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九条院家の崩壊

「ねえ、麗ちゃん。別に放っておけばいいんじゃないかな? 学校行事でもないみたいだからさ」

 僕は髪を揺らしながら廊下を突き進む麗ちゃんの袖を引いた。


「だって、気分悪いじゃない。どうせ茶番に決まってるし、それに、あの人たちの面白がるレベルを再確認するのも悪くないと思わない?」

「けど、なんか嫌な予感がするんだ。朝の篤といい、三池さんだってどこか挑戦的な態度だったし」

「隠れて悶々としているほうが、よっぽど嫌よ」

 麗ちゃんは脇目もふれずに真っ直ぐ進んでいく。


 麗ちゃんが一度言い出せば引くのはまれ──。

 この時ほど、彼女のこの性格が疎ましく思えたことはなかった。


 視聴覚室に近づくと、良く見る華族生徒が階段から、渡り廊下から集まってくる。

 僕と麗ちゃんもそれに混じり、扉を押し中に入った。


 百人は入れる視聴覚室は、既にほとんどの席が埋まっていた。

 食事時の昼休みだというのに、これだけの人。

 これは、今朝初めて黒板に書き出しただけじゃ無理だ。事前に何らかの根回しがあったに違いない。

 僕と麗ちゃんが座ったのは、まるで用意したかのように空いていた正面中央の席。

 溢れた生徒は立ち見客となり、壁際を埋め始めている。


 部屋が満杯になった頃、一人の背の高い男が演壇に躍り出た。

 五稜篤ごりょうあつしだった。

 篤は生徒で埋め尽くされた部屋を満足そうに見回し、最後に僕らの姿を確認すると、口許を緩ませた。

 彼が指を鳴らすと、正面の大型プロジェクション・シートに映像が映し出された。

 それはどう見ても、普通のテレビCMだった。


「馬鹿馬鹿しい。ただのテレビじゃない」

 麗ちゃんが不機嫌そうに腕組みをする。


 その声が聞こえたのか、篤は演壇のマイクを手に取り、喋り始めた。

「生徒のみなさん、お昼の貴重な時間に足をお運びいただき恐縮です。もう少々お待ちください。メイン・イベントは間もなく始まる予定です」

 その言葉の間も篤はちらちらと麗ちゃんの様子をうかがっている。

 どう見ても間違いなく、彼がこの上映会の主催者というか、主謀者だ。


 篤は再びマイクを取った。

 徐々に高揚してきたのか、声も一段と大きくなり、口調もいつもどおりの高圧的なものへと変わっていく。

「さて、日本経済は混迷の極みといえる昨今だが、その中でも今日は象徴的な日となることは間違いない。数々の苦難を乗り越え、我々の華族企業が再び築き上げた、この経済システムを無残にも打ち壊す企業の正体が間もなく暴かれる!」

 そこで、篤は画面を見たが、流れているのはCMだった。

 篤は腕時計を見て、「おっと、十秒早かったか」と独りごちた。


 麗ちゃんは無表情で腕組みのまま、画面をじっと凝視している。

 と──、その表情が揺らいだ。

 僕は画面に目を戻した。

 見覚えのある高層ビルが、大きく映し出されている。


「九条院フィナンシャルグループ本社じゃない……」

 麗ちゃんがそう呟くのと同時に、大音声で悲壮なBGMが流れ始め、画面が切り替わった。


 大勢の黒スーツの男たちが、何か大きな物を手にそのビルに続々と乗り込んでいく。

 そこで、アナウンサーが画面にカットインし、その模様を実況し始めた。


「あ! 始まりました。いよいよ、東京地検特捜部の捜査の手が、ここ九条院フィナンシャルグループ本社に入るようです。東京地検の職員が段ボール箱を手に次々とビルの中へ入っていきます」


