麗ちゃんは答えない。

 静かな校庭の片隅。

 僕は何度も麗ちゃんの腕を揺すった。

 しばらくして、やっと麗ちゃんが口を開いた。


「郁は……、私の存在を感じる?」

「うん、感じるよ」

 僕は大きくうなずく。

「私がこんな姿になった今でも?」

「もちろんさ。こうやって言い合ってても、麗ちゃんの言ってることは麗ちゃんらしいし、それに……」

「それに何? 郁」

「こうやって、一緒にいると、僕はすごく落ち着くんだ」

 麗ちゃんが大きく動く。

 気づいた時には、僕は麗ちゃんの胸に抱かれていた。

「……ありがとう、郁。自分の姿そのままだけど、そこに──、私も、あなたの存在を感じるわ」

 震える麗ちゃんの声。

 強く抱かれて、僕はすっかり安心した。

 麗ちゃんはきっとわかってくれたんだ、と思った。

 だって、僕たちは幼い子どもの頃からずっと一緒だったんだから。


「郁、……でも、私は思ったの。私が自分の過ちでこんな姿になってしまったことさえも、私がこれから成すべき仕事のためじゃないかと。神様は私に罰と同時にチャンスも与えてくれたんだと」

「だから、麗ちゃんはこの時代に残って頑張るの?」

 麗ちゃんは僕を抱きしめたまま、うなずく。

「そうよ。それが子どもの頃から祖父から言われ続けた、九条院麗の運命さだめ

 沈滞する日本経済を憂えていた麗ちゃんの亡きお爺さん。

 経営学を麗ちゃんに叩きこみ、一流の経済人として育て上げた人。

 そして、誰よりも麗ちゃんを愛していた人。

 にわかに安心して喜んでいた僕の気持ちが急速に冷えていく。


 僕にはわかっていた。

 麗ちゃんの気持ちが決して変わることがないことを。

 だって、今僕といるのは姿こそ違うが、一度言い出したら引かない女、九条院麗だから。

「麗ちゃんはどうしても僕に未来の九条院家を任せたいの?」

 麗ちゃんは抱擁を解き、僕と向き合う。

「そうよ。私が世界で一番信用できるのは郁だから」

 その言葉に喉に込み上げるものを感じたが、押しとどめる。

 今は別れの場面じゃない。


 だって──。


 僕は後ろにステップを踏み、首を傾げる。

「麗ちゃんは肝心なことを忘れてるよ。どうせ、タイムマシンなんか来ないんだよ。だって、柴久万が来れるはずないじゃん。あいつは記憶喪失だろうし」

 僕の背に合わせ身をかがめていた麗ちゃんが背筋を伸ばす。

「その時は仕方がないわ。けれど、もしタイムマシンが来たら、郁はどうするの?」

 先ほどとは違う、突き放すような物言いに、僕はちょっとカッとなった。

「もちろん、僕は未来へ帰るよ」

「それでいいのね?」

「無論。僕の今の姿は九条院麗だよ。二言はない」

「頼もしい限りだわ」

 闇の中、麗ちゃんが笑ったような気がした。


 麗ちゃんは空を見上げた。

 僕も同じ空を見上げる。

「二人で夜空を見るのも、今日が最後かしら」

「おそらく、これからも嫌になるほど見れると思うよ」


 ポケットを探り、装置を取り出す。

「麗ちゃん、いい? 呼ぶよ!」

 胸の前に装置をかざし、麗ちゃんを見つめる。

「やりなさい、郁!」

 麗ちゃんの掛け声と同時に、僕は装置のボタンを押した。


 ◇◆◇


 僕は手にした装置のボタンに力をこめ、押し続けた。

 装置から鳴り響くビープ音が闇を切り裂く。

 装置のランプは、慌ただしく赤く点滅している。

 だが、周りは何の変化もない。

 それでも、僕は押し続けた。

 けたたましい音に、校庭にいたみんながこっちへ駆け寄ってくる。

 ボタンから指を離し、装置をのぞくと、バックライトに浮き上がる数字がめまぐるしく変化している。

 相変わらず鳴り続けている騒々しい音に、装置を投げ捨てたくなる。


 麗ちゃんが周囲をぐるりと見やり、声を上げる。

「何も起きないわね!」

 ひょこひょこと遅れてやってきた松葉杖の冴島さんが、麗ちゃんに声をかけた。

「駄目でしたか?」

「そうかもね」と麗ちゃんが肩をすくめたタイミングで、ビープ音が止まった。

 深夜の校庭は再び静寂に包まれた。


「おい、ダメだったのか?」

 僕の姿の篤が、装置をのぞきこむ。

 装置のランプは青く光っている。数字の値ももう変化しなくなったようだ。

「ほら、やっぱり、柴久万は記憶喪失で来れないんだよ」

 麗ちゃんに向かい、そう言い、装置をポケットにしまおうとした、その時──。


「星が流れてる」

 夜空を見上げていた霧原君がポツリとつぶやいた。


 全員が夜空を仰いだ。

 真っ黒な天空を背景に、星が流れている。

 けど、流れ星のように直線的な動きでなく、同心円を描くように丸く、一つ、二つとその数が増えていく。

