分岐する未来
何事もなく、何気ない日常。
僕の記憶が戻らなかったら、今もこの時代でそんな生活が続いていたのかもしれない。
七瀬さんに命を狙われたことさえ、度重なる事故で済ませていただろう。
「変なことが続くね」なんて言いながら、いつもどおりに学校へ通い、平凡な学生生活を送る。
学校で八島さんに意地悪されたり、智晶さんと学校の帰りにファミレスへ寄ったり、きっと、そんなどこにでもあるような日常の中で泣き笑いして──。
もしも、僕の記憶、そして麗ちゃんの記憶が戻らなかったら、そのほうが幸せだったのだろうか?
自問自答してみたが、すぐに考えるのを止めてしまった。
記憶が戻ってしまった今となっては、そんなことを考えてみても、仕方ないことだし。
僕たちの運命は既に分岐してしまったのだから……。
「香ちゃん、ぼうっとしてると、またご飯こぼすわよ」
凪沙さんの声に我に返った途端、箸の間からご飯を盛大に膝の上にこぼしてしまった。
「うわあ!」と慌てて、膝に落ちたご飯をかき集める。
「ほら、言わんこっちゃない」
仁科家のキッチン、テーブルの向こうで凪沙さんと平吉さんが箸を片手に笑っている。
隣を見ると、平太が持つ味噌汁の椀が震えている。噴き出すのをこらえているようだ。
僕は「へへっ」と愛想笑いをして、立ち上がり、こぼしたご飯を残飯入れまで持っていった。
4月25日の宵、仁科家の食卓はいつもと何ら変わりがない。
ちょっと違うのは、喫茶店が休みなせいで、夕食の時間がいつもより早いくらいだろう。
仁科家にとって店の営業ができないのは大問題だが、凪沙さんも平吉さんも暗い顔の一つも見せない。
僕が未来に戻ってしまうと、店の人手が減ってしまうけど……。
そのことを相談したいと思ってはいるが、まだ未来に戻れるかどうかも定かでないし、なにより平太同様、凪沙さんと平吉さんに信じてもらえるはずがない。
何もかもみんなに打ち明けたい気持ちはある。
だが、そんなことをすれば、また病院送りだ。しかも、次は間違いなく精神病院だろう。
そんな訳で、僕はいつもどおりドジを踏みながら、いつもの日比野香を演じていた。
もし、未来に戻れなければ一生演じ続けるのかもしれないけど、それならそれでいいとも思っている。
夕食の後片付けを手伝い、テレビでも見ようとリビングに行くと、ちょうど出てくる平太とすれ違った。
「平太、お風呂でも入るの?」
「いや、数学の授業でたんまり宿題が出たんでやらないと」
「そうだっけ?」
思い出そうとしたが、今日の授業は全部上の空で、ほとんど頭に入ってない。
「香、お前なあ……。最近やけに宿題忘れてないか?」
はい、そのとおりです。じゃなくて……。
「後で宿題教えてよ」
「じゃあ、後で俺の部屋へ来いよ」
平太は面倒くさそうな顔して、自分の部屋に入っていった。
「せっかく一緒にテレビでも見ようかと思ったのに……」
でんとリビングのソファーに腰を下ろし、リモコンでテレビを点けた。
横では平吉さんが夕刊を広げている。
僕がニュースを眺めていると、平吉さんが夕刊越しに話しかけてきた。
「香ちゃんは高校を卒業したらどうするつもりだい?」
「えっ? どうするってどういうことです?」
平吉さんのほうを向くと、夕刊の脇から顔を少しのぞかせ、
「大学へは行きたくないかい?」と訊いてきた。
「うーん、あまり考えたことないです。記憶障害のこともありますし」
「そうかい。まあ、まだ先のことだし、行きたくなったら遠慮なく私か凪沙に言っておくれ」
平吉さんは顔を戻して、夕刊を読み始めた。
「ありがとうございます」
僕は夕刊に向かって、頭を下げた。
身寄りのない僕の将来まで考えてくれている──、そう思うと胸が熱くなった。
そんな僕は壊れた喫茶店を放ったらかしにして、未来へ帰ろうとしている。
どうにもいたたまれない気持ちになり、テレビを消し、そそくさとリビングを出た。
自分の部屋に入りかけたが、麗ちゃんに連絡をしようと思い直し、キッチンへ戻った。
凪沙さんに断り、受話器をとる。
麗ちゃんの携帯にはすぐ繋がった。
「あっ、麗ちゃん。郁だよ。今いい?」
「ちょっと待ってね」
電話で話すと篤の声だけなので変な感じだ。誰かと話している、その声が小さくこっちに聞こえてくる。
「お待たせ。いいよ」
「今どこにいるの?」
「桐松院さんのお宅だよ」
麗ちゃんは桐松院さんの前ではオカマ言葉じゃない。
「えっ! また、行ってるの?」
「うん、色々あってね」
「今日、学校休んだよね。明日は麗ちゃんは来るの?」
「いや、明日は冴島の病院に行こうと思ってるんだ。今後のことを打ち合わせしないといけないし」
「あっ、そうなんだ。あまり日も残ってないから、急がないといけないしね」
「そうそう。色々考えたいこともあるから、当分学校は休むと思う」
麗ちゃんは未来の九条院家の窮地を救うという、当初の目的を達成しないといけないので大変だろう。
いくら麗ちゃんでも、時間が少なすぎる。
「当分休みなの? じゃあ、僕に何か手伝えることない?」
「……うーん、郁はちゃんと学校に行っておきなさい。みんなとお別れになるかもしれないから」
「わかった……。何か手伝えることあったら、すぐに言ってね」
「ありがとう、郁。じゃあ、また連絡するから」
通話は終わった。
「九条院さんなの?」
凪沙さんがちょっと怪訝な顔で僕を見る。
おそらく、早朝から急に押しかけてきたり、僕の帰りが遅くなったりで、凪沙さんは麗ちゃんに、あまり良い印象を抱いてないのかもしれない。
僕はうなずくと、またそそくさとキッチンを出ていった。
部屋でゴロリと床に寝転ぶ。
麗ちゃんは何かを頑張っているのに、僕だけいつもの生活と変わらない。
これじゃ、僕がこの時代に来た意味がないんじゃないの?
そんなことを考えながら、しばらく天井を睨んだ。
ふと思い立ち、鏡台までいざり、時計型の装置を手に取った。
バッテリー残量はまだ一回は使えそうなくらいは残っている。
いずれにしてもチャンスは一回。
これを使って、柴久万が来なければ、僕も麗ちゃんもずっとこの時代だ。
冴島さんと七瀬さんもこの装置を持っているだろうけど、タイムマシンのほうが破棄されれば元も子もないし……。
装置を鏡台に戻す。
果たして僕は自分自身、未来に戻りたいと思っているのだろうか?
考えれば考えるほどわからなくなる。
未来には僕らのいた世界があり、この時代には今の僕の生活がある。
帰らなくちゃという気持ちもあるし、残りたいと思う気持ちもある。
だから、来るかどうかわからないタイムマシンに、僕は自分自身の運命を託してみようと思う。
僕の未来はそこでまた分岐する。