 僕は慌てて麗ちゃんを見た。

 麗ちゃんは肩を震わせ、唇を噛みしめていたが──、

「何よ! これは!」と叫び、立ち上がった。

 そのタイミングで、画面いっぱいの仰々しい文字が目に飛び込む。


 九条院グループ、粉飾決算──。


 あちこちからどよめきが沸き上がる。

 今や、全員の視線が前方中央に立ち尽くしている麗ちゃんに注がれているのは確実だった。


「麗ちゃん! 座って! 早く!」

 僕は強く手を引いたが、麗ちゃんは岩のように動かない。

 混乱なのか、怒りなのか、僕の声も耳に届いていないようだ。


「みなさん、ご静粛に。まだ番組は続いています。そこの《《九条院》》のお嬢さんもお座りください」

 篤がわざとらしく、更なる注目が麗ちゃんに集まるように指さした。

 麗ちゃんはそれでもしばらく立っていたが、急に憑きものが落ちたかのように席にへたりこんだ。

 画面中央には見覚えのある薄い後頭部。

 宝谷専務だ。

 その専務が捜査陣に脇を固められ、連行されている。


 麗ちゃんにとって、これは真昼の悪夢に他ならない。

 彼女は小さな声で何かを呟いているが、目は胡乱うろんで、とても意味のある言葉のように聞こえない。


 スピーカーからは、アナウンサーが九条院グループの罪状を読み上げる声。

 粉飾決算、法人税法違反、架空取引、インサイダー取引──。

 呪いの言葉のように次から次へと流れ出す、その言葉に耐えかね、僕は叫んだ。

「もう! 止めろ!」

 思わず振り返ると、僕らを見る白い目と、能面のような顔、顔、顔。

 僕は大急ぎで麗ちゃんの肩を抱え、扉へと一目散に向かった。


「逃げるのか! 卑怯者!」

 篤の罵声を背中に浴びる。

 その声に堰を切られたかのように、加速度的に増殖する悪意の連鎖。

「逃げるな!」

「みんなに詫びろ!」

「恥知らず!」


 何とでも言うがいい!

 僕は麗ちゃんさえ守れれば、それでいいんだ!


 ◇◆◇


 視聴覚室を飛び出した僕はバランスを崩し、倒れてしまった。

 僕に抱きかかえられ、ようやく歩いていた麗ちゃんも、それに巻き込まれ放り出された。

 慌てて側に行こうと立ち上がったが、ふと後ろが気になり振り向く。

 だが、視聴覚室の扉は閉じたまま、誰も追ってくる気配がない。


 みんな、あのスクープ番組に夢中になっているのか?

 それとも、僕らが逃げ出すのも、あいつらの予定どおりだったのか?

 様々な疑心暗鬼が渦巻く。

 ──とにかく、ここを離れよう。


 僕は麗ちゃんを抱き起こし、ふらつく彼女に声をかけた。

「麗ちゃん、歩ける?」

 彼女はうつむいたまま、何も言わない。

「麗ちゃん。麗ちゃん、大丈夫?」

 僕は彼女の小さな肩を何度も揺すった。

 早く行かなければ、と僕の焦燥が強くなった頃、彼女はぽつりと呟いた。


「嘘よね……」


 僕は……、

 返す言葉を見つけられない……。

 何と言えば、彼女を安心させられるのだろう──。

 何と言えば、彼女の心の傷を癒すことができるのだろう──。

 何と言えば、いつもの彼女を取り戻すことができるのだろう──。

 ただ、彼女を見守るしかない僕。

 気の利いた言葉の一つも見つけられないなんて……。


 と──、突然、麗ちゃんが顔を上げ、大声を出した。

「そうよ! これは篤がでっちあげた悪戯いたずらなのよ! 私たちがうろたえるのを見て、みんなで笑い者にするつもりなんだわ!」

 麗ちゃんは踵を返し、視聴覚室へと進んでいく。

 そんな彼女に僕は後ろから抱きつき、その足を停めた。

 体をよじって彼女はそれに抵抗した。


「郁! 離しなさい! あいつらの魂胆を確かめなきゃ!」

「麗ちゃん、よしなよ! あれは、あの番組はどう見ても偽物には思えないよ!」

 麗ちゃんが振り向き、僕の顔を睨んだ。

 その怒りに燃えた目。

 僕のことを、こんな目で見る、麗ちゃんは初めてだ……。


「あなたもグルなの?」

 彼女の言葉に息が詰まる。

 早く否定しなきゃ──、早く否定しなきゃ──。

 そう思えば思うほど、言葉が逃げていく。


「グルなんでしょ! いつからこんな計画を立ててたの! 言いなさいよ! さあ!」

 彼女の一言、一言が僕を叩きのめす。


 麗ちゃんは何を言ってるんだ?