 やがて夜空は、星が描く同心円の軌跡で真っ白になっていった。


「すごいや、何これ!」

 霧原君が歓声を上げた。

 眩しいばかりの白が夜空を埋め尽くした時、体を震わすほどの轟音が鳴り響いた。

 その直後、眩しかった空が、突如暗転し、その落差に思わず息が詰まりそうになる。

 急激に暗くなったため、目が全く見えない。

 空気を引き裂くような音は、四方八方から押し寄せてくる。

 音の飛礫つぶてが僕の周りを飛び交い、ぶつかる。

 立っていられなくなり、僕は耳を押さえ、地面にうずくまった。

 

 どのくらい耳を塞いで、じっとしていただろう?

 背中を叩かれ、僕は顔を上げた。

 そこに立っていたのは平太だった。


「香、何だよ、あれは?」

 平太が指さす。何かの灯りで照らされた平太の顔は、驚きを顕わにしていた。

 僕はスカートと膝に付いた土を払い、立ち上がった。

 正面を向くと、自動車ほどの大きさの卵形の物体があった。

 淡く銀色に輝くそれは、未来で見たタイムマシンと同じだった。

 そのタイムマシンに近づく人影があった。

 霧原君だった。

 霧原君が恐る恐る差し出す手が、タイムマシンに触れかけた時、圧搾音とともに扉が開いた。

 そして、その中から現れた一人の男──。

 その男はヘルメットを脱ぐと、無精髭の顔で僕たちにこう言った。


「みなさん、夜分お出迎えご苦労様です!」

 背の高いその男は、柴久万だった。

 柴久万はヘルメットを置き、ボストンバッグに持ち替えた。

「やあやあ、みなさんお揃いで。お嬢様に、日々之のお坊ちゃん、五稜家の長男坊に、そして冴島さんも、それと彼はええと……」

 やけにテンションの高い柴久万の声が響く。

 タイムマシンから下りてきた柴久万に、僕は駆け寄った。

「柴久万、お前、記憶喪失じゃなかったの?」

「えっ、私がどうして?」

 柴久万が目を剥く。

「だって、うちにヘルメットを忘れていったじゃない!」

 柴久万は何かを思い出すように、額の辺りを指で小突いた後、笑い始めた。

「ははははは! あれですか? 用意周到の私がそんなヘマをするはずがないでしょ! 予備のヘルメットを持っていたというか、皆様の分もあったので都合四個はタイムマシンに積んであったのですよ」

「じゃあ、記憶喪失じゃないのに、二回目に呼んだ時はどうして来なかったのさ?」

「そりゃ、立て続けに二度も無駄足を踏みたい人間はいないでしょ。だって、二度目は一度目と間が開いてなかったし、当然シカトですよ」


 僕はがっくりと肩を落とした。

 予備の分は別として、そもそも柴久万は僕たちを迎えに来たつもりだったんだ。

 ヘルメットは人数分用意していて当然だ……。

 柴久万は上機嫌でタイムマシンのほうへ長い腕を差し伸べた。

「今日もちゃんと皆様の分を用意してありますよ」

「そのことだけど、私たちは未来に戻らないことにしたの」

 麗ちゃんが柴久万のところへ歩いてきた。

「あれ、五稜家のお坊ちゃん、それはどういう事ですか? それに坊ちゃん、言葉がどこかオカマっぽくないですか?」

「いえ、柴久万さん。言ったとおりです。私たちはこの時代に残ります」と冴島さんが答える。

「その私たちって……?」

 柴久万がぎょろりと僕らを見回す。

「私と──、お嬢様……じゃなかった」

 名前を言いあぐね、冴島さんは麗ちゃんと篤の肩を叩いた。

「じゃあ、タイムマシンで未来へ戻るのは──?」

 ゆっくりと柴久万の顔が僕のほうを向く。

「お嬢様だけです」と冴島さんの声。

「違うよ、僕はお嬢様じゃないよ。それに一人じゃ帰らなし」

 手を振る僕に、柴久万が笑う。

「なーに、お嬢様、一人でも心配ご不要です。座ってるだけで猿でもちゃんと元の時代に戻れますから」

「一人って、柴久万、お前は?」

「いやあ、あっちの時代でややこしい事になりましてね。タイムマシン開発が露見して以来、CIAか何かに拉致されかけたり、中国のスパイに命を狙われたりで。物騒で、すっかり嫌になったんで、こっちの時代に引っ越すことにしました」

 柴久万がひょいとボストンバッグを胸の前まで挙げた。

 柴久万、お前まで……。


「篤はどうして、この時代に残るの?」

 僕は突っ立っている篤に向かって、問いかけた。

 僕の見慣れた、僕自身の顔が表情もなく答える。

「ああ、麗から俺もこの時代で未来の日本のために頑張らないかと説得されてな。最初はとんでもねえと思ったが、未来にこの格好で戻ってもしょうがねえや、って事で残ることにしたのさ」


 そういうことか……。

 じゃあ、僕だけお払い箱ってことなのか?