 これは本当に麗ちゃんなのか?

 僕がそんなことする訳ないじゃないか!

 そんなに僕のことが信用できないのか!

 感情が言葉を追い越していく──。

 ついに僕は頭が真っ白になり──。

 彼女の頬を思い切り、ひっぱたいていた。

 衝撃によろける彼女──。


「あ……」


 それを見て我に返った僕は、短く間抜けな声を上げた。

 麗ちゃんは頬に手をあて、その場にしゃがみこんだ。


「麗ちゃん、ごめん……」

 彼女は無言で、僕に叩かれた頬をさすっている。


 いつの間にか、早く逃げなきゃと思う焦燥感は僕の中から消えていた。

 僕はゆっくりと近づき、彼女の前にしゃがんだ。

 僕が顔をのぞきこもうとすると、彼女はそっぽを向いた。

 怒ってるんだ。無理もないな……。

 そう思い、差し出そうとした手を引っこめる。

「ごめんね……。叩いたりしてさ」

 麗ちゃんはまだ黙っている。


 これは僕の手には負えないのか、と諦め立ち上がりかけた時──、

 彼女の白い手が僕にすっと差し出された。


「初めてね……」


 小さな声だった。


「え、何? 麗ちゃん」

 麗ちゃんはまだ顔を背けたままだ。

「郁に叩かれたのは……」

 その言葉と同時に麗ちゃんが僕を見つめる。

 その表情は穏やかで、さきほどの憤怒の形相は消えていた。


「さあ、立たせてよ。とても痛かったんだから」

 麗ちゃんが差し出した手をゆらゆらと催促するように揺らす。


「本当にごめん」

 その手を引きながら、僕はまた謝る。


 立ち上がった麗ちゃんは僕の肩をぽんと叩いた。

「私のほうこそ郁に謝らなきゃ。お陰で目が覚めたわ。こんな事で動揺している場合じゃなさそうね」


 いつもの麗ちゃんに戻った!

 僕は安堵に笑みが一瞬こぼれたが、とても笑ってられる状況じゃなかった。

 笑みを押し殺し、もう一度彼女に訊ねる。

「麗ちゃん、大丈夫?」

 麗ちゃんも僕の言葉に微笑んでくれた。

「私は大丈夫よ。郁がいてくれればね」

 麗ちゃんはきびきびとスカートの土埃を払い、力強く一歩を踏み出す。


「さあ、急いで現状を把握しないと」

「うん、行こう!」

 正念場に強い女、麗ちゃんの復活だった。


 ◇◆◇


 それからの麗ちゃんの行動は機敏だった。

 廊下を早足で歩きながら、制服のポケットから携帯電話を取りだし、何事かを話している。

 すれ違う女子生徒たちが彼女に挨拶や会釈をする。

 電話で話しながら、それに笑顔で軽く返す彼女。


 そう。まだ昼休みで、あの場にいなかった生徒たちは九条院グループで起きた事件を何も知らないのだ。

 今このひとときの光景を切り取れば、いつもどおりの平凡な日常だ。

 窓越しからのぞく外は、真っ青な梅雨の晴れ間。

 だが、この穏やかな天気とは正反対に、麗ちゃんの心中は嵐の真っ只中だろう。


 麗ちゃんは昇降口までたどりつくと、靴を履き替えそのまま外へ出た。

 教室に鞄を取りに戻って、面倒なことに巻き込まれると時間の無駄と考えたのだろう。

 僕もその後を追う。


 新緑から零れる落ちる木漏れ日の中、正門へと進む。

 そこには一台の黒い車。


「冴島さん、もう来たんだ」

「ええ、彼もニュースを聞いて、丁度こっちへ向かってたみたい」


 冴島さんが僕らの姿を確認し、車を降り立つ。僕らは車に乗り込んだ。

「とりあえず、屋敷に戻って」

 すかさず、麗ちゃんが指示を出した。

「はい。ですが……」

 冴島さんが珍しく言い淀んだ。

「ですが、何?」

 冴島さんは一呼吸置き、それに答えた。

「屋敷にも地検が入ってます。今はお入りになれないかと」

 麗ちゃんの顔に少しばかりの動揺が走ったが、すぐにそれは消えた。

「いいから。とにかく屋敷に行って」

 冴島さんはその言葉に反駁することなく、車は滑るように走り出した。


 ◇◆◇


 屋敷に着くと、テレビでさきほど見たのと同じようなスーツ姿の男たちが慌ただしく出入りしていた。

 僕らが車を降り、玄関ポーチへと向かうと、その中の一人が僕らを制止した。

「この屋敷にご用ですか? 今は取り込み中なので関係者以外は入るのはご遠慮していただきたいのですが」

 物腰は柔らかいが眼鏡の奥の眼光が妙に鋭かった。


「私もこの家の関係者ですが」

 麗ちゃんが毅然と答える。


「ということは、あなたは九条院のお嬢さん? では、なおさらご遠慮していただきたい。証拠物件を保全しないといけないのでね。社長からは許可はいただいてますから」

「父から?」

「ええ、病院におられる九条院厳夫くじょういんいわお社長からです」

 麗ちゃんはその言葉にしばし逡巡してから、男に言った。

「服だけ取りに行きたいのですが、同行していただけませんか?」

「うーん……、まあいいでしょう」

 奥歯に物が挟まったような感じだったが、男は許可してくれた。


 男は近くを歩いていた女性職員を引き止め、麗ちゃんに同行するように指示した。

 若い職員に連れられ、彼女が屋敷に入っていく。

 それを見送りながら、僕はおずおずと男に訊いた。

「あのー、テレビで言ってたことは本当でしょうか?」

 男は冷たい目で素速く僕を一瞥してから、面倒くさそうに、

「テレビ? テレビがなんと言ってるかは知らないけど、私たちはそれなりの確証がないと動かないよ」と答え、胸ポケットから煙草を取り上げた。

 続く質問を思いつかず突っ立っていると、両手で箱を抱えた職員が次々とぶつかってくる。

 なんとなく居辛い雰囲気に、僕は冴島さんの車まで戻った。


 冴島さんは車の脇に立ち、遠巻きに屋敷のほうを見ていた。

「冴島さん。この先どうなるんでしょう?」

 彼は屋敷のほうを眺めながら、低い声で返答した。

「知り合いの者に探りは入れてます。ちょっと時間はかかると思いますけどね」

「知り合いって、警視庁の?」

「ええ、それと警察庁と」

 僕には警視庁と警察庁の違いがわからなかったが、冴島さんも動いてくれているようで、少しだけ安心した。


 二人で無言でしばらく立っていると、後ろ手にキャスターバッグを転がしながら麗ちゃんが出てきた。

「麗ちゃん、中はどうだった?」

 僕は彼女に駆け寄り、訊いた。

「応接間は地検の方でいっぱいね。こんなことで久しぶりに賑やかになるなんて皮肉なものね。とにかく後の事は執事の大間おおまに任せてきたわ」

「服は持って来れたんだね?」

 僕は彼女のキャスターバッグに目を遣った。

「ええ。でも、服よりも大事なものがあったの」

 そう言うと、麗ちゃんはポケットからある物を取り出し、僕に見せた。

「それは……」

「そう。これはフロスティピンクの口紅。私のここ一番の時には絶対に必要な物よ」


 彼女の白い手に光る黄金色の小さな円筒。

 その口紅の色──。

 フロスティピンクは彼女の勝負色なのだ。


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