 タイムマシンの前、僕が立ちつくしていると平太がやって来た。

「おい、香、お前の言ったこと、本当だったのか……?」

「うん、来ちゃったね。タイムマシン」

「これ、本当にタイムマシンなのか?」

 平太は胡散臭そうな顔でつるつるとしたマシンの側面を撫でた。

「そうだよ。なんだったら、平太も一緒に来る?」

 平太は一歩退いて、胸の前で手を振った。

「俺はいいや。母ちゃん達や店のこともあるしさ。でも、こんな便利な物があるなら、またいつでも来いよ。待ってるからさ」

 だからぁ、もう来れないかもしれないんだよ、平太……。

 麗ちゃんに裏切られたような気持ちと、平太と別れる哀しみが一挙に込み上げ、僕はうつむいた。

 その手を誰かがつかんだ。

 うっすらと涙で滲む視界に浮かぶのは麗ちゃんの姿。


「郁、これを後で読んで」

 麗ちゃんが僕に握らせたのは一通の手紙だった。

「向こうに戻ったら、これを読んで欲しいの。この中にはどうしても私自身の声で、あなたに伝えたかったことが書いてあるから。この借り物の声でなくて……」

 麗ちゃんは眉を寄せ困ったような顔をしていた。

 手紙を握り締め、手の甲で涙をぬぐい、僕は訴える。

「僕も……」

「郁、未来の九条院家をお願いね。任せられるのは、あなたしかいないから」

 麗ちゃんは僕の言葉に被せるようにそう言うと、一度僕の手をきつく握ってから、みんなのほうに戻っていった。


 見ると、みんなが僕のほうを向いていた。

 まるで、僕だけのけ者のようにタイムマシンを背にしている。

「日々之、じゃあな」と元の僕が言った。

「香、お前の言うことを信じてなかったこと、本当にごめんな」

 平太が淋しそうにつぶやく。

「うん、凪沙さんと平吉さんにありがとうございました、って伝えておいてね」

 放心した僕の口から、無意識に湧き出す別れの言葉。

 僕は心でそれを他人事のように聞いていた。

「じゃあな、モカ娘」

「霧原君も来れば?」

 手を振る霧原君に訊ねる。

「いや、遠慮しておくよ。まだこの時代に読み残した本が沢山あるから」

「そうなんだ。じゃあね、霧原君」

 僕も彼に手を振る。

「日々之さん、では、九条院家をよろしくお願いします」

 松葉杖の冴島さんが頭を下げる。


 僕が返礼した時、校庭の向こうから大きな音が近づいてきた。

 パトカーのサイレンだ。

 そのサイレンの合間に、誰かが叫ぶ声が聞こえてくる。

「香ちゃ──ん!!」

 声の方角に視線を向けると、正門から人が凄い勢いで走ってくる。

 おそらく智晶さんだ。


「さっきの騒ぎで近所の住人が警察を呼んだんだな。急がないと」

 柴久万が僕をタイムマシンに押しやる。

「駄目だよ! 僕はまだこの時代に……」

「郁! 私があなたに素晴らしい日本を引き継ぐから! 絶対に!」

 麗ちゃんは僕に握り拳を見せた。

 僕はそれには何も答えず、智晶さんの姿を探した。

 しかし、柴久万に抱え上げられてしまった。


「さよなら! 智晶先輩!」

 僕が最後にこの時代で言った言葉だった。

 その声が届いたか、確認する間もなくマシンの扉が閉ざされる。


 静まりかえったマシンの中にひとり。

 外からの音は全くしない。

 サイレンの音も、人の声も──。


「開けろ! 開けろよ! 柴久万!」

 扉の取っ手をつかみ、動かすがびくともしない。

 早くしないと、タイムマシンが動き始める。

 僕は全力で取っ手を押し引きしたが、扉は微動だにしなかった。

 やがて、低く重い振動が足下から伝わってきた。


 ヤバい! 動き始めた!


 扉に体当たりしたが、はじき返される。

 激しくなった振動に、バランスを崩し、僕は転倒した。

 耳を塞ぎたくなるほどの振動音が僕を襲う。

 転れた床にはヘルメットが何個も転がっている。

 マシンは動き始めた。急いでヘルメットを被らないと。

 手を伸ばし、ヘルメットをつかんだ。

 胸元にそれをたぐり寄せ、僕はそれを被ろうとして──、

 止めた。


 こんな嫌な別れ方の想い出なんか要らない──。


 僕は楽しかった2011年での出来事を思い出す。

 平太の笑い顔。

 智晶さんの笑い顔。

 一つ、一つ思い返そうとしているうち、僕の意識は飛んだ。

